9/11はなにを意味していたのか?思想は9/11をどのように理解するのか。ポストモダン的に言えば、9•11は存在しなかったとあえて言わなければいけない。9•11をどうみるかの見方しか存在しないのだ。そうするとどんなことが言えるか?十分に考える力もないが、ヨーロッパにいた時代を思いだしながらここでかんがえてみようと思う。ロンドン同時爆破事件(2005年7月7日) を報じてきたBBCは報道の真実性•中立性を保つために政府が頻繁につかう「テロ」という言葉を控えると発表したときのことを覚えている。厄介なのは、当時ロンドンのようなマルチカルチュアリズムは平和の時代は最大の恩恵を受けるが、戦争のときは最大の損失を被る。ロンドンにいたわたしの観察では、ブレア政権はわれわれ自身と彼らとの分割を強調しはじめた。言語はどんどん透明になっていく。そうして国家とテロを理性と狂気の関係に置き換えて問題を理解しようとしていた。しかしやはりこれはやり過ぎである。冷静に考えると、そもそも国家はそれほど理性なのか?テロは国家にたいするテロしかないのか?国家テロというものは無いのか?またテロは狂気と等しいとされているがほんとうにそうなのか?しかし狂気とはなにか?多元主義の言説が、「われわれ自身」をめぐる二項対立の対抗言論ー理性は西欧であり、狂気は非西欧であるというようなーに収縮していってしまうそこで起きてくる問題は、純粋な理性(西欧)が純粋な狂気(非西欧)の隅々まで説明し尽くすようなラディカルな近代である。(われわれ自身というのは、自己自身のほかになにも指示しない言葉である。純粋な理性は、自分自身への関係しかない点において、純粋な狂気とおなじである。差異が無い透明な言語化の果てに、純粋な理性ははじめから純粋な狂気ではないだろうか)
エレミアをたたえよう
たしかに投票しない若者が多いが、本当に問題はそこだけだろうか?ランボーが嘆いたように、昔は男も女も預言者の言うことを聞いたが、今は政治家の言葉しかきかない。厄介なことに、ネオリベの時代は、政治家の言葉を借りて預言のように語る、10%の人間が社会を代表しているという根源的錯認である。イザヤとエレミア、プラトン、仏陀、孔子がでてきた2500年前は、人間は自己の力およぶものに拠ることの意義が言われるようになったのではないか。言語的存在である人間にとって、自己の力およぶものは言葉のほかになにがあるのか?国家祭祀も祭祀者の倫理的姿勢が説かれるようになった。現在のコンテクストで考えると、国家が自ら祀るような、そのために戦争する国家の体制から離れていったのではなかったか。戦争を対象にもたない戦争の成立?時代は絵はレンブラントのエレミア
西洋古典業書より
第1巻1-3行
Ἄνδρα μοι ἔννεπε, Μοῦσα, πολύτροπον, ὃς μάλα πολλὰ
πλάγχθη, ἐπεὶ Τροίης ἱερὸν πτολίεθρον ἔπερσε·
πολλῶν δ' ἀνθρώπων ἴδεν ἄστεα καὶ νόον ἔγνω,
Andra moi ennepe, mūsa, polutropon, hos mela polla
plankhthē, epei Troiēs hoeron ptoliethron eperse
pollōn d’ anthrōpōn iden astea kai egnō,
記者会見を国民は一生懸命見ているが、スガーリンは貴族の肖像画のような此方に無関心な冷たい眼差しだった。ポスターのスターリンは、これは怖いが、人間らしい暖かい目をしている
映画と現実とが溶け合っている、それが例外ではなくて当たり前になってしまったような光景。映画の主流はコンピュータグラフィックスで、顔をやめて仮面ばかりになっていたしね
1980年代の「江戸万歳」は終わりました。これから、江戸をどう語ろうとするのでしょうか?
津田左右吉は、『日本の皇室』のなかで、多分象徴天皇制を評価したうえで、江戸時代(近世)に政教分離が成り立っていたとみています。本当にそうならば、戦後(現代)は近世が支えているというかんじです。明治(近代)は、うまく天皇を東京に連れてきて、明治維新を王政復古にしていくのですが、ほんとうにそれでうまくいったかどうか、これは現在のわたしの関心です。武家政権の批判とされる言説は危険だったので、ヨーロッパのような政治思想は無かったのですが、あえていいますと、江戸時代は西洋列強の時代の鎖国をふくめて、「完璧」だと考えてみようと思っています。鎖国を言うならば、鎖国が無いと思われている現在、東京五輪ファーストで海外留学生を受けいれないやり方こそが鎖国そのものではないでしょうか。江戸時代に許されない差別はありました。しかしその規模は帝国主義の明治が作っていく差別の比ではありません。しかしこういう文章を書くことができるのは明治(近代)のおかげと言わざるを得ません。ちなみに、中国は「近世」「近代」「現代」を、「現代」というのですね。近代批判を現代批判と表記しています。これに関しては、やはり「近世」と「近代」と「現代」を分節化してほうがいいのではないかと思っています。そうすることで、色々多様なものがみえてくるからです。明治10年代は、言論を自由に展開できた、面白い思想家がいますー岡倉天心や清沢満之、「人民people 」の思想をもつヘーゲル左派みたいな福沢諭吉も。「近世」と「近代」のあいだというか、この間こそは「現代」を支えるものとおもいます。「現代」を支えるものは、現代そのものに属するものではなく、また「近世」あるいは「近代」に属するものでもありません。「現代」と呼ばれるものは、「近世」あるいは「近代」と呼ばれるものと差異的に関わるだけです。Wx別の見方「江戸」+ Xx別の見方「明治」+ Yx別の見方「昭和以降」、という感じで。「近世」「近代」「現代」は直線上にある、点、点、点ではなくて、フラクタル的に概念を展開するものだとおもうのですね。全体(「近世」「近代」「現代」)が部分に宿るのです。その部分は、江戸時代の「近世」、明治時代の「近代」、あるいは1970年以降の「現代」です。
「自己とは他なし絶対無限の妙用に乗托して、任運に法爾に、この現前の境遇に落在せるもの、即ち是なり。」清沢満之
西洋古典業書の京都の知と繋がるFacebookのおかげで注釈を読みながら何とか数行を読んだだけだが、新宿の本屋で買ってしまった。思い返すと、ヨーロッパはヨーロッパであるためには、自らを神話的なものとリアルなものを以って語ることが大切である、と、ヨーロッパの彼らからよくこの話をきいた。正直彼らの真意を理解できているとはいえない。よく知らないが、おなじ感じで、日本文化を支えるものとしてある『古事記』を読めばいいということになっているみたいだ。これは何だろうか?仮にそうだとしても、沖縄問題を考えるときに『古事記』が読まれるのかがわかならないのである。現代の問題を考えるために、言語支配者の圧倒的優位のもとで言語マイノリティであった原初的古代を読んだりするのは、日本知識人が日本知識人であるためにやっていることなのではないか。『古事記』から考えると、「沖縄を日本に返せ」という発想しかなくなるようにおもう。「我は『古事記』を読む、ゆえに、我は母国語•日本語とともに<一国>民主主義の日本人として存在する」。しかし『古事記』は訓(よ)めないことを考えると、これはなにか根源的錯誤があると思えて仕方ない。復古主義の近代が思考を規定しているのは明らかだが、21世紀は復古主義のなかでそれとは別の考え方ができないのだろうかとおもう。「日本人は皇室と日本語」などといつまで言っているのだろうか?
グラフを見ると、9・11から、100年前のレベルに戻ってしまったことが明らか。世界はもう西欧のイスラムの戦争をやめて、共に成長可能なグローバリズムをグローバル•デモクラシーに基づかせる必要がある。このことをいうために、ピケティーが唯物史観に基づかないなどと言っている場合じゃない
今朝の一面も総裁選に占拠されている。これは新聞か?自民党集票マシーン化である
ホメロスには、プラトンにある「インスピレーションによる詩作」の考えはないという。ホメロスの「現場にいることの多さが知の多さ」の原則に基づくのはジョイスにおいてもそうだ
ダメな新聞と言われるけれど、学者の議論は新聞にあるのだしね。フェイクブックは<すべての言説がここに>という「本」になるような驚くべき可能性をもっているのに、まだ議論がない
現在の世界の貧富の格差は20年かけて1890年の水準に戻った。9/11以降戦争が起きる。日本は二度「戦後」があったが、戦前の文学は格差拡大と共に戦争体制の日常を語った
12年間を振り返ると、わたしは心に響く投稿文がひとつもない。死ぬまえに、安倍をやっつけるような決定的な一文を放ってやりたい
今朝は新聞は競馬予測みたいになっていないが、明日はどうか?われわれの自由は服従に甘んじやすく、言説は無駄に繰り返される(「世界は注目しています」)
今朝は新聞一面は競馬予測みたいになっていなくて良かったが、明日はどうか?われわれの自由は服従に甘んじやすく、言説は無駄に繰り返される(「世界は注目しています」)
眼は手を見る欲望の主体である。線を描く手は、表象という、軽く遠く外の冷たい形でしか欲望を知らない。手は眼が支えるが、手は手自身が支えるときに表層的表象が白紙を覆う
外国で新聞を読めるようになるにはどうしても二年間かかるか。毎日一面の大見出で国の全体の意味がわかる。ここ日本は読む為の苦労は無いが、一面は国の全体の3割しか伝えない
ヨーロッパで新聞を読めるようになるが、日本新聞を読まなくなる。読めば読めるが、東京に戻って気がつくが、日本人の読者の読み方がわからなくなっていた。アジアがみえない
漢字という不可避の他者のもとに、『古事記』が成立する。訓読みにおける、表象という、軽く遠く外にある読みを支えるのは漢字である。訓(よ)むことが不可能であるにもかかわらず、訓(よ)んでいるのは、他者を消した、透明な、表象を表象する迷路。しかし他者は迷路によっては覆い尽くすことができないだろう
昔のように、いまは自民党の外に出るひともいないんですよね。総裁選がプロレスみたいだと興奮しているひともいますが、小選挙区時代の総裁選はひとりの人が書いたシナリオに沿ってセリフを分配してもらってたたかっているような感じです(ひとりは誰ということではなくて、理念的なものですが)。シナリオが二つ必要なのですがね、シナリオAとシナリオBと。
マスコミは、自民党だけが十分に統御されたシナリオをもっているが、野党はシナリオがないような印象を作りだしていないでしょうかとおもいます。これはManufacturing Consentです
推敲
鬼神論をめぐる言説「鬼神に事えることを問う」で表象されるものは、論理的順序を以って一体である見えるものと見えないものを考える可能性である。この思考可能性を昼と夜と名づける。そうして昼の本と夜の本が成り立つ。しかし問題となってくるのは、昼の本に侵入する夜ー頁を捲ると羽ばたく闇ーである。理が覆い尽くすことができない
天照大御神が隠れた岩戸、鍵のかかった誰も入って来れないこの部屋の中にずっといたの?思金神が対策を考えていたときは脱出していたかも。祀る神の中に祀られる神はいない。nー1
津田左右吉は「日本精神東洋文化抹殺論に帰着する悪魔的虚無主義の無比凶悪思想家」として不敬罪にあたるとして攻撃された。実在しない神の名誉と尊厳ってなに?構成要件なんか無い
ἀρνύμενος ἥν τε ψυχὴν καὶ νόστον ἑταίρων.
arnumenos hēn te psūkhēn kai noston hetairōn.
松平訳「己が命を守り、僚友たちの帰国を念じつつ」
第1巻5行より
seeking to win his own life and the return of his comrades
ホメロス『オデュッセイア』講読の注釈を読むと、ψυχή(プシューケー)(魂、命)。後の時代のプラトンのように、「魂」が独立した存在と考えられることはないという
「惟れ郢の路の遼遠なる、魂は一夕にして九逝す」『楚辞』
ダブリンとロンドンでは英語を喋っていたように(あまり喋れない)、東京で日本語を喋るが、毎朝起きた自分がライオンか日本人かもしれないので人間である為にはどうすべきか考える
嗚呼、英国が砂漠で行った核実験に反発したオーストラリアの自然を重んじる国のアイデンティティはどうなってしまうのか。自然もアジアの民主化も中国のためにうまくいかない
この失敗した選挙制度は、忘れたかもしれないが、英国二大政党制がモデルだとさんざんきかされた。その英国に毎日一面で、与党の保守党党首選挙の宣伝を垂れ流す新聞があるのか?
マスコミは総裁選の有力候補者が脱原発だったと繰り返すけれど、いつまでに全原発を廃止するかの期限(10年とか20年とか)を一言も言わないような脱原発は意味を為すのだろうか
ホメロス『オデュッセイア』は魂を独立したものとして考えていなかった。「命」と訳される。ジョイス『ユリシーズ』では魂の転生が議論される。キューブリックの映画『2001年宇宙の旅(2001: A Space Odyssey』は魂は無限の彼方に行く(宇宙船の中がバロック様式の部屋のようになっている)。「魂」のプラトン的インスピレーションだけれど、場所の情報を求めて探検しに行くのである。平田篤胤も魂の行方が問題となるが、魂はそれほど遠くにはいかず、先祖的距離というか、生者の近くに留まる。魂と身体をめぐる分節化の成功は、文学的修飾においてどれだけ豊かに考えることができるかによる
「天地無用」の漢字と、矢印が描かれた段ボール箱を前に、外国人配送人は困惑して立ち尽くすだろう。私も、宣長がやったように、『古事記』の冒頭にある最初の文にある「天地初発」の「天地」を「アメツチ」と訓(よ)むと、指示されている、表象されるものがわからない。「ものを見せてくれ!」。「天地」という名が与えてられているけれど、この名のまわり(境界)で、軽く遠く外の冷たい表象作用のなかで呆然としてしまう。これは解釈の問題ではない。わたしはこれを言説の箱と呼ぶのである。
家族の価値を強調するならば、どうして夫婦別姓と同性婚をみとめようとしないのか?
ジャック•タチの映画に、「天地無用」の漢字と、矢印が描かれた段ボール箱を前に、外国人配送人は困惑して立ち尽くす姿がある。とにかく箱は矢印の方向に向かって吊り上げられた。映画は終わった後、一緒に観ていたフランス人の友人があの方向でよかったのかという。ところであの字はなんて書いてあるの?ときかかれた。このとき、わたしは、別の「天地」のことを考えていた。前書きが長くなったが、私も、宣長がやったように、『古事記』の冒頭にある最初の文にある「天地初発」の「天地」を「アメツチ」と訓(よ)むとしたら、指示されている、表象されるものがわからない。ものを見せてくれ!「天地」という名が与えてられているけれど、わたしは、この名のまわり(境界)にいる。命題(漢字を主語とする)から指示へ行く線と、分節化から転移へ行く線とが交差するところに立ってはいない。ズレてしまっている、軽く遠く外の冷たい表象作用のなかで呆然としてしまう。表象の細くて軽い線が横断するだけの世界は、媒介なく、神々の果てしなき欲望が透明に現れてくる。あっという間に過ぎ去るような美である。問題となっているのは、解釈ではない。表象をめぐる言説なのである。アドルノが美と呼んだ理の弁証法的否定の多元主義が成り立つかどうか?わたしは本居宣長を言説の箱と呼ぼう
「言語を破壊するな 信じる価値語れ」(國分功一郎)。O.K、そうだけど、それは自分自身への抗議の言葉。わたしならばもっと愚鈍に安倍に向けて、「平気で嘘つくな」と言いたい
アルジェリアで拷問を受けて仏に亡命してロンドンに暮らしているひとから、ファーストフードのカフェで、どうしてアメリカはアラブにやって来て問題を起こすのかと聞かれた
「漢字借り物」論は意味の近代主義が先行する。訓(よ)めない原初的テクストを訓(よ)んでは、遡ることをやめない深い固有のものを照らす。届かない表象の線は細くて殆どみえない
民主台湾をめぐって中国と米国の衝突で起き得る第三次世界大戦を避ける為に、今日本は憲法を利用して何ができるのか?国会を開かず、投票権なき総裁選をメディアが煽っていたのでは
Ἰθάκη
ジョイス『ユリシーズ』では、教理問答のナレーションで構成される挿話イタケの終わりは<書かれた言葉の眠り>である。このあと、挿話ペーネロペーにおけるモリー・ブルームの声の独白が始まる。
デリダのディコンストラクションの多元主権が恰も、普遍主義の様相を帯びてくるなかで、これにたいする言説的批判が、ポストコロニアリズムとともに、展開されてくることになったが、アイルランドの挿話イタケの解釈は重要となってきた。
アベノミクスは安倍の思想と切り離して経済政策の翻訳としてとらえたら安倍の敗北はあるのか?安倍が拠る歴史ー王政復古クーデターーは正しい始まりをもたない。先ずこれを知ること
ジョイス『ユリシーズ』では、キュクロープスはナショナリスト。ユダヤ人嫌いで、ブルームと対峙する。彼を撃退してしまう(パブが洞窟である。) ジョイスの見方では、土地に執着する点において植民地主義者と反植民地主義ナショナリストは同じ。野蛮なマッチョだけれど、ケースメントレポート(1904)で読んだ、ベルギー植民地主義者に鞭で撃たれるコンゴ現地の人々への同情は嘘ではないだろう
And J. J. and the citizen arguing about law and history with Bloom sticking in an odd word....
-Persecution, says he, all the history of the world is full of it. Perpetuating national hatred among nations.
-But do you know what a nation means? says John Wyse.
-Yes, says Bloom.
-What is it? says John Wyse.
-A nation? says Bloom. A nation is the same people living in the same place.
So of course everyone had the laugh at Bloom and says he, trying to muck out of it:
-Or also living in different places.
-That covers my case, says Joe.
-What is your nation if I may ask? says the citizen.
-Ireland, says Bloom. I was born here. Ireland.
The citizen said nothing only cleared the spit out of his gullet and, gob,he spat a Red bank oyster out of him right in the corner.
Joyce、Ulysses
「夜景」と名づけられたレンブラントの集団肖像画。中産階級が中心にいる新国家と市民社会が描かれているが、女性において表象は遠く外にあって冷たいものだろう。表象の線は槍のように細くて、殆ど何も表象されない絵である。暗闇のなかでその一点だけが明るい神秘の中心に位置していているが、どうだろうね?同化主義の近代にたいして、No、No、Noと言っているのではないか。レンブラントはこのギャップを表現した。(と、わたしはゴダール「パッション」における見方からどうしても絵を見てしまう)
「次の首相を決める総裁選」という言説。自民党提灯もちがやる解説が溢れるけれど、分析される(?)各候補者の「頭の中」は、野党リーダー達との議論なくして、何がわかるのか?
2017年に安倍晋三内閣が、野党の臨時国会召集要求に3カ月以上応じなかったのは憲法53条に違反する。政府が説明責任を果たさないのは国会の審議する権利を侵害しているよ
政府が説明責任を果たさないのは国会の審議する権利を侵害する。この時代は野党の臨時国会召集要求が憲法の中核を為す。2017年安倍がこの臨時国会召集要求を異常に長い期間無視したことは、2016年にG7伊勢サミットー宗教の権利の侵害と解釈改憲の国家神道の事実上の復活ーがあったことと無関係ではないと私は思う
丸山真男の市民社会論は戦前の講座派の包摂であるが、中国論、特に中国における所有の形式をめぐる言説の形成が影響をもったのか。どういうことか?これから勉強する
60年代の前衛的近代の解体運動が先行した、デリダのディコンストラクション(脱構築•脱近代)の多元主権が普遍主義の様相を帯びてくるなかで、それにたいする言説的批判が起きてきた。溝口と柄谷におけるアジアはどう語られたかの語り方に再び新しく普遍の一元主義が再構成された。しかしその高すぎる理念と、民主化の経験をもった人々のあいだを媒介するスクリーンが不在であると言わざるを得ない。表象の線は細くてあまりに遠い。ヨーロッパからもどってきたアジアと呼ばれる言説的配置において、わたしは根源的錯認を疑う、故にわたしは存在する
政策というよりは紋切り型の言葉たち。何処からとなく絶えず流れてくる陰謀の噂。政治の風景が嘗てないほどせまくなってきた。ローマ以来独裁者は選挙からしか生まれてこない
現在進行中の「第二江戸思想史講義」(子安先生)は朱子を保つ。帝国中国が拠る近代主義的誤謬解釈から自由な『朱子語類』は本となる、また江戸思想史において本は自ら脱領土化する
台湾人のために台湾を考える政治家あるいは中国人のために中国を考える政治家が必要であって、日本のために台湾または中国を手段とする政治家なんて要らないよ
カラヴァッジオの飛ばない天使もよく知られているが、ラウェンナの天使は表象されるものの不在を指示している。クレーの天使は表象の線化である
向日葵運動や雨傘運動のリーダー達が成熟していくような成熟は河野にない。岸田の出身大学は民主主義を教えない官僚養成機関。ファショ的橋下や高市に委ねると記憶を形成できない
川端康成の「国境の長いトンネルを抜けると雪国(日本)だった」の言説的でない言説(文学)について、トンネルを抜けると出口がない、だから考えよと教えてくれたのはイェイツの詩
このポスター’モーツァルト『魔笛』’は、モーツァルトのシャガール化である
映画の課題とはプラトンの洞窟にセザンヌの光を導きいれることだった。映画の可能性が尽きたときに、ベーコンにおけるピカソをめぐる解釈の言説化の投射がはじまった
『源氏物語』の背景として、書き手の女性達の間で書くものを支えるのが書かれるものだった。男性に依存する苦しさの中で、歴史と神話のオイディプス的理を否定した物語に美が現れる
宣長の批評でポストモダン的だとわかる『源氏物語』。近代文学の主体の成熟のない駄目なポストモダンが読んでもなあといわれる。だがポストモダンが成り立ってしまう。仕方ないのだ
朱子の祖霊的鬼神論へと方向づける宗教改革。朱子鬼神論は官僚的知識人をもつ。制作論的有鬼論の徂徠は聖人に、民情論的有鬼論の篤胤は民衆に、同一化している。「宣長の有鬼論と篤胤の有鬼論との間には鬼神をどう見るかの違いよりはその人の思想という位相における違いがある」(子安先生)。徂徠の最高の弟子であった宣長の「安心なき安心論」と篤胤の「救済論的鬼神論」との位相の違いをかんがえることができる。
徂徠の最高の弟子であった宣長の「安心なき安心論」と篤胤の「救済論的鬼神論」との位相の違いを考えることができる。とくに、困惑させてくる「安心なき安心論」において、存在それ自体を問うような、精神世界における新しい思想表現にかかわる、宣長を宣長とする思想がある。
五年前に小林秀雄『本居宣長』に書かれた宣長の墓を訪ねた。松坂へ行った思想史遠足。宣長は「神道に救いなし」と考えた。傍らで、平田篤胤は「魂の行方の安心(あんじん)」を言う
朱子の無鬼論とも理解される宗教改革と、制作論的有鬼論の聖人と民情的有鬼論の信との間に、子安先生との思想史遠足が成り立っていたのであった。これから新しく何を考える?
「宣長の有鬼論と篤胤の有鬼論との間には鬼神をどう見るかの違いよりはその人の思想という位相における違いがある」(子安先生)。
没落はここで止まるだろうと誰も言えない。没落しても、ヨーロッパの国なら文化がある。イタリアをみよ。しかしこの国は?嗚呼、没落するとしか言えない。没落は小泉から始まった
古代からの近代の読み出し(X)は、遠く外にあるような表象でしかない。妨害者(Y)があるから表象はよそよそしいままだ。そこでXのYへの執拗な非難が言説の歴史に起きるのか
全人類が反日になった日を想像してみました。ネトウヨによる反日認定は思考の対象がない世界。「私」も成り立たない世界。何か、カタカナだけの世界に生きているような..カタカナだけでも科学はどんどん進むでしょう。しかしカタカナだけの世界では精神世界の思想表現がないのではないかと思います。英語で詩をほんとうに書けるかという問題があります。もし「私」であるという一本の直線さえあれば、思考の対象にすれば、全部との関係がかわると思いますが、難しいようでしたら、ネトウヨが寄るカタカナのほかに依拠できる言語が必要でしょう。(すでに、カタカナだけでは考えてはいません)
裏なくして精神世界の思考を表現できるか?
コインは表と裏がある。コインを考えるときは表だけ見ればいいのではなくて、常にその裏も考える必要がある。裏を考えてこそ、思考の投射がある。アジアの言語も表と裏がある。表は声、裏は書記言語。だけれど表(声)しかなくなっていて裏(エクリチュール)がないようなあり方を思考の論理的前提として考えることができるか。表だけで精神世界の思考を表現できるか?音声中心主義のラディカル•モダニズムの言説は自らの裏側をもっていない。裏は只表の対抗的否定であって、精神世界への思考の投射が考えられていない
鑑賞者をその視線の場においた瞬間に、画家の眼は鑑賞者をとらえてむりに絵のなかに連れこみ、特権的であると同時に強制的な場所を指示したうえで、輝く可視的な形相を彼から先どりし、それを裏がえしにされた画布の近づきえぬ表面に投射するのである(LES MOTS ET LES CHOSES Foucault 渡辺訳)
フーコが「裏」と呼ぶものに見えているものは「表」から見えている。裏側に隠れているものは無い。たとえば「古事記』の「裏」に見えるものは全部「表」から見えている。漢字である
木村草太よ、手詰まりを打開したいことは分かるが、民主主義を教えない官僚養成機関の東大法学部出身裁判官の為に筋のいい思考法ばかりでばく、筋の悪い市民の憲法も少し考えてくれ
大国主は天照大御神に国譲りを要請され、対話と武力を交えた交渉の末に幽事の主宰者となった。『古事記』の知的な語りは勝者を正統化する歴史ロゴスとは違う。稗田阿礼は男性なのか
平田篤胤は幽事をかかりごとと読む。大国主に目に見えない世界を支配させる。鬼神は目に見えない。民衆が鬼神というものを信じるから、これを根拠に共同体が形成されるという
朱子の宗教改革の影響がなければ、徂徠の有鬼論的方向はなく、宣長の国学的有鬼論と篤胤の民情論的有鬼論もなかった。国学と幽顕論からそれぞれ、国家神道と統治権論を切り離せない
謂わば無鬼論と理解された朱子の宗教改革の影響がなければ、「弁名論」の徂徠、国学の宣長と政治神学の篤胤から影響を受けた後期水戸学は現れてこなかった点を考えると、朱子の影響の大きさは、有鬼論を展開した「神の国」日本を発明したのは他者•中国であると言わざるを得ないほど大きい
みんな投票権もなかったのに随分熱心だったみたいだけど、自民党の総裁選の結果に、あなたはしあわせなの?
自民党総裁は未来の首相らしい。わたしは投票所に行くのは自分がいかに無力であるかを知るために投票するのであるが、今回は投票すらできなかったよ
先づ自然の言語は鄕土の方言ありて、五方各同じからず、又時世に隨ひても移りかはるもの也。然るに字音は、他國の音をうつせる者にして、もと此方の自然の者に非るが故に、方音の差たがひあることなく天下同一に天はテン地はチにして、異音なし。(本居宣長 漢字三音考)
戦前の思想をそのままの形で語る極右翼の安倍が、未来の首相、右翼保守党の総裁を助けた。小泉以降底無しに没落する日本を支えるものが何か誰もみえない。熱狂したあなた、見える?
「反日」と叫ぶ政治は益々暗くなってきた。政治のアンチ•ロゴスのお陰で、洞窟のなかにあったアートはロゴスをもつようになる。つまりアートはラディカルに見えなくなってくる
「現代の政治の世界では、なぜ理性的な思考よりも、神話的で非科学的な考え方が支持されるのか?」
古代は神話に依拠したが精神が暗くなってきた。精神は哲学と呼ばれるものにロゴスの光をみる。ラディカルに暗い暗闇が輝く17世紀に、言語的存在としての人間が存在の意味を考える
「神道の救いなし」の本居宣長と「魂の行方の安心(あんじん)」の平田篤胤の間には言語論的な位相の違いがある。前者は規範的言語、後者は言遂行的な言葉である(孔子的である?)
戦前の思想からきた安倍が新首相をコントロールするようでは、小泉以降底無しに没落する日本を支えるものがみえないが、漢字文化、憲法の国家祭祀禁止、反原発(反核)体制だとおもう
イギリスの政治家は醜く描かれる自分の姿(新聞風刺画)を毎日恐れているそうです。これは新聞が読者に距離をとってもらうためにやってきたことです。日本新聞はもうお見合い写真みたいな政治家の写真(他にいい人がいないと思わせる)をやめて、彼らのおぞましい醜い顔の絵を示すべき、議会民主主義の為に
表意性を持つ漢字では読む力が大切。しかし『論語』現代訳は新しいほど漢字を使わない。それを集団で大きな声で読み上げるのは、音声中心主義の近代の方向だー声のナショナリズム
漢字文化圏ではどちらが偉いかはどちらが本をより読めるのかできまる。わたしが本居宣長よりも『古事記』をよく読めたらわたしのほうが偉いのである。実際は宣長が偉いのはわたしより『古事記』を読めるからである。さて古代は輸入した漢籍を読めた天皇が彼の権威をつくったとしたら、近代の男尊女卑とは違って、『源氏物語』を書き、また『古事記』の成立を担った可能性のある宮廷女性は力をもっていたのではないだろうか。稗田阿礼は女性であったという説がずっと言われてきた
イタリアに行けたら建築と人間の関係を考えたい。平等における水平性が言われるが、平等に垂直性はないのか?石田梅岩が垂直的平等を考えるために「天下」の概念をかんがえたように
「道なるものは天下の公共,人心の同じく然るところ」仁斎
五年前子安先生のもとで読んだ津田左右吉『文学に現われたる我が国民思想の研究』は『古事記』を指示するとき、『古事記』に現はれたる我が国民思想とは何かを問う。さてフーコ的にとらえると、「民族」において表象と欲望は、<民族>主人公を欲望の対象として表象する他者の現前に結びつけられる。しかしこれにたいして、本居宣長が中国文明からの自立を考えてやったように、文学に「国民思想」を投射することによって、ここから、津田は皇国史観を批判することができた。しかし最近子安先生が問題にしている「近代主義的誤謬」について私なりに理解すると、「国民思想」の表象という、遠く外にある立脚点は根がなくあまりに表層的だから、民族日本の深層を呼び出してしまうという、理念の実体化の危険に関する理論的な問題がある。これをどう考えるか
昔、目の前で、<新聞>の腕章をした男が警察車の屋根から脱原発の集会の様子を撮影したのを目撃した。われわれは集まってきた傍観者のように映っているのだろう。そして新聞の読み手はその写真を見て自分たちとおなじような傍観者の姿を見るかもしれない。われわれは自分自身の映像をもつ前にわれわれは奪われたのである。義憤のなかでわれわれは国会の中にいる首相がわれわれのまえに出てきて説明することをもとめているというのに。そして、首相はわれわれのまえに出てこないこと、怒る市民の姿が隠蔽されることはいまもおなじである
何だ、あのブレクジット論は?権利のない社会に対する抗議がポストモダンと結びついたことも理解できないような、オカルト教会的口調の予定調和論がハンナアーレントを解説してるの
書くことは、ネットの写真の整理のように、並べることである。世界とは、吠えているもの、漢字とギリシャ文字、硬張らしたまま弛めるもの、動くもの、顔の輪郭、物で書かれたもの
書くことはネットの写真の整理のように並べること。世界とは、さえずるもの、何を言っても通じないもの、筏で亡命する「徳」字、弛んだまま硬張らしたもの、お尻の輪郭、投射
書くことはネットの写真の整理のように並べること。世界とは、つぶやくもの、終わらないもの、逃れるS字、nymphē、氷河の下にある惻隠の心、正しいはじまりをもたないもの
歴史を学ぶとは、何の前に何が来たか考えることではないだろうか。これを十分に考える時間があったはずである。日中戦争と太平洋戦争の前に王政復古クーデターが来た。必然として、正しい始まりをもたない近代日本は正しいものがない。安倍政権が来た。われわれは反復の悪夢に囚われている
歴史を学ぶとは、何の前に何が来たか考えることではないだろうか。これを十分に考える時間があったはずである。日中戦争と太平洋戦争の前に王政復古クーデターが来た。必然として、正しい始まりをもたない近代日本は正しいものがない。歴史修正主義の安倍政権が来た。われわれは反復の悪夢に囚われている
安倍内閣のときは国会の臨時召集があることはあった、憲法が無視されたわけではなく、ただ遅れたのは偶然で、陰謀ではないといわれるかもしれない。しかしそうだろうか。吉本隆明によると、すべてが党派的なことなのである。党派が無いと考えることも党派的なのである。問題は、なぜ安倍は国会を軽視するかである。わたしはこれは原理主義的な宗教における問題とかかわると考えている。近代の平田神道の曲解された理解とその影響下に、靖國は、古代天皇から三種の神器を預かる伊勢神宮と共に、宗教の自由や言論の自由を保障した憲法と国会より上にある統治権をもっているとする思想を隠しもっているのかもしれない。だれかそれを隠しているということではなく、理念的なものである。しかし理念的なものでも、こう言わなければわからないから書くのである。いまは、間違えても自由に喋らせてくれと苛立っているのは、街頭の抗議する女性たちだけではない。国会も議論できないと苛立ちを示しているではないか。国民主権の危機である。伊勢サミットから、安倍と日本会議は、解釈改憲の軍国主義復活と公式参拝的国家神道の復活を前提に、憲法的皇室に依存しない天皇教ナショナリズムー日本人の「反日」でないアイデンティティ形成ーを押しすすめて来ているのではないか。世論は、「東京五輪を反対しているのは反日である」という安倍の発言で五輪開催を支持する方向に変わったのである。恰も救済されたかのように支持し始めた?何であれ、戦前の思想からきた歴史修正主義者•安倍が新首相をコントロールするようでは、小泉以降底無しに没落する日本を支えるものがみえない。歴史を学ぶわれわれにとって現代を支えるものは、精神世界の思想的表現を可能にしてくれた、アジアの隣どうしを成り立たせた漢字文化、憲法の国家祭祀禁止、反原発(反核)体制だとわたしは思う
日本にしかない、内閣支持率という、そこそこの自由があるという曖昧なイメージ
ダメな政治家になっちゃったらいけないとばかり自分の問題としてストイックに自己否定している反省になっちゃうのが日本のあり方かもしれません。そこそこ自由がある国という常に曖昧なイメージはあることはあるが、自民党を否定する明確なイメージをもっていないような..。しかしそこそこの自由といっても、これについて苛立っているのは街頭で抗議する女性だけではありません。国会も議論する自由がなくなっているのがこの国の現実です。これに関して香港の学生のことを少し考えてみたのですが、あちらからはそれほど思想が伝わってきませんが、自分たちの力でここまできたのに、何も頼らなかった彼らのもとで自由を制限されたらたまったものではないという明確なイメージをもっていますね。これが成熟して思想になっていくのかもしれません。
日本にしかないという意味でファショ的なもの、「資本論』を読むことのこだわりを示すことと、内閣支持率という、そこそこの自由があるという曖昧なイメージ
徂徠とって大きな歴史は思想の歴史。自ら投射する思想の歴史は比類なき大きさをもつから。篤胤が宣長にみた矛盾した救い無き世界には無理だが、精神(鬼神)が思想史を支えれるか?
『映画史』のゴダールは、鬼神ラングロワの光(初めに言葉ありき)と共に、貧しいものに映画の名を与えた。初めて映画史の思考が可能となった。そしてフランスが成立したと言う
都市の大衆の一部はファシズムが吸収し、その他はスターリニズムが階級としてこれを組織化した。ソビエト映画はハリウッドと競い合う。ナチスはハリウッドに勝てなければ体制が危ういと考えた。現代国家は成立したのは20世紀すなわち映画の世紀においてであった。ゴダール『映画史』は20世紀の終わりに<制作論的映画論>を展開できた
そもそも科学者に国境なんてあるのかしら?開かれた国と閉じた国というような、米国とは全く逆さまの日本のイメージの全体を語りたがるのは、オリエンタリズムのヴァリエーション
イデオローグが歴史の歴史があると語るときは、時間の歴史を語る科学者の話のようには受け入れられない。別の歴史が存在したはO.K だが現在における別の民主主義を主張できるか
街に出ると、感心するのだけれど、女性は弁がたつひとが本当にいっぱいる。日本の女性は生かされていない。何だ、あの内閣は?
「日本に戻ってきた」と地理的な意味で言うが、「日本に帰った」と言いたくない。またそう言うことは間違っている。
震度5は普通に大きい地震ですが、何故それを怖いと感じたのか、東日本大震災の前の安全神話、東京五輪を復興神話としようとしていた安倍政権のこと、昨夜はかんがえました..
「希望」の字を見ると、会話に出てくる’hopeless’の語を思う。アイルランドは帝国主義を推進して破綻した経験と罪悪感がないので国に希望をもつ若者が多い(失望もする)
『野火』をホラーのジャンルとおもっているお兄さんと会話が噛み合わない。おなじ精神世界の産物だが、『野火』は思想的表現をもつ。『ソドムの市』も精神世界の思想的表現である
熱狂のないナショナリズムとはなにか。安倍の自民党を疑うが、「反日」の烙印をする極右翼が怖いと思って、間違っていても自由に喋らないことが恰も権利だと考えるナショナリズム
神が死なないとか死ぬとはどういうこと?ギリシャ神話は神は不死である。北欧神話では神は不死ではないので黄金の林檎を食べなければいけない。『古事記』の大国主神は「隠れる」
<律法>は人間の記憶ではなく、<石の板>にゆだねられた。真実の<言葉(パロール)>は、書物のなかにこそ求めなければならない。 20世紀においては、宇宙を支えるものは投射されるスクリーンに委ねられた。これは観客を投射しはじめたテレビから成り立たなくなったと、ゴダールは考えた
同調圧力も現在は、多様でなければいけないという同調圧力になってきたが、軍事的規律の監獄の中にいると感じることはまったく変わらない
「シュレデインガーの猫」の物理学者シュレデインガーはアイルランドに亡命を求めた。ユダヤ人だったシュレデインガーの亡命をアイルランドが受け入れたのは非常に例外的なことだったと言わざるを得ない。リミックのユダヤ人コミュニティを絶滅させてしまったナショナリストだったとはいえ、エイモン・デ・ヴァレラ大統領が数学者だったからかもしれない。彼の仕事の重要性を理解できた。しかしほんとうのところ理由ははっきりわからない。知る人ぞ知る、ダブリンにハミルトンがいた。古典的世界は現代を支えることができるかという問いにたいして、知識人と文化人は、そのハミルトンの物理学を考えながら、YESと答えることがある。しかし言語や文学にかかわる問題となると簡単ではない。古典的世界が現代を支えることができるだろうか?アイルランド語(ゲール語)は事実上消滅してしまった、絶えず彼らにとって問題となっているのは、精神世界の思考的表現についてである。現代の英語が精神世界の思考的表現を生み出すことができるかわからないでいる。明らかにジョイスはこの問題を考えていたが、わたしは読めない。そもそもジョイスは方法的に読めないことをエッセンスとする文学を書いた。だから私のようなアマチュアはこの問題を考えるためには日本に戻って、日本近代を誕生させた国学の古学を考えてみたら何か手がかりがあるとおもった。漢字文化はいつか英語文化に取って代わられるだろうが、まだ消滅してはいないから、アイルランドの場合と比べると考えやすいかもしれないと思われた。しかし甘かった。当然、日本は日本の問題がある。古典的世界が現代を支えることができるか、この問題を考えるためには、現代のために、現代から読みだされる古典的世界を前提にはできないのである。これは答えられない問題ではないか?そうしてこれについてまとまったことも書くことができずに、あっという間に十年以上が過ぎてしまった。しかし、古典的世界が現代を支えることができるか、この問題を考えることをやめることはできない。多分来年の講座『第二江戸思想史講義』の最終回で、枢軸時代のヤスパースがいうプラトンや仏陀やエレミアを孔子ー17世紀古学が見出した孔子像ーに置き換えて考えてみようというのである。孔子もまた、彼に先行する、経書的古典世界が彼の生きた現代(春秋時代末期)を支えることが可能かと考えたにちがいない。孔子は経書を編集したが、どれくらい読めるものが存在したかわからない。失ったから何かを得ると考えるのは近代であるが、失ったから失うことができるのではないか。失われたものが支えることが不可能だが、依るという理念がなければやっていけなくなってしまうのではないだろうか。これは信の構造というか..
自民党は選挙にしか関心がなく、野党は共産党を除いて政権交代の準備をしていない感じで、このまま政策交代が起きないのか?社会民主主義の政党を潰した国民が自ら罰を受けている
中国知識人と朝鮮知識人と彼らのもとで学んだ日本知識人は『日本書記』を書いて歴史を作った。『古事記』は本当は歴史がないと知っていた読み手に語られる世界がここにあると示した
「テレビを消しても囁き声が続く。風か?それとも」先祖か?」とゴダールは『映画史』のなかで語った。しかし柳田國男のように「先祖さま」と言わなかったのは何故か?「先祖」「先祖さま」の差異は意味がある
現在、ナショナルギャラリーに保管されている 、嘗てIRAによって誘拐されたフェルメールの作品「手紙(ラブレター)を書く女」。アイルランドに住んでいた、南アフリカ出身の所有者の富豪は身代金を要求された(誘拐は一度だけではなかった)。現在はこの絵は修復されているが、戻ってきたときは、召使いの女性と手紙を書く女主人との間を引き裂くような大きな傷が残っていた。蹴飛ばしたか、銃で絵を殴ったのか?当時の写真を見たが、傷を見て、同化主義の近代に怒っている武闘派反植民地主義、民族主義、マルクス主義のことを考えた。わたしにとって、9・11よりも、絵になされたテロ行為を知ったときのほうがショックだった。破壊されたこの絵の写真を通じて、9・11を理解していたほどである。現在は、ヨーロッパ近代にたいして問題提起しているイスラムから、この絵をかんがえることが必要なのかとおもう。しかし、絵が好きなので、政治のコンテクストから離れて、どうしても絵のなかに表象されているものを熱心に読んでしまう。17世紀のオランダ。窓の外を見ている女中は、女主人の手紙を届けるが、誰かに見られていないかと心配である。女主人は多分、アジアの海にいる船乗りに手紙を書いている。絵のなかの絵は、ナイル川に流され、ファラオの娘に拾われて大切に育てられたモーセを描いている。絵のなかの絵は婦人の妊娠を知らせる手紙を暗示している。これはスキャンダルである。女中の不安はこれだったのである。「手紙を書く女」というのは、17世紀オランダの中流に好まれた、フェルメールの前から既に確立していたテーマだった。ダブリンで何百の絵をみることができた。ラブレターとは何だろうか?カフカは遠隔の婚約者に沢山手紙を送った。愛を書いているが、奇妙なことに、婚約者が彼に近づくのを避けていた。敢えて遠ざけていた。遠くにいるものに静かに情熱を保つこと、あえて遠く外にある表象に欲望をゆっくりと持続させること、なにか、これは、近代に成立してくる、書くことのエッセンスかもしれない。
日本におけるアジアの明確なヴィジオンの形成もないままに解釈改憲の軍国主義がどんどんすすむ
純粋な憲法とは、正しさをめぐってロゴスが先行する論理的順番を重視する、憲法のロゴス化である。民主主義も全体主義ならば純粋な憲法ではない。況や政府の解釈改憲は憲法ではない
ニュートンの万有引力の法則の「法」がいかなる意味で「法」ーカントは自然を問題としたがデカルトは人間を問題とした、だから前者は批判哲学であるが後者は存在(コギトエルゴスム)を問うーであるか教えてやった。西洋遠近法の「法」がいかなる意味で「法」ー映画は原罪としての罪の償いーであるか教えなければいけなくないとおもっている
岸田よ、「ブラックボックス」(無知のヴェール)に行け!新しく生まれたら君も新アベノミクスの世にアルバイトで生きる確率が高い。成長を待つな。政治が介入すべき不平等はそこだ
ロンドンに引っ越したときは、8年間のダブリンで見たことがなかった、インド系とアラブ系とアフリカ系の移民を見た。顔が本当に面白い。しかしわたしは簡単なスケッチでも顔を描くのをやめた。顔を描くと特定の民族を中心にしているような危険な感覚をもったからである。これはマルチカルチュラリズムの感覚というか、「同調圧力」のようなものだったかもしれない。当時は周りにユダヤ系の友人が多かったというともあったかもしれないが、抽象を表現するようになっていた。これはこれでわたしにとってはチャレンジであった。ロンドンを中心としたマルチカルチュラリズムは多元主義の思想である。イギリス全体を考えると、それを支持する人は少ないようにみえた。労働党がマルチカルチュラリズムを推進したのは、アラブ人たちが、嘗てのユダヤ系移民のように、労働党に投票する未来を考えていたからと言われる。しかし思い返してみると、イギリスは、わたし自身の反省として、他者の思想をめぐる思想闘争が十分にあったかどうか、現在このことを考える。イラク戦争を契機に、保守党政権とともに、<われわれ自身>がファーストだというような Brexitを実現してしまうほどの反マルチカルチュラリズムの言説が英国をとらえているようだ。大英帝国の時代とちがってもうイギリスは一国ではやっていけないので、再びヨーロッパに戻ってくるのは時間の問題とみられているが、北アイルランドにおける平和合意がどうなってしまうのか大変心配である
幸徳と大杉の非暴力市民としてのあり方の理解がないと、国に逆らうと怖いぞと国家が先手を打って市民を殺戮した恐怖を見逃すと思う。「お上にすがる市民」の宮台のお喋りのように
レーガン後に左のゲームの規則が変わったのはクリントンからか?アフリカ系の人気はあったけれど、市場と両立する社会民主主義、要するに米国のネオリべ化、中近東のタカハ的介入
政財官マが推進した安全神話と復興神話の後は、新しい資本主義の神話か?民信無くば立たず。「お上にすがる」ことは倫理的に不可能。だけど何を言っても通じないような乱世である
表象の思考とは、並べることにおける<と>のラディカルな外部化である。ものの秩序の裏側にはもうひとつの秩序がある。そこで言語的存在の人間は存在の意味を考えることができる。博物学は目に見えるものにとらわれたので、表象の思考がどうしても可視的なものに規定されていた。映画史も、映像が大きな力をもった映画たちを対象としていたから、博物学とおなじような問題をもつことになった。存在の意味を探求する思考の歴史としての映画史がはじまるのは映画が消滅してからである(本当に消滅したかどうかではなく、理念的に消滅したとかんがえてみるのである)。わたしはこれを<絶対無限の貨幣>と呼ぼうとおもう
首相の答弁能力への疑問に対して、寧ろ記者の質問力に呆れるDappiの投稿は情報を持つ者と持たない者との交換できぬ差異を無視した、どっちもどっちという日本的情緒の垂れ流し
戦前ドイツ社会民主主義は、天皇を廃止せず金融資本をコントロールすればよいと理解された。その考え方は天皇ファシズムに陥った戦前は破綻したが、象徴天皇制の戦後では成り立った
ハンナ・アーレントは亡命したとき、ドイツに生まれたからドイツ語を話すが、ドイツ人だとおもったことがないと言った。憲法に愛国心を感じてはいけない。問題は憲法でなく愛国心だ
常に見なければいけない二人の他者とは、ヨーロッパという見上げる他者とアジアという見下げる他者。ヨーロッパには政教分離を示すが、アジアで祭政一致(国家祭祀)を行っていた
「希望」をもつナショナリズム。国会の臨時招集を拒否する自民党を考えると、議会制民主主義の国民主権がヤバイ!
「自民党には任せられないが政権やってもらうのが無難」
現在の選挙制度は死票があまりに多すぎます。安倍の説明しない政治を投票率の低さから説明する考えがありますが、しかし安倍の説明しない政治は、日本会議のイデオロギーー自分たちは国民主権と国会よりも上にある国家神道的な祀られる神天皇に位置しているーによるものではないでしょうか。また長州のクーデターで成り立った王政復古、この正しい始まりをもたない近代日本の原点に帰ろうとしていることをはっきり言明しています。クーデターを正しい始まりと考える人間は説明なんかしないでしょう。問題は、安倍の説明しない異常な政治は、極右翼でない、菅の説明しない政治、岸田の説明しない当たり前の政治になっているようにみえます
エレミアをたたえよう
たしかに投票しない若者が多いが、本当に問題はそこだけだろうか?ランボーが嘆いたように、昔は男も女も預言者の言うことを聞いたが、今は政治家の言葉しかきかない。厄介なことに、何でもかんでもカネがものをいう、ネオリベの時代は、政治家の言葉を借りて預言のように語る、10%の人間のためにある。彼らはすべてを知っている、代表している、という根源的錯認にある。イザヤとエレミア、プラトン、仏陀、孔子がでてきた2500年前が画期的だったのは、人間は自己の力およぶものに拠ることの意義が言われるようになったからではないだろうか。言語的存在である人間にとって、自己の力およぶものは、言葉のほかになにがあるのか?国家祭祀も祭祀者の倫理的姿勢が説かれるようになった。<祀る神が祀られる神>に倫理的なものは存在しない。現在のコンテクストで考えると、国家が自ら祀るような、そのために戦争する国家の体制から離れていったのではなかったか。戦争はあった。しかし戦争を対象にもたない理念的戦争が成立したかもしれない
リアリズム文学が描いた中流の没落する運命はどうでもいい。神話は不毛なナショナリズムの怖さがある。最後の文学は神話的リアリズム。絶対平等からみえる彼方の絶対無限を書いた
ショパンの時代はフランス革命とともに民族主義が平等を実現する為にあった。現在はグローバリズムに抵抗して民族主義の形を利用する地域はあるが、その積極的な実体は存在しない
BBCはフリーマーケット論にパニクる英国民を落ち着かせて彼らを啓蒙する役割に自覚的だ。自民党でなければ「同盟」はないと訴えるアベ演説にパニクる国民を啓蒙できるのは誰か?
世界とは、アジアにおける自民党的政治の敗北から始まる。『古事記』を国語•日本語と<一国>民主主義から逃すこと、これが安倍と日本会議との思想闘争に打ち勝つことではないか
多言語文学は翻訳が先行する。世界中の言葉の翻訳を通じて意味されるものが事後的に明らかになるならばどの言語も借り物。迷宮に言語と思考を与えてくれた大いなる他者の存在は無い
FWの翻訳が先行する普遍言語としてのプロジェクトは破綻しているが、世界中の河の名を書いた世界神話として成り立つ。各々の河が神話に対応するならば、世界神話は海である
皇室は存続したかったら象徴天皇制の国民主権を損なわぬ意義を理解できる「賢い」人を外からいれて成熟するしかない。国民も<天皇大好き>反共和主義的非成熟からいつ卒業できるの
子安先生が語る宣長と篤胤との関係は、文藝復興運動のイェイツとジョイスについても言えるか。神話の根底に民族を指示したが、それを超えるものである、世界神話は民族的ではない
天皇家から離れてよかったねと言うひとはこのわたしひとりだけなのか
幸徳や大杉を国家から自立した市民の先駆として考える強力な共和主義の理論をつくることが重要だとわたしは思うので、天皇界隈の上流階級の人権を一生懸命心配する時間がないのです
もう遅いのかも、しかし第三次世界大戦を避けるために、憲法の平和主義を利用して何ができるのか考える為には二つのシナリオが必要である。民主台湾のシナリオと帝国中国のシナリオ
民主台湾のシナリオと帝国中国のシナリオを考えるためには、子安宣邦氏『帝国か民主か』(2015)と柄谷行人氏「帝国の構造』(2014)をわたしは読む
国会を開こうとしない自民党政の責任が問われていたのに…この国は元々政府が国会をつくった国なんだ。そして社会民主主義の政党を潰してしまった国民が罰せられているのか
日本では権力集中を問題にするものがどうしてマイノリティを排除するファッショ的人物と政党なんだろうか?結局権力集中の問題を権力の解体ではなく集中によって解決しようとする
再び五輪問題。北京に民主化を求める日本は自らもっと民主化していかなくては。野党はアジアの民主主義を考える議論が始まる。反中•嫌韓の安倍政治の愛国心に絡み取られては不可能
救済論の政治とは何か?「われわれ自身」の恐ろしい危機を訴えるトートロジーに絡みとられる「現実感」が結局、未来ー戦争と開発と同化主義ーに対する抵抗を「敵」だと非難し始める
自民党的の新自由主義はカネに最大限の自由を与えるだけの<なんでもかんでもカネがものをいう>。自民党的新保守主義はみんな<なんでもかんでもハイという女でなければいけない>
立憲民主党は成熟しなければいけないよ。青春の汚れなき再出発物語ではなくて、大企業労組から自立した、共産党との成熟した関係を。自民党の派閥的畜生集団乱交よりは節操がある
立憲主義の近代
美濃部達吉ら「立憲学派」は、国家法人説・天皇機関説に基づき、憲法による天皇大権の制限を主張した。何故失敗してしまったのだろうか。現在の立憲主義は、国民にとって遠く外にある理念なので(「議論するひとは空気が読めない。政治的安定を掻き乱す」)、それは強力なナショナリズムを訴える声を呼びよせてしまったのではあるまいか。立憲民主党が「不人気」なのはこういうことではないか
安倍の解釈改憲で軍国主義と国家祭祀(公式参拝)が復活した。格差が拡大し戦争体制が進行した戦前文学の証言、昭和十年以降の軍国主義と全体主義が同じ方向に一致した歴史を考える
挫折はある。だが市民というのは勝つことがないのだから選挙ぐらいのことで敗北はない。敗北したのは野党ではなく、ジミン党ではないか?アベ党になってしまった。国民はそれで幸せなの?
選挙の話ばかりしていると、選挙が総裁選になっちゃうよ。選挙で負けても安倍政治を敗北させる大きな課題がある。
アイルランドの永遠に続くかに思えたエスタブリッシュメントの政治に政権交代が起きたし、イギリスではサッチャー主義の無敵のブレア政権が倒れた。どちらの場合も世論がデモを支持した。文化と芸術を巻き込んでの長い思想闘争と論争があることも大切だろう。日本はデモはあるが原発事故が起きても十万人を超えないし(稀に越えても報じられないし)、野党はあることはあるが、国が何を支えにするのか全く分からなくなっていても自民党を倒す政権交代が起きない。充実した学者的議論はあるが、思想闘争らしきものはない。対抗言説ばかりにみえる。結局は歴史修正主義の安倍だけがベラベラ喋っている。そもそも戦後の思想が何故こんなに貧しいのかについて現在あえて問うことは、思想闘争の出発として考えることができる。多分戦前の思想闘争をゼロにしている問題があるのではないかとおもう。思想史がこれを明らかにできる筈である。しかし市民の思想史の関心はどうなんだろうか?思想史を研究する市民大学はもう存在しない
前川喜平は「政治家には言えないから僕が言うが、日本の有権者はかなり愚かだ。」と言うのは我々への侮辱。「日本の有権者は愚かな政治家よりもっと愚かだ。」と客観的に言っておけ
日本の有権者は、国会を中々開かない危険な現状維持を望んで、国民主権を捨てるかのような愚かものになった日付は特定できる。2016年5月26日
政治の意味を再構成するために、政治の危機を新しく定義しなければいけない。政治の危機とは何か?記号の危機は記号の意味がその記号の外から来るあり方にある。そうして考えると、例えば自民党の危機は、常に共産党の意味が共産党の外から来ていることが自民党支持者の側から問題とされるように、自民党の意味が自民党の外から来るあり方にあるといえないか。その結果、自民党とは何か?と、問うことができないでいる。国会を中々開かない自民党政権にたいしては、問題提起ができない、入り口もなく、端もなければ隣接するものもない。これが、ほかならない、政治の危機である
国会を中々開かないでいる政権にたいして野党が審議を妨害されていると苛立っているのは主権者である自分の問題として関係があること、このことがわからなければいけないと思います
神話を支えるものが民族であるという言説にたいしては、神話を理念によって脱神話化する近代主義の読みは民族的実体を呼び出す危険がある。神話を民族から脱出させること。神話は民族を成立させた訓によっては訓(よ)むことが不可能なのである
挿話テレマコスではじまる、ジョイス『ユリシーズ』は、大英帝国の植民都市ダブリンを鏡(ひびわれた)で映し出した本である。オスカー•ワイルドのアナキズムを継承したジョイスは、帝国と自立的に対等になるために、言語支配者の英語で書くか書かないかは問題ではなく、帝国がなくてもやっていけるアイルランド人を主人公とした1日を描写することが大切だと考えていた。『ユリシーズ』はリアルにブルームの日常生活を描写している、と同時に、神話がブルームをとりまく人々の無意識を構成している。ギリシャ神話的なものが日常に介入するとき、武闘派的領地奪回の無意識を垣間見る。ハンガリー系かリトアニア系ユダヤ移民の子孫であるブルームは、パブのなかで、コスモスポリタン的市民の立場の「アイルランド人」を主張して、キュクロプスとして描かれた民族独立運動のナショナリストとのあいだで衝突が起きてしまう。ジョイスの観察では、土地を奪うか取り戻すかをめぐって土地に執着する点において、武闘派反帝国主義者と帝国主義者は同一である。「アイルランド人」も理念的なものなので、人々にとって遠く外にあるものだから、強力な民族主義アイルランドの実体を呼びだしてしまった歴史を示しているのかもしれない。この場面では、ブルームは岩(ビスケット)を投げつけられて、エレミヤとして天に昇天してしまうが、ここら辺は、漫画的というか滑稽に描いているので、単純な人格の膨張みたいなところがある。しかしそれほど単純ではないだろう。ブルームは明らかに武闘派ではないが、土地の奪回についてどう考えていたか。またブルームをビスケット岩で「処刑」してしまった武闘派反帝国主義者も、ベルギーにおけるコンゴ住民にたいする鞭打ちの記事(caseman report)を読んで同情していたことは嘘ではないだろう。
ὀσσόμενος πατέρ' ἐσθλὸν ἐνὶ φρεσίν, εἴ ποθεν ἐλθὼν
μνηστήρων τῶν μὲν σκέδασιν κατὰ δώματα θείη,
τιμὴν δ' αὐτὸς ἔχοι καὶ κτήμασιν οἷσιν ἀνάσσοι.
come from somewhere and make a scattering of the wooers in the palace, and himself win honor and rule over his own house.
松平訳「胸の内には勇武の父の姿を描きつつ、どこぞから父が立ち帰り、屋敷内の求婚者どもを蹴散らして領主の地位を取り戻し、再び自領を治める日を夢みていた」
第1巻115-117行
西洋古典業書official page より
フランスのテレビ番組の論争。移民について話している。共同体の宗教的起源に拘る排他的な意見を聞くのは痛い。宗教の違いは死後の世界をどう語るかの違いだけと思っているだけに
ダブリン最初の日、監獄にいる元神父の許しを求める手紙と、少年時代に教会の中で性的虐待をうけて怒る青年が返事した手紙を新聞の一面で読んだ。詩を交換している。詩が力をもつ国
五十歳まで聖書を自分で読んで、カトリックに真理があると理解したアイルランド宗教画家が映画友達だった。友人達は彼は絵を売る為にプロテスタントから改宗したんだと噂していた
もしケインズとダーヴィンが生きていたら、何でもかんでも市場が解決してくれるから国は介入するなとするネオリベと何でもかんでも神が創造したとする原理主義に抗議するでしょう
‘Darwin and Keynes’s revolutionary ideas have met with extraordinary resistance, as the persistence of creationism in some circles shows; and by the restoration of the classical school of microeconomics at Keynes’s alma mater, Cambridge University.’
日本の野党は英国の労働党ぐらい頑張っているとおもうのだけれど、与党である保守党の官僚支配にもっているような危機感が自民党に無いことが問題である。また野党は憲法を守るつもりのない自民党に憲法を守れと言っても戦いにならないのだから、政府にたいして、アメリカと中国のほかに、アジアを主語にした外交のあり方ー憲法を生かしたーをもっと問うことができるのではないか
明治のロマン主義文学は理念がある。大正ロマン主義は理念も思想もない。日本的なもの、三角関係か四角関係の構造かしらんけれど、称えているのは昭和の人間である。天皇と民主主義の両方を誇りにおもう、理念も思想もない変な自分を称えているのではないか
19世紀の復古主義は考えることができなかったものを考えるために儒教的経書を新しい読み方で読んだ。近代日本は国学からしか生まれてこなかった。神道は儒家的神道だった。ここで、エスタブリッシュメントは政教一致の「国体」を考えた。問題は明治維新の王政復古化。現在からみると、長州が京都から連れ出した天皇にノモス的主権者が奪われてしまった歴史だったのである。今日ギロチン台の首みたいなただの札の肖像になってしまったが、明治が確立しておらずまだ可能性があった時代に、societyを人間交際と訳し、「人民people」を考えたのは福沢諭吉。子安先生の福沢諭吉論が中国語に翻訳されているらしいが、福沢も新しい読み方が必要である。
世界は解釈と解釈の解釈で忙しい。憲法も改正前に解釈で改正済み。解釈改憲による軍国主義と国家神道(公式参拝)の復活、国民がノモス的主権を譲った解釈改憲的象徴天皇制。国は何も無い
神話も映画も根底に民族はない。両者は民族を越えるのではないか。世界映画は世界神話におけるようなものとしてある。草の根運動のプロ化と失われた自発性を問うただけのアイルランド映画はナショナリズムの映画とされるのはなぜか?ナショナリズムの破綻を表現していると解されるのは少なからず映画の世界性によるとおもう
解釈の複数性、解釈間の戦争の問題は、思うに、解釈の定義そのものによって構造上可能になっているのです。というのも、解釈は無限になされ、解釈自身が自らを判断し決定する際に基点となる絶対的な地点は存在しないのです。-フーコ「ニーチェ・フロイト・マルクス」-
絶望がもたらした政権交代しないという選択に自民党が絶望しているかもしれない。だって永久にアベノミックスをやめれないんだから
わたしの勝手なインスピレーションだけれど、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌は路のいしころたち。いしころたちのどれかをひろう。上下左右のポケットにいれる。どれかを取り出して他のポケットに入れる。繰り返す。いつのまにかいしころたちは裏側へ行く、たくさんある小さな入り口になっている。そして言語の果てから見る。まだ汚されていない、くしゃくしゃになった、物で書かれたもの
脱近代の多元主義か、それとも近代の普遍なのか、当惑しながら、浅田彰の文を読んでいますが、あるいは、これがポストモダンのモダニズム化なのかと?現在、同じことはできないのですが、「普遍的な知識人」をあえて貫くとしたら、「帝国的知識人」になってしまうのではないかとも考えました。ただ加藤周一を語る浅田彰は知識人は必要だと言っていることはよくわかります。理念的知識人を前提にしないと、もっと解明されなければいけない戦前の天皇ファシズムの問題を批判的に分析できなくなってしまいます。今日における憲法をどう観るかにも関わってきます。一般にポストモダンは知識人は無理だと考えますが、しかしフランス人は柄谷が転向したように、知識人をやめたとはいったでしょうか?相当にシニカルなひともいますが。浅田はそこまで柄谷にくっついて行くことはなかったのでしょう。ここがしっかりしている点だと思います。加藤周一も生かされています
何故日本では権力集中の解体を訴えるものが権力を集中するファッショ的なものからしか出てこないのか。読売新聞と大阪府との包括連携協定はメディアと権力者の危険な一体化ではないか?
なんだ、こいつ?
「元号」は、「不便」かどうかの問題しかないと受け入れさせようとしている。アジア2000万人を殺戮した天皇全体主義が「元号」と一体だった事実を問題とする議論はどうでもいいとなーんとなく思わせるズルイ文章
「私は西暦と元号の併用という「不便」に耐えるくらいのことはしても罰は当たるまいという立場である。」内田樹
国家神道復活の禁止をやめたらこれから戦後日本は何を支えにするのか?神道は統治権についてヤバイ語りがあるのに、安倍も立憲も国民も伊勢神宮にホイホイと行くのはどうしてか
京都は昨年の秋頃から人々が出てきたが、外国のお客さんがいないらしい。それほど人混みがなく、「お参りできてよかったですね」と言われたときは違和感を覚えた。お参りとは何か?
「記号の成立は、分析と不可分のものである。分析なしに記号が出現しない以上、記号は分析の結果である。同時にまた、記号は、ひとたび規定され分離されると新たな印象にも適用される以上、分析の手段でもあり、その場合には新たな印象にたいしていわば格子の役割を演じるのだ。精神が分析するから記号があらわれる。精神が分析をおこなうがゆえに、分析は際限なくつづく。」(記号の表象作用 フーコ『言葉と物』)
• このフーコの文は『鬼神論』における「精神」の意味を問うた子安氏の講座のおかげで何とか読めるようになったかもしれない。ここからゴダールがやったことも考えられるようになったのは、ゴダールにおいて成立している映画における形而上学的視点によることのようにおもう。撮影のためのクローズアップと編集のためのモンタージュを分析したうえで記号としたのである。そうして『映画史』においては精神が分析するから際限なく分析がつづく。ここで敢えてゴダールをフーコに関連づけると、差異が差異化されていく運動として映画のあり方が再構成されていくときゴダールによってそこで問われているのは、西洋の理性が西欧の判断の時代にはいる近代における(古典主義時代における)記号の表象作用ではなくて、外部の思考が外部の思考としてあるポストモダンの記号の作用である...
アジアは市民社会が現れなくても民主主義がなくても開発とマネーと経済はどんどん進む。しかし資本主義の問題を中国式資本主義は抱え込まないのだろうか?
何でもかんでもカネがものをいうから経済が不均等発展なのか?逆に、経済はどうしても不均等発展だから何でもかんでもカネがものをいうのか?
三十数年前ノンセクトの反公害の座り込みのときだったが、色々言われるけど、デモのたびにカネをもらっていたら家がたっているよと語るひとがいたっけなあ
カネの事実関係について嘘か本当か報道の仕方の話ばかりですが、そんなプロフェッショナルな細かいことではなく、世の中のために善意でやっている行いを嘲笑っていることが倫理的問題なのです
向こうの新聞はデモの時間と場所を教えてくれるが群衆の中で現場が分からない。目印は日本だと重装備した警察車だが、英国は抗議者を噛み殺す大量の犬たちを待機させた警察トラック
西ヨーロッパの反ナチスの人々が大混乱に陥いった、
スターリンのヒトラーとの不戦条約によって、東ヨーロッパのコミュニストの活動家達が一斉に逮捕されてしまった。条約締結の日から、ナチスの全体主義に抵抗する者は共産主義の敵となったのである。サルトルはレジスタンス運動にいたが、この事実を知りながらも、ハンガリー動乱までスターリンを批判しなかったことが批判された。信頼を失うことになって、思想界は実存主義にとって変わって、反サルトルの構造主義が台頭することになったと言われる。フランス革命を継承するロシア革命はアナキズムか国家主義か選択があったが、ボルシェヴィキは国家主義に託した。その結果、スターリニズムが出てきてしまった収容所群島の現実に目を塞いで希望を見いだすという言葉しか出てこないとは..
こう言わなければわからないから言うのですけれど、裁判官よ、あなたたちの安全神話を推進した責任を十分に反省したうえでの判決でしょうか?
国が強くなれば格差の問題を自己責任に放り投げる今の維新の政治家を見れば分かるが、若ければ上手く行くとは限らない。150年前も、明治のリーダー達は若いだけだった。軍事力が無いから植民地を持たぬから不平等条約撤廃が実現しないと考えた薩長の田舎者よりも、西欧との経験のある徳川幕府に任せた方が交渉はうまくいった筈だ
近代官僚制は合法性支配。正当化は国民から来るのに、官僚は国民に従うつもりで与党と自民党提灯持ちに従属していたり、与党も官僚の言いなりになっていたら正すのは野党じゃない?
だれがヒトラーか否かをめぐって勝手に盛り上がるが、深まる議論がなければ茶番と言わざるを得ない。権力集中の解体を言うお前は、マイノリティを排するファショ的政党じゃないか?と立憲は維新に問いただすべきだ。また維新は立憲にたいして、社会民主主義でなければお前たちはどうやってヒトラーをやっつけれるのかと聞くべきだ。議論しないの?本当はドイツの「われわれ自身における本物」のファシズムを論じるだけでは足りない。日本の場合、ファシズムは天皇ファシズムだったからだ。わたしならば、国体論を超えていく移民的国家の多文化主義の理念を語るのだけれど
石原語録とはなにか
死者の悪口を言うなと言っている未亡人みたいのがたくさんいるのでキモチわるい。禁止されているあらゆるものに反発する石原語録を拾い読みすると、あの安倍ですら我慢できた「参拝して何故悪い」と大袈裟に屈辱感を表出する。動物並の欲求にまで後退する自分の自由を主張する何か痙攣から喋っているように見える。他方で、地震災害を天罰と思い込んでしまうほど万物を支配した戦前の天皇の権威主義の中に生きていると渇望している恥ずかしさを何と形容したらいいか?昭和とはこういう動物を作った時代なのだ。同時に、戦後の自由と戦前の権威の両方に希望を託す、人間とは思えないような、昭和前期と後期を持った石原のイメージを昭和の読者が愛したのか..
きみはヒトラーだと彼に告げた石原もそれをきいて喜んだ橋下のような人間が幸せを自分のものにしてやるためには、これ以上カネを与えてはだめで彼らから欲望を取り上げる必要がある
わたしは暇にしているけれど、安倍晋三と日本会議の日本の未来を語るほどわたしは暇人ではないと思っていたところ、東京五輪、石原慎太郎の死を惜しむ声、バカタレ、やはりどうしようもないな。かならずしも楽観的ではないけれど、思想の成長を考えるためにも、ポストモダン中国の未来を語っていたほうが意味を感じるが、五十代を終わろうとするわたしにはもう時間がないか..
アイルランドみたいにみんなが貧しい国はその中でいくら自分が貧乏でもそれほど惨めに思うことはなかったが、イギリスは貧富の格差がめちゃくちゃすごい。大富豪の王室の報道が流れると、本当に惨めになる。イギリスという国は自由がある。最大限の自由を享受するオランダと比べられる。多分香港はイギリスの植民地時代に植民地時とはいえ自由を経験したのでないか。だから今日の中国に対する抗議があるのではないか?しかしオランダと違うのは同じくらい権威的規則が英国にはあることだ。その権威主義は王室からくる。最近の調査では、英国王室に対する支持が下がっているという。チャールズとダイアナの離婚は、国教会の守護者としての王室のあり方のイメージダウンであると言われる。しかし単純ではない。王室にとってはユダヤやイスラムと付き合って行かなければいけない英国の文化多元主義と共存するためには有利な出来事だったと観る見方もある。王室は開かれている印象がある。
歴史のことを言うと、英国王室は1916年のロシア革命とアイルランドのイースター蜂起で恐怖のどん底に落ちた。親戚のロシア皇帝のように殺されないように政治から距離を取りはじめた。先ずドイツ起源の名前を隠した。自らのアイデンティティを国教会の主宰者としての超越性に築こうとする。1916年は『文学に現はれたる我が国民思想の研究』(1916~1921)の出版の年である。津田左右吉はイギリスにいたらしいしこの歴史を興味深く観察していただろう。日本は京都にいた天皇と民衆との間に争いが起きなかったが、英国とは民衆と王権との戦いであると彼は言う。明治のホッブスの社会契約論の理解は、支配の側から国家の正当化を論じるが、しかしイギリスでは社会契約論は自由を確立するための国家理論であり、旧体制の全く知らないものであった。王様の首を切り落とす前に、思想闘争をもって、議会は王から権力を奪って成立したのだ。
スピノザが君主制に警戒していたのは王は名誉心のために戦争をしたがることである。たしかに、イギリス国民の8割がアメリカのイラク戦争に反対していたのに、エリザベスが全軍をたたえるメッセージによって、逆に、8割が戦争支持となったのである。英国においても天皇が政治に関わると国民主権がなくなって行くのと全くおなじ事態ー国民が自分の頭で考えることができなくなるーが起きたとわたしはおもう。労働党時代に王から権力を奪う憲法改革に取り組んだ。憲法裁判所ができた。最近憲法裁判所はボリスジョンソンの女王の権力を濫用して議会を開かない決定を違憲とした
中国のファンが大勢いる男子フィギュア選手の天の舞みたいなパフォーマンスを見て嬉しく思ったが、今朝は何の疑問なくそれを一面にした日本の新聞を見て(新聞に)悲しむ。今更?
ムルナウとフラファテイーの違いは当時の人類学の対立する方法論の違いが反映されている。若い女はエスキモーみたいな獲物をとらえる眼差しがあると言ったのはゴダールである
みんなして公然と軽蔑している政治家達にどうしてあなた達は統治されているのか。人間は自分を幸福にしてくれるものよりも分かっていながら不幸にするものになぜ惹かれてしまうのか
“imminent”
BBCラジオでウクライナのニュースきく。もはや帝国と帝国主義の区別にそれほどほんとうに意味があるのかを考えさせるロシア
誠は宇宙に貫在せざるなし。此極の胸中より、彼極の胸中に至るまで、 萬方に全貫する者、是れ誠なり。乃ち至誠なり。神なり。是故に己を誠 にするの道は、其始め有神の無我に向って謙然又虚然として我が胸中を 開くに如くはなきなり。新井奥邃
あれ?夢の中で、会ったことがないフェイスブックの友人といっしょに笑っていたよ。わたしは呑気な人間である
敵基地攻撃能力 岸防衛相 相手領空内での爆撃を “排除せず”
敵基地攻撃能力 岸防衛相 相手領空内での爆撃を “排除せず”
これは自衛?戦争じゃないか!大声でこんなことを言っていたら、日本はアジアから生かしてもらえないぞとおもう。自民党を選んだらこういう大臣が出てくるのは必然である。人々は自分の生存に有利になるものよりも、分かっていながら自分の生存に不利なものをどうして惹かれていくのだろうか?タナトス(Θάνατος)は、ギリシア神話に登場する死そのものを神格化した神。 これを使って、フロイト「死の欲動」概念を展開した。演劇や文学が取り組むべきテーマである。
現在は見えあげる文学博士とか思想史博士に取り囲まれているが、昔は鳥居さんが描くトイレット博士しかいなかった
ペレストロイカ(перестройка)のソ連解体のときは相当な議論があったとおもうのですが、だから解体してしまった、その後はどうなったのか気になっていましたが、「1918年から1933年までのドイツにおける保守革命」が、2000年代のロシアに読まれていたようです。保守的転回のプーチンも、シュペングラー、シュミット、ユンガー、ニーキシュを読んでいたみたいです。シュミットといえば、政治神学なんですけど..すこし考えてみますと、現在というのは、何か、一国社会主義の皇帝(=主権者)が死(戦争)を主宰する「例外的状況」なのですかね(<ー テキトーに書いていますから突っ込んでこないでね)。マスコミは彼の現実感覚を疑いはじめましたが、プーチンの思想形成が研究されています
ロシアはロシアはNATOの東方拡大に脅威をかんじていると言われる。ならば、中国も非難している、自国に影響のあるウクライナの原発攻撃の方がもっと怖い筈だ。最早理性を失っている。しかし真相は、元々プーチンはNATOに脅威をかんじていたのではなくウクライナの民主主義に脅威をかんじていたのだろう
ロシアの中心にいる元々KGBからきたプーチンは騙すプロだからロシアが嘘ばかり言う。KGBは人を殺すプロだからロシアが破壊と殺戮を行なっている。プーチンは戦争犯罪人である
議論のスキルだけでみると、日本の大学教授は、ヨーロッパの中学生に議論で勝てないでしょうね。あちらは小学生の時からDrama study ーシェークスピアぐらい読んでしまうーを勉強していますから。またイギリスでわたしも参加したのですが、大学人が労働者階級の受講者と一緒に、ウィットゲンシュタインを考えたり現代詩を読むことが議論を通してできるのですね。しかし日本の先生たちにとっては、議論なんか重要ではありません。わたしの義理のおじさんはウィットゲンシュタインを最初に訳した方ですが、哲学をめぐる議論よりも、いかにドイツ語の原文で読みこれを古典ギリシャのアリストテレスと関連付けるか、これだけが大切なのです。しかしこれは何か、反権力的でないかんじですね。ネットを国益として考える中国とは違って、日本のネットは対抗的議論の中で発達しました。反権力的ですが、新聞にあるような時間をかけた学者的議論が無いですね。これでは新聞にとってかわることが無理でしょう。日本はポストモダンの知を議論する雑誌がありませんから、ネットの場を利用できるとおもうのですけれど、大きな思想史の知の枠組みの中での議論を読めないですね。わたしはやろうとしているのですが、ほんとうに力不足です
ウクライナが抵抗をやめ要求のめば戦闘停止=ロシア大統領。強姦者が抵抗をやめ強姦させてくれば安全だと言う。平和を愛するプーチンは次にウクライナに侵略をやめてと言うのか
戦争犯罪人プーチンの国が核をもっていることほど隣国にとって怖いことはないだろうが、戦争犯罪国家だった日本が核をもつ恐怖ほどではないのではないかと想像してみる
米国の地球全都市を破壊しても核が余るという「核の傘」の下でも安心できないし自国の核を加えても安心できないだろう馬鹿の核を求める欲望を満たすのは太陽を飲み込むしかない
武器といえば、アイルランドは海岸に流れ着いたスペイン艦隊の舟の破片で城を作ったりしたぐらい貧乏で、英国から解放しようとフランス海軍が上陸しようとしたら、海岸で彼らを迎える武装農民たちの武器が鍬と鋤だったのを見て「これはダメだ」と言って引き返した。「ナポレオンがやってきた」という当時の歌が残っていて今日パブで歌われている
BBCのウクライナ報道は徹底して弱者に寄り添う。ヒューマニズムとはこういうものかと感心する。他方であの地球全体の天気予報は何か地球を半分もっていた過去のノスタルジーか?
ウクライナを語るのになんで台湾の話をしているの?「台湾有事は日本有事」の安倍発言に中国からの反発。「内政干渉だ」と。安倍と中国は自分に都合よく自国の国民に拍手させている
集団殺戮をやめさせるヒューマニズムの名において原発を攻撃するのは、電車の遅れを解決するためにパリの地下鉄全体を爆破しようとしたナチスの恐るべき破壊衝動に匹敵するか
キエフはバイキングが作った。交易を重んじていたバイキングがスエーデンからウクライナに来たのだ。バイキングの破壊して収奪するイメージは最早古いものである
NATOはヨーロッパを守ると言いながら、ヨーロッパ外の国ーイスラムーを爆撃しているのはおかしいという声はヨーロッパにある。現在はロシアにも対さない。自分探しのNATO
EUのアイルランド議員の絶対平和主義はプライドだけを根拠にしている感じだが、国家予算を超える資金が米国から超カトリックにくる限り対英戦闘を止めれなかった事実は本当だ
昭和維新とか、戦争で勝ちさえすれば日本の問題は全部解決するとか、ああいう話って、顔をつるつるにすれば全部が解決すると思っているのとおなじような..
オランダの女性はほんとうに女性らしくない。先進国である。しかし南ヨーロッパの男性を見るや、オリエンタリズムの幻想にやられる。トリエステの夜のロマンテックな海に誘う
英国人はアイルランドに来るとエデンの園にやってきた気分になる。教養が高いのに、なんてロマンテイックな風景だと感じる。というか彼らの知がロマンテイックにさせるのである
1980年代はネオリベ経済学がスタフグレーションの理由を説明した。人々が依拠するものー貨幣賃金ーを保護する統制経済が市場の機能を奪っている。だが今日市場に委ねるアベノミクスのエンジアリングによってスタフグレーションが起きる。これは社会主義国のあり得ないとされたストライキ勃発と同じほどスキャンダルなのだ
徴兵制はあり得ないと思い込んでいて、これ以上悪くなって欲しくないとして自民党に投票する若者たちにこの点を理解してほしいですのですが、アベノミクスをやめずにこのままどんどん不況にしていくだけで、徴兵制の憲法改正しなくても、経済徴兵できます。
一般の人の気持ちを逆撫でしただけか?貨幣の価値を担保価値としてとらえた近世の学説があったが、国民に委託された価値を保つ善管義務が日銀総裁にあるというふうに考えてみたら?