柄谷行人の'交通'はどこへ消えてしまったか? (3)

柄谷行人の'交通'はどこへ消えてしまったか?
ー日本オリエンタリズムについて考える (3)

プロスぺローが孤島で自ら描いた魔法の円ー外と内とを分け隔てた円ーのように、そもそも政治的と非政治的とを分け経てる線引きが可能なのだろうか?
自身がこしらえた境界線をみながら、天安門前抗議をあくまで非政治的な性質のものであると実はあくまでも治的に解釈した柄谷行人であるが、このかれの基準からはかると、現在起きている台湾での学生と市民による抗議もまた、非政治的のカテゴリーにと区分けされてしまうのだろうか?しかしかくも市民的に、抗議している他者たちを、もし非政治的な同一者の中の他者として、政治的に措定してしまうとしたら、その言説とは何者か?と私は問うだろう。

 柄谷からもたらされたこの問いは、他ならぬ柄谷が答えるだろう。

つまりかれによれば、「構成原理」は無誤謬の神話に陥る危険性がある。だから脱構築的な批評性をもつのは「統整原理」の方だ、と、常にわれわれに教えてくれたのはカントを読みぬいたという柄谷行人だ。だから柄谷がいう〈帝国的原理〉は帝国主義的「構成原理」でなく、脱帝国主義的「統整原理」でなければならないのは当然だ。が、それは一体何故か?この問いにたいして、〈帝国的原理〉帝国主義的構成原理ではないからと補うのは丸川哲史である。(現代思想」3月号) これは、同義反復の言説に陥っている、いいかえれば「構成原理」の罠に嵌っていると言わざるをえない。つまりこれこそが、同一者の中の他者しか存在しない言説, 市民的抗議を中立化して矮小化していく言説の正体である。答えはここにある。