二つのあいだ ー 見られることしかできない可視的なものと語られることしかできない言表可能なもの

 

「盲目の言葉、沈黙する像」のデュラス「インデイアン・ソング」の本質を明らかにするために、フーコの「言葉と物」を分析したドゥルーズは、言葉ー>言表可能性、物ー>可視性、を導き出した。ゴダールの映画においてこそ二つの間には、絶えず非合理的な切断があったが、絶え間なく繋がりは回復される。どちらもそれ自身を他から分かつ自身の限界に、見られることしかできない可視的なもの、語られることしかできない言表可能なものに到達する。

たとえば、原初テクスト(古事記)の見られることしかできない可視的なもの (漢字言語) から、語られることしかできない言表可能なもの(起源)に到達するのは無理だろう。またほかの例では、「資本論」は原初テクストの次元に高まるのは、柄谷等の日本知識人が他に依拠できないとする程の優越的特権性を洗礼的に与えるときであるが、資本の運動のことしか書かれていない可視的なもの(文字)から、語られることしかできない言表可能なもの(国家と民族)を読みだす無理は、原初テクストの場合と全く違わないのである。

この場合、「盲目の言葉、沈黙する像」は二つの間の関係だが、「トランスクリティーク」の冒頭はいきなり三つの関係から出発したのである。「資本」「国家」「民族」は、それぞれ、国家と民族、資本と民族、資本と国家から自立した抽象的項として指定されている。他に、Xとしての (消滅した社会主義から生まれる)帝国の構造を指定することになるだろう。Xは三つの抽象的項においてどうしても成り立たなければならない理念的な位置と機能をもっている。読者はこのXが世界共和国的なものと当然考えていたのだが、実際は帝国の構造と柄谷が呼ぶものであることが後でわかってきた。問題の「帝国の構造」(2014年)は、「トランスクリティーク」の後に出た。なによりも、「トランスクリティーク」「帝国の構造」は、柄谷においては、「資本論」の読みを絶対的前提としている。だからかれの「資本論」の読みの無理は、トランスクリティークの無理を、帝国の構造の無理を構成してしまうのである。図式的に整理してしまうと、柄谷の「帝国の構造」は、世界資本主義と米国の「帝国」 (おそらくは、「亜周辺」の安倍自民党の日本が包摂的に含まれることになるのだろうか) への対抗として、「周辺」の国々を一的多に同化する中国の「帝国」を物語っていた。しかしこの点にかんしていうと、台・韓・日・中の四つのあいだに「東亜性」の概念を再構成する分析の方がはるかに民主的だったと思い返される。実際に、戦前の反省を踏まえた上で、子安氏が理念的に提唱した台湾 とコリアを中心とする、かれらのイニシアティブによる東アジアの関係をかんがえなければならないといえようか。2014年からの現在は、東アジアの未来は台湾と香港の学生の渦巻のごとく起きた反グローバリズム運動ー非暴力抵抗の直接行動ーに決定的に依ることになったようにみえる。

最後に、N個のあいだは何か?ほかならない、穴キズムとしての脱出する「あいだ」性だ。たとえば、N次元のジョイス文学のヒルベルト空間が一つのあいだのベケット文学と共在するようにおもわれる。文学以上の意味をもつのは、一に還元されない多の空間をわれわれに触発するときだろうか