MEMO

Japan's Olympic organizers lied about its weather, and now athletes are paying the price


ゴダールにおける顕幽論とかんがえてはいけないだろうか


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歴史は繰り返されるー最初は悲劇において、二度目は喜劇において。問題はあったが「開催される以上全力でやろう」と言った。現在は問題だらけでも「始まった以上応援しよう」と言う


本居宣長の自画像ー古代人という虚構の目に見えない影をまえにしているが現実には宣長がおり、宣長と至上なものとが際限もなく交代していくこの両義的な場所の主は最終的には芸術の鑑賞者にほかならない。漢の言説にとって以外、欠落するものはなにもない。鏡の裏から眺めているわれわれの視線が満たすように、欠如は絶えず充足させられているからである

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「書記化されたテクストは、その成立に前提される言語の再現的な訓みだしを阻む形で不透明なものとして存在する」(子安氏)。ゆえに、書記化された多元主義は『古事記』をよめない。『古事記』を読むためには、『古事記』の透明化が必要である。このことは、言語の拡散と主体の集中によって可能となる。再現的な訓みだしのもとであらわれる主体の配置とは、天岩戸、すなわちだれも入ってこれない鍵のかかったひとりだけの部屋のようなものである。思金神は天岩戸の傍らで神がいかにそこから脱出するか考えなければならない。『古事記』は反対のことを記しているのだろう。最終的にはアマテラスは外に出ることはなかった。これはそもそも書記化されたテクストの透明化の不可能を意味している。被支配者が受けいればなければならないような支配者の正当化にしては記紀神話が統合の難しさを隠蔽できないでいることと何か関係あることなのかもしれない。

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選手達にメダルをあげている場合じゃないと思うのです。外国人選手を避難させないといけないんじゃないのかしら、違いますか?


文化とは「死に切った過去」(三木清)である。『古事記』は死に切った過去。その成立した漢字書記言語を、事後的な平仮文にすることは、死に切った過去を生きているのだか死んでいるのかわからない過去にしてしまうことである。そういう過去は伝達のための情報の客体であって、コミュニケーションの主体のためのものではない。死に切った過去は、現在のためにあるような生きているのだか死んでいるのかわからない過去が支えることは不可能である。生きているのだか死んでいるのかわからない過去は、漢字は借り物であるようにかんがえて、『古事記』における漢字文を事後的な平仮文に「翻訳」(現代口語訳)してオリジナルの口誦を再現できたとおもいこんでいる。それは、たとえていうと、テレビがやる外国映画における「声の吹替え」みたいなものかもしれない。他を支配したいナショナリズムー吸血鬼的な怪物の欲望ーがみえてしまうんだね。私は『古事記』アマチュア。読むことができるとはおもっていない。アマチュアだから「訓(よ)むことができない」ことを己における思考の課題にすることができる。だけれど色々な時代の注釈ならば読めるのだしこれが中々面白いのである。色々の時代のものの見方がある。近代が自己の価値感を押しつけてくる現代文が「わかりやすい」のは当たり前。しかしそのわかりやすさを自明視するのは危険だ。たとえば近代の産物である民族と固有言語やまとことばを前提にしてしまう見方である。しっかり吸血鬼に杭いを打っておいたつもりでも、それでも生きているのだか死んでいるのかはっきりしない吸血鬼の棺桶はとりあえず、本の最後にでも示しておけばいいのではないか


3割支持しかない、棺桶のスガーリン。しっかりこの吸血鬼に杭いを打って打っておいたつもりでも、それでも生きているのだか死んでいるのかはっきりしない。増殖中


18世紀末以前に、人間というものは実在しなかったのである。人間は数千年の間物陰で己のついに認識されるであろう照明の瞬間を待ち続けていた。映像の世紀が19世紀末から始まる


台湾に行くまえに、向日葵運動がおきた背景について少しばかり台湾の歴史を考えた。そのまえに、30年前だったけれど、台湾の映画を見ていたんだな


ジャン=リュック・ゴダール


「映写機と映写室と、世界に向けて自分を投射する人間と---わたしは...自分を退けるのではなくて.....自分を投げかける人間というこの観念が好きなのです。しかしこの観念は死にたえつつある。それというのも、西洋では今ではもう、他の大陸に向けて自分を投げかけるということ、映像を交換するということがなされていないから、人々がイスラム世界をひどく恐れているからだ・・・私はかつては、小さな自分がより大きななにかに向けて、たとえば、星に向けて自分を投げかけるという観念が大好きでした。」


ジャン=リュック・ゴダールの世界 No.5


L'appareil de projection, la cabine, et l'être humain qui se projettre au monde. J'aime cette idée des homes qui se projettent au lieu de se rejette. C'est une idée qui est en train de mourir, parce qu'en Occident on ne se projette plus sur les autre continents, on n'échange plus d'images, on a une peur bleue de l'Islam.Mais j'aimais bien cette idée qu'on était petit et qu'on se projetait sur quelque chose de plus grand, par example une étoile.

(1987, Jean=Luc Godard)


演劇人ハロルド•ピンタ

舞台において女性が勝たなければならないが、常に大地の母である必要はないとおもう


東京五輪の近代についても発想の大転換が必要です。”なにかを失ったときは何かを獲得しなければいけない"から、中止して”もう何も獲得できないときにも失うことはできる'へと


2500年前に孔子は嘆いた。「筏で東海を行こうか?」と。現在はもう何を言ってもきいてくれるものはいない乱世だからである。”なにかを失ったときは何かを獲得しなければいけない"。その何かは孔子にとって、抽象ではない具体的な自ら行いを以ってする道徳のほかにない(対人的に、関係的なものだから、道徳はこうですよという定義がない。また孔子の時代は貴族中心から皇帝中心へと移り変わっていた)。だけれど乱世はこのことを言ってもまったく意味がない。だから乱世なのである。孔子は公から引退しても世を正すことをやめなかった。国内亡命の場所をえたこの彼のまえに、世俗から離れた隠者が時々現れた。”もう何も獲得できないときにも失うことはできる'という言葉を繰り返し告げてくるようだ。しかし孔子は受けいれることができなかった。2500年前は孔子は公にたいして何をしているのか理解できなかったが、おそらくそれは東アジアにおける批判というものの決定的な始まりだった。17世紀の伊藤仁斎は『論語』を注釈した祖述者である彼の『論語古義』は「宇宙第一の書」でなければいけなかったのである。伊藤仁斎の『童子問』における人としてのあり方をいう思想から、人が人を問う歴史と意味を考える解釈の空間がはじめて成立してくるとわたしは理解している。だからこそ京都にいた彼の思想はアジアにおける知識革命だったのである


https://www.instagram.com/p/BYICnoaBBOa/?utm_medium=copy_link


東京痴犬特捜部は税金の無駄


•安倍前首相「不起訴不当」と議決 桜を見る会巡り検察審査会東京新聞


「国民の命と健康を守る」スガーリンの無誤謬の神話


給付金で買ったテレビも二回ぐらいしかみていない。二十年以上テレビをみなかったのでテレビをみない。音がよかったりするから「映像の世紀」の効果音をきいてみたいな


神が存在するとかしないについてはアジアにも有鬼論と無鬼論がある。同一性と差異をめぐる存在の連鎖を語る朱子形而上学もある(理気論の性理学)。しかし神を殺すとは何だろうか。神を殺すということを反形而上学的にかんがえて存在の意味を問うのは、ヨーロッパの近代だというかんじである。だがフーコはこの近代を解体しようとしている。存在させないために殺すとは何かを問うとき、笑いを覆い尽くすことができないという。

「もし神が存在しないとすれば、神を殺すとは、存在しない神を殺すとは一体どういうことなのか。恐らく、存在しないから殺すということであると同時に、存在させないために殺すということであり、それが即ち笑いなのだ。」ーフーコ『侵犯への序言』


あらー、銀座の人出なんか倍ですよ。総理が減った減っていると言っている人流とは、孤立している自分の周りの人流のことなのではないでしょうか


極右翼の反証可能性なき戯言か


•小池知事「ですから、五輪はステイホームに一役買っている」 尾身会長の懸念を否定


昨夜の記者会見はなんだったのか?4000人を超えてしまった恐怖


4000人を超えてしまった現在、東京五輪を応援しているのは人間だけではないらしい。やはりウイルスもこの東京五輪を応援していると言わざるを得ない


私が知るただひとつの法。おなじであることは不可能だ。法は自らに、なにも変えるなと書くーすべてを変えるために


Faire du cinéma, c’est y voir clair dans la caverne de Platon grâce à la lumière de Cézanne.

ー Godard

プラトンの洞窟にセザンヌの光を」(ゴダール)


「陸上界を「厚底」が席巻、揺らぐ世界記録の連続性」(ロイター)


極限的に僅かな差異を競い合う五輪の記録は、「健全な肉体」でも「健全な精神」とも無関係で、身体はテクノロジーがなければ成り立たない。そのうち陸上にモビルスーツかアイアンマンが現れてきてもわたしは驚かない。このようにテクノロジーに依存するほかない五輪の崩壊が起きる。そしてデビルマンとかベム•ベラ、ど根性カエルみたいな生命主義的肉体が対抗してくるのかも..


世界を見渡すと、国どうしがウイルスといかに共存していくか一生懸命学んでいる。爆発的感染のなかの東京五輪とおなじことをやったらやっていけないと学んでいるのに、われわれだけが学ばないのか?テレビのまえで、自民党政治家とともに、われわれ自身の内部に孤立していて、熱狂のなかで何の経験も感性の成長もないとおもわれ..


古事記』を和本で読まずに、漢字書記言語の存在を意識して読むと、安倍応援団の日本会議の読みとは別の読み方ができるのであって、日本文化の外部的なあり方を考えることができる


古事記』を和本で読めば、<様々な民族が通過した日本列島>の多様性を表象できると言いたいの?待って!「民族」という言葉は日本帝国主義が完成した大正に初めて成立したのに


共同幻想論』の吉本隆明は全くの誤読。構造主義人類学の上野千鶴子とプロの三浦佑之は敢えて誤読。だが『古事記』を読んで資本主義に抵抗する思想闘争をやっていることは分かる


古事記』を和本で読まずに、それほど透明ではない漢字書記言語の存在を意識して読んで、訓(よ)めない大いなる他者を己の思考に持つ。開発と戦争と同化主義の問題を私は考える


1、『古事記』を和本で読まずに、漢字書記言語の存在を意識して読むと、安倍応援団の日本会議の読みとは別の読み方ができるのであって、日本文化の外部的なあり方を考えることができる。

2、『古事記』を和本で読めば、<様々な民族が通過した日本列島>の多様性を表象できると言いたいの?待って!「民族」という言葉は日本帝国主義が完成した大正に初めて成立したのに。

3、『共同幻想論』の吉本隆明は全くの誤読。構造主義人類学の上野千鶴子とプロの三浦佑之は敢えて誤読。だが『古事記』を読んで資本主義に抵抗する思想闘争をやっていることは分かる。

4、『古事記』を和本で読まずに、それほど透明ではない漢字書記言語の存在を意識して読んで、訓(よ)めない大いなる他者を己の思考に持つ。ここから、開発と戦争と同化主義の問題を私は考える。


吉本隆明近代主義の柳田邦男と折口信夫を考えたところでやめてしまったが、もし吉本が近代主義でないならば、柳田と折口が影響を受けた平田篤胤をもっと考えるべきだったかな


みんな言論に責任をとらなければいけない知識人ではなく、責任をとらなくていい文化人になりたい。「ホロコーストごっこ」を表現の問題としてしまうのは言論のゲンロン化ではないか


文化人は、もし知識人ならば権利のない社会に反対できていなかった市民としての自己の責任を語る所で、皆が文化(コメディ)を十分に理解できないから生じた錯誤の問題を暗黙に語る


近代の文化人でナチスに共感を持たなかったものはいなかった。ジョイスが例外だったのは、植民地の作家だったからだろう。しかし植民地をもたない国の近代文学の価値はゼロに等しい


若者達は多様なものに出会うことができなくなっている。ネオリベの時代は若者は属性ではない。若者とは職業であると考えてみよう。若者全員に休業補償をせよ


強い人間原理は、弱い人間原理と違って、縦軸と横軸の多様性を超えて存在する、どの時代も貫く同一性、固有言語やまとことばに定位する古代人を描いているみたいで、ヤバイね

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Penrose 

なんだろう?囲いこまれない道のような?

学か?


三国志』ー用意周到な文体で卑小なリアリズムが綴る国盗り物語。自国の文学として学校時代の読まなければならなかった違和感を台湾の友人が言っていた


原初的経典は神が単数形と複数形の両方で記されることがある。文献学的にはこれをそのまま読むしかない。しかしその矛盾は論理学•哲学を前提にする神学にとって大問題となる。


文献学と神学の差異は宣長と篤胤の差異である。それは、知の配置からみると、17•18世紀の<正統>と19世紀の<異端>の差異であるといえよう。<異端>の知でなければ、文政3年(1820年)に浅草で天狗に連れ去られた寅吉ーガリレオの天体知と神道コスモロジーとをもって再び浅草に帰ってきたーを受け入れることはなかった。平田篤胤『仙境異聞』において証言された話は明治維新の50年前である。平田篤胤佐藤信淵における<異端>の知は、<正統>の知にたいする対抗ではない。近代において一度物の見方が確立してしまうと、多様なものが整理され分類され表にされてしまう。それとは異なる物の見方が難しくなるが、ここにおいて別の見方をする異端的言説が重要となると考えられる。


‪「明治維新150年をいうより、仙童寅吉200年を考えた方が日本社会にとって大事であるかもしれない。」と子安氏は書かれている。明治維新が語る「王政復古」という正統の知の無理を明らかにしようとするとき、明治維新が築いたその150年<後>から考えるよりは、寅吉とともに、その50年<前>から考えるほうがみえてくるものがあるのではないだろうか


日本は来週ありません。150年の短い歴史でした。五輪閉会式がお別れ会です。それまで何が起きてくるのかみんなでみましょう





Je suis légion. Fascination de l’homme aux loups devant plusieurs loups qui le regardent. Qu’est-ce que serait un loup tout seul ? et une baleine, un pou, un rat, une mouche ? ―D=G


われは無数なり。フロイトの狼男は、彼を見つめる狼の群れに魅入られている。狼が一頭いたとして、それがいったい何になるだろうか。鯨が一頭、シラミが、ねずみが、蠅が一匹いたとして、それがいったい何になるというのか。


ゴダールにおける顕幽論とかんがえてはいけないだろうか


「感謝」「感動」のスローガンにあふれた戦争プロパガンダの絵画みたいだ。嗚呼スガーリンは誇りに感じる。だがなんかうつろ。女性蔑視、容姿や身体障害者へのやゆ、食品ロス…


ウイルスの100%が東京五輪「開催してよかった」。菅首相は「続投してほしい」の声がウイルスのあいだにつよい


「コロナ禍を克服する証し」の戦いに敗北した国家は、もう降伏したのに、安倍総統の姿も見えない瓦礫のなかで、まだ五輪選手たちに勲章をあたえています


初めにシナリオはAとB、二つ必要でした。東京五輪の中止を必要としないシナリオAだけで、中止して直ちに外国選手たちを避難させ帰国させるシナリオBはなかったのでしょうか?


われわれはみな、ソクラテスが獄中で死を待ちながら竪琴の演奏を習っていたときと相似した状況にある……ソクラテスに倣えば、少なくとも、生きていたことになるだろう……

シモーヌ•ヴェーユ


労働者たちはパンよりも詩を必要としている。/宗教だけがこのような詩の源泉になりうる。民衆のアヘンは、宗教ではなく、革命である。ーシモーヌ•ヴェーユ


ポストモダンは鬼神論をめぐる言説を読むのは思考の柔軟性のためにだけではない。シモーヌ•ヴェーユを読んだのは反スターリニズムの為にだったように、反マルクス主義の為にである


シモーヌ•ヴェーユも鬼神論も転向にみえても、マルクス主義をゼロにして何もかもゼロにするのとは異なる。何もかもゼロは安倍君を靖國に行かせてあげてという最悪の言説を語り出す


平田篤胤宣長没後2年に、夢のなかで本居宣長より入門を許可されたと言った。絵師に、この夢を描かせている。本居宣長から平田篤胤へ行くのは、山室の本居宣長に帰るためであるか


東京五輪選手村で初のクラスターか、ギリシャ選手団


惑星ソラリス』 の宇宙飛行士だけど、どうみても、詩人だったよな..

ソ連がむしろ地球を「対象」として地球を取り巻く帯としての宇宙を考えたのに続き、アメリカ政府は、宇宙開発予算を打ち切り、こんどは資本をより中心化されたモデルの方に引き戻したのであった」D=G


惑星ソラリス』は記憶の物質化である。同じことしか起きないから名を忘れてくる。名がないから思考もできない。歴史が終わる。ただ物である反復の形式を見ている


「固有言語やまとことば」と言っていないことが大切


「固有の都市や帝国をもたない芸術運動など存在しないが、同時にそれは固有の遊牧民、徒党、原始人を持つのである」(D=G)


<福島復興>だと威張っていたけれど、もうみんな忘れちゃって、いま目撃しているのは、東京五輪の災害化である


だれかを失った場合、われわれはその亡き人、いなくなった人が実体のない想像上の存在になってしまったことを悲しむ。しかしわれわれがその存在をなつかしむ気持ちは架空のものではない。/その不在はまさしく現実である。その人が死んでからは、不在がその人のあらわれかたになる。

シモーヌ•ヴェーユ


見えない空から毎日爆撃をうけているような閉塞感。何処にもいるような凡庸な独裁者はエスカレートしています


ピカソが絵画にしたゲルニカの村を人々は永遠に忘れないだろう。写真では忘却された。バスク語を研究したフンボルトの石碑の近くで、スペイン人は何で自分に道を聞いてきたのか?


1903年ブラームスの影響下から抜け出ることができたとはいえ、ワーグナーとリストの道を先へ進みながら自分の要求に合うような新しい可能性を見つけることはできなかった。この停頓状態に終止符を打ったのは「ツァラトゥストラはかく語りき」だった。

ーBartók Béla バルトーク「小自叙伝」1921


政府は国民にたいして無政府状態になっているだけでなく、自己にたいしても無政府状態になっているらしい。権利のない社会に反対しないで、あなたも私も死なずに生き残れるのか?


『名づけえぬもの』は、サミュエル・ベケットによる1953年の小説です。ものは名が与えられます。そうして、自ら表象する表象が人間と名づけられました。我は表象する、故に我は存在するー目に見えず耳に聞こえないものの名を思考する限り生じる絶えざる根源的錯誤のなかで、名づけえぬもの(L'Innommable)に出会うのではないでしょうか


メダルラッシュの熱狂も後ろめたさもあるだろうが、メダルを噛むパフォーマンスの、誰が一番タフか、勝った国家がたたえられるべきだのメッセージに、拍手喝采。恥をすてた日本凄い


たしかに、子安先生が指摘なさるように、荻生徂徠における『弁名』の命名制作論の見方はヨーロッパの社会契約論と比べることのできる意義深いものである。若い丸山真男はこのことをわかっていたが、明治のホッブス的徂徠論のように正確に理解したしていなかった。荻生徂徠の「制作」を近代主義的に解釈して「生産」であると読み間違えていた。そして徂徠はヘーゲル的だとかマルクス的であると考えることになった。しかし徂徠は国家のことしか考えていなくて、民のことは考えていない。マルクスの「労働」はヘーゲルの「精神」と同様に、カントの「理念」のあり方を中世の見方を支える「物」として再構成したものであった。ここをしっかり理解できていれば、徂徠の古文辞学において、後期水戸学における政治神学の<前に>、歴史の見方を語る言説とともに、カント的な仁斎の<後に>、天皇制国家の青写真である命名制作論が成立したことがわかる


五輪閉会式に天皇参加のクイズゲームを企画していた?「ホロコースごっこ」に対応する「天皇ごっこ」だ!安倍の影響を受けた「柔らかい心」の極右翼達が五輪儀式を利用している


病床ならばたくさんありますよ。五輪を中止して、選手村を専用病床として転用するときです


明治維新150年においても漢文エクリチュールで読んだアジアのコスモロジー形而上学のすべてを失った。philosophieを、どうして中江兆民が「哲学」ではなく「理学」と訳したのか忘れられてしまった現在、すっかり対抗西欧の近代しかなくなったし、対抗しかなくて、抵抗というものが日本だけ起きてこなくなったのはどうしてかと考えてしまう


「百五十年来の西欧文化の最も根本的な特徴の一つとして、自律的な独立した活動としての哲学が消滅したということが挙げられます。[…]哲学が、今や大学教授の仕事に過ぎないものになったということです。-フーコ「文学・狂気・社会」


まだサルトルが論じられる価値があるとしたら、ユダヤ人問題の分析だろうとポストコロニアルの論客は言います。マルクスユダヤ人問題によせて』で分析されていることですが、19世紀の近代国家の成立とともに国家に属さない他者の存在が可視化されることになりました。近代国家の成立とともに、全体主義が誕生します。日本をみても、明治維新の帰結として昭和10年代がありました。全体主義国家とって、亡命した私はドイツ語を喋るが、自分がドイツ人だと考えたことがない、愛国心のないハンナ•アーレントみたいのが、排除されるべき他者で、この他者の名が「ユダヤ人」であるとわたしは理解しています。とにかくハンナ•アーレントのような知識人の分析によって、ナチス全体主義としての意味がはじめて分かるようになりました。

レコンキスタ(Reconquista)は、718年から1492年までに行われた、複数のキリスト教国家によるイベリア半島の再征服活動の総称ですが、このように遡ると、ユダヤ人問題は、ヨーロッパのあり方に関わる問題です。近代国家の体制が押しすすめたユダヤ人問題を解決するためには、再び、近代国家に委ねることは倫理的に不可能です。EUは新しい普遍主義を模索していますが、この模索が(EUにも責任がある)極右翼によって非常に悪い形にならざるを得ません。

ユダヤ人とイスラエルの両者にたいする排除の言説が起きています。比べると、日本における問題も<韓>の排除です。『日本書記』『古事記』の時代に遡ると、<韓>の排除とともに、日本が成立しました。<韓>の排除とは同一性の差異を排除です。同一性を前提にして異質であると考えるからうまく距離が取れないのですね。もう現代は<韓>の排除を止めて、<韓>を不可避の他者として構成していくような関係をつくることが必要ではないかとおもっています。


読み飛ばされた大事な原稿の文を読んだ。許されない間違いであったが、いかに釈明するかが大切だった。決定的なその言葉が待たれていたが、「のりでくっついた」。菅は二度嘲笑う?


どんな崩壊も世界は知覚できないほどの非連続性が存在しない。そうして光から古典世界を支える理念が照らされるが、闇は理念の高慢が遠くに行きすぎないように押し留める。バロック


崩壊は不均衡において読み取れる。どんな崩壊も世界は知覚できないほどの非連続性はないが、不均衡が安定化してしまう問題を解決する為にはプライオリティを制作しなければいけない


東京五輪の中止を要請できなかった国連の限界は、グローバルデモクラシーを体する超国家組織は主権国家をモデルとする限り、国家中心に戻る必要がない時代に国家中心の現前にある


ヨーロッパへ行くと、国家と教会との自由主義多元主義的な共存を考えることができる。国家は教会が何をいうのか一切関わることはないが、教会の存在する自由をみとめるのである。現在進行形でそういう歴史のなかに生きている、ヨーロッパは、国家神道については日本人が考えるよりもよく知っていることに驚くときがある。

遠藤周作が読まれるし、ヒロシマと長崎にいたキリスト教信者の生き方をどう思うかと質問される。戦争体制のなかの宗教のダメージが日本人の、多分彼らからは無神論者に見えるこのわたしの、ネガティブな宗教観に反映されているとダブリンで言われたりした。

それにたいしては、分からないが、わたしは宗教そのものを否定することはない。と、おもっていたが、わかっていたつもりが、全然わかっていなかった国家と宗教の問題を東京にもどってから考えることになった。そしてこういう問題は、漢字文化圏である東アジアの中国や台湾、コリアの神に対する考え方も検討しなければわかってこないということに気がつきはじめている。


神道は宗教でしかないのに、現在も宗教でないようにと説く、ニッポンすごいのスピリチュアルの過剰に明るい語りが幅をきかせるのをみると、そういうのはヤバイとおもうし、また戦前の国家神道の問題が十分に認識されていない現状をみると、歴史修正主義の時代にあって大変危険な無知であるとおもうが、わたしは宗教をそのものを否定してはいないとおもう。もしそうでなければ、思想史の視点から、国家と宗教との関係のあり方を議論していないだろうし..


問題は、国家神道の問題を政教分離の問題として考えている根源的錯誤にあるようにおもう。政教分離は西欧人を受け入れる必要のあった明治からずっとあったのだし、その観念もキリスト教がはいってきた江戸時代から既にあったのである。

問題は、国家祭祀にある。生と死、この両者は、人間において、お互いに切り離すことができない。独立国家日本を誕生させた、復古主義の言説はそう語ってきた。問題は、日本ファシズム。生と死の覆い尽くすことのできない重なりあいの領域を国家が隙間なく包摂してきたときに何が起きてきたかである。ここから、アジア2000万人の命を奪ってしまったことをどう考えるかである。


もしヨーロッパ人が感じとるネガティブな見方があるとすれば、宗教論ではなく、むしろ道徳論にあるのではないかとおもう。復古主義の近代化の問題を考える必要がある。対抗西欧の近代化に対する反動である国民道徳論のせいで、日本ナショナリズムの言説に絡み取られていく歴史があった。日本ナショナリズムのなかの道徳のダメージが、日本人の道徳論にたいするネガティブな見方に反映されていることはたしかだ。

西欧の市民エシックス(カント、スピノザ)の哲学をめぐるアカデミックな分析は活発だし、17世紀における学問をもった近世儒者の道徳論も自由に語られる。しかし道徳のあり方を気兼ねなく喋ることはできないのは、歴史修正主義の政権のもとにあるからである。市民は日本ナショナリズムの言説に絡み取られることに警戒しなければならないことに十分な理由がある。


Quand le développement se subordinate la form et s’étend sur l’ensemble, comme chez Beethoven, la variation commence à se libérer et s’identifier à la création. ーD=G

ベートーベンにおけるように、発展が形式を従属させ、全体に及んでしまうとき、変化は解放され、創造に等しいものとなる。


映像の世紀」に、移動する人間たちを、彼らと共に動くひとりが意図もなく8ミリで撮影した映像がある。かれはそこで見たものをまさか日本人が見るとは思っていなかっただろうな


中国の戦場へ行った叔父さんは高田保馬の本をもっていた。マルクス主義を乗り越えることが課題だったという。戦後勉強していた二宮尊徳が後期近代を支えるものかは分からない


国内感染累計100万人なのに、ワクチン供給国第三位!?ワクチン外交で主導権を握っているのは安倍。五輪ナショナリズムを諦めて反中のワクチンナショナリズムを考えているのかも


「死にきった過去」をたたえる


生と死、この両者は、人間において、お互いに切り離すことができない。独立国家日本を誕生させた、復古主義の言説はそう語ってきた。問題は、日本ファシズム、国家祭祀である。生と死の覆い尽くすことのできない重なりあいの領域を、<未来を思い出す>国家が隙間なく包摂してきたときに何が起きてきたかである。しかし生と死の覆い尽くすことのできない重なりあいの領域が、「死にきった過去」と三木清が呼んだものに定位するならば、国家が介入する余白がないだろう。これがわたしの文化論である。アジアにおける反ファシズムとしての、「死にきった過去」をたたえよう


東京五輪に関するニュースで不快にならないものはない


IOC菅首相小池都知事に五輪功労章


古事記』に、生け贄の場面があります。スサノオノミコトが、8つの頭と8つの尾を持つヤマタノオロチを退治して、生贄にされるところだったクシナダヒメを救うのです。


尒、速須佐之男命抜其所御佩之十拳釼、

切散其虵者、肥河變血而流。

故、切其中尾時、御刀之刃毀


尒して、速須佐之男命其の御佩みはかせる十拳釼とつかつるぎを抜き、

其の虵へみを切り散らししかば、肥河ひのかは血に変なりて流れき。

故、其の中の尾を切りし時に、御刀みはかしの刃毀かけき


これをどう解釈するかですが、スサノオノミコトは、<動物>ヤマタノオロチを宇宙の中心として再構成することによって、外部へ脱出しようとしているのではないでしょうか?記号体制において、 和辻の「神」解釈から、言説を制作する主体へと自立していきます


イラストは『千の高原』より

漫画は石ノ森章太郎

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古事記』によると、八百万の神々が天の安河の川原に集まり、対応を相談した。思金神の案により、さまざまな儀式をおこなった。常世の長鳴鳥(鶏)を集めて鳴かせた。


於天安之河原。

神集集而。

〈訓集云都度比〉

高御產巢日神之子

思金神。

令思〈訓金云加尼〉而。


いかに外部へ出るか神は考えたのである。

この答えは、別の記述にありました。


古事記』に、生け贄の場面があります。スサノオノミコトが、8つの頭と8つの尾を持つヤマタノオロチを退治して、生贄にされるところだったクシナダヒメを救うのです。


尒、速須佐之男命抜其所御佩之十拳釼、

切散其虵者、肥河變血而流。

故、切其中尾時、御刀之刃毀


これをどう解釈するかですが、スサノオノミコトは、<動物>ヤマタノオロチを宇宙の中心として再構成することによって、外部へ脱出しようとしているのではないでしょうか?記号体制において、 神は、和辻の「神」解釈から、言説を制作する主体へと自立していきます




「感謝」「感動」のスローガンにあふれた戦争プロパガンダの絵画みたいだ。嗚呼スガーリンは誇りに感じる。だがなんかうつろ。女性蔑視、容姿や身体障害者へのやゆ、食品ロス…


ヨーロッパでは転向は問題にならない。ナチスの戦争協力が問題になる。戦後民主主義の日本は「ホロコーストごっこ」すらゆるされるが、転向が罪である。思想を変えてはならない、と


「顔を背ける」をたたえよう


顔を背け合う神々。顔を背ける神は背かれる神である。顔は仮面である。読むことができない記号体制である。そこに外部の思考がある。しかし顔は顔であるかぎり、祀る神は祀られる神である。意味するものー意味されるものを読むことができる記号体制である。


「五輪やって良かった」60%

        =

「国がなにをやっているのか理解できていません」60%


『教行信書』に知識人親鸞の思想を読める。お唱えで救われる筈もないのに私は人々の間で何をやっているのかと書いた。転向した三木清親鸞へ行った。現在も日本知識人を捉える親鸞


仮面の裏側に仮面しかない。仮面の裏側に顔があるのでもなく、或いは表である顔のしたに裏である仮面があるのでもなくて


何の経験も感性の成長もなかった八年間の理由は?「今までは五輪が目くらましになってきたからまだ良かった」と自民党が教えてくれているのに、まだ「五輪開催して良かった」なの?


伊藤仁斎は、天地において表象される往来の運動を道と呼んだ。道は路であると。『童子問』(1707)では、それを見上げる人が形而上学的「地」に立ってはじめて成り立つものを形而上学的「天」と名づけようとしているようだ。人は限りのあるものだが、だからこそ学が有限な人を無限なものにしてくれる。経験知の人はまだ登場していないが、それまで語られなかった人が朱子学の透明な言語における表象の限界に立っている。フーコの一文を借りると、

「厚みのある第一義的実在性としての人間、可能な認識全体の困難な客体であると同時に至上の主体としての人間」は、朱子学の透明な言語にいかなる場所も占めていないことが言われようとしている。

Et l’homme, comme réalité épaisse et première, comme objet difficile et sujet souverain de toute connaissance possible, n’y a aucune place. ー Fou cault

「厚みのある第一義的実在としての人間、可能な認識全体の困難な客体であると同時に至上の主体としての人間は、そこではいかなる場所も占めてはいない。」


伊藤仁斎にとって『論語』の向こう側にあるものは、親鸞が語った此方の世界の向こう側にあるものではあるまいか。


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現代国家は領土と人口のコントロールの為に安全安心を言う。安全スローガンを垂れ流しながら、人の流れを止めれなくなった感染日本は国家ですらない。明日国連にSOSの電報をうて


アジア主義ー近代の超克ーは日中戦争で破綻した。戦後竹内好は理念としての戦争を再構成した。戦争は戦争する必然がなく国家を対象にもたない。だが戦争も理念化すると難しくなる


<仮面の裏側に仮面しかない。仮面の裏側に顔があるのでもなく、或いは表である顔のしたに裏である仮面があるのでもなくて..>

アイルランドはヨーロッパの周辺にあるだけではなく、ヨーロッパの一国なのに植民地化された。われわれはなにか?これはアイルランドで取り組んだポストコロニアルの問題提起


竹内好は語る。平等の実現の方法と共に、最高の原理は西欧にある。ただし植民地主義の問題があった。アジアは、部分が全体を包み帰すように、西欧を豊かにできるのではないか。そのときアジアは方法としての自己に何かをもつ必要があると


小田実中江兆民を読んで古代ギリシャ民主制とルソーの社会契約論を考える。そして復古主義の近代化を理解した上で、国家が介入できぬ「死に切った過去」の思想を語る三木清を読む


平田篤胤の幽冥論は大国主神の国譲の記紀神話と無関係ではないと思う。生と死の覆い尽くせない重なりあいの領域を、「死に切った」訓(よ)めない漢字書記言語のテクストが支える


平田『仙境異聞』はガリレオ天体論と神道が一体の神道的リアリズムの如き変なものを語る。アジア主義の東洋的西欧も西欧的東洋も、<と>を他者化する思考の柔軟性であるべきだった


竹内好において再構成されたアジア主義は大袈裟なものではない。アジアは部分が全体を包み帰すように西欧を豊かにできるとは、たしかに、曖昧な観念ではあるが、思考の明確なイメージをもっている。破れ傘ー至る所全体化できないー

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投射をたたえる


みんなかつては、小さな自分がより大きななにかに向けて、たとえば、星に向けて自分を投げかけるという観念が大好きだった。夜のランプの下に照らし出された地図は子どもにとっては無限だから。冒険に出ようとする空想のなかでは、聖人の時代の先王たちも自然に向けて自分を投げかけた。この投射の形式において王の支配の力はあたかも自然の力としてある。自然が世を観たのである。もっと後の時代になると人間が現れた。しかし、自然は、人間の自分自身を見るなどという身の丈を超えた傲慢をゆるさかったので、人間は自然から自分に向けて自分を投げかけなければいけなかった。その人間とは天理の真下に存在する皇帝であった。新しい投射の形式においては自然の力は恰も王の支配の力としてある。天は均く万物に性を与えるという宇宙に関する大いなる物語が成り立っている。性とは生まれつきの心の方向である。


アマテラスとスサノオの誓約


天照大御神詔、然者汝心之清明、何以知。於是速須佐之男命答白、各宇気比而生子。


以下Wikipedia より


伊邪那岐命イザナギ)が建速須佐之男命スサノオ)に海原の支配を命じたところ、建速須佐之男命伊邪那美命イザナミ)がいる根の国(黄泉の国)へ行きたいと泣き叫び、天地に甚大な被害を与えた。イザナキは怒って「それならばこの国に住んではいけない」と彼を追放した。

スサノオは、姉のアマテラスに会ってから根の国へ行こうと思い、アマテラスが治める高天原へ昇る。すると山川が響動し国土が皆震動したので、アマテラスはスサノオ高天原を奪いに来たと思い、武具を携えて彼を迎えた。

スサノオはアマテラスの疑いを解くために、宇気比(誓約)をしようといった。二神は天の安河を挟んで誓約を行った。まず、アマテラスがスサノオの持っている十拳剣(とつかのつるぎ)を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の三柱の女神(宗像三女神)が生まれた。


この三姉妹の女神は、アマテラスの神勅により海北道中(玄界灘)に降臨し、宗像大社沖津宮中津宮辺津宮、それぞれに祀られている。


多紀理毘売命 - 別名:奥津島比売命(おきつしまひめ)。沖津宮に祀られる。

多岐都比売命 - 中津宮に祀られる。

市寸島比売命 - 別名:狭依毘売命(さよりびめ)。辺津宮に祀られる。

次に、スサノオが、アマテラスの「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の五柱の男神が生まれた。


左のみづらに巻いている玉から 天之忍穂耳命

右のみづらに巻いている玉から天之菩卑能命

かづらに巻いている玉から天津日子根命

左手に巻いている玉から活津日子根命

右手に巻いている玉から熊野久須毘命


これによりスサノオは「我が心清く明し。故れ、我が生める子は、手弱女を得つ。」と勝利を宣言した。


アマテラスとスサノオの誓約(うけひ)は社会契約的なものの破綻か?この場合国家が奴隷状態である。裏切られたスサノオは自然状態へ帰る為に戦うがアマテラスに剣を渡してしまった


悪は、限りがないものである。だが、無限なものではない。無限なものだけが、限りがないものに、限りをつける。ーSimone Weil

精神の眼は射影幾何学の倫理化である


二週間のあいだ、毎日おなじ紙面で、並置というか、右半分(あるいは上半分)はコロナの危機を伝える記事、左半分(あるいは下半分)は五輪の日本選手の活躍を伝える写真。これでは、コロナ禍を克服できるヒーロー登場を読みとるひとも多かったのではないでしょうか。東京五輪を協賛した新聞の体制だったとはいえ、編集にそういう意図はなかったとおもいますが、残念なことに、菅首相のスローガンに沿った、政治的なメッセージとなっていました。結果(感染拡大)には原因があるという認識を隠蔽してしまいました。


ブレア-ブッシュ以来、イギリスは極右翼原理主義が席巻している。ある年、左翼リベラルは、ロンドンで、いかにユダヤ人も娘をナンパするかを教えた文化論的ハウツー本とともに、極右翼の聖書を解説したスピリチュアル系ハウツー本がベストセラーになったことを非常に心配した。左翼リベラルとコミュニストの聴衆者たちに向かって、しかし、ジジェクは、ユダヤ人がいかに神をやっつけた方法が書いてあって役に立つから聖書を読むべきだと。その方法とは、民は「証」をもとめたのであった。なるほど、もっとわれわれは極右翼政治家たちにたいして、彼ら自身が口にしはじめた「エビデンス」をもとめよう。

ちなみに、力不足ながら、『古事記』を読みはじめることに意味があると考えはじめたのは、古事記』を読む極右翼(日本会議)のイデオロギーをやっつける読み方が、外部的読みが読みなおす『古事記』に書いてあるとおもっているからである


玉座にのっている愚か者は、ただ愚か者というだけで、あらゆる責任を免除される。トランプと習近平に対抗するためにはアベぐらい愚か者を必要としたが、現在スガーリンは必要なの?


民主主義から愛されない国家でも、愚か者が愛してくれる。内閣支持の理由の「ほかにいいひとがいないから」は「ほかに愚か者がいないから」という意味なんだろう


パリ、ロンドン、ニューヨーク…結局シネフィルのわれわれは古い映画を上映してくれる映画館のある都市にしかすめないのだ。とっくの昔に東京で溝口映画をみることができなくなった。パリへ出かけて行って溝口を見るチャンスもあったが、それも無理、もう外国へ行くこともできないだろうから。知識で映画を語り尽くす世界、そこにもう居場所がないのだ


雨月物語』は死に場所のない近代を物語る。魂は肉体を住処としていたように、生者に伝えたい死者の言葉は建物と共に在った。まだ世を支えるものはそれほど堅固か(廃墟と化す)


洞窟の一つ目の巨人キュクロープスから逃れるためにユリシーズは動物の腹のしたに隠れた。フランシス・ベーコンの絵みたいだな..


貴方(チョムスキー)が考えておられるのとは反対に、私は人間性・正義・人間の本質の実現というような観念や概念は、我々の文明内部で、我々の知の型の中、哲学の形の中で作られてきたものだと考えざるをえないのです。ーフーコ『人間性について』


完全な計画化だった筈の植民主義が破綻した日本。歴史の反復。若者も、私も、何かこの国に「希望」をもてない。必然として東京五輪は破綻した。64年のときは隠蔽されていただけである


「浩浩」をたたえる

•「大海哮 (た) けり、浩浩又浩浩たり」(蘆花)

•「道之浩浩」と伊藤仁斎はいう。子安先生は、「道は極まりなく広く大きい」(ただ学問のみこの道を尽くすことができる)と訳している。


知識で映画を語り尽くす世界、そこにもう居場所がないと言いながら、理屈っぽいゴダールについてしつこく書いている自分は宣長的人間かもしれない。救われないと最初から諦めている


反抗的人間が書くゼロから作る文と違って、読んだら、その読み手も、書き手であるわたしも、消えてしまうような文しかこれからも書けないのだろう


ユダヤ人がわかると世界がわかる」。わからないなあ。だって、「ユダヤ人がわかると世界がわからなくなる」のに(ウィットゲンシュタインを読め)。そもそもだれが「ユダヤ人」なのか?


詳しく書けませんが、アカデミズムも、靖國神社は(海外mediaが呼ぶ)戦争神社ではないと理解しはじめたということですね。明治初期の政府に神祇官として宗教者が入ったことが政教分離違反で、このときだけは問題があった。しかし国家神道の推進主体はあくまで国であって、その限りにおいて、政教分離は保たられていたのであり、靖國神社は無関係(無罪)だという見方に移ってきているときいています。だから、文化として、「靖國神社としての日本人」のアイデンティティを言うことに何の問題がないのです。しかし靖國神社の問題は、政教分離の原理をめぐる言説に即してその内部で考えるべきではなく、アジア2000万人の命を奪った形で祀る国家が闘う国家であったという国家祭祀の問題として外部的に構成しなければならないとおもうのです。「外部的に」とは、台湾とコリア、中国、アジアから靖國神社がどうみられたのかということです。果たして靖國は帝国の日本国家と別々にあったのでしょうか?敵を殺して死んだら、神さまとして、靖國に帰れるぞと言われた兵隊にとって、死者を支配する、憲法に書かれていない権力をもつ天皇が参拝する靖國と日本国家は別々にあったのでしょうか?唯一正統な統治権をもつ古代の天皇から三種の神器を預かっている、国家と憲法(政教分離)の上に立つ伊勢神宮靖國神社と日本国家は国体としてひとつだったのです


ホロコーストごっこ」と「ホームレスの命はどうでもいい。いない方が良くない? 人間は自分たちの群れにそぐわない、群れ全体の利益にそぐわない人間を処刑して生きていける」


ホロコーストは、ユダヤ人や障害者やナチスに対する抗議者を収容所にいれておいて、収容所の中の彼らを指さして彼らが社会に役に立たない存在だとして、殺戮していくことになった。今日やはりネオリベはホームレスと呼ばれる人々を目に見えない、壁と建物なき収容所にいれている。収容所の彼らをつぎのように指示する。「ホームレスの命はどうでもいい。いない方が良くない? 人間は自分たちの群れにそぐわない、群れ全体の利益にそぐわない人間を処刑して生きていける」。これは、ほかでもない、日本ネオリベの何でもかんでもカネがモノを言う“ナイーブ”な日本「ホロコーストごっこ」である


ホロコーストごっこ芸人、名古屋市長、メンタリストさんの差別は生者の間にヒエラルキーをつくる差別だとしたら、靖国参拝の差別とは死者の間にヒエラルキーをつくる差別である。補い合っている


ホロコーストごっこ芸人、名古屋市長、メンタリスト、靖国参拝は統一を求めて排除する。他方で理(ロゴス)に基づいて分裂する理念のほうは互いに消滅しあってはならならないと思う


バブルのインフレで苦しんだロンドンでこのパフォーマンスを見た。80年代の作品である、

William Forsythe's Impressing the Czar (Royal Ballet of Flanders)。フォーサイスのバレーは、フーコが「王の場所」と呼んで分析したのものを取り組んでいるとおもう。嘗て皇帝がいた世界の中心に、後期近代の現在は、観客である消費者が占めている。パンオプティコン(Panopticon)における観客としての市民の役割のように、近代における支配のあり方は無観客では成り立たないのだ。支配されているものが支配しているような構造ー究極の精神の従属のあり方ーを問うた舞台である。ちなみに、差別がないようにと、男性バレリーナ達も制服を着て踊っている


五輪の選手は観客を必要としない。多分オリンピックが好きな観客も選手を必要としてはいない。演劇の役者と観客は互いに必要としている。映画の観客は孤児からスクリーン(死装束)に成っていく


嘗ては山の向こうの先祖に会うために山に登りながら自身が先祖になった。都市の映画観客は孤児からスクリーン(死衣装)になった。山も映画もない現在は、ナショナリズムが荒れ狂う


77年前のカウラ事件はオーストラリアのシドニー郊外での集団捕虜脱走事件。シドニー時代にユダヤ人の大家さんが両親に何が目的だったか分からないと時々聞いていました。記憶のなかの両親は迷惑そうに返事に窮していました。白豪主義植民地主義者はインドネシアを黒い豪州と呼んでいました。そこのオーストラリア兵2000人?が日本兵に殺されたそうです。そのように語られていました。もちろん戦争責任を果たさないから大東亜共栄圏構想は理解されることはないので、わたしの経験を振り返ってみると、当時までは普通は日本兵は悪夢が来たというような感じで極めて曖昧に宗教的に理解されていたのかもしれないですね。昔のこと過ぎてほんとうに大雑把なことしかわからないですが、白豪主義が正式に終わった労働党政権の1970年以降からは認識の仕方がリアルに違ってきたとおもいますが


長編「虹色のトロツキー」第一巻を読むと満洲国を支える建国大学の描写があるが、マルクス主義学者が計画関与した大東亜共栄圏構想と石原莞爾ファシズムを混同していないだろうか


「太平洋戦争」という言葉は、日本のアジアに対する侵略を隠蔽しています。事実上15年続いた中国との戦争が行き詰まってアメリカと戦争しました。20世紀において15年以上戦争している国って、日本のほかにないのです。日本はいくつの国と戦争したか知っていますか?日本国と48ヶ国によってサンフランシスコ平和条約に調印されました。この48ヶ国に、中国と台湾、韓国と朝鮮は入っていません。ソ連は調印していません。日本は58カ国以上の国と戦っていました。


フォーサイスが振付け、演出した舞台作品である「気象学に関する三つの事柄」William Forsythe’s Three Atmospheric Studies(2006)は、ゲルニカのダンス化である。第二幕は、母親とアラブ人官吏(=翻訳者)の関係を示した。母親は反戦デモの息子が捕まったと訴える。翻訳者はあなたの言っていることは理解できないので翻訳できないと繰り返す。母親はだんだん狂ってくる。ロンドンでの評判は決してよいものではなかった。どのように論じていいかわからなかったのである。イスラムからの問題提起、大いなる他者との関係をゼロにして、エクリチュールだけを論じる翻訳エクリチュール論ーとくに日本ポストモダンが陥っているーに還元してはならないことを考える舞台にわたしは衝撃を受けた。


近代主義は漢字も英語も同じだ。大いなる他者(中国)との関係をゼロにして、エクリチュールを翻訳に還元して理解しているが、それはアジアにとって何の意味があるのかと聞きたいよ


虹色のトロツキー」は中国とロシアと日本にはさまれた満洲の建国大学の知を描写する。所詮国家の為の知だ。自分自身の関心から中国に行って調べる橘樸みたいな存在が私には面白い


ポストモダンはヨーロッパ中心主義を解体した筈なのに、日本におけるポストモダンのヨーロッパ中心主義化に疑問をもった私は勝手にヨーロッパの端っこに行って考えてきたが思考不足


萩生田光一小泉進次郎井上信治は、A級戦犯が合祀されている靖国神社を参拝した。

小泉進次郎の父親は首相のとき公式参拝したとき、「おれの信教の自由をみとめろ」と言った。<ーガキじゃないんだから我慢しなよ


萩生田光一小泉進次郎井上信治は、A級戦犯が合祀されている靖国神社を参拝した。靖国神社は、アジア諸国が認めてくれれば、A級戦犯の合祀をやめたうえで、負の文化遺産として残る可能性も考えたが、こういう連中がいるから取り壊すべきだ。彼らのやっている靖国公式参拝は、憲法が禁じる国家神道復活だ。どうせ19世紀後半に作られた顕彰のための近代建築物で、現在はもう遺族もいないのだから。弔うならば、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑があるのだからそこへ行って


「五輪の近代」は終わったと語るけれど、近代というのは、世界が選択の自由もなく再び始まってしまっていて、知らないまま「終わった」という意味が与えられているのに。でもやっぱり飽きた


聖人と天照大神復古主義は<と>の他者化である。活動家知識人の武士は、未来ー西欧列強下の清朝中国のリアリズムーにも、過去ー象徴天皇制を崩す神話的なものーにも依拠できない


インドと中国とロシアに挟まれている廊下みたいなこの国で、米英に巻かれている、われわれはおなじアフガニスタン人であると言うことができるようになることが、巻き返しの始まりか


徳川日本における武装した薩長は、わかりやすくするためにあえて言うと、今ならばアフガニスタンの部族と同じで、「私の立場」しかない。吉田松陰はテロリストであった。横井小楠は「公」の普遍に立つ開国を主張したが、しかし彼はテロで殺される。長州は京都の天皇を東京に連れてきて滅茶苦茶になった。それまで、17世紀に始まる武士政権の時代に京都において文化権力しかもたなかった天皇に政治権力が集中することになり、薩長がそれを利用するのであるが、日本帝国主義が完成した後は、ここから、昭和10年代における国家祭祀のファシズムが起きるだろう。「私の立場」の薩長に占拠された明治維新は王政復古となった。その結果 徳川日本の差別と比べることができない規模の差別の拡大が明治日本から生じる。日本の近代化は最初から間違っていたから結局なにもかもうまくいかない。この意味で安倍政権は必然だったと言わざるを得ない。彼の歴史修正主義は、日中戦争を消去することであり、長州の「私の立場」の王政復古に万歳することである。この歴史修正主義とともに、解釈改憲軍国主義の復古と国家神道(公式参拝)を復活させてしまった


地球の多数派は政治的に独立しても経済的に独立できないーこれが現代世界の最大の問題である。中国の貧しいチベットとウイルグルに対する介入は理由があり、チベットとウイルグルは中国の経済援助を必要としているということは理解できないわけではない。もちろんウイグルを収容所化することは許されないやりすぎである。他方で、中国の香港と台湾に対する介入は政治的自由の簒奪でしかない。香港は外交権と軍事では中国を必要とするが、経済に関しては中国を必要としていなかった。台湾は現在を築くためには中国をまったく必要としていなかったのである。



一国二制度が破綻している中国の一帯一路構想は、破綻した戦前マルクス主義者が構想したアジア経済圏と比べると、共通するものがある。破綻したとはいえ、戦前の経済学者と法学者に全部について事実上戦争犯罪人としての責任を負わせたのは、間違いか、やり過ぎだったかもしれない。全部がファシズムだ、ファシズムだと指さすと、本当のファシストを見逃してしまうことが起きるかもしれない。もちろん天皇ファシストには戦争犯罪人の責任を負ってもらわなければならない。しかし日本は戦争犯罪人は政治の中心にカムバックしたし、その孫も大きな影響力をもち続ける


中国をみても東京五輪をみてもおもうのだけれど、アジアは開発と経済はどんどん進むのに言論の自由が進まないのはなぜ?やはりアジア的生産様式として説明すべきことなのだろうか


MEMO

蝋山政道「地域的運命」、三木清「新しい東亜文化」、 高田保馬「血液の接近、文化の類似、住域の隣接」


おお、レンブラント先生は闇から問う。あなたの手はありますか?昔は想像するだけでよかった。これからは、手と名づけられたものが存在するためには、手を表象の厳格な連続性のなかに見なければいけない。光と闇のあいだにある。そして語根も名である。言葉は太古に遡る起源のなかに存在するのだから、時間のなかにしか存在しない。これからは言葉を目で見ることができない(死の日付とともに、いきなりあらわれたから驚いている)


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アメリカの撤退はベトナム戦争から始まった。ベトナム戦争は敗北ではなかったがイラク戦争では敗北した。中東は米国の支配にあるなか、アフガンからの撤退は敗北に非ずと必死な訴え


アフガニスタンの位置を地図でみると、インドと中国とロシアに挟まれている廊下みたいな国である。現在は日本からみている。歴史的な繋がりがある。アフガニスタンにおける仏教は、数千年もの長い歴史を持ち、大乗仏教の起源にまで遡ぼるという。そしてイスラムがくる。

アイルランドから考えたアフガニスタン紛争(2001)のときは、アイルランドから考えたアフガニスタンは、大英帝国アフガニスタンにおける歴史とともにあった。イギリスの後に、ソビエトアメリカがここにやってくる。宗教は住民の世界資本主義にたいする抵抗の形をとっている感じである。世界資本主義の分割である、4つの帝国(アメリカとヨーロッパ、ロシア、そして中国)とかかわる貧しい小国の現実。地球の多数派は政治的に独立しても経済的に独立できないーこれが現代世界の最大の問題である。アフガニスタンの一帯一路を考える、中国がタリバンに接近していると報じられる。タリバンのもとで貧しいものたちの識字率はあがったが、女性が学校や職場から排除されてしまった問題をどう解決するのか。近代の体制のなかで古代法の処罰が適用されている。

西欧の歴史を考える。イスラムは自らを排除する近代化・西欧化を全面的には受け入れなかった。現在をみると、残した伝統、いわゆる前近代から抵抗が起きている。一考の価値がある。比べると、日本における近代化は下級武士が推し進めた、伝統をゼロにした完全な近代化であった(完全なは正しいを意味しない。)漢文エクリチュールとともにあった、アジアのコスモロジー形而上学もすべて失った。結局現在われわれはその代償を払っているのではないか?チョムスキーが「外交政策の占拠」とも呼んだ<オキュパイウオールストーリート>の時代に世界中が抵抗の声をあげているのに、何の抵抗も起きてこないのはこの日本だけである。なぜだろうか?一度確立した物の見方のなかでそれとは別の見方をすることが難しい。とくに完全な近代の場合は..

西欧列強がきたアジアの歴史を考える。中江兆民の思想を考えてしまった。彼はルソーの自然と作為に表象したものを「天命の自由」「人義の自由」と名づけたのであった。アジア主義日中戦争によって破綻した。もうアジアを実体化することはできない。だけれど、近代の開発と戦争と同化主義にたいしては、理念であるような、方法としてのアジアを考えてみることは意味があるとおもう。巻かれている、われわれはおなじアジア人であると言うことができるようになることが、巻き返しの始まりなのか?Fbには演劇鑑賞でアフガニスタンの研究者もおられるので貴重な投稿を読んでいる


国民主権の現行憲法象徴天皇制に関しては、天皇主権であった明治憲法との連続性はありません。八月革命説の宮沢は戦後憲法における天皇の地位が天皇機関説におけるものを継承していると考えています。芦部も、宮沢説を批判的に検討しながら、基本的には宮沢の考えを認めて、象徴天皇制を、神話的天皇制に還元できないと言っているとおもいます。ただし、憲法に限定的に列挙された国事行為とは別にある天皇のお言葉を一切認めないわれわれからみると、清宮説(「天皇の行為」)を認めるような芦部は日和見ですね、国民主権の構造を壊す危険な天皇抑止論をたすけていませんか?


アフガニスタンは独立国でアメリカの州ではありませんよ!日本知識人は米国からみる視点しかないのかしら?明治の前に生まれていたら今度は中国からみる視点だけで喋るのでしょうね


もうすこし勇気があれば、書いたり描いたりしないのだけれど

対角線にある最初の名指しにきたりしもしないのに


テロリストは権力にたいして戦略的である。政権を掌握したときに、マスコミが「銃の政治」は終わったと言うと、それは「嘘のナレーション」を構成するかもしれない


吉田松陰は幕府の圧倒的軍事力を前にテロリズムを選ぶしかなかった。問題は明治のクーデターによる始まりは正しい始まりではないこと。未だ市民は国に逆らうと怖いぞと脅されている


国史カトリック系とプロテスタント系の権力闘争。後者が勝てば敵の王を殺して子供を移民の如く育てた。前者が権力を取り返せば敵の王を殺すが子供を移民の如く育てた。有為転変


歴史的な過去の観念であるが、言語は文法をきちんと構築できれば不要な名詞は要らないという。空間的にある多様性(転移)は命題の論理的順序に帰す。曖昧な観念と明確なイメージ


十年ぐらい、石川台の対角線の交差するような場所に隣接したところにすんでいる。道端でみんな結構すごい喋るね。夜の恋人達の会話。朝の散歩者達の挨拶の言葉。昼の出稼ぎの電話で人生を回顧する言葉。こんなに喋るの?人々が活発に喋るのは一体どうしてなのだろうか。解放されていると感じるのか?わからないが、もしなにかの表象を名指す命名ならば、ここは、思考と言葉の絡み合いが可能となるような点で、命題から起源へ向かう線と分節化からレトリック的転移へ向かう線とが交差していると言わざるを得ない


思考と言葉の絡み合いを可能にする、命題から起源へ向かう線(指示と物との安定した関係)と、分節化からレトリック的転移(拡張)へ向かう線とが交差している点。この点において、本居宣長における漢字知識人(!)の古代に向ける視線と『古事記』を訓(よ)むことによって中国文明からの自立を語る多元主義の方向をみる言説を考える。この交差点にある名が、「天地」(アメツチ)であり、言説的になにを意味しているかわからないと解釈される「神」(カミ)ではないだろうか。こうして宣長は、『弁名』の荻生徂徠天皇国家のブループリントをつくったように、国家神道のモデルをつくった。


洗濯バサミをたたえよう

部屋のなかで洗濯バサミで紐に吊るしたページたちを並べて訳したんだ、と、劇団の納会に来た渡辺一民氏は楽しげに教えてくれた。フーコはどの文も曖昧だが考えぬかれている。問題は、後から次々に書き足したような書き方だったらしく、なぜこの文のあとにこの文が来るの?という感じで文と文との関係がわからないことが多々起きるのだ。とくに大事なのは渡辺氏が訳している第九章と十章なのに、最後まで読むのが難しい本である。だから事項索引を利用して辞書的に読むのがよいとおっしゃっていた。池袋の市民大学講座のとき、フーコ『言葉と物』Les mots et les choses の英訳は、The order of things となっていることを、アメリカで英訳が読まれていることに関心のあった渡辺氏に告げたら、「それはちょっとねえ..」と難色を示した。もうその話をしないでくれというちょっとナーヴァスな感じになったから、そのときは何が問題なのか聞かなかった。結局渡辺氏にとって何が問題だったか分からない。Les mots et les choses に言及した原文と英訳を自分のために示しておこう。この和訳(第四章 語ること)は佐々木明氏が行った。


「古典主義時代のすべての言説を組織しているのは、まさに<名>であると言ってよい。語るなり書くなりすることは、物を言いあらわしたり自己を表現したりすることでも、言語(ランガージュ)をもてあそぶことでもない。それは、命名という至上の行為へと進むこと、物と語が物に名を与えることを可能にする共通の本質のなかで結ばれる場所まで、言語(ランガージュ)を通じて赴くことであった。」


On peut dire que c’est le Nom qui organise tout le discours classique; parler ou écrire, ce n’est pas dire les choses ou s’exprimer, ce n’est pas jouer avec le langage. C’est s’acheminer vers l’acte souverain de nomination, aller à travers le langage, jusque vers le lieu où les choses et les mots se nouent en leur essence commune, et qui permet de leur donner un nom. 


One might say that it is the Name that organizes all Classical discourse; to speak or to write is not to say things or to express oneself, it is not a matter of playing with language, it is to make one’s way towards the sovereign act of nomination, to move, through language, towards the place where things and words are conjoined in their common essence, and which makes it possible to give them a name.


選挙のおかげで「独裁者」は出てこれないということにもうすぐなるとおもいますが、選挙のほかになにもないから「独裁者」が生まれてきたということも考えます

『映画史』(ゴダール)はなにゆえに<精神の編集>と言われるのか?映画は精神的なものだから、精神(映画)は精神自身を形成する、ということなんだろう..。そうしてとらえられた『映画史』は、必然として、フランス革命においては平等の理念と人々とを媒介するスクリーンが不在であるという今日の問題を構成しているものを明らかにしなければならない。これは、ドイツ的「国制」(あるいは日本的「国体」)の構成ではない。

ブランショ『至高者』の文だと思うが、「法はどこだ、何をしている?」と問うのは、テクストを命名行為としての法のあり方に置いているからか。二項対立的意味作用に絡み取られない


何の疑問もなく、原理主義テロリストが多分現代語に訳されたイスラム古代法を読ませるのも、オリエンタリズムの知が現代日本語訳の『論語』『朱子語類』を読ませるのも、おなじ近代である


死に切った過去は蘇ることはないし、原初的テクストは読むことが不可能な他者である。しかしこの他者から不透明性を奪いとろうとする原理主義的な暴力を近代は国家と共にもっている


日本の近代は古学からしかはじまらない。『弁名』の荻生徂徠天皇制国家の青写真も、本居宣長国家神道像も、後期水戸学の政治神学的な国体論も、他者をもっていた。彼らは、国家がなかった時代に考えていたので、国家からしか成立しない全体主義を考えていたのではない。死に切った過去が蘇ることはないのだし、古代人の心と古意を想定して原初的テクストを訓(よ)んだが、リアルに絶えず訓(よ)むことが不可能な他者の非透明性に送り返されていたのではないか。問題は、明治維新を王政復古してしまった薩長のクーデターと、明治が江戸時代の翻訳を利用して作った漢字である。過去をどう観るのかゲームの規則が変わったのである。たしかに明治近代の漢字がなければ現在われわれは考えることが難しい。だが明治の漢字によって何が起きてきたのか?死に切った過去と他者から不透明性を奪いとろうとする原理主義的な暴力を近代は国家と共にもっていたのである。西欧の知と対等になった日本知識人が漢文を読めなくなった大正時代に、日本帝国主義が完成した。西欧の知と台頭になったからこそ、その知は植民地をもたなければゼロに等しい。漢字を自国語(母国語)への侵入とみなし、「漢字は借り物である」とする「国語」の思想の誕生である。

昭和の日本ロマン主義は歴史が国土の自然にしか結びつかない。古代の詩人の視野も知識もそんなに狭かったのだろうか?近代は過去を己における声の内部の底に根づかせようとしている


タリバンは、シン・フェインが祖母を守るハリウッド映画に表象される自身のイメージを利用したように、連邦議会議事堂内に乱入したトランプ支持者のテレビのイメージを利用している


土地の神さまはいたが、国家日本と一体の「ご先祖さま」を日本人が表象したのは柳田邦男の本が出た戦後からなのに、古代からずっと「ご先祖さま」の日本人が存在したと思い込む


ハリウッド映画といえば叫び声。最初に誰が叫んだのか?聖人が命名した「鬼神」とともに、祭祀の共同体が成立した。つぎにその境界で未知のものを見たら叫べというきまりができた


国家は自ら表象する表象をもつ。アジア的生産様式はオリエンタリズムの知だが、敢えてポストモダン中国は自らアジア的生産様式と表象して西欧近代と別の近代があった歴史を考えるのは無理じゃないか?「中国の衝撃」の溝口の五•四運動によって独自の中国を考える考え方はいいが、文革の経験がないね


コスモロジー図をじっと見ていると、精神(国民)が天を、身体が帰する地に、還元したら(投射したら)、ドイツも日本も、国は国制•国体として現れたのか?だが天がなくなっちゃう


国制•国体も政教分離を認める点でフランス革命の国のライシテと同じだ。どこも、国家と共に地上の天はあるが、天も死に場所もなくなってきたよね。イスラムからの問題提起はまだ分からない


私は人権が最も大切だと考えている。ただ、人権を理由に米国のナショナリズムによって爆撃された国は人権論に耳を貸すだろうか?彼らが理解できる仕方で語らなければいけない


「汝の意志の格率が、常に同時に普遍的な法則として妥当しうるように行為せよ」だけど、これはなんという高さだろうか。ヘーゲルにとって、カントは抽象すぎた。これだけ高いと、超える無限は超えられる無限である、というような理念性における空虚な循環だ、と、わたしの理解では、ヘーゲルは問題にしていた。しかし、物を離れて、そのような理念性のなかで、生と死を意味づけていくことはできない。そこでヘーゲルは精神をいう。精神は理念の「物」化である

現代世界を支えるのは大いなる他者との関係である。つまり現代世界を支えるのは「死に切った過去」(三木清)である。「死に切った過去」ならば、国家が未来を思い出す透明さがない


「自宅療養者急増 食料「1000人待ち」届かず」(毎日新聞)

東京五輪の弁当が大量に廃棄されていたとおもったら..


徳川幕府天皇を京都に排除する形で、政治権力をもつ。天皇は文化権力をもつ。江戸の政治権力と京都の文化権力との間のまだはっきりしない領域が「忠臣蔵」の背景にあったとおもえば、「忠臣蔵」もすこしおもしろいかな。

さて武士は復讐しなければならないのか?忠誠にために反逆しなければいけないのか?朱子学を公におけるものとして確立したというのに、復讐を朱子学にもとづくものであると言ってしまっては、わからないな…朱子学の公におけるものはどうなってしまうのだろうか?江戸時代から武士は官僚化していく。近代化がうまいくいくかは官僚が武力をもたないことにかかっていることは、ヨーロッパにおいてもアジアにおいてもおなじ。

漢字が主語をなす命題から指示されたものへいく対角線と、理気の分節化からレトリック的拡張へいく対角線の交点に、私の名がある。あなたに問うー「アジア」という名の前はなにか?


カルメンという名の女」(ゴダール)

「映画とは何々である」、「こんなものは映画じゃないと言うなら、映画とはなにか?」と絶えず映画を問う。映画が主語をなす命題から指示されたものへいく対角線と、解体モンタージュの分節化からレトリック的拡張(彫刻的身体)へいく対角線の交点に、「カルメン」の名がある。カルメンが若者に問うー「カルメン」という名の前はなんだったの?(そんな答えしかないなら、やはりあなたとは大したことができそうもないわ)


昔は、ずっと話をきいても何だか反権力的な感じがしないパターンがあったが、今は、話が明らかに反権力的なのに、権威主義的だったというパターンがない?


安倍を敗北させないかぎり、だれが首相でもおなじなんだろう。安倍政治が文化を鍵にして国を支配している。安倍政治にとって、「死んでいるのか生きているのかわからない過去」の文化を生き返らせるのは、ほかならない、国家である。江戸時代に成立した象徴天皇制を壊した王政復古からの、したがって、権力を集中させた理念なき政治の、ゼロからの出発を反復するのである。未来を思い出すこと。安倍は、解釈改憲軍国主義国家神道(公式参拝)の復活を成し遂げたあとに、国家を支えるものとしての、天皇教の皇室に依存しないナショナリズムを構想しているのではないか。その第一ステップとしての、東京五輪ナショナリズムは挫折したようだけれど。それにたいして、国家を支えるものは、「死に切った過去」(三木清)としての文化ではないかと私は考える。脱神話の、訓(よ)むことができない「死に切った過去」の文化に、すなわち他者に、国家が介入することができないからである。矛盾したことを言っているようだが、国家をなくせと言っているのではない。もはや国家中心主義に帰る必要がなくなった時代において、国家を支えるものは、他者とともに成り立つ、国家と対等な自立的個人の思想であるとおもう


外国から来た子どもも、事後的に身につけた母国語では語ることができないような「死にきった過去」をどこかにに隠しもっているのでは?それは未来を「思い出す過去」ではない


存在と時間』を読む和辻哲郎に、『ドイツ•イデオロギー』を読む三木清。三木が「死にきった過去」を言ったとき、ハイデガーの読みにおいてヨーロッパを超えた。何という時代だ!


フクロウ猫、かく語りき


ホーホー、あなたは語と指示されるものとの関係を考えているニャ?そこで、命題をつくる。固有名(フクロウネコ)に属するものは無い、と書く。だとすればだよ、存在の非在における固有名について、発想の大転換が必要。固有名(フクロウネコ)と指示されるものとの関係を考えるときは、「何々がなにに属する」という見方をものをやめて、固有名(フクロウネコ)との関係を無限に差異化していくことができるんだー「このももの、そしてこのもの..」


アジア主義の言説は日中戦争によって破綻したが、戦後竹内好は、アジア主義を全部ゼロにしてしまうと何もかも無くなってしまうような危険を考えて、「方法としてのアジア」を言うことによって、もはやアジアは実体としては存在しないが、関係として差異化できるアジアをはじめて語ったのではないか。今日その意義を考えると、理念的に、アジアは、帝国によっては囲いこむことができない、このものであり、そしてこのものである..


征韓論」ですか。90才より上のひとしかそういう見方をもっていないかなとおもっていたら、70才ぐらいで、西郷隆盛なんか軍人でしかないのに、恰も知識人として勘違いしている、地方から来たドンキホー的な右翼おじさんっているんですね。近代主義的見方に凝り固まっていて、自分に都合よく「国学」を出鱈目に理解していて、そういうひとって、明らかに反権力的なのに、権威主義的。我慢してずっと話を聞いていると、やっぱり日本会議支持者なんですね


聖人はわれわれが見えなかった物を「鬼神」と命名して「共同体」を考えることができるようにした。共同体が何かわからなくなった現在は、「共同体」で意味されていた言葉をさがすのではなく、見えなかった物をさがすべきだとタルコフスキーの映画は教えてくれたのだー亡命した詩人が痕跡を辿るように


英国も二代目の議員がいます。労働党は他の選挙区で出馬するようにアドバイスしているから、その意味で世襲ではありません。横浜は日本世襲議員の問題を明るみに出しました。選挙の自由があるから世襲議員も選挙に出ることはできるが、権利の濫用と不公平にならないように、また違法な脅迫をやめさせるために、当選を辞退しなければならないとおもいませんか


一体どうして日本はアフガニスタンに軍隊を出すのでしょうか?他に方法がない?あたりまえですか?しかし邦人移送なら民間機でできますしね。これは憲法違反の疑いがあります


「岸辺でぼくの声が彼らの言葉で語るとき、ぼくの魂は彼らの言語の影のなかで苛立っている」(ジョイス『若き芸術家の肖像』)


言語支配者は表象されている物を名指す。マイナー言語の人々はそれらの名によってはじめて考えることができるようになる。しかしジョイスは苛立っている。どうしてか?ジョイスは国の外に出てイタリア、フランス、スイスに行ってもアイルランドのことしか書かなかった。連れて行った妻をアイルランドそのものと考えていたらしい。そんなジョイスがやった「自分で決めた亡命」は、母国の外において隠れているように見えても、アイルランドの自立的母国語と独立的一国民主主義へ行くあり方を批判する場所をさがすような、寧ろ国内亡命と呼ぶべきものだったのではあるまいか。国内亡命の場所だからこそみえてくる、マイナー言語の人々の肉体に還ることのできない魂の苛立ちを恰も権利として書いた。誕生した独立国家のもとで、死に場所もなく魂が還ることができないようでは、マイナー言語の人々が定位する共同体が成立していない。『若き芸術家の肖像』は、『ユリシーズ』『フィネガンズ・ウェイク』と比べると、易しい。しかしその易しさはどうしてかくも難しいのだろうか?近代英語は表層的である。近代英語の文学は難しくない。しかし易しさというのも理念的である以上、常に難しさをもつことが避けられないのではないか

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ジョイス『フィネガンズウェイク』(1939)を読んで、はじめて、『ダブリナーズ』が分かったというひともいる。『ダブリナーズ』(1914)の「ザ•デッド(死者たち)」を、もし「鬼神」と理解したらどんなことが言えるか?「鬼神」の命名で国家を制作できたし、精神の働きで地上の天が成立したが、弔う死に場所と天と死に切った過去を失ったマイナー言語の人々は言語の影の中で肉体に還れない魂が呟く疎外の中でしか共同体を形成できない


朱子の「誠」の字ほど日本において生かされていない字はないが、こんな映画を作って映画と映画史の誠実を裏切っていないかという義憤に辛うじてある


シニカルなガースーが好む、朱子の「誠」の字ほど日本において生かされない字はないが、こんな映画を作って映画と映画史の誠実を裏切っていると語る義憤に辛うじて守られている


東京五輪の8年間、われわれは中国をどう語っててきたか考えることをやめてしまった。失われた8年間だった。しかし中国論から逃げてはいけない。もし津田が考える音声中心主義のラディカルモダニズム文革と名指すとどんなことが言えるだろうか。自らの声にすべてを負うような永久革命の純粋を文革と名づけたらどう考えはじめるだろうか。中国と呼ばれているものを見よ、ソビエトともヨーロッパとも異なるものだと溝口は教える。しかしアジアの精神を考えるわれわれは、ラディカルモダニズムは、天皇ファシズムに帰結した復古主義モダニズム批判の後に文革ファシズムをどう考えるのかをやっと考えはじめたところだ。中国を語るためのロゴス的な順番として、先ず、王政復古の明治維新150年を批判しなければいけなかった。あるいは第一江戸思想史講義を見直す必要があった。柄谷のように江戸思想史に挫折したら、われわれは柄谷のように中国と日本とを互いに切り離した中国を語るしかなくなるのか。そうではないとおもう。津田における同じひとつの思想が、日本近代に対して批判性をもち、現代中国の近代に批判性を失うこのことは、中国論をめぐる言説のあり方として思想の歴史に書かれるべきである。



朱子の「誠」字は、こんな映画を作りやがって映画史の誠(実)に申し訳ないと思わないのかというゴダール的義憤のなかにあります


多分ゴダールは自分のライバルはファスビンダータルコフスキーだけだと思っています。彼らの女優達を自分の映画に登用して勝つというわかりやすさ


明かりで意味されているものがなにかだれもしらないことだけはみんな知っています


ジャン=リュック・ナンシーは、「神聖なもの」と「至高なもの」の区別を教えてくれました


権力の集中を問題とすることは民主主義。意味の共有ができるかにかかっています。だが権力の集中を問題とする者がファショ的人物しか出てこないという日本の問題をどう考えますか


権力の集中は国家理性にとって「神聖なもの」でも救ってくれる入り口がありません。他方で共同体は入り口が沢山あります。「至高なもの」についての意味の共有があります




かつてのサブカル・キッズたちへ~時代は変わった。誤りを認め、謝罪し、おずおずとでも“正論”を語ろう(香山リカ)


サブカル」のことは興味がありませんし、90年代サブカルについて正直まったく知りません。たんに、安倍たち日本会議の極右翼から影響を受けただけではないですか。香山リカが言及している「ポストモダン文化」の理解が問題です。わたしは香山リカが語る正論に全く賛成できません。この人は行き過ぎたポストモダンから問題のある差別が生じたと分析しているように読めるからです。そうでしょうか?寧ろ、ポストモダンの近代化とも呼べるような現象から問題が起きてくるのではないでしょうか。ポストモダンとはなにか、すこし説明させていただくと、ポストモダン社会民主主義的同化主義にたいしては差異(=多元主義)を主張する戦略をとります。究極の平等は「みんなひとりひとりがマイノリティになること」ですが、しかし現在の不平等にたいしては平等(=一元主義)を主張しなければファシズム的極右翼と闘えません。このことはフーコとドウルーズは考えています。ファシズムが戦前とおなじように繰り返されることはないが、ファシズムがあるとして反ファシズムの見方から抵抗していく主体を形成する戦略も必要となります。その意味で、ポストモダン多様体的<一と多>です(もちろんその<一>はスターリンの<一>ではあり得ません。)しかし日本ポストモダンは<多>に向かってつき進むことができず、簡単に、<一>に帰ってしまうときになにが起きるのでしょうか?理念型ではありますが、日本ポストモダンの近代化という変なものを観察することになります。単純化してしまうようですが、日本ポストモダンの近代化は、差異を肯定して国家と対等な自立的個人の市民としての確立へ行く多元主義よりも、「多様性」の名において差異を否定すること、つまり同化しないような不完全と彼等が考えるものを差別する一元主義のヒエラルキーに依存していくのではないでしょうか


ワクチンはウイルスを説明する概念か?ウイルスが先で、ワクチンは後であると考えられているけれど、しかしワクチンはウイルスより先に存在していたのである。


古事記』は日本を記した歴史書でしょうか?しかし『古事記』は訓(よ)むことができないのに、そこに日本のアイデンティティが存在したときは、『古事記』は何処にも存在しません


古事記』は訓(よ)めないのに、そこに日本のアイデンティティが存在したときは、『古事記』は存在しません。火の幻影のような主体の表象が集中し、言語が灰の如く拡散しました


われわれは『古事記』が日本を記した歴史書であると教わります。日本のアイデンティティが先で、それを記した『古事記』は後です。しかし『古事記』は日本より先に存在していました


Balbeck(Proust)

Ballyba (Beckett)

Baile Beag (Brian Friel)

第3部は第2篇第2部「土地の名、土地」と対応している。ヴェネツィアフィレンツェパルマ、ノルマンディーのバルベック(架空の町で、カブールがモデルの地)など、まだ行ったことのない土地の名前についての語り手の想念に始まり、期待を膨らませる。


「バベルの災厄」は互いに対立する二つのことを伝えていたかもしれません。神と人間を媒介する普遍言語が失われた災厄。反対に、普遍言語によってすべて共同体の言語が消滅した災厄。

「バベルの災厄」の後のように、言語の消滅は共同体のアイデンティティの消滅をもたらします。失われた物の見方も生活も行動も回復不可能。議論がありますが、そうであるとしたらどんなことが言えるでしょうか、考えたいと思います。言語支配者の普遍言語の問題は、たんに翻訳の問題ではなく、言説の権力と違わない権力の問題です。作家は誕生から奪われたものに意識的ですし、再生に一生懸命取り組むのですー特に植民地化された国々においては。復古主義的近代とは「バベルの災厄」の後のようなこういう風景だろうと思うのです。『古事記』についてですが、大いなる他者の優越性を知る知識人ならば、『古事記』は訓(よ)みことが不可能な「死に切った過去」の不透明さにぶつかるはずです。しかし『古事記』は訓(よ)ことができる半透明なテクストとして、あえて『古事記』の成立とともに、言語の消滅が起きたとは考えないで、「古代人」における共同体のアイデンティティの消滅が起きなかったという言説を古学は展開していきました。これが『漢字論』(子安宣邦氏著)を読んだわたしの理解です。『江戸思想史講義』の中国語訳が面白いのは、本居宣長の「もののあはれ」を「物哀」としているのですね。言語支配者からみると、国学の古学も、漢字によって思考が可能となるような言説の運動に関わるものです。近代日本の成立は、まだ、フランス革命以降における平等の契機をもっていた19世紀ナショナリズムとともに、国学の古学からしか起きませんでした。国学は普遍からの自立を求めていた思想をもっていたと思います。問題は、再び、帝国の問題を解決しようとした近代日本は自ら、帝国化に絡みとられていくことになりました。


植民地化された国の最大の関心は自身を名づける、国を名づけること。奪回不可能な失われたものに作家は必死に取り組みます。『古事記』の神々の名は普遍言語の問題を考えさせます


世の中のあらゆる組織はウェーバー の官僚制に支えられている。官僚というのは、動かない者は自分の鎖に気がつかないように、国家に繋がれているのに、それが人権だと錯認する

大英帝国軍国主義はどんな条件でもやりぬくマッチョ主義を発明した。試験制度である。ギャンブルも軍国主義ネオリベの時代は国家のギャンブル化、東京五輪のギャンブル化である


スペイン市民戦争のとき新聞ジャーナリズムに失望したピカソは写真のリアリズムから絵画へ行く。東京五輪を協賛する新聞をみると、やっぱりそうか、あてにできないと思ってしまった


宣長が真淵と生涯で一度だけ出会った『松阪の一夜』は戦前の教科書が教えた。「教」字は鞭がある。『資本論』の読みの拘りはマルクスとの出会いの舞台化、日本ファシズムである


Balbeck(Proust)

Ballyba (Beckett)

Baile Beag (Brian Friel)


‘this is X, is it not?’ ープルーストのBalbeck、ベケットのBallyba、フリールのBaile Beagー固有名は自らを差異化する


Balbeck(Proust)、Ballyba (Beckett)、Baile Beag (Brian Friel)ー土地の名Names of placesは、’this is X, is it not?, X being the name of my town’と言われるように、自ら差異化していく


人権を「じんけん」と書くと何を指した言葉なのか全くわからなくなります。官僚はそうしていままでの人権の闘いの歴史をゼロにしたいのでしょうか。私なら「人間の権理」宣言します


ポストモダン中国は、望遠鏡からのぞくように、「儒者」、「敬」、「天命」、「物哀」、「孝」を、見ています。「学者さん」と親しげに呼ばれた「儒者」があんなに遠くにあります。「孝」は海に近くにあって広がりをもっています。「天命」はあんなに高くに?まるで、何処にもない場所の名が、表象される他のものと結びつくことをやめずに、自らを差異化していくようです。『江戸思想史講義』の中国語訳が面白いのは、本居宣長の「もののあはれ」を「物哀」としているのですね。「もののあはれ」の裏側に漢字がある?言語支配者からみると、マイナー言語の国学も、漢字によって思考が可能となるような言説の運動に関わるものです。

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<現実とかかわりがない世界>はパイプを見ることができないような世界である。<現実とかかわりがない世界>は、思考自身を考えるのであって、思考のほかに思考の対象がない。たとえば形而上学がそういうものである。「これはパイプではないという文は真である」について<現実とかかわりがない世界>は考えることができる。さてここで問題提起。<現実とかかわりがない世界>を、<現実の世界>において、実体あるものとして考えることができるだろうか。答。それは無理。もし考えるとすると、<現実とかかわりがない世界>が、<現実の世界>のただ上にあるという関係が無くなってしまっているのだから。この関係を保つことが大切なのである。<現実の世界> は、此方の側の向こうにある <現実とかかわりがない世界>とともに、成り立つ。多分ヤスパースが注目した紀元前5世紀(枢軸時代)は、このことを考えはじめた。 <現実の世界> を支えるものは、<現実とかかわりがない世界>である。古代の人々は読めなくなった天をただ仰ぎ見たのである。これは「信」の構造である。そうだとしたら、どんなことが言えるか?たとえば、存在と無のことを考える。あるいは、こんなことも考えてみる。絶対平等である公の世界は、此方の側の向こうにある絶対無限である天とともに、成り立つものではないだろうかと。あるいは、神話とリアルな世界との関係を考えることもできるかもしれない。神話を、リアルな世界において実体のあるものとして考えてはいけない。そうしてしまうとリアルな世界しか無くなってしまうから。神話とリアルな世界との距離を保つことが要請される。たとえば『古事記』における神話的思考を、「日本人はどこから来たか」とナショナルに問う現実の政治に役立ててはいけないのである。多分精神の従属が起きてくる問題である


「歴史」をたたえよう


歴史とはなにか?歴史に歴史があることを知りつつある。単数形で語られる歴史よりも、複数形で語られる歴史にわたしは関心がある。演劇の「歴史」は二千年、もっとか?演劇のことはよく知られている。文学に「歴史」があることを言い出したのはフランス人。同じように絵画にも「歴史」があると言った。歴史の感覚をもっている彼らは映画に「歴史」があると言う。だけれど百年の歴史しかなかった映画とは何であったよくわかっていない。日本思想の「歴史」は、映画の「歴史」よりもっと短いんじゃないか。そもそも日本思想に「歴史」があったことが知られているだろうか。日本思想は竹内好からアジアの思想として考えるべきである。アジアの思想の「歴史」となると、それについてはまだ語られていない。そのためには日本思想史がもっと解体される必要がある。だがどうしてなのか?日本は中国にたいするネガティブな見方もあってアジアに関心をもたないからあまりわからない。「脱アジア」論の福沢諭吉がいけない。しかし日本思想が語ってこなかった、あるいは忘れてしまった「人民people 」を語る福沢諭吉とは誰か?日本思想の福沢諭吉をみる見方とは別の見方をもたなければいけない。このことはアジアの思想の「歴史」を構成するだろう。複数形で語られる歴史を豊かにする。




マルクスバルザックからの影響か?『資本論』は用意周到な卑しさだが、古代国家祭祀建築の如き過剰な幻想をもつ。エンゲルスの介入はそれをターナーの絵のように平面上に何でもかんでも貼り付けることができる白紙の本に変えた。


マルクスの妻イェニーはなにをしたのか?


イェニーを不安にさせたのは、だれも判読できない文字ではない。彼女だけは夫マルクスの原稿を読めた。それをエンゲルスに読めるように清書したという。だがマルクスヴィクトリア朝の作家たちが妻にタイピングさせるようなことをしたのだろうか。もしイェニーは読むことができなかったとしたら?イェニーが何をしたのかとはじめて問うたのは、イギリスのフェミニズム演劇だった。アイルランドではマックギネスが問うた。わたしも、彼らの住居に近いところに住んでいたから、亡命先のロンドンに死に場所が無いと感じたかもしれなかったイェニーのことを考えてみた。もう少しでイェニーの入り口に入りそうなのに、しかしいつも遠ざかるイェニー。彼女を不安にしたものは、言語の存在だったのではないだろうか。問われるべきなのは、彼女がみたものであって、マルクスの名で考えたりエンゲルスの名で考えたりすることではない。死に切った過去を読むことはイェニーにおいて不可能なのに、エンゲルスにとってマルクスはそんな過去ではない。エンゲルスは未来を思い出そうとする。エンゲルスが理解できないのは、イェニーがあえて死に切った過去ー言語の存在ーを自己のすべてを支えるものとして考えていることである。


なるほど、昭和後期は関心が5メートルですか。そうならば平成なんか15センチでしょう。地球の半分をもっていた大英帝国時代のイギリスの中流は世界中を大旅行していましたが、イギリスがイギリスだけとなった現在は、とくにバブル以降、庭のことと子供の学校選びにしか興味がありません、(と、自分たちを揶揄しています) 。日本ですが、戦前の文藝誌をみると、良い悪いは別として、中国とインドがメチャクチャ近いのにびっくりします。中国とインドにかわって日本が考えるんだという広い射程をもっていますが、所詮は、帝国の旅行者の視点でしかないでしょうと思います


マルクスは古代帝国的だとD=Gは言うならば、その中心に国家祭祀がある。日本知識人が『資本論』に拘りを示すのは、『万葉集』以来、祀る天皇の視点から国家を俯瞰してきたから?


「(当選できる)自分探し」のそんな「自分」に意味あるか?理(ロゴス)を以って分裂せよ。私は「自分」の半分か3分の1でしかないが、理を以ってもっと分裂して他者をもとめたい


Finnegans Wake


FWについて最初に言う必要があるが、これは読むことが不可能である。この本は、無限(暗号化された巨大な数字列)を有限(事後的に獲得した一貫性と真偽と幾何学)を以って読み解くようには、読めないのである。ケージのように、自ら音楽に成って、この本とコミュニケーションをとるしかない


太陽神アマテラスはなぜ女神なのか?フリーダ・カーロの絵に描かれるように、未開社会では共同体の外敵は女性の身体の損傷において表象される。すると、ポストコロナリズム的に読むと、寧ろ、スサノオが統合する側にいたのではなかったか?記号スサノオトリックスターであり、この限りにおいて中心に活力を与えていくような周縁であるとして構造主義によって読み解かれるのだけれど


ディレッタント】仕事ではなく自分自身のために芸術を「楽しむ人」を意味。語源はイタリア語の「dilettare(楽しませる)」。ディレッタンティズムとは、そうした享受の仕方や態度を指す。


憲法について最初に言っておかなければいけないことだけれど、この憲法は国会の議論する権利を奪ってはならないと政府に言っている。みんな考えることができなくなるから


憲法について最初に言っておかなければいけないことですが、この憲法は国会の議論する権利を奪ってはならないと政府に言っていると思います。国会が議論できなくなると、みんなが考えることができなくなるからではないでしょうか。人々が考えることができなくなったら、思想の発展もないですし、大切な言論の自由も充実することが大変難しいです


東京五輪後は日本近代の終焉。当選できる/大臣なれる自分探しだけの部族的権力闘争の令和。私の立場だけの藩閥政治の明治の反復?官僚もこのままKGB化•ギャング化するのでは?

(入管がスリランカ人に関する開示した真っ黒な記録をみると、財務省が開示した真っ黒な赤木ファイルもそうだけど、官僚がKGB化•ギャング化しているのではないかとおもうよ)


「色つきリボンの巣に隠れる野鼠のように、雑然とした織物の迷路の中にずる賢く隠れる言葉」

(ジョイス『フィネガンズウェイク』宮田恭子訳) 

a word as cunningly hidden in its maze of confused drapery as a field mouse in a nest of colored ribbons ーJoyce Finnegans Wake


『フィネガンズウェイク』の河岸の洗濯女で表象される「岩」であり「木」が世界中の名づけられた河の名を読む。また、語(「岩」、「木」)を構成している最小のもの(母音とか子音、または息、等々)は表象されたなにかのものを命名している。そこで世界に合流するもの、天地のあいだを往還するものが「河」として表象される。神話「河」が合流する世界神話の海をたたえよう


昔はツイッターは本当にシンプルだった。140字を書く欄が、ねしょんべんシーツを干すみたいな感じで、ならんでいた。今みたいに、対抗言説ばかりではなかった


ポスト構造主義エクリチュール論は迷宮のオリエンタリズム的内部の奥に絡み取られないように、イスラムや中国の大いなる他者との関係を語るポストコロニアリニズムと帝国論が大事


「誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり」(「中庸」)の意味が謎だが、何か気になる言葉である。結局天に死者の魂があるという説も江戸時代にあった。田舎のお位牌をまえに先祖のことなんか一度も考えたことがなかったが、共同体から破門された理由ははっきりわかっていないスピノザがいたアムステルダムセファルディムの墓地の前にいたこのときだけ、初めて先祖の観念を考えたことを思い出す。変なの。スピノザもここに来てポルトガルの先祖のことを思ったなかったか..


社会的共通資本の概念は宇沢弘文とともにあった。コモンズの概念は知識人とともにはない。多分革命マインドの近代主義なのか、文革の電子化であるとは思わないけど


中村哲氏は国家日本の外で憲法9条を利用して活動できた最初の市民ではないだろうか


漢籍(カラブミ)をもまじへよむべし、古書どもは、皆漢字漢文を借リて記され、殊に孝德天皇天智天皇の御世のころよりしてこなたは、萬ヅの事、かの國の制によられたるが多ければ、史どもをよむにも、かの國ぶみのやうをも、大抵はしらでは、ゆきとゞきがたき事多ければ也 ー本居宣長うひ山ぶみ


100年前


阿Q正伝』は1921年12月4日から1922年2月12日にかけて新聞『晨報』の週刊付録に一章ずつ発表された。1922年はジョイスユリシーズ』出版の年である。「阿Queiは阿柱とかくのか、それとも阿貴とかくのか..」を読んで、本居宣長が「天」「神」を「あめ」「かみ」と読んで何のことかわからないと書いている文を思い出した。

高橋清一郎訳

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100年前、魯迅は「阿Queiは阿柱とかくのか、それとも阿貴とかくのか」と書いた。宣長が「天」を「あめ」と読んで何のことかわからないと書いている。近代を作る言説を考える


1922年、ジョイスユリシーズ』と魯迅阿Q正伝』の出版の年は、近代文学の勝利を決定づけた。まさにそれ故に、植民地をもたない西欧とアジアそれ自体はゼロに等しいと告げた


現在は教えるのが難しいとの理由で中学教科書から『草枕』と『故郷』が外されたようだが、漱石ーアジア•コスモロジーの漢文エクリチュールへのノスタルジーを書いたーと、魯迅ー音声中心主義の近代のゼロからの出発のあり方を風刺したーを読めば、現代世界を支えるものが単純に対抗西欧の近代に非ずと分かったのだけれど..


三島由紀夫は、日本における対抗西欧の近代の破綻は戦争で勝てば解決できる、その担い手は軍人ではなくクーデター的大衆であるという自分の反知性主義を「金閣寺」と名づけたのかな


制作の秋(とき)


亡命というと、パリにきた革命知識人や前衛芸術家のことをおもいうかべるものだが、サイードは確立した亡命の従来の見方のなかでそれとは別の見方をつくった。移民における出稼ぎ労働の人々のなかにいる’自分で決めた亡命’ self-imposed exileも存在するのである。私も理解に間違いがなければ、サイードが注目したのは、「私とともに」とともにある、亡命者の外部における特権の享受ー全体を見渡す視点をもつーである。ここで私は引退した晩年の孔子のことを考える。『論語』のなかに公との関わりを絶った隠者たちが孔子まえに現れる場面がある。孔子は公の世界と縁をきれないでいるという。孔子はたとえ引退しても徳なき国のあり方を乱世であると批判した。しかし、まだ革命を為す、制作の秋(とき)ではない。孔子は国内亡命のような場所にあって、「私とともに」、天を見あげたのである。此方の世界の向こう側にある世界を見上げたのである。そしてこの孔子における超越論的なものとの関わりをはじめて考えることができたのは、17世紀の市井の学者(儒者)、伊藤仁斎だったことは必然であった。


渋沢栄一なんか存在しなかった。渋沢をどうみるかという見方しか存在しない。みているのは、『論語』を体系的に語ることができた知識にではなく、彼が関わったくだらない経済である

一万円札<福沢諭吉>や一万円札<渋沢栄一>は歴史の紙幣化である。<渋沢栄一>を見ると天保の改革の時代に生まれた幕臣の歴史を考える。 彼は江戸時代の教育のピークに生まれた。『論語』を体系的に語ることができた。しかし<渋沢栄一>があまり立派な感じがしないと感じるひとが多いのは、<福沢諭吉>が体現する下級武士の近代にまだ生きているからかもしれない。武士はどこからやってきたのかについては議論がある。フラッシュバック。人殺しを生業としていた武士は、ずっとアイデンティティ不足だったが、17世紀の知識革命が起きる近世にはいって、学問を自分のアイデンティティにしていった。18世紀の荻生徂徠みたいな学問のチャンピオン出てきた(それまでは、僧侶の空海とか貴族出身の紫式部がチャンピオンだった。)19世紀から武士たちのなかから知識人となるものたちがいたんだなと私は知りつつある


新井白石も鬼神論があるが、経験的に思考できないものを語ることができない人間の成り立ちとともにある近世の合理主義である。これは人間が出てこない中世の合理主義ではない


構造主義を批判するためには構造主義的に書かなければならなかったとフーコはいう。レヴィストロースの構造は人間が出てこない。問題はもっとそれを推し進めなかったことにあるのか


「仁斎論語」は「人」という。「人」を人間hommeと現代語に翻訳してしまうと、人間の真理なんだね。それはオリエンタリズム知である。「仁斎論語」も、人間という概念なしですますことができるばかりか、人間を経ていくこともありえない。それらは人間の外部の諸限界を構成するものを対象とする..


精神分析文化人類学は、人間という概念なしですますことができるばかりか、人間を経ていくこともありえない。なぜなら、それらはつねに人間の外部の諸限界を構成するものを対象とするからだ。ーフーコ

Non seulement elles peuvent se passer du concept d’homme, mais elles ne passer par lui, car elles s’adressent toujours à ce qui en constitue les limites extérieures. ーFoucault


絶対平等である公の世界すなわち此方の世界の、向こう側にある絶対無限の天を、<1>と数えるか、<2>と数えるか、それが人倫的世界における問題だ


生と死をめぐって、

1か2か、どちらかでなければいけないことはない。

1+2がある。

= 等号はわたしの構成ではない


どこにも寄港しない

底に投げ出された

難破船のなかにおいても


「お前と一緒に沈められねえだろ」と、涙流したり怒ったり情に訴える日本的情緒はもう結構ですから、権力闘争を見せてください、政策を争う


「世を観る」(観世)の主語は聖人。述語「観る」は意味の転移がある。「観」は教。名を教える\与えることによって国を作る。主語を原初的古代を指さす天皇にしたのが後期水戸学か


総裁選では、犬たちは餌の肉に困らないが、犬だから自由に吠えたい


フーコ『言葉と物』を読む人でベラスケスの絵を最後まで思い浮かべながら読む者は殆どいないらしい。どうしてだろうか?フーコは第一章では物と画家の表象との関係を書いていたが、第九章(王の場所)は物一般と人間の表象について書いている。19世紀は王の場所に人間が立つが、人間の根源的有限性を通じて、人間を人間がいない時代に結びつけて起源なき起源を考えると、表象を支える体系の均衡が崩れてしまうのである。人間を精神(Geist)と結びつけるときき起きるような不均衡が起きてくる。そこでは神話とリアリズムを語る言葉は拡散している。だからこそ、20世紀からは絶対平等性の向こうにある絶対無限が要請される。そうして人間は消滅して、言語の集中が起きてくるはずである


中曽根康弘の靖國公式参拝に抗議したもデモにも出たことがないわたしの異常な世代ー社会の中心にいる


戦争犯罪人の孫である安倍晋三が支援するものは一人だけではない。中曽根康弘の靖國公式参拝に抗議したこともデモにも出たことがないわたしの異常な世代ー社会の中心にいる


総理大臣は菅以外の男性なら誰でもいいのでしょうか?中国に民主化を求める為には先ず日本が自らもっと民主化すべきだと考えることができなければ、総理大臣にふさわしくありません


天地の大徳を生と曰う。『易経

仁もまた聖人の大徳


ポストモダン『中庸』

Postmodern<the Doctrine of the Mean>


「礼」において表象されていたものがわからなくなってしまった。つまり名において表象されていた物がわからなくなってしまった。表象されていた物どうしの繋がっていたあり方(物の秩序)もまたわからなくなってしまったのである。おそらくそれぞれの物は外部の諸限界を構成していた廊下をもっていたのではないか


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伊藤仁斎荻生徂徠はそれぞれ、ポスト孔子の思想家の孟子と旬子から影響を受けているが、徂徠の言説は仁斎の言説にたいして単なる対抗ではなくて、外部の位置と機能をもっている


画家出身のゴダールはBelmondoの顔をカンバスにした。『気狂いピエロ』はレンブラントの美学が語られる『映画史』を準備している。映画と同じ大きさをもっている、ヌーヴェルバーグ映画の島と呼ぶべきポルクロル島で、後日この映画を称えていたが、撮影のときは「こんなの映画じゃない」と文句を言っていた Belmondo。『気狂いピエロ』の役を実に嫌な感じで機械的にやっていたから、最後はゴダールに爆破されることになったんじゃないか?最初は意気投合していた『勝手にしやがれ』も、ゴダールの考えが射殺のラストシーンに反映していたらしい(わかりやすい)


総裁選の報道を読むと、犬たちは餌の肉に困らないが、犬だから自由に吠えたい、もしかしたらただそれだけのこと。問題は、安倍の政治と思想闘争ではないかとおもう。安倍にとって、東京五輪の失敗すらも「反日」の妨害による。歴史修正主義の安倍と日本会議は、解釈改憲軍国主義公式参拝とともに、新しく皇族に依存しない天皇教ともいうべきナショナリズムを確立したい。思想闘争に負ければ、何が起きるか?はっきりとわからないが、安倍の政治は、国民が事実上主権を失う恐ろしい権力集中の方向であるに違いない

エイゼンシュタインは『ユリシーズ』を朗読して編集を試みた。これは、建築と人間との関係への関心から行ったことであり、構成のリズムの視覚化である。『10月革命』において観察できるような抽象的視点の場合でも、どこにカメラを置くかということがモンタージュ概念において大切だったことは間違いない。『資本論』の映画化の構想もあったようだ。『イワン雷帝』以降は、オペラとダンスの関心から、テレビのコマーシャル的なものに類似したものを編集したかったのではないかとみる意見もある。エイゼンシュタインの本の翻訳も難しいらしい。決して単純ではない


Not only are they (psychoanalysis and ethnology)able to do without the concept of man, they are also unable to pass through it, for they always address themselves to that which constitutes his outer limits. ーFoucault


The first thing to say about “Kojiki" [The Records of Ancient Matters] is, in an important sense, that it is unreadable. Writing is unable to pass through the Chinese reading of a character ex post facto. Text adresses itself to which constitutes its outer limits. 




古事記』を訓(よ)んだ和辻哲郎の「祀る神は祀られる神である」を支えるのは、解釈の成り立ちの構造である。しかし<祀る><祀られる><神>と名づけれた、表象されるものは、洞窟の外部の限界を構成する不可避の出入り口をもっている。訓(よ)むことができない『古事記』を言語の存在として考えることになるのは外部においてである。


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なぜマスコミは総裁選における極右翼の候補者の問題を分析しないのでしょうか?ただしこれについては、日本のマスコミがいう「極右翼」は、果たして、ヨーロッパが報じる「極右翼」とイコールなのかと疑問におもいます。ヨーロッパに台頭している極右翼は、ナチス戦争犯罪を裁いた後に、出てきたのですが、日本の極右翼の場合は戦争責任がなく(日中戦争を認めないとか)、ヨーロッパでは考えられないことですが、戦前と同じことをそっくりそのまま主張しているという問題をどう考えるかがわたしにとって大事です。


思想史の言説空間がとらえるアルファベット文字のあり方のことについてだけれどー大いなる他者(=言語支配者としての中国)が消される自立的言語(母国語)の体制は、「漢字借り物」論の固有言語の観念をもっているー「漢字借り物」論は、固有の日本語を考えているつもりでも実は知らずにアルファベット文字を考えているだけなんじゃないかーこれがほかならない、国家が定位している声の近代(=西欧)であるー「われわれ自身」とともにある固有言語の観念はナショナリズムとともにあるが、これはアルファベット文字の近代が作りだしたものではないかー500年の歴史しかもっていないものなのに これを無限に遡って起源なき起源に結びつけるのである。



’L'écriture alphabétique est la plus muette qui soit, puisqu'elle ne dit immédiatement aucune language. Maid étrangère à la voix, elle lu est plus fidèle, elle la représente miex.’(Deridda) 「アルファベット文字は、直接的にはいかなる言語も語らぬがゆえに、すべての文字(エクリチュール)のうちで最も無言である。しかし、声とは無関係でありながらそれは声にいっそう忠実であり、声をよりよく代理(表現)するのである。」


前と後の思想

明治なんかに精神史があるのか?いや、明治の前の時代の反時代的な権利を観る思想史は思想史に宿る精神史が何とかみえるかもしれない。この意味で、江戸思想史なくして明治に精神史がない。戦後日本は思想がなかった。否、竹内好がいた。彼は恰も権利性をもって破綻したまえの時代の思想からものを言った。近代の超克論の再構成である。ちなみにゴダールの映画史は精神史だったので、彼の映画史は過去から精神(Geist)としての呟く映画たちを呼びだした。しかし竹内は文革のとき沈黙した。彼の後に思想がない。その結果、平成に思想史も精神史もない。このままだと令和に思想も思想史も、精神史もないだろう。しかし中国が関心をもっているような学者の議論はある。その議論は竹内好から来るものである。思想と精神がなくとも、学問は存在している。文化•芸術と思想と学はそれほど一体ではなかったということか、ヘーゲルが思弁的に考えたようには。包摂されない道としての学のことは伊藤仁斎が言った。遅れて後から来るような、前の時代の権利として言われたこの‪多元主義の‬ことは現在の思想史に書き記されるべきである。


マスコミが報じる総裁選のお祭り騒ぎを楽しげに見物する国民は背後から襲われる。教科書における従軍慰安婦に関する国家の犯罪の記述をやめさせる閣議決定。スガーリンやりたい放題


間違ってもいいから自由に喋らせてくれ!発言する権利を求めて、もしこういう一望監視方式の監獄のなかでワイワイガヤガヤ、ウロウロウヨウヨするとどうなるでしょうか?みんながあなたを見ているここでは、とくに看守人は必要ないのです。もっと言えば、権利のない社会では監獄も必要ありません。見ている人は見られている人です


「衛兵」を導入する

ー東京演劇アンサンブル『タージマハルの衛兵』(三木元太演出)の感想文


「衛兵」とは何でしょうか?衛兵」を導入することー2021年は東京演劇アンサンブルが衛兵」の意味を問う年です。タージマハルの衛兵にとって、宮殿が意味するものは何でしょうか?宮殿の美を永遠なものにするために、皇帝は衛兵たちに宮殿を建造した職人たち二万人の首を切り落とさなければならないと命じた。しかし衛兵たちは混乱するーなぜ仲間たちが死ななければいけないのか?なぜわれわれが殺すのか?このことについて自由に喋らせてくれ、間違っても許してくれ、と、衛兵たちが発言する権利を求めたら、どういうことが起きるのでしょうか。しかし「オレたちは考えることをするな」、「仕事をやっただけだ」と言うとき、これは宮殿の監獄化です。衛兵が一望監視方式みたいな仕掛けのなかに生きているあり方を舞台は示します。衛兵はそのまえに立っていた四辺形の裏側に移動して内部からその枠を通じて外を見ます。このときは衛兵は皇帝の代わりに不在となっている皇帝の位置に立っているのです。もしはじめから、皇帝を支える衛兵が衛兵自身だったとしたら、どういうことが言えるでしょうか?不死である永遠なものを所有したい皇帝の位置において、衛兵は自ら欲望を最大化できる全権力をもっているかもしれません。衛兵は消費し尽くすまでこの場所を去ることが難しいでしょう。これは現代そのものではないですか。フマーユーン(小田勇輔)とバーブル(篠原祐哉)、このタージマハルの衛兵は脱出できるだろうか、と、2020年に観劇した『揺れる』における言葉たちをおもいだしながら、考えています。そもそも「衛兵」と名指されていたものは何だったのでしょうか?自由に喋らせてくれ、と、ワイワイガヤガヤ、ウロウロウヨウヨするものを支えるもの、囲まれないで、ロゴスを以って分裂していくものを支えるもの、孤立せずに自発的に単純に増えていくものを支えるもの、そしてこれらを支えるものを支える舞台それ自身。表象されているこれらすべてが「衛兵」と名指されていたものではないでしょうか。


歴史を書くこと

古学は江戸幕府が公の学問とした朱子学を解体した。17世紀の古学における豊かな注釈を利用して、12世紀の朱子がいかに紀元前5世紀の『論語』を読んだかを考えることができるか

17世紀の古学における注釈を利用して12世紀の朱子が紀元前5世紀の『論語』を読んだかを考えるときは、『朱子語類』の裏側にヘーゲルがあるような…初めから19世紀が見ている

国学における古学は、文献学に、人を人が存在しない原初的なものに結びつける。思想的には中国文明からの自立を論じた。近代国家日本は国学の側の古学からしか誕生しない。

20世紀は現代中国語と宋代の口語文の知識を以って12世紀を読むときは、絶望的に20世紀のために読む。20世紀は独自のものを永久革命的に作り出さなければ化石となってしまう


アメリカ人は誰も知らなかったブッシュのあとに出てきたオバマの話を一生懸命聞いた。安倍スガのあとに出てくる、今まで知らなかったひとの話をそれほど聞いているようにはみえない。選挙だけに関心がある。結局はそうして民の声を聞かない「独裁者」が出てきたのではないかしら?


世論調査で、「ほかにいいひとがいないから」という理由で首相が支持されるのをみると、時間をかけて知らないひとの話を聞くということが無い国ではないかとおもっちゃう。知っている同じようなひとが同じことを喋っている。結局そういう話もだれも聞かなくなっているのではないかしら。差異がないから


ヨーロッパは民主主義を成立させるのに500年を要しました。日本は近代化のスタートがはやくて150年の歴史があるので、今日における言論の自由なき民主主義の問題を何とか理解できます。中国の歴史に自由な議論が二度だけありましたー諸子百家春秋時代辛亥革命の数年間です。中国の民主化は、30年前にはじまったばかりです。このように極端に短い凝縮した期間のなかで、民主主義を全体主義だと言ったり、反対に、全体主義を民主主義だと言ったりするような根源的錯認が起きるのではないでしょうか。(ドイツも、フランス革命の150年間を、10年間に凝縮させた結果、ワイマール体制のなかから、あり得ないナチスが出てきます)。毛沢東?それは民主主義にとって最悪の固有名です。抗日のゲリラ戦の軍人としては活躍しましたが、独立後に起きた彼を神格化した文革ファシズムは2000万人を殺したアジアの災害と言わざるを得ません。資本主義を推進して格差を作り出しているのはだれであるかわかっていないのは、資本主義と格差を正すために自分達の存在理由があると宣伝している中国共産党です。アジアでは開発と戦争と同化主義はどんどんすすみますが、政治的な言論の自由はまったくすすみません。中国のせいです。中国はソビエトと異なる「独自の社会主義」だからでしょうか?しかし民主主義の感覚は何処にも存在します。8000万人の党員がいる中国共産党の一党支配のほうがより民主主義だったと発見させてくれたのは、10万人だけに支えられている独裁者習近平のおかげです。文革ファシズムの研究と天皇ファシズムの研究は十分とは言えません。これからの課題ですね。中国に民主化を求めてためには、先ず日本がもっと民主化する必要があります。


毛沢東フィーバーは、今年7月1日に創立100年を祝った中国共産党が直面する矛盾した現実をあらわにしている。国家主席習近平のもとで、党は中国人の生活のほぼすべての側面における中心になった。中国が成し遂げた経済発展を党の功績だと主張し、中国人民に対して党に感謝するよう求めている。」


安倍と日本会議は、解釈改憲国家神道の復活を前提にした、皇族に依存しない天皇ナショナリズムを考えているようなので、現在それにたいして、憲法的皇族の意味を言うことは意味があるとおもいますが、「日本語」という自立的母国語へのナショナルなこだわりを強調する必要がないとおもいます。どうしても皇族と伝統のことをいいたいならば、古代天皇は漢字とその文明を中国から導入した歴史を考えるべきです。


自民党のなかの支持率だとおもいますが、総裁選候補者である極右翼政治家への支持率が4%もあることはどう考えたらいいのでしょうか。アイルランドにいましたが、たしか2000年になるまえに国民のルペンの支持率が2.5%あったことにフランスは衝撃を受けました。その後に、毒キノコが広がるように、あっという間に20%台の支持率に。早急にマスコミは日本の極右翼を調べてほしいとおもいます


歴史修正主義は2003年ー2011年のイラク戦争を契機にエスカレートする。侵略戦争を美化する育鵬社の教科書が登場したのは2011年。「新しい歴史教科書をつくる会」の扶桑社版教科書を引き継いでの発行だった。


「1997年2月、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」発足。代表中川昭一、事務局長安倍晋三、事務局次長下村博文、幹事長代理高市早苗、委員に菅義偉。5月、日本会議および日本会議国会議員懇談会発足……。95年の村山談話を否定する政治家が結集して、歴史否定主義を主導してきた。」(Twitter 上丸洋一氏)


9/11はなにを意味していたのか?思想は9/11をどのように理解するのか。ポストモダン的に言えば、9•11は存在しなかったとあえて言わなければいけない。9•11をどうみるかの見方しか存在しないのだ。国家とテロとが理性と狂気の関係に置き換えられるときに問題となってくるのは、理性(西欧)が狂気(非西欧)の隅々まで説明し尽くすラディカルな近代である。結局、純粋な理性しかなくなる。純粋な理性は、自分自身への関係しかない点において、純粋な狂気とおなじである。差異が無いその果てに、純粋な理性ははじめから純粋な狂気である。