渡辺一民氏、三木清と林達夫を語る   2011

渡辺一民氏、三木清林達夫を語る  

 

ミッシェル・フーコ「言葉と物」の翻訳者・渡辺一民氏が淑徳大学公開講座で、三木清林達夫についてレクチャーしています。講義で使った資料を紹介いたします。



第一回


第一次大戦は、民衆が国家と国家(フランスとドイツ)との争いに巻き込まれる、総力戦の様相を呈した。民衆の開放感と国家への不信感が戦後、支配的となった。日本の場合、関東大震災(1924)がそうした戦争と同等の意義を持つ。渡辺氏によると、日本は西欧と同じスタートラインを切ることになった





林達夫(1936年);従って彼らはいつも現実の生活の中で分析され、そして日常的存在の細部の中から採られた社会的個性的人間の実際的実証的探求の上に「人間哲学」樹立すること、つまり、「人間の分限」の普遍的形態をを求めることをその主要関心としているのである。

林達夫;フランスのモラリスト達の(思想家で物を書く人、文学的な哲学者の意;渡辺一民氏による)、人間探求の特色は、その探求の結果が単に抽象的、概念的に羅列することではなくして、必ずそれを一つの可及的に生きた具体的な像に再構成して見せることである。(「思想の文学的形態」より)

林達夫;批評家A-学界では、彼のことをジャーナリストだといふ。文壇では、彼のことをアカデミー人だといふ。学界では彼が書くものはすっかりジャーナリスチックに悪擦れしてしまったといふ。文壇では、彼の書くものはぺダンティックで鼻持ちがならぬといふ。(批評家Aは林達夫自身のこと、渡辺)

三木清(1933);既に数年このかた我が国においても精神的危機が絶えず叫ばれてきたが、その危機の最も内的なもの、いわば最も精神的なもの、従ってまた最も魅惑的であり得るものは、従来なほ一般には真実に経験されていなかったといふことが出来る。

三木清(1933);ヨーロッパにおいてはもちろんかやうな精神的危機は既に以前からその精神的な表現を生産している。・・・・・・ひとはそれらをおしなべて、不安の文学、不安の神学、不安の哲学といふやうに考へることができる。

三木清(1933)日本では昨年あたりではかやうな不安の思想の影響は局部的であった。青年の心を圧倒的に支配したやうに思えたのはマルクス主義であった。至る所きき鮮明であり、どこでも威勢が好かった。とにかく「如何に活動すべきか」が問題であった。・・しかし反動期が順序としてやって来た

三木清(1933);外部に阻まれた青年知識人の心はおのづから内部に引き込まれるだろう。社会的不安は精神的不安となり、しかも「内面化」される。・・・かくの如き危機は単なる文化的危機と直ちに同一視することのできぬ一つの「精神的危機」である。・・・・

三木清(1933);そしてこの危機は、青年インテリゲンチャにとって魅惑的でなくはないだけに、一層危険でもある。(「不安の思想とその超克」)



第二回

林達夫の反時代的精神としての随想(「作庭記」一九三八年九月から);身についた「外国感覚(サンス・デトランジェ)」などは振り落とす方がいい時世でありながら、私の場合、歳とともに「日本的事物」が段々と縁遠いものになってゆくのを見るのは不幸である。以前にはバタ臭いことの好きだった・・

林達夫の反時代的精神としての随想(「作庭記」);・・周囲の人々がいかにも中年の日本人らしい茶に凝り能に奔り文人画を描き出したりするやうになっても、私にはまるでこれに追随してゆく興味も能力もない。却って嘗てはあれほど嫌ひだったアメリカといふ国がこの頃になってひどくなつかしいもの

林達夫の反時代的精神としての随想(「作庭記」);・・になってきたりして、建築などでもオールド・イングリッシュに劣らず、アーリー・アメリカンが好ましいものに思はれ出して来た。・・(林は鵠沼で英国式庭園をつくることによって、日本人の土に対する愛着と風土を拒否しようとした。「本多」)


林達夫の反時代的精神としての随想(「作庭記」)ふと幼児のことを想い出すと、極まって眼底に浮かぶのは、丁度永井荷風氏の「あめりか物語」の中に、描いてあるやうな、アメリカ西海岸の北寄りの地方の霧深い林地(ウッドランド)であり、その「林地」を唄った作曲家マグダウェルの歌謡を聞くと


林達夫の反時代的精神としての随想(「作庭記」);いつも日本の子守歌以上に心のどこかが揺られる。去年のいつか、「ボヘミアン・ガール」といふ軽歌劇のトーキーを聞きながら、私は故郷に帰ったやうなattendrissement(「感動」の意;本多)をおぼえ、その下らぬ映画を二度も・・

林達夫の反時代的精神としての随想(「作庭記」);・・見に行ったことがある。昔、小さい時によく耳にした音楽だったのであらう。私は幼時カナダに近いアメリカ合衆国の海港の山の手で育ち、アメリカ人の子供と一緒にアメリカの幼稚園に通ひ、アメリカ人の家庭教師に就き、・・・



林達夫の反時代的精神としての随想(「作庭記」);そして、日本語よりも、アメリカ語の方が達者のやうな時代を持った。(戦後、久野収との対談で、「私の努力は、異人扱い、異人種を払拭して普通の子供になることであった」、「福井の田舎で心の捩れた行儀の悪い偏屈者」だったと語った。「本多」)

林達夫の反時代的精神としての随想(「作庭記」);この時代の影響が目に見えて生活の表面にもあらはれてきたのは、「西洋かぶれ」の人々が「日本的回帰」をやり出す丁度その同じ年齢に達してからのことである。ある種の「日本式」生活様式や生活雰囲気や文化形態は殆ど嫌悪に近い感情で、・・・

林達夫の反時代的精神としての随想(「作庭記」);・・・これを疎外するやうになってきた。一種の「第二世」的mentalité(カタカナ外来語の、メンタリティーのフランス語、「本多」)が、私の精神の中に形づくられていたのである。


・コメント;渡辺一民氏によると、特異な幼児体験と防御の体制、この両者は、林達夫において互いに切り離すことができない。帰国後「普通の子供になる」努力の中で、極端なナショナリズムに被れて歌舞伎のファンとなった。自由な気風の一高入学後、西洋書に囲まれてこのナショナリズムは崩れてしまう。ソビエトという新しい西欧を求めた

・ニ十世紀の思想史の上で決定的な事件は、三十年代のスターリンヒトラーの協調であった。その結果、左翼から右翼まで知識人が連帯した仏の人民戦線が崩壊の危機に直面。ソビエトを「故郷」として発明した、林の抵抗にも甚大な影響を与えた。西田の普遍的国家観は屈服。田辺元ファシズムの時代が続く

・アンナ・ハレントの例を挙げながら、渡辺氏が強調するのは、日本人の知識人は、世界の知識人と比べてみると「珍しい」。東欧の知識人は国家を絶対化することは起きない。国家は自ら選ぶものである。林の新しい西欧「ソビエト」は、日本回帰(国家の絶対化)への抵抗をなした、故郷ならざる故郷であった

林達夫(「新スコラ時代」1944年;都新聞);素直に言へば、私はこの数年間あらゆる事象に対して首を傾げたまま何の身動きもしなかった人間のひとりである。感じ易い、軽信的な性質ゆえに誤りばかり犯して来た過去の自分に省みて、ストア的な無感動を厳格に自己に課してきたといふ

10、林達夫(「新スコラ時代」1944年);・・精神的な意味でも、うはべと内底とを正しく識別せねば何らこの世に生きる上で意味がないといふ知的なな意味でも。それゆえに私は時代に対して今更らしく真向から発言する資格も気持ちも一向に持たないのである。私の杞憂に過ぎぬと思ひたかったものが

11、林達夫(「新スコラ時代」1944年);着々現実の事態の中にあらはれはじめ、懐疑的に見ていた事柄が果たして否定的な様相をとりはじめたとて大して驚きもしなければ慌てもしない。

12、(林達夫「歴史の暮方」);絶望の唄を唄ふのはまだ早い、と人は云ふかも知れない。しかし、私はもう三年も五年も前から何の明るい前途の曙光さへ認めることができないでいる。誰のために仕事をしているのか、何に希望をつなぐべきなのか、それがさっぱりわからなくなってしまっているのだ。・・

13、(林達夫「歴史の暮方」);私には、納得の行かぬ、目先の暗くなることだらけである。いや、実はわかりすぎるほどよくわかっているのだ。受けられないのだ、無理に呑み込むと嘔吐の発作が起きるのだ。私のペシミズムは聡明さから来るのものではなくして、このひ弱い体質から来る。

14、(林達夫「歴史の暮方」);私はこの頃自分の書くものに急に「私」的な調子の出てきたことに気がついている。以前にはあれほど注意して避けていた「私事」や「心境」めいた事ばかり語っているやうだ。何故だろう。社会関係を見失ってしまったからだ。

15、(林達夫「歴史の暮方」);・・私の所属していると思って、あてにしていた集団が失くなってしまったからだ。ほんとうは失くなったのではなくて、変はつたのであろう。だが、私にとっては、どっちみち同じことだ。私は変はっていない。容易に変はれない自分の頑固さを持て余している。・・・

16、林達夫(「歴史の暮方」);・・時代に取り残された人間とは、私の如きものを云ふのであろう。だが、それを寂しくも心残りにも思っていない。目前に見るこんな「閉ざされた社会」なんかにもはやこだはっている気持ちは一向にないからである。

17、林達夫(「歴史の暮方」);誰が何と云っても、これは大変な大空位時代である。・・・出口のない、窒息するやうな世界の重荷に喘いでいる人間の絶望の声、諦念、血路を拓こうと必死になっている痛ましい努力ーそれが見えない、また見えても見えないふりをしている思想家や作家は、

18、林達夫(「歴史の暮方」);・・少なくとも私には縁なき衆生である。私はいつも哲学や文学からは、いはば裏道の忍びやかな唄声を聞きとりたいと願っていた。bêtise humaineの哀歌(エレジー)を!華麗な大道の行列や行進には、全く興味をもたなかった。・・・

19、林達夫(「歴史の暮方」);哲学や文学が行進のプログラムとなっては、もはやそれらは哲学でも文学でもない。ー(「コメント・本多」;渡辺一民氏によると、ソビエトとドイツの条約締結が人民戦線に与えた負の影響は甚大であった。林達夫のような、日本の知識人にも影響が及んだのである。)



第三回



林達夫(反語的精神、1946年)

反語家はその本質上誤解されることを避け得ません。しかし僕はそれを平気で甘受し、否、ひそかにこれを快としているほどに悪魔的でさへあります。反語家の真の危険は、外部からスキャンダル呼ばはりされて,立場を悪くするという点にあるのではなく,
・・むしろ内部において一種の心理的陥没におちこむことが往々にしてあるということです。反語家は時とするとジキル博士とハイド氏のようなものである。彼の仮面が第二の性質となり、それがあまりに「彼の役割の皮膚」の中に入りすぎて、その第一と第二の間を往復しているうちに、どっちがより本物であるかが分らなくなってしまへませう。もっと卑俗な譬へを持ち出せばー反語家はあの諜報者やプロヴァカトールに幾分似ているともいへませう。・・・あんまり熱心に自分の役目を演じすぎると、一体自分は軍国主義に味方しているのか、それとも革命勢力に協力しているのかわからなくなる・・・。(コメント;花田清輝によると、林はbitter fool (sly fool) とdry foolの分裂の中にいた)


林達夫(「新しい幕開け」1950); 戦後五年にしてやうやく我々の政治の化けの皮剥がれかかってきたやうであるが、例によってそれが正体をあらはしてからやっと幻滅を感じそれに食ってかかり始めた人々のあることは滑稽である。人のよい知識人が、五年前、「だまされていた」と大声で告白し、こんどこそは「だまされない」と建気な覚悟のほどを公衆の面目に示しているのを見かけたが、さういふ口の下から又ぞろどうしても「だまされている」としか思へない軽拳盲動をぬけぬけとやっていたのだから、唖然として物を云ふ気にもなれない。えてして、政治にうとい、政治のことに深く思ひを致したことのない人間ほど、軽はずみに政治にとびこみ、政治の犠牲になるといふのが、わが国知識階級の常套である。政治くらい、人の善意を翻弄し、実践的勇気を悪用するものはない。

私はあの八月十五日全面降伏の報をきいたとき、文字通りほうだとして涙をとどめ得なかった。わが身のどこにもそんなにもたくさん涙がひそんでいるかと思われるほど、あとからあとから涙がこぼれ落ちた。恐らくそれまでの半生に私の流した涙の全量に匹敵する量であったろう。複雑な、しかも単純なやりばのない無念さであった。私の心境は日本の全過去と全未来とをありありと見て取ってしまったのである。「日本よ、さらば」、それが私の感慨であり、心の心棒がそのとき音もなく真二つに折れてしまった。


・・新しき日本とはアメリカ化される日本のことだろうーさふいふこれからの日本に私は何の興味も期待も持つことはできなかった。私は良かれ悪かれ昔気質の明治の子である。西洋に追ひつき、追い越すといふことが、志ある我々「洋学派」の気概であった。「洋服乞食」に成り下がることは、私の矜持が許さない。「黙秘」も文筆家の一つの語り方といふものであろう。事アメリカに関する限り、私は頑強に黙秘戦術をとろうと思った。コンフォルミスムには、由来私は無縁な人間であったのだ。





渡辺一民氏の公開講座(3回)が終わった。名訳であるフーコ「言葉と物」のお仕事が有名だが、林達夫岸田国士の研究もなさった。次は、アポリネールや東欧の映画について講義したいとのこと。林達夫は、フーコに先駆けて、知の考古学というヴィジオンを独自に打ち出していたことをご指摘なさっていた