漢文クリチュールのあまりにも存在論的な・・・

漢文クリチュールのあまりにも存在論的な・・・

思想家がいかにヨーロッパ語と取り組んだのかについて考えるひとには、大杉栄が面白いですし、高等小学校しか出ていないのに監獄の中で独学で英語を勉強し辞書で洋書をボロボロになるまで読んだ荒畑寒村は本当に驚異的です。ヨーロッパ語からインドの言葉に行った大川周明は、さまよいから目が覚めた、と語っていました。果たして、英米文学漢文学の間にいた夏目漱石の彷徨いは、帝国主義国家の確立する大正以降、関東大震災を契機に現れてくる国家主義者が危機的に感じる彷徨いと比較できるものなのかはわかりません。ヨーロッパと同時代的になってくるモダンな大正時代に、しかし萩原朔太郎漢詩のような詩を書き始めたのはなにを意味することなのでしょうか?自明すぎて気がつかなかったのですが、母国語の外部であるヨーロッパ語を経ると、日本語に還るときの漢字と平仮名の一体性がそこにあると感じられます。そこからはなれていた自己が何かさまよっていたのではないかと存在論的にまで感じられれくるのはどういうことなのでしょうか。英語で言うと, an ontological independence of substance
Le sens ne se sépare pas du signe, la penséé de l'écriture. Le concept n'est pas detachable des phrases où il s'inscrit, du style qui le porte et le transmet. Du coup, il convient d'être attentif à la manière dont écrivent les penseurs.(Derrida)

エクリチュールとして大正を読むこと、そこでわれわれは大正を読むときに、われわれは置き替えられた意味のなかに大正を忘れようとしているのはなぜか、と問うこと