漢字論

夢の中で荻生徂徠がわたしに、「そこに漢字が書いてあるか?」ときく。

と、そのとき私は漢字を見たのはどうしてなのか?本当にそこに漢字があることを確かめたかったからだろうか?

だけどこのようにいちいち見なければならないとしたら、東アジア漢字文化圏の全体を前提にすることなどできない。

漢字を見たのは、見ることによって見ることを確証するためだったのかもしれない。(それは可能か?)

だけれど十分に確証しているのは、確証していないからである。世界に固有なものがあるなどとどうして確証できようか?

漢字が思考させる力は、同じ漢字であると表象することのうちにあるのではなく、非等質なものがことごとく呼び出された平面に依拠していることにあるのではないかだろうか。 「なにも変えてはならない、すべてが違ったものとなるように」

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