MEMO

‪ ペンは道具ではない、著述者の器官の一部です。 ー『増補版カフカとの対話』 昨夜は、中国からいらっしゃって東京に滞在なさっている方の言葉を通訳していただいたら、交際する人々の間で取り交わされるジェスチャーを比較なさっていたようだ。興味深くきいた。可視的なものと言説的なものの間に関係をうちたてようとするのは、言語の端にいるときに起きるのか、これは私の関心事である 世論のだれかが犯人だとする被害者への同情が法務省の純粋培養の裁判官に影響を与えるという。ここに冤罪が起きたのだ。冤罪は国家犯罪である。それを避けるために、陪審のように市井の人々の経験と知恵を裁判所で生かすはずだったのに。また生活補償など被害者を救済すること大切だといわれる ‪九段下の整体先生は学生時代にサルトルを読んでいたらしい。常に穏やかで内省的な人だったが、靖国神社にくる侵略戦争を反省しない演説の内容と公式参拝への怒りを口にした。他国の人々が反発する理由を知ろうとしなければ、その反発が繰り返されるだろうし現に繰り返されているではないかと。その通り‬ René Magritte サンフランシスコから帰ってきた人からいただいたお土産の画集。これはパイプではない、まだね。でも今日恵比寿からもどってきたら、どうかわからないよな。そーっとはいってきたワニがパイプを咥えて持ち運んじゃうかもしれないのだ 19世紀ドイツ哲学の亡霊が21世紀に徘徊してるって?「国体」の問題は難しいが、言説は離れた地域に分布する地層みたいだね、興味深い えー、19世紀ドイツ哲学の亡霊が21世紀に彷徨っているの?「霊性」くんから何か感性の成長があるのかわからないけれど、この際、「精神」ちゃんとの差異をはっきりさせていただきたいね wenn win Bild für sich betrachtet etwas klar ausdrückt wenn es eine Interpretation enthält wird es nicht durch den Kontakt mit andreren Bildern verwandeln die anderen Bilder werden keine Macht über es haben und es wird keine Macht über die anderen Bilder haben weder Aktion noch Reaktion es ist endgültig und nicht weiter verwendbar im System des Kinematographen ー Bresson (ブレッソンのシネマトグラフについての覚え書。原文はフランス語。以下は仏語訳から) もしある映像(イマージュ)が他と離して眺めたとき、 何かを明瞭に表現しているならば、またある解釈を含んでいるならば、別の映像群との接触によってそれが変化することはないだろう。別の映像は元の映像に何ら力を及ばさないし、後者も前者に対して力を及ぼすことはないだろう。作用も反作用もなう。シネマトグラフの体系においては、そういう映像は断定的で役に立たない。 後期水戸学のイデオロギーでは、国体の「体」は身体の「体」を意味知るとのことです。国体はすなわち国の身体。その身体は、(ロマン主義的に)永久に存続する有機体のイメージがありますが、明治維新150年の欺瞞は日本国家が70年で終わったことを隠蔽する点にあります。多分戦前と戦後に二回終わったのです。日本国家はソビエトと同じように70年で終わってしまいますから、Fbの友人がズバリ指摘したようにヒトの個体的持続性を超えるものではなかったということですね。あまり先のことはわかりませんが、何とか70歳まで生きればですね、最後は、国家も、国家より長く生きた自分の人生もどちらも下らないものだったとして安心できるかもしれません。近代的に言うと、国体ー国家に固有のものーは、実はどっかの外国の妄想(プロイセンの哲学とか)だったりしてね、たぶんそれほど大袈裟なものではありませんよ、作り物だからなくなっちゃう、終わってしまうということですね(笑) ‬