伊藤仁斎とマルクス

伊藤仁斎マルクス

森嶋ノイマンモデルとは、マルクス経済学に近代経済学を適用したモデルのことである。その均衡成長率は、貯蓄性向(支出構造)と剰余価値率(分配構造)と資本の有機的構成(技術的構造)とによって規定されている事を示した。現在に役立つ視点がある。ラディカルにかんがえると、森嶋が再構成したマルクスの式は、理論理性が、地球持続可能性が無限小になるまで、資本の有機的構成と剰余価値率が共に無限大になり得ることを証明ているとも考えられる。ここで、カントから考えてみよう。実践理性は、他者を道具にせず人格として尊重せよ!と命じる。理論理性はマルクス・モデルのこと。理論理性は、前述したように、地球持続可能性が無限小になるまで、資本の有機的構成と剰余価値率が共に無限大になっていく現実の道具的世界のメカニズムを呈示した。一方、実践理性的には、資本主義も道具的世界を乗り越えて他者と共存しなければならないというのだ。
今日における他者とは、地球持続可能性のこと。問題は、道具的世界に属する資本主義が道具的世界を乗り越えることが可能かということ。カントの理論理性によれば、他者に人格として向き合え!は現実において成り立たない。だから実践理性は、この命題に対する「信」を確保しようとするのである。子安氏によると、このカントと同様なことは、伊藤仁斎が説いていた。子安氏によると(公治長第五 第12章の注釈学的解説)、カントと伊藤仁斎は同時代の思想家である。私の独断であるけれど、天道ち仁斎が呼ぶものは地球持続可能性と関係がある概念だとおもった。
この問題を考えるうえで、柄谷のようには、特権的にカントに依って考えなければ考えることができなくなるものでは決してない。仁斎からいかにマルクスを見渡していくか?これが21世紀に生きる儒者の探求課題である。再び森嶋のモデルをくりかえすまでもなく、理論理性(「資本論」)においては、資本主義社会においては、地球持続可能性は不可能。実践理性(初期マルクスのテクスト群)から、地球持続可能性である天道に委ねた「信」の構造を読むことができるか?仁斎とマルクスが共同体にたいして要求していた「信」を学ぶこと。その「信」がなければ「理」すら成り立たないわからないほどの、アベノミックスの成長の悪夢から、目覚めるために!