言葉を考える

‪ ‪‪‪68年の近代を問うた運動によって、文学が主導するポスト構造主義が成り立つ条件ができた。しかし思想の受容となると、それを翻訳言語を以って考えていくことは難しい。ある思想を自分のものにするためには自立的言語が必要である。だから近代の政治的災害も、反近代の政治的災害も、事実は理解されるが、自立的言語無くしては十分にその意味を考えることが難しいものなのかもしれない。‪‪ルソーを読む知識人によって‬自由民権運動の思想のコアとなるとして発見された‬漢文エクリチュールは自立的言語か?このことを問いながら、漢文エクリチュールで読まれる倫理学と制作学から、自立的言語の思想‪の系列(セリー)‬が始まるのは、2000年にはいってからではないかだろうか。 ‪

‪ 現在のわれわれを構成する明治維新の近代が、漢字書き下し文に根づいていた表象の思考を孤立させている。前近代の言語の鄙びた裏道を歩いて思う。「日本語」であれ「国語」であれ、表通りは、前近代ほどには言語の像のなかのXを開くことができているのだろうか。無意味な同一性の反復が多すぎるような‬