言説としては成り立っているが、等しくみんなが持つことができるロゴスか?

偽の真写真といわれるものは、‪真実でもなく偽でもないというような反証の精神の働きである。この場合、正しい事実というのは不可能なのである。だから偽の真写真としての知識のあり方が要請されてくる。だがそれほど簡単ではない。だからせめてなんとか、根拠としてのロゴスを保てないかとおもうようになってきた。すると、世界史の言説は、言説としては成り立っているが、等しくみんなが持つことができるロゴスではあり得ないということに気がつく。同様に、天皇への思い入れが語っているかのような霊性の抵抗の言説もまた、等しくみんなが持つことができるようなロゴスであるとはどうしても思えないのである。シェークスピアが書いた人と人とのたたかいは古典時代のものである。 ヘルダーリンが書いた自己とのたたかいは近代に属する。現在はもはや言説とのたたかいしかない。言説としては成り立っていても、等しくみんながもつ理(ロゴス)であるとは限らない。ある言説が支配的になったとき、等しくみんながもつ理(ロゴス)でなければその言説から排除されてしまう危険がある