フェルメール

「至上なものは遠くにある」と吟遊詩人達が託す哲学者の思考の秩序は、反復する形で言い過ぎると、その秩序は最初の透明さを失わせるとともに受動的に浸透されなくなる。その秩序が唯一可能なものでもないし最上なものでもないと認めるほど自由になる。そうして、「至上なものは卑近にある」とタンホイザーは歌ったではないか。さて「モナドは窓がないから他者がない」と言う哲学者の思考の秩序の場合も、あんまり言い過ぎると、「窓がないからこそ他者がいる」を意味してくることだって。フェルメールのラブレターを書く部屋はそうである(あれは窓にあらず。きょうは上野に行ってそれを確かめようと思っているのだけれど。) 窓なき壁を無理やり作る秩序にたいしては、窓がないから他者が存在することがないと認めてしまうようではやっていけなくなる。窓がなくとも外部に他者ー統合できない他者ーが存在することが要請される。内部を解体できる。それが政治的多元主義の条件ではないだろうか