「美を殺す」ことは可能か。不死としての永遠と理念としての永遠。 ー 東京演劇アンサンブル『タージマハルの衛兵』(ラジヴ•ジョセフ作、三木元太 演出)の感想文

「美を殺す」ことは可能か。不死としての永遠と理念としての永遠。


ー  東京演劇アンサンブル『タージマハルの衛兵』(ラジヴ•ジョセフ作、三木元太 演出)の感想文


帝国の皇帝にとって、宮殿が意味するものは何だったのでしょうか。

「不死としての永遠」という、完全なものだったのでしょう。

この意味で、唯一の美であり、他の美はあり得ないと考えました。

そうして、今後タージマハル宮殿に並ぶほどの美を創ることを禁じ、美を殺さなければならない、と考えた皇帝は、衛兵たちに建造した職人たち二万人の両手を切り落とせと命じました。この命令に対して、なぜわれわれは王の命令に従わなければいけないのか、と衛兵の一人は動揺し混乱します。

衛兵の一人は、「自由に喋らせてくれ」、「間違っても許してくれ」、と考えます。

しかし、友人であるもう一人の衛兵は、「話をしてはいけない」、「俺達人間は考えなくていいんだ」、「仕事をやるだけだ」と説きます。

これは宮殿の監獄化です。タージマハルの衛兵が一望監視方式みたいな仕掛けのなかに生きているあり方を考えることになります。

皇帝と衛兵たちの関係を規定しているものは決して単純ではありません。見られている人は見ていますし、見ている人は見られています。処刑するものは処刑されますし、処刑されるものは処刑します。衛兵たちが発明する穴自体が落ちる穴であるように、もし最初から、皇帝を支える衛兵が「衛兵自身」であったとしたら、どういうことが言えるでしょうか。

衛兵の一人は、皇帝の首を切り落として皇帝の代わりに帝国の中心に立っている自分達の未来を予言します。大きな人間であるこの皇帝の位置にあっては、自らの欲望を極大化できるような権力を消費し尽くすまで、この場所を去ることが難しいでしょう。これは現代そのものです。


フマーユーン(小田勇輔)とバーブル(篠原祐哉)という二人のタージマハルの衛兵は、この囚われの場から脱出できるだろうか、と、昨年観た同劇団の『揺れる』の舞台を思い出しながら考えました。そして、「衛兵」とは何でしょうか。


タージマハルの衛兵は、外部にある鳥たちを世界の中心にすることによって脱出しようとしたのではないでしょうか。小さな人間に成ること、森の虫たちに成ること、ワイワイガヤガヤ、ウロウロウヨウヨして、ロゴスを以ってどんどん分裂していくことによって単純に増加していくものが、「衛兵」と名付けられていたのではないでしょうか。

「衛兵は舞台である。」

この命題から、タージマハルの衛兵は、父親的なもの、命令的なもの、規則に囚われずに、彼ら以前に誰も語ることができなかった、皇帝が囲いこむことが不可能な無限をはじめて語ることができたのではなかったでしょうか。タージマハルの衛兵によって、微かな声ながら、驚くべき大胆なことが語られます。

「美を殺すときに堕ちた月とはなにか。それは無(空)である。」


こうして、美は、本当の意味において、フマーユーンとバーブルによって「理念としての永遠」におけるものとして現れてきます。新しく誕生したこの美は、帝国の皇帝が決して殺すことができないはずです。


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