ポスト構造主義はヘーゲルをどう読んだのか

ポスト構造主義ヘーゲルをどう読んだのか No.1

そし他方の極に、言語(ランガージュ)の顕示力が、文法より古い自律的問題として再出現するであろう。そして19世紀全般を通じて、言語(ランガージュ)は<言葉(ヴェルブ)としての謎めいた本性において、すなわち、存在に最も近く、それを名指し、その基本的意味を伝達しあるいは煌めかせ、存在を絶対的に顕示する力を最大限に発揮するところにおいて、問いかけられることとなるであろう。ヘーゲルからマラルメまで、存在と言語との諸関係をまえにしてのあの驚きは、文法的機能の等質的秩序への動詞(ヴェルブ)の再導入と、まさに対象的なものとなるであろう。(フーコ『言葉と物』)

Et à l’autre exrême, le pouvoir de manifestation du language réapparaîtra dans une question automie, plus archaïque que la grammaire. Et pendant tout le XIXe siècle, le langage sera interrogé dans sa nature énigmatique de verbe; la où il est le plus proche de l’être, le plus capable de le nommer, de transmettre ou de faire scintiller son sens fondamental, de le rendre absolument manifeste. De Hegel à Mallarmé, cet étonnement devant les rapports de l’être et du langage, balancera la réintroduction du verb dans l’ordre homogène des fonctions grammaticales. ( Foucault, Les mots et les chose )‬

‪西欧の19世紀全般に見いだされた「言語(ランガージュ)の顕示力」とはなんだろうか。それが、「文法的機能の等質的秩序への動詞(ヴェルブ)の再導入によって失われる危険のあるろいう。このことは、19世紀日本の書記言語が漢文体であったアジアにおいて、ヨーロッパのテクストの言語に従属するような翻訳的言語がもたらすに「自立的言語による自立的思考の喪失」とパラレルなことではないかと考えてみたのだけれど‬。ヨーロッパもまた、近代によって、「自立的言語による自立的思考」を喪失するのであると

ポスト構造主義ヘーゲルをどう読んだのか No.2‬

‪古典主義時代の形而上学は、まぎれもなく、秩序から>秩序>への、類別から<同一性>への、自然の諸存在から<自然>‬への、要するに人間の知覚(あるいは想像力)から神の悟性と意志への、この僅かな隔たりのうちに宿っていたのである。19世紀の哲学は、歴史から<歴史>への、出来事から<起源>への、進化から本源における最初の亀裂への、忘却から<回帰>への隔たりのうちに宿ることとなるだろう。したがってこの哲学は、もはやそれが<記憶>であるかぎりにおいてしか<形而上学>ではなくなり、必然的に、思考を、思考にとって歴史をもつとは何かという問題に連れ戻すこととなる。この問題は、ヘーゲルからニーチェ、さらにそれ以降にいたるまで、哲学を休みなく駆り立てるであろう。このことのうちに、他人がそれまでに語ったもののみをもっぱらこととするにはあまりにも黎明期にあった、ひとつの自立的哲学思考の終焉を見てはならない。またひとりだちすることができず、すでに完了した思考につねにまといつかざるを得ない思考を、自律性の名において告白すべきでもない。そこにはただ、秩序の空間から逃れでたゆえにある種の形而上学から解放されたものの、いまや<歴史>の存在様態のなかにとらえられたがゆえに、<時間>、その流れ、その曲折に身を委ねることとなった、ひとつの哲学を認めれば事足りるのだ。‬ ‪(フーコ 『言葉と物』)‬

‪L’Histoire est ainsi devenue l’incontournable de notre pensée ... ‪et la métaphysique classique se logeait précisément en cette distance de l’ordre à l’Ordre, ‬ ‪des classements à l’Identité, des. être naturel à la Nature; bref de la perception ( ou de l’imagination) des hommes à l’entendement et à la volonté de Dieu. La philosophie au XIXe siècle se logera dans la distance de l’histoire à l’Histoire, des événements à l’Origine, de l’évolution au primier déchirement de la source , de l’oubli au Retour. ‪Elle ne sera donc plus Métaphysique que dans la mesure où elle sera Mémoire, et nécessairement elle reconduira la pensée à la question de savoir ce que c’est pour la pensée d’avoir une histoire. Cette question inlassablement pressera la philosophie de Hegel à Nietzsche et au-delà. N’y voyons pas la fin d’une réflexion philosophieque autonome, trop matinale et trop fière pour se pencher, exclusivement, sur ce qui fut dit à a-t-elle et par d’autres; n’en prenons pas prétexte pour dénoncer une pensée impuissante à se tenir toute seul debout , et toujours contrainte à s’enrouler sur une pensée déjà accomplie. Qu’il suffise métaphysique parce que dégagée de l’espace de l’ordre, mais vouée au Temps, à son flux, à ses retours parce que prise dans le mode d’ëtre de l’Histore. ‬ (Foucault)

ポスト構造主義ヘーゲルをどう読んだのか?No.3‬ ‪ヘーゲルの『精神現象学』以降、近代の思考を記述するのを止めなかった起源にあるものは、したがって、古典主義時代が再構成しようとした試みたあの観念上の発生過程とはまったく異なったものだ。しかもまた(基本的相関関係にしたがってそれに結ばれているとはいえ)、一種回顧的に彼岸のなかで、諸存在の歴史性を通して描きだされる起源とも異なっている。実像にせよ虚像にせよ、同一性の頂点につれもどすどころか、あるいはたんにそれを志向しさえするどころか、<他者>の分散がまったくおこなわれていない<同一者>の時点を指示するどころか、人間のなかの起源にあるものは、そもそもの最初から、人間を彼自身とは別の物に連接させるのである。それこそ、人間の経験のなかに人間より古く人間によっては制御されない諸内容と諸形式を導入するものであり、交叉し、しばしば互いに他に還元しえぬ、多様な時間継起(クロノロジー)に人間を結びつけつつ、時間を通して人間を分散せしめ、それを物の持続のただなかで星屑とするものにほかならぬ。逆説的なことだが、起源にあるものは、人間のなかで、人間の誕生の時も、人間の経験のもっとも古い核も、告示しはしない。それが、人間を人間とおなじ時間を持たぬものに結びつけ、人間のなかにある、人間と同時期のものではないすべてのものを解き放す。それは、たえず、つねに更新される増殖作用のなかで、物は人間よりずっと以前にはじまっていたし、その同じ理由から、経験が完全にそうした物によって構成され限られている人間に対して、何びとも起源を指定することはできまいということを指示しているのである。ところで、こうした不可能性は、それ自身二つの相を持っている。すなわちそれは、一方では、物の起源は、人間がそこに姿をあらわさぬ暦にまで遡っていくゆえに、いくらでも遠くなるということを意味し、他方では、時間がその厚さのなかにきらめく誕生を垣間見させる、あれらの物とは異なって、人間は起源のない存在、「祖国も日付けもない」者、その誕生がかつて「生起」しなかったがゆえにその誕生に決して近づきえぬ者であることを意味するのだ。起源にあるものの直接性のなかで告示されるのは、したがって、人間は、人間を固有の実存と同時期のものとするような起源から引き離されているという一事であろう。時間のなかで生まれ、もちろんそこで死んでいくあらゆる物のなかで、人間はいかなる起源からも引き離され、すでにそこにあるわけだ。かくして、物が(人間のうえに張りだしている物さえも)そのはじまりを見いだすのは、人間のうちなのであって、人間こそ、持続の何らかの瞬間に刻印された傷痕というよりはむしろ、そこから出発して時間一般が再構成され、持続が流れ、物がそれ固有のときに出現することのできる、そのような入り口にほかならない。経験的領域で、物がつねに人間にたいして後退し、その原点において捕そくしえぬとすれば、人間も、基本的には、この物の後退との関係において後退しつつある、物が、起源についての経験の直接性にたいして、その堅固な先在性の重みを加えることができるのも、まさしくそれゆえなのである。‬ ‪そのとき、ひとつの任務が思考に与えられる。物の起源に異議を申し立て、しかもそれにもとづいて時間の可能性が構成される様態を再発見しながら、物の起源をーこの場合の起源とは、そこから出発してすべてが誕生することのできる、起源もはじまりもない起源のことだー基礎づけるために異議を申し立てる任務である。‬ ‪(フーコ『言葉と物』渡辺訳)‬