渡辺一民氏、講義「二十世紀の精神」 (全三回) 2012年

渡辺一民氏の二十世紀の精神 第一回(配布資料)     

 2012/03/07 22:23  

 

ポイント
反ドルフェス派のシャルル・モーラスと、ドルフェス擁護派シャルル・ペギー、この立場を異にする両者は、金に支配されるブルジョア社会への危機観を表明することで、一致をみる


われわれのまわりでおこなわれつつある大きな変化を冷静に考えうるものに幸あれ。・・・この地上にいかなる力が支配しようとしているか、それに無知であるためには、保守主義者は愚鈍となり、民主主義者は無邪気とならねばなるまい。見るために創造された双の眼は、すでに昔ながらの物質の力をしかと認めているのだ。金と血である。・・・金=国家が知性を管理し、それに金をかぶせ飾りたてている。しかしじつは知性に轡をはめ眠らせているのだ。金=国家が欲するなら、知性が政治的真実を知るのを妨げることも、たとえ知性が真実を知ろうと、それを語るのを阻止することも、たとえそれを語ろうと、それを傾聴され理解されぬようにすることさえできるのである。

シャルル・モーラス(「知性の未来」1905年より


諸事件の奇妙な結合、奇妙な動きによって、近代の到来とともに力の権力の大部分、その殆どが凋落してしまった。だが、その凋落は、精神の権力に自由の場を与える事によって精神の権力に利するどころか、まさしくその逆に、他の権力の消滅は、殆ど金という唯一の力の権力に役立っただけなのである。

近代社会は堕落させる。それは都会を堕落させる。男を堕落させる。それは愛情を堕落させる。女を堕落させる。それは民族を堕落させる。子供を堕落させる。それは国家を堕落させる。家族を堕落させる。それはまた、恐らく世界で最も堕落させにくいもの(それこの常にわれわれの限界なのだが)さえ堕落させ、堕落させることに成功した。というのは、そのものは織り目のなかにあるようなおのれのうちにあって、堕落させることが奇妙にも不可能であるかのごとき、特殊な尊厳をもつものだからである。その<死>さえも堕落させられたのだ。

シャルル・ペギー、(「一時的栄光の詩事件に直面する近代社会における知識人党の状況について」1907年



ヨーロッパは、現実においてそうであるところのものに、すなわちアジア大陸の小さな岬になってしまってしまうのだろうか。それともヨーロッパは依然として、そう見えているところのもの、すなわち地上の世界の貴重な部分、地上の真珠、巨大な身体の頭脳であろうか。ヴァレリー「精神の危機」1919年



木枯らしの襲ううち捨てられた宮殿ともいえるヨーロッパの精神は、すこしずつ崩れ始め、そのひびは美しい装飾的効果をあげながらも、たえまなく広がっていくのです。・・・かつて絶対的実在は神でした。ついで人間でした。でも神につづいて人間も死んだのです。ーマルロー「西欧の誘惑」1926年より

 

 

渡辺一民氏の二十世紀の精神 ー第二回 (レジュメと配布資料)   

 2012/03/16 01:20

 

1、フランスの戦後

2、植民地戦争

            アラン・レネ「ミュリエル」
            植民地問題の二十世紀史

3、1950年代の新しい思想の胎動
             
             レヴィ=ストロース
             フーコ
             デリダ


4、五月革命とその影響

5、"栄光の三十年代"後の西欧社会の変貌

6、同時代の日本の精神史


「この動乱のなかで獲得される自由は、ある人たちが夢みることを愉しんでいる安楽な、飼い馴らされた面貌を持っているなどとはだれも考えることはできない。この恐るべき分娩は革命のそれである」
(「自由の血」、「コンパ」1944年8月24日、アルベールカミュ


「沈黙と夜との共和国のきびしい美徳をば白昼に保つような共和国」(ジャン=ポール・サルトル、「沈黙の共和国」「レ・レットル・フランセーズ」1944年11月9日)

「我々はいま知っている。我々を嘗て分割した全てのものにもかかわrず、我々は同じ精神の息子であり、おなじ<自由>によって培われた兄弟なのだと」(フランソワ・モーリアック「解放の翌日に書く」、1944年8月)


私にとって、若いアメリカ兵の屈託のない様子は、自由そのものを具現していた。私達の自由と、そしてー私達は確信していたー彼等が全世界にあまねくもたらしつつある自由とを。ヒットラームッソリーニは打倒され、フランコサラザールは追放されて、ヨーロッパはファシズムを決定的に葬りさるだろう。CNR綱領によって、フランスは社会主義の道をたどるはずになっていた。フランスの国は土台まで充分にゆさぶられたから、新たな変動を持たなくとも、その社会構造の根本的な改革を実現できる、と私達は考えていた。「コンパ」紙がスローガンとして掲げた「レジスタンスから革命へ」という言葉は、私達の希望ををそのまま表現していた。(ボーヴワール「或る戦後」)


いわゆる左翼の人間は、実践の要請と解釈の図式との合致という特権が与えられていた現代史の一時期をいまだにしがみついている。この歴史意識の黄金時代は多分もう終わったのであろう。終わったのかも知れぬと考えることは少なくともできるが、そのこと自体、黄金時代が偶然的状況に過ぎぬことを証明するものである。
クロード・レヴィ=ストロース「野生の思考」)



我々の住む地球の裏側には、延長による秩序づけに完全に捧げられた、しかも、我々にとって名づけ話し思考することが可能となるようないかなる空間にも諸存在のの増殖を配分しない、そのようなひとつの文化があるのにちがいない(フーコ「言葉と物」)


 多次元性への、また脱=直線化的時間への接近は、たんに「神話文字」に後退することではない。逆にそれは、直線的モデルに従属したあらゆる合理性を、神話書法の別の形式、別の時代として現われさせる。<エクリチュール>の省察においてこのように告知されている超=合理性や超=科学性は、それゆえ一つの人間の科学の中に閉じ込められることもできず、また科学の伝統的観念に対応することもできない。それらは唯一の同じ所作によって、人間、科学、直線を乗り越えるのだ。(ジャック・デリダ「グラマトロジーについて」)


ともかくひとつのことがたしかなのである。それは、人間が人間の知に提起されたもっとも古い問題でも、もっとも恒常的な問題でもないということだ。・・人間は、我々の思考の考古学によってその日付けの新しさが容易に示されるような発明に過ぎぬ。そして恐らくその終焉は近いのだ。 (フーコ「言葉と物」)

彼等は、かくも長い間第三世界の民衆のうえにふるってきた覇権を恥じ、もはや再び同じ過ちを繰り返すまいと誓い、西欧の自由の厳しさを彼等には強制しない事を決意した。・・・そして人権の適用範囲を西洋人に限定し・・各人に各々の文化のうちで生きる権利を保障するまでに至った (アラン・フィンケルクロート)

 

 

渡辺一民、講座「二十世紀精神史」第三回  (レジュメと配布資料)

 2012/03/28 11:24

  
   ナチスとドイツ 
   オーウェル「1984年」 
   「安楽」への全体主義  
   多国籍企業の世界制覇

2 他者の問題

3 知識人の変質

4 20世紀の総括とドストフェスキー
 
5 2011年3月11日の意味



恥辱と恐怖をもって私は二分されたヨーロッパを考える。一方では、数百万のソビエトの奴隷達がヒトラーの軍隊による解放を希い、他方では、ドイツの強制収容所の数百万の犠牲者達が最後の頼みの綱と赤軍の進撃を待ち受けている、そのようなヨーロッパを」(グスタフ・ヘルリンク「別世界」)


(1)ひとつのイデオロギーに依拠すること。(2)民衆を一定の方向に進めさせるためテロルを用いること(3)生活の普遍的規則が固有の利益の擁護と権力の意志の無制限の統治であること」(ツヴェタン・トドロフ「祖国を失ったもの」)。

これは独裁なのだろうか。否、まだ独裁には至っていない。しかし、もはや完全な民主主義でもない(・・・)歌、物語、弁舌を通して・・・どんなときでも同じ一つの声になって表現することだけがゆるされている民主主義」(ベルアール・アンリ=レヴィ「危険な純粋さ」)< 渡辺一民,二十世紀精神史>


対話という平凡な事実は、ある経路を抜けて暴力の秩序からのがれる。このことが脅威中の脅威なのである。語るとは、他者を知ると同時に自らと他者を知らしめることである。・・・他者が知られるよりさきに対話者として座を占めているこの顔と顔とを向き合わせた関係を介してしか、対話の内容が語られることも伝達されることも不可能なのだ」(エマニュエル・レヴィナス「困難な自由」)


すべてを中心化する権威体制から離れ、あくまで絶えざる周辺的存在でありつづけ、飼い馴らされていない知識人の必要性  ★知識人の意義にかんして、トドロフと見解を異にするサィード



戦いはもう終わって戦塵も収まったのだ。呪詛と、土塊と・・・の後に静寂が来た。人々はかねて望んでいた通り、一人ぽっちになった。以前の大理想を見捨てた。・・・人々は悠然として、自分がまったく一人ぽっちになったのを感じ、急に偉大なる孤独を痛感したのだ。・・・孤独になった人間は、すぐさま前より更に親密な愛情をもって、互いにひしと寄り添うに違いない。いまこそ自分達はお互い同士にとって生活の全部であると悟って、手に手にかたく握り合うに相違ない!偉大な不死の理想は消え失せて、それを新しいものに換えなければならない。いまでも不死そのものだった神に対する愛の偉大な過剰は、自然とか、人間とか、その他ありとあらゆるその葉にまで向けられるだろう。彼らは大地と人生を無節操に愛するやうになりだろう。・・・彼らは生命の短さを意識しながら、これが自分達に残された唯一のもであると直覚して、まるで夢から醒めたように慌てて互いに接吻し合い、愛することを急ぐに相違ない。(ドストフェスキー「未成年」)



「小さな太陽」を発電機としてもつことによって、資本主義は益々外部から自分を切り離していった。太陽圏の現実からも、生態系の現実からも切り離されて、自分の内部に閉じこもることによって、ひたすら拡大を続けていくシステムとして、資本主義の内閉性は高まっていった(中沢新一「日本の大転換」)