ベケットとはだれか?

ベケットとはだれか?

 意味の問うという行為、これがベケットベケットとして成り立せるものですね。読み手はそこに巻き込まれていくとき、必ずしも前衛音楽をきくときの快楽が約束されているわけではないんだと思います。「句読点のない言葉」の、「無調的」弦楽四重奏的、「リズミカルな前進」ぐらいの前衛精神ならば、エリオットぐらいの人がはじめたことで、ジョイスにおいて完成され表現され尽くしていたとおもいます。私はジョイスが好きのは、かれが踊るピカソともいうべきギリギリ最後の散文のリズムを持っているからですが、ベケットはジョイスに突き動かされて一体となりたかったのではないでしょうか?、神学的-カトリック的かどうかはわかりませんが、ジョイスの本は読めば読むほど知識が特権的に垂直方向に増えていくという代償もあるのですが、ベケットの場合は知識が増えていかない。彼の水平的な方向というか、この不毛感のことを、ーアイリッシュの批評家からみるとプロテスタント的禅(!)の類似があるようですがー、兎に角それは別として、前衛的オリジナルテイーの祭壇と決めつけちゃう人は、一度ダブリンに...行ってみるべきではないでしょうか。「名のないもの」がリアリズムだったかもしれないということも考えざるを得ないほどの(汗)、根本的な発想の転換を強いられますからね。ところで、どうしてわたしはコピーなんだろうというコンプレックス(漱石的)と、反対に、どうして俺はオリジナルなんだろうかというコンプレックス(ベケットとかウィットゲンシュタインをそういうものとして、過去との断絶というモダニズムとして読み解く)がありますが、1970年代からベケットの読みは後者から前者に移ってきました。こことの関係に於いて、まだまだ通説ではありませんが、ベケットポストコロニアルな経験をもった作家として再発見されようとしています、現在は。この点については、ポストピカソの画家ベーコンにおいて表現されていたものが全部ベケットにあるというようなことをドウルーズが言うわけですけど(ただしポストコロニアル的にではなく、ポストモダン的に言うのですが)、これがベケットの読みを開く議論の契機となったと理解しています。分裂者の散歩を描くベケットの水平運動は「アンチオイデプス」のインスピレーションでした。ベケットを読むとき、拷問に感じられるときが時々起きます。あの三部作の小説などは体中が痛くなりますしね。(おもいだすだけでも痛い)。そうして読むことをやめてしまた本を再び開くには、相当に勇気が必要だと感じるときがあります。意味をつくっていかないとやっていけなくなると考えてみたり、反対になにも得ることがないだろうという空白に依って読み進めるのが本当かと考えてみたりするグルグル回る安定よりは、むしろ、信の構造に囚われるというか、進むしかないかという、突き動かされていく自分の流れ行く欲望の不安定を、沈黙する本の側からまざまざとみることになりますよね。

 

本多 敬さんの写真