柄谷の'交通'はどこに消えてしまったか? ー討議<帝国・儒教・東アジア>をいかに読むか

他者との関係をいう「交通」の概念。マルクス「ドイツイデオロギー」に出てくるこの概念を、柄谷行人マルクスの可能性の中心に置いた。そうして、たとえば、柄谷氏の「資本論」の読みでは、交通は「交換様式」として投射される。しかし現実には彼の「交換様式」は、デリダが言う「起源」としていうものとなったのではないか。そうするとテクストの読みから交通が失われてくる。柄谷氏の'交通'は、帝国の'交通'に置き換えられていく。つまり他者に開かれた交通性は、他者を閉じ込め同一化していく〈世界=帝国〉性となってしまう。子安氏が指摘するように、日本知識人による「儒教〉の〈世界=帝国〉性の主張は、東アジアの多様的文化、知識を一元的〈帝国〉的文化として包摂して行く〈帝国〉的イデオロギーの先駆的主張である。」これは、柄谷言説から影響を受けてくる現在の思想空間が、<一>でしかない<一的多様体>に依存していく言説の形成とパラレルとなっている事態で、これがいかなる危険性を孕むかについては多くの言を要しない