MEMO

内閣支持率は、この国に晴れる日が永久にやって来ないのではないかという不安をもたらすあのアイルランドの天気予報の降水確率と似ている 


茅ヶ崎では私が死んだ日の次の週の燃えるゴミとして送られるいわば灰の火の運命にあるだろう危うい絵画達は、ネットの場で数年間消滅しないだろうか。笑止。奇妙な、まだ生まれていない幽霊的到来の観念である



マルクスの亡霊を分析したデリダハムレットから語りだすがオフィーリアのことを書き忘れた。マルクスエンゲルスの署名で隠蔽された、テクストの余白に定位していたイエニーの痕跡はどうだっただろうか


タイムラインに流れてきた、あまり理解できていない思想家の言葉である。現在改めてどう読めるか。敢えて言うと、均衡と安定、連続性にかんする二つの真理が問題ではない。同じ時代に共存した二つの言説が問題。もしそうだとしたら、偶然のその共存から一体何が言えるか?‬言説(卑近性を語る語り)と言説(至高性を語る語り)の間の関係が問われるということかな。

‪「プロレタリアートの問題とは、社会科学を構築することである。ところが、この時代にはもはや近視眼の経済学者と狂信的な社会主義者しかいない」(プルードン『貧困の哲学』)‬


‪ヨーロッパの現実はこうだから明治の日本はそうであるべきだというが、私は別の見方をとる。方法としてのヨーロッパはああだから方法としての日本はどうだと問うような見方である。津田左右吉は方法としてのイギリスと方法としての佐幕派を考えることができたのだー明治維新を物語る物の見方を解体するために‬


<イメージ (は) | 脱構築的に解体する| 明治維新150年>

<image | deconstruct | Meiji Restoration 150 >‬


昭和の天皇ファシズムによる軍事国家の成立と「王政復古」維新



‪「津田はいうのである。『王政復古』クーデターが「天皇親政」を騙った明治政府を可能にしたのだと。昭和の天皇ファシズムによる軍事的国家の成立を「王政復古」維新と無縁ではないと考える私は、津田の維新をめぐる論考を大きな助けとして「明治維新150年」を読み直したいと思っている」(子安宣邦氏‬、講座「明治維新の近代・1 」4月14日)



70年代から欧米に留学した人達が思想史の本を書くのだから、イスラム思想の1000年前にポストモダンの先駆みたいな思想があった。この五年間のあいだに、言説的再構成としてのポストモダン孔子を学んだおかげで、若手専門家達のtwを読みつつ、知識人=ポストモダンイスラムの可能性を考えている 



 6年前の 投稿 (書きかけ)


In the "Waiting for Godot", Becket is supposed to emphasize the significance of accepting the world without meaning. But if one radically denied meaning in life, consequently even might be collapsed and disintegrated.The philosophy of absurdity really expected such a relativism ? In the repetition of pessimism and optimism Becket might have waited for the very coming of . Anyway I can't find definite reason on why one has to live/die with , the nuclear power generation 「ゴドーを待ちながら」の解釈に関して、<意味なき世界>を生きることの意義を説いたとするのが定説だが、疑問はある。そこまで<意味>を否定してしまうと、<無意味>すら成り立たなくなるから。ベケットは<意味ある世界>を待ったかもしれない。原発とともに、<意味なき世界>を生きる理由がない ・文学であることは、曖昧であることである。ただし、この曖昧さは​、たんに明快さを否定することによって、得られるものではないと​思う。文学を書くとき、曖昧さを積極的に生産しなければならない​から。難しいのは、次の段階、即ち、ジョイスとベケットの様に、​曖昧であることの価値をみとめることである 関連記事; 日本の「空気」は、インターネットによって、壊れつつあるのか? 「空気を読む」といったら、アイルランド人です。タブーが多いから、あそこは。日本人以上に「空気を読む」場合があります。このような「空気を読む」人々といると、開放感がありませんが、しかし、そういうところから、かえって、ベケット文学のような、世界文学をリードする人間の自由な想像力が出てくるメカニズムのは非常に面白いと思います。 それに対して、「空気を読まない」の代表選手は、アメリカ人です・笑。タブーがないですからね、かれらには。(正確に言えば、タブーがないふりをしているだけかもしれませんが)。この「空気を読まない」人々といると、私の場合、やはり、開放感を感じないのです。それと、「空気を読まない」のは、あの原発推進派の都知事です・泣。ただし、アメリカ人に関しては、当時、オバマのような殆ど無名の人物の話を一年間耳を傾けた米国国民の公明さ・公平さに、私は、心から拍手しました。「空気を読まない」ゆえに、ああした公明さ・公平さが可能となるのだと思います。他者の声なき声に耳を塞いでしまう、石原のような狭量な(narrow-minded)人物には、決してできないことです。 私が注目しているのは、「空気を読み間違える」ことの大切な意義です。 「空気を読み間違える」人々、これは、どこの都市に存在する移民の人々のことです。このような「空気を読みちがえる」人々と一緒にいると、開放感があるのです。私の中で、笑うことと考えることが一緒に歩み出すのですー外の領域へ快活に連れ出してくれるのです。 そこで、問題は、twitterfacebookといった、ネットワークが、果たして、どれだけ移民的か、ということに尽きる、と、私は考えています。ちなみに、この点に関して、原発というのは、「空気を読み違う」ことを組織的に抑圧するネットワークの形の一つではないでしょうか。その証拠に、原発は、事故という避けられない必然性によって、外国人を追放してしまいます。インターネットのシステムが、開放感をともなって発展していく鍵は、移民的である必要があります。この大事なことを認識する前に、ドーンと3.11が来てしまった、そんな感想をもっております。震災直後は、twitterのなかでは、推進派と反対派が半々に分かれていましたが、このこと自体は、ネット社会の「成熟」への一歩を感じ取りました。象徴的にいえば、そういう、意見が割れる場所に、移民は、入りこみやすいからです。多孔性の、染みとおる。、穴だらけの、侵入しやすいことを、英語では、porousといいます。ベンヤミンが、強調した言葉でした。他者に開かれた全体性ですね。「空気を読み間違えること」、「移民的であること」、「多孔性であること」、最後に、原発の様な「抑圧組織をもたないこと」です 表題「名づけられぬもの」が暗示する通り、サミュエル・ベケットの世界には固有名詞が殆どありません。小説のなかで名前と出会う確率は、アイルランドで晴れる日に出会う確率よりも低いのです!(分る人には分る)。ベケットにおいて貫徹する、固有名詞に依拠しない書き方は、ジェイムス・ジョイスの世界、(あ~~~)びしょびしょに濡れちゃう、固有名詞の洪水的氾濫とは、全く正反対なんです。ですけれども、しかしながらですね、何故、ポストモダニズムの批評家ジル・ドゥルーズは、ジョイスとベケットが同じ本質を表現すると主張するのでしょうか?面白いですねー


映画は亡霊をみせるのだろうか?マルクスも亡霊を断ち切りたかった。彼の心の中で妻は理解せずに亡霊が定位する文字を追ったか?亡霊と交信するのはエンゲルスである