鬼神論

深読みであると言われるだろうし、また論理飛躍の安易な適用と非難されても仕方ないのであるが、MEMOとして、鬼神論で読み解く『銀河鉄道の夜』を書き留めておこうと思う。 『銀河鉄道の夜』の初版は1934年である。『銀河鉄道の夜』は、他者を殺戮していく「昭和10年代がはじまる夜」をどう見ていたのか。『銀河鉄道の夜』は近代批判の視点をもっているとおもう。『銀河鉄道の夜』に、沈没したタイタニック号の死んだ家族を描いた場面があるが、大変気になるこの場面をどう読み解くかについてわたしは何の考えもなかった。仮にこれを精神分析の近代をもって解釈しても、ジョバンニのオイデプス的夢と(過剰な理念を復活させようとする)父の欠如を読む近代が繰り返されるだけだろう。だけれどそうではなくて、子安先生の講義のテーマに深く関係すると思っているのだけれど、アジアの形而上学として共有された鬼神論から近代を批判する視点で読み解くことができるかもしれないと思い始めている。お母さんと子供が各々、魂(=気=神)と魄(精=鬼)に対応していると考えてみたらどんなことが言えるか?朱子の鬼神論の言説では、精神(= 魂+ 魄 )が活発に集まって物(と人)へと成るといわれる。ここでもっぱらジョバンニは亡霊を見ているだけだとする見方をとろうとしているのではない。ジョバンニはハムレットの場合と同様に、他者が自己を規定する生命と力の意味を再構成しているのではないだろうかと考え始めている。そうして他者の意味をすこしでも考えて、なんとか、他者を分散させてしまう自己同一性の<同一者>の見方にたいして距離をとるポスト構造主義的読みになる可能性のことをおもう‬のである。 https://www.facebook.com/photo.php?fbid=10217563374413805&set=a.10211801719136024&type=3