言説としては成り立っているが、等しくみんなが持つことができるロゴスか?

偽の真写真といわれるものは、‪真実でもなく偽でもないというような反証の精神の働きである。この場合、正しい事実というのは不可能なのである。だから偽の真写真としての知識のあり方が要請されてくる。だがそれほど簡単ではない。だからせめてなんとか、根拠としてのロゴスを保てないかとおもうようになってきた。すると、世界史の言説は、言説としては成り立っているが、等しくみんなが持つことができるロゴスではあり得ないということに気がつく。同様に、天皇への思い入れが語っているかのような霊性の抵抗の言説もまた、等しくみんなが持つことができるようなロゴスであるとはどうしても思えないのである。