銀河哲道的デリダ

銀河哲道的デリダ

銀河鉄道の夜」(1941)とは、貧しい少年ジョバンニが、級友を救おうとして溺死した親友カムパネルラとともに、銀河鉄道に乗って宇宙を旅するという話。もちろん作者は宮沢賢治ですが、子供の時かれの両親の信仰を大変嫌っていたというエピソードがあります。現世では無力な自己が死後、弥勒となって帰ってきて衆生を救うという所謂親鸞的往生還相のようには、宮沢は「銀河鉄道の夜」に判然としたハッピーエンドの約束をかきませんでした。ただ、宮沢の<還ってくる >(帰ってくる)というテーマは3・11以降、益々重要な意義をもつものとして重みを増してきたのではないでしょうか。それについて、ラジカルに問う普遍主義の精神は、そんな生命である故郷としての大地など存在するのかと問うでしょう。これにたいして、ブレヒト小屋で銀河をみまもってきた渡辺一民氏は答えるでしょう。そういう故郷があるとして、そこに安心して還るためには、日本の合理主義的物質主義が直線的に追求してきた'富'がなにであったのかを根本から問い返すことがこそ不可欠、と。下に、渡辺氏が講義「20世紀の精神」でひいたデリダの言葉(「グラマとロジー」)を示しておくことで、表題とした私の奇妙な造語、銀河哲道的デリダの意について考えるヒントにしていただければ幸いにおもいます。
「多次元性への、また脱=直線化的時間への接近は、たんに「神話文字」に後退することではない。逆にそれは、直線的モデルに従属したあらゆる合理性を、神話書法の別の形式、別の時代として現われさせる。<エクリチュール>の省察においてこのように告知されている超=合理性や超=科学性は、それゆえ一つの人間の科学の中に閉じ込められることもできず、また科学の伝統的観念に対応することもできない。それらは唯一の同じ所作によって、人間、科学、直線を乗り越えるのだ」