実体がないのに偽の文化概念を言い出す一国家主義の知と結びついた見方に依存せずに、環境と多様性の思想に依拠する自己でありたいです。生物的多様性の思想もそんな思想ではないですか
宇沢さんの本を理解していたかわからないのですが、「社会的共通資本」はこういう不可欠なものですとはいきなり言うことはなかったように思います。イデオロギーでやっていけなかったところを、近代経済学の「経験」でやっていけるかといえばそれもやっていけなくなるだろうと考えたとき、理念的に、議論の「社会的共通資本」を打ち出したのではないでしょうか。現実に、議論がなくなればなるほど「社会的共通資本」が危機に晒されてきたという感じです。
哨戒機「ガンつけてたのはおめえじゃねーか」 駆逐艦「初めにおめえーがぶっつかってきたんだろ」 大よそ陰陽の理といふもの有ルことなし、もとより皇國にはいまだ文字なかりし代にさること有ルべくもあらざれば古ヘの傳ヘにはたゞ男神女神(ヲガミメガミ)女男之理(メヲノコトワリ)などゝこそ有けむを然改めてかゝれたるはたゞ字の異なるのみには非ずいたく學問の害となることなり(古事記傳) こうしてわたしはこの地上でたった一人になってしまい、自分自身のほかには、もう兄弟も、隣人も、友人も、つきあう相手もいない。人間のなかで、だれよりも人づき合いがよく優しい者が、全員一致の示し合わせによって社会から追放されてしまったのだ。彼らは憎悪のかぎりをつくして、どんな苦しめかたをしたらこの感じやすいわたしの魂にもっとも残酷な苦痛を与えることができるかを探し求め、わたしを彼らに結びつけていたいっさいの絆を乱暴にも断ち切ってしまった。彼らの意向がどうであれ、わたしはそれでもできれば人間たちを愛したいと思った。彼らがわたしの愛情から逃れることになったのは、彼らが人間であることをやめてしまったからにほかならない。彼らはこうしてわたしにとっては縁のない、見知らぬ人、要するに無に等しいものとなってしまった。それこそ彼らが望んだことなのだから。だが、そのような彼らから離れ、すべてのものから離れてしまったこのわたし自身は、いったい何ものであろうか?それはこれから探求しなければならないことだ。つらいことだが、このような探求を行うためには、まずはわたしが今置かれている境遇について一瞥しておかなければならない。これは彼らの側からわたしにまで到達するために、どうしても考えておかなければならないことである。(ルソー) Me voici donc seul sur la terre, n‘ayant plus de frère, de prochain, d’amis, de société que moi-même. Le plus sociable et le plus aimant des humains en a été proscrit par un accord unanime. Ils ont cherché, dans les raffinements de leur haine, quel tourment pouvait être le plus cruel à mon âme sensible, et ils ont brisé violemment tous les liens qu’il m’attachaient à eux. J’aurais aimé les hommes en dépit d’eux même; ils n’ont pu, qu’en cessant de l’être , se dérober à mon affection. Les voilà donc étrangers, inconnus, nuls enfin pour moi, puisqu’ils l’ont voulu. Mais moi, détaché d’eux et de tout, que suis-je moi-même ? Voilà ce qui me reste à cherche. Malheureusement cette recherche doit être précédée d’un coup d’œil sur ma position; c’est une idée par laquelle il faut nécessairement que je passe pour arriver d’eux à moi. ( Jean-Jacques Rousseau) 深読みであると言われるだろうし、また論理飛躍の安易な適用と非難されても仕方ないのであるが、MEMOとして、鬼神論で読み解く『銀河鉄道の夜』を書き留めておこうと思う。 『銀河鉄道の夜』の初版は1934年である。『銀河鉄道の夜』は、他者を殺戮していく「昭和10年代がはじまる夜」をどう見ていたのか。『銀河鉄道の夜』は近代批判の視点をもっているとおもう。『銀河鉄道の夜』に、沈没したタイタニック号の死んだ家族を描いた場面があるが、大変気になるこの場面をどう読み解くかについてわたしは何の考えもなかった。仮にこれを精神分析の近代をもって解釈しても、ジョバンニのオイデプス的夢と(過剰な理念を復活させようとする)父の欠如を読む近代が繰り返されるだけだろう。だけれどそうではなくて、子安先生の講義のテーマに深く関係すると思っているのだけれど、鬼神論から近代を批判する視点で読み解くことができるかもしれないと思い始めている。お母さんと子供が各々、魂(=気=神)と魄(精=鬼)に対応していると考えてみたらどんなことが言えるか?朱子の鬼神論の言説では、精神(= 魄+ 魂)が活発に集まって物(と人)へと成るといわれる。ここでジョバンニは亡霊を見ているとする見方をとろうとしているのではない。ジョバンニはもっぱらハムレットの場合と同様に、他者が自己を規定する生命と力の意味を思索しているのではないだろうかと考え始めている。そうして他者の意味をすこしでも考えて、なんとか、他者を分散させてしまう自己同一性の<同一者>の見方にたいして距離をとる読みになる可能性のことをおもうのである。