軍国主義の現在、偶像破壊の愛のコリーダが思想史に必要?

軍国主義の現在、偶像破壊の愛のコリーダが思想史が必要

アイルランドで学んだこと、考えたことはたた、このひとつです。記憶というのは、絶えず発明することが必要で、発明をやめてしまうと化石となってしまうということ。さて子供時代を回想する大島渚の自慢話に、戦時中のとき軍部の没収と母親による処分の危険を避けて、父の蔵書・ロシア版資本論を壷に隠して地中に埋めたというが、この大島の記憶も、「愛のコリーダ―」のなかで「サダ」が切断した愛人のペニスを膣の中に埋め込むという場面に昇華・発明されていたのかもしれません。大島映画では血は野蛮の象徴ではなく、誕生の象徴です。このことをかんがえると、「サダ」の男性の身体に文字を一字一字書く行為は、なにか思想にかかわる決定的なことを伝えているのかもしれません。異常という言葉でかたらえれてきた映画の圧倒的なエモーショナルなイメージを前に、はっきりしたことはわからないままですが、大島映画は、思想史の連続性を切断する身振り・ジェスチャーであったことは一考の価値があります。現在しっかりと考えておく必要があることは、この点です。日本の知識人がいかに、「資本論」の読みのこだわりに自らの思考 ー透明な実定性(宇野のなにもかも流通に還元する読み)と一国モラル(河上の貧困問題の克服を教育勅語の魂に還元していく読み)ーに特権的に深く根づかせようという、ほかの世界の知識人にはないという、顕著な態度についてです。オィデプス的に、「帝国の構造」も、「世界史の構造」のほかに、父たる「資本論」の読みのこだわりをいう「トランスクリティーク」に負うています。(「言葉と物」の翻訳者・渡辺一民の課題も結局は、このような内部に絡みとられていく全体主義的な言語の監獄から逃れていくことでした。)思想史に偶像破壊の愛のコリーダが必要。それならば、軍国主義に向かって行進しはじめたこの世の中で、これからだれが「定」の役割ー全体主義の言説を切断するーを引き受けるのでしょうか?