三木清『人生論ノオト』を読む - 三木清と親鸞

三木清親鸞

幻想は幻想を生む。そのとおり、3・11以降は「安全神話」が軍事的復興幻想を生んでいる。集団的自衛権という名の新植民地主義靖国ナショナリズム東京オリンピックへと、3・11以降の方向を一言で形容すれば、「成功主義」。三木清が「私は今ニーチェのモラルの根本が成功主義に對する極端な反感にあつたことを知るのである。」というとき、これは 三木が読んだ親鸞の根本でもあったことを私は理解した。「人生論ノオト」の三木が言おうとする「真の冒険」とは結局、絶望的に一切の未来が無くなったところでそれでもなにかを考えなければならない場所に立たされるという末法の世の冒険のことだ。3・11の前、例えば、最初にこれを読んだ八十年代のときはこのような理解に至ることはありえなかった。

 「…成功も人生に本質的な冒險に屬するといふことを理解するとき、成功主義は意味をなさなくなるであらう。成功を冒險の見地から理解するか、冒險を成功の見地から理解するかは、本質的に違つたことである。成功主義は後の場合であり、そこには眞の冒險はない。人生...は賭であるといふ言葉ほど勝手に理解されて濫用されてゐるものはない。 一種のスポーツとして成功を追求する者は健全である。(中略)
 成功のモラルはオプティミズムに支へられてゐる。それが人生に對する意義は主としてこのオプティミズムの意義である。オプティミズムの根柢には合理主義或ひは主知主義がなければならぬ。しかるにオプティミズムがこの方向に洗煉された場合、なほ何等か成功主義といふものが殘り得るであらうか。
 成功主義者が非合理主義者である場合、彼は恐るべきである。
近代的な冒險心と、合理主義と、オプティミズムと、進歩の觀念との混合から生れた最高のものは企業家的精神である。古代の人間理想が賢者であり、中世のそれが聖者であつたやうに、近代のそれは企業家であるといひ得るであらう。少くともそのやうに考へらるべき多くの理由がある。しかるにそれが一般にはそのやうに純粹に把握されなかつたのは近代の拜金主義の結果である。 もしひとがいくらかの權力を持つてゐるとしたら、成功主義者ほど御し易いものはないであらう。部下を御してゆく手近かな道は、彼等に立身出世のイデオロギーを吹き込むことである。
 私は今ニーチェのモラルの根本が成功主義に對する極端な反感にあつたことを知るのである。 」 「成功について」(三木清『人生論ノオト』)