MEMO

この放蕩というやつには少なくとも、なにやら不変なもの、自然に根ざしていて、幻想などに支配されないものが、つねにかっかと燃えている炭火みたいに血の中にあって永遠に心を焼き、さらに長いこと、おそらくは年をとってもそんなに早く消すことのできないものがある。 

―『罪と罰


Brexit means Titanic はなにを意味するのか?


ジョイス『ダブリナーズ』のテーマはcounterpartであるといわれることもある。アイルランドとイギリスはcounterpartであるか?ダブリンからロンドンへ行くと、実際にはそれほどでもないことがリアルにわかる。しかし仮にcounterpartであると考えてみたら何が言えるかと考えることに意味があるのだ。そうして、世界と映画そのものはcounterpartと考えてみる。何がみえてくるか?世界と映画が互いに互いを巻いている。IRAはそれまでアイリッシュが知らなかったハリウッドにおけるアイルランドのイメージを利用して現実のナショナリズムを作っていることに驚く。またBrexitを推進する保守主義者がもとめている大英帝国は、案外、映画『タイタニック』のなかの‘大英帝国’を夢見ているのかもしれない。しかしどんな夢も破れをもっているように、タイタニック大英帝国’には破れがある。目覚めは死である。だから夢を発明し続けなければいけない。

これがBrexit means Titanicという意味である。


カタストロフィを制御するノセントで勇敢なキートン。これはアメリカの原風景でもある。だが面白いのはそこじゃない。わたしの関心は芸術作品みたいにロープが連接しているのかはっきりしない点にある。どうも家は起源の記号らしい。起源というものを時間の流れから解放するアナーキーなイメージをよむのだけれど




近代エピステーメーの「知の三面体」

①演繹的科学(数学/物理学)

②経験科学(生物学⇔経済学⇔言語学

③哲学的反省(同一者の思考)

①⇔②数学化しうるもの

②⇔③存在論(生命⇔疎外された人間(労働)⇔象徴諸形式)

①⇔③思考の形式化

人間諸科学は何処にも所属しない

-言葉と物-



「働く⇔生きる⇔語る」三角形の転移

①表象の体系(古典主義時代)

「語る/一般文法」⇔「分類/博物学」⇔「交換/富の分析」

↓主要点が「語る」から「働く」へ転移

②近代人間学の体系(有限性を実定化して分析する)

「労働/経済学」⇔「生命/生物学」⇔「言語/文献学」

-言葉と物-



近代人間学の三角形の転移

①「経済学/葛藤」⇔「生物学/機能」⇔「文献学/意味作用」

↓人間諸科学の発生とそれらの相互構成・解釈による〈人間〉分析の増殖図式

②「経済学⇔社会学/葛藤⇔規則」⇔「生物学⇔心理学/機能⇔規範」⇔「文献学⇔文学・神話分析/意味作用⇔体系」

-言葉と物-



人間諸科学による近代人間実定化と非-人間排除の三角形

「経済学⇔社会学/葛藤⇔規則」→「正常/異常」

「生物学⇔心理学/機能⇔規範」→「合理/非合理」

「文献学⇔文学・神話/意味作用⇔体系」→「有意味/無意味」

→「正常/異常」⇔「合理/非合理」⇔「有意味/無意味」


‪『朱子語類』の鬼神論を読んでいけば、西欧の形而上学も理解できるというから、時々アリストテレスについて考えることになった...とはいえやはり考えることは難しい。時間が必要だ。鬼神論によってロマン主義的「精神」を生き生きと理解できるようになったのは本当にラッキーだった。「精神」はわたしの構成ではない。美を存在論的に把握するわたしはもっと古典的に考えたいのだなと教えてくれたと思う。これはポストモダニズムが近代をどう批判的に理解するかの問題でもあるかもしれないけれど。

『自然学』は何とか読める議論が結構ある。アインシュタインの言説によって乗り越えられた「絶対空間」の言説はここにある(マッハとか色々あるんだろうけれど)。) アリストテレスの絶対空間」の考え方が天球(外部がない)の概念と両立しないということを知った。知ることは優先される。知れば知るほど、知ることの困難な条件が問われてくる(「鬼神論」もそういうところがある。) ほかに、「無限」とか「場所」の話を面白く読む。読みながら、美はどこに存在するか?と思い巡らす。ここに答えが書いてはいないだろうが、カオスから(カオスをコントロールする)線の運動するリズムが生まれてくる場所について哲学的に考える。絵画作品を思いながら考えていくことができる。



積分記号の中にしか棲むことができない関数があるというんだね。どうか文系の愚かな妄想をゆるしていただきたいが、カフカ文学やゴダール映画のナレーターも記号を住処としている。そこに迷い込んだ人物達はナレーターの声を聴くー虫の声だったり鳥の鳴き声だったりーが、いつの間に痕跡に還元されて外に放り出されてしまう。文学と映画が関わるのはひそひそと呟く誰の声かわからぬ魂の声との交信だけである‬ーまだ消滅していなければ。プルーストはいつも波の音を聴いて書いている...


ポストモダン的再構成によって再発見されたオブジェob-jetのDadとsurréalismeは、数学のノマド的隠語の影響のもとに、大衆との関係を失って思考の形式として再出発するproーjecの映画と映画史の構想へと繋がって行くとおもうのだけれどね。面白いのは、映画史の理論化が注釈学的思想史によっていることで、思想史としての映画史は、まだ名づけられていないが、思想史でもなく映画史でもなく、新しい学問として意味づけることができよう。その学の方法とは、原初的イマージュとそれを注釈したイマージュとの間に共通のものがないとする。それだから根拠づけるよりも差異化していくことに意味がある。そうして差異は言説をもつことによって、(言説が再構成されるとき)学が成り立つ。「事件学」「言説学」という言葉は検索してみるとまだみつからないようだけれど。(上はBadiou の本の一文を撮った)


‪どの時代も、確立した物の見方と異なる見方が起きてくるのだけれど、言語表現の成熟のなかで起きてくるときに新しい見方が常に頽廃しているなどと非難されるのは、マニエリスムとかヌーベルバーグについてみると、成熟が秩序の働きとしてみえるからで(本当は無関係)、成熟が可能にした新しい物の見方はあらわれるときは常にスキャンダルである事件としてあらわれてくるというか...


‪『変身』の家はこうだったりして?天とのリズムを保ちながら、グレゴールの魂が虫の死体を住処としたように、情念は外部にすんでいる‬。情念は概念に先行する。概念は情念によって再構成される。傍の虫からじっと見られながらカフカゲーテ文学論からの諸々の出口をかいている。


たしかに文学にその痕跡はあるとおもうのですね。<いったん'得た'>ものについて考えてみようとするのですが、どうも、'得た'ものは無かったようにおもうのですね。それなのに、わたしの中で、<失うことになった>といつも感じているのはどうしてなのか。この喪失感はわたしだけでないようなので、(「みんなのもの」という冗談でなければ)、それは文学に書かれている先験的なものじゃないかしらとも思うのですが、'先験的'といえばそれで何かがわかったわけでもありませんね。<何かを得るために何かを失う>というのは、50年前の、1968年の輝かしい精神だったでしょう。だけれどそれはまだ近代のためとしてある反近代でしかないとしたら、<失うために失うことができる>というのが、現代という暴力が剥き出しになってきた時代に対して、1968年以降思想がとる喪失ではないだろうかとやっとかんがるようになったのですけれど。(考えたのはいいのですが、遅すぎたという観念に苛まれています。) その思想は探されているというか...探されているのですけれど、その思想は、無限に広い宇宙と等価の大きさをもった懐疑の内省と、虫の死体に宿った情念というか感情というか、そういうところにすんでいるというか、点点点点...変なものですね


‪Zilu s'arrêta pour la nuit à la Porte de Piere. Le gardien de la porte lui demanda: < D'où êtes-vous ?> Zilu dit: < De chez Confucius.> L'autre dit : < N'est-ce pas celui-là qui poursuit ce qu'il sait être impossible?> ( Confucius, Les Entretiens)‬


黒板 35 ‪


ウィトゲンシュタインについて彼の人生の真ん中にあたかも「立ち入り禁止」の標識が立っているかの如く、「前期」「後期」というふうに整理される。年表の知識として役立つ。だけれど私の場合、他者の手をとって渦巻きの方向に沿って「中へ」歩く記号の形式性と、その他者と共に渦巻き沿って「外へ」歩く日常言語の意味世界とを切り離してしまってはやっていけなくなるだろう‬なあ


ジョイスが分からなくなったら声を出して読めとアイルランドではいわれる。「自分が-語るのを-聞く」だけだと思う?意識はそれが定位する声の内部にとどまるか。外部の世界を自己の中心に置く準備をしている。声は時間とともに、原理主義の奥を占めることはない‬のではないだろうか



桜の謎が深まる。「功績」あるひとを呼んでいるはずなのに、なんで反社会勢力が来ちゃっていたのかと言うが、それならば反社会勢力に「功績」があったほうがよかったのか...



何が問題となっているのか?盗まれる公的資金。腐敗と不平等。市民法の廃棄を推進するのはネオリベの世界的傾向であるが、この国がやっていることも、四字熟語「公私混同」が知らぬ、選挙制度の「公」の崩壊。彼らはそのかわりに何を確立するのか?はっきりしないが、靖国神社としての日本人のナショナリズム、理念性を否定してもアメリカと中国から自立できるとする歴史修正主義天皇教ー文化にかかわる無意識的なものの体系。ここに、一国民主主義と自立的国語という思想が合流する。あらためて現在何が問題となっているのか?思想史の欠如もある。自動仕掛けにどんどん狭くなっていくばかりの排他的にせまい物の見方を批判的に相対化していく、広さをもつ物の見方をもつことは可能だろうか。500+1000の思想史ーあらためてフーコのヨーロッパ500年の近代を批判した思想史と、明治維新150年の失敗を反省するアジア1000年を見渡す思想史



東京五輪のなかに隠蔽される原発<体制>の問題とは、不平等、汚職、政治的自由の問題。人間の「健全な」肉体に、歴史修正主義の声を聞く「健全な」精神ぐらいのものしか宿らない



世界は習近平が香港に軍事介入するかもしれないことを非常に心配しているのは、「天安門事件」が再び起きるのかと考えられているからだが、なんというか、現在の習近平の<ひとりの>中国と比べれば、皮肉だが、かつての中国は<党員の数の存在だけまだより民主的だった?>‬という話も出てきた。「礼」は「暴力」にたいする法と秩序であるという、中国の「礼」の勝手な解釈に同意していたかのようなあの日本の言説は「選挙」=「暴力」に対する「礼」=軍事介入に拍手するのかしらね?


イギリス、アルコール、ローマ・カトリックアイルランドの三大病といわれる。カトリックからの抑圧感は国家神道の場合と比べられるだろうか、反ー普遍主義の地域宗教が大切で、パワーを失ったfaith healerに焦点をあてた面白い芝居(ブライアン・フリール)なんかもあった。宗教と芝居、この二つは何処にもある


証言によると、撮影の現場ではゴダールの周りは彼の敵だらけで、意図的にそうしているのか?わからなかったが、あの意味の幅のあるモンタージュはそうして成り立ってくるのだろう



イギリス、アルコール、ローマ・カトリックアイルランドの三大病といわれる。カトリックからの抑圧感は国家神道の場合と比べられるだろうか、反ー普遍主義の地域宗教が大切で、パワーを失ったfaith healerに焦点をあてた面白い芝居(ブライアン・フリール)なんかもあった。宗教と芝居、この二つは何処にもある



注釈学の出発をもつニーチェは自分が神を殺したのだと告示するのは、宣長が神をカミと読んだ思想を喚起するが、勿論、近代主義が説明する実証主義イデオロギーの矛盾はここに無い



だからわたしは教育というものを信頼していない。


ヘーゲル以後、[…]かつて西欧において最も高度な思考であったものが今や教育の領域で最も価値のないものとみなされている活動に転落してしまったという事実が、恐らく哲学が既にその役割と機能と自律性を失ってしまったことを証明しているといえるでしょう。」ーフーコ『文学・狂気・社会』


『男の敵』は、1935年のRKOによるドラマ映画で、1922年のアイルランド独立戦争を背景としている。原作はリーアム・オフラハティの小説『The Informer』。 『暗殺のオペラ』のベルトリッチはアイルランドの裏切りのテーマに関心をもったと語っているが、裏切りというのはアイルランドの独立のまえに存在しなかった。ダブリン時代に、IRAとM 16の間で両方を百回ぐらい裏切ってとうとう自分でも一体どちらのスパイなのかわからなくなっていた男の裁判があった。それで、アイルランドにおける労働者階級出身の劇作家の「ダブル・クロス」という芝居が気になりはじめた。もうどんな芝居だったか忘れたが、階級闘争よりも「ダブル・クロス」を選んだのは、古典主義時代の<二重化>に意味ある脱出があると考えたからかしらなどとフーコ『言葉と物』を読んでおもうのである。人間のうちに発見された歴史性が炸裂したところで外部の思考できないものこそ思考にとって不可避な他者である


なぜ中国と日本とは近代の路において出会えないのか?不可能にする分散している近代を問わなければ。再び「自身を語る」こだわりをみせるときか?否、他者との関係に集中するときだ




畜生!35年後、「勿論所謂公式参拝です」(1985)が正に望む通りになったー国家神道の事実上復活と軍国主義の復活。民営化の意味も明らかにー格差と経済徴兵だったのである