<方法としての死者の声>とはなにか?

国産の'心神'と名乗る戦闘機のグロテスクな光景には全く言葉もありません。そもそも、世界一豊かなアメリカの国益に沿うために世界の最も貧困な諸地域の人々を容赦なく爆撃してやまない、そんなたたかう国家の「心」の中には、どんな'神'もいないと思います。戦争において歯止めが利かなくなる理由の一つに、たたかう国家の「心」の中には、たたかう国家しかいないということがあります。だから靖国神社に祀られるのは、特権的に国家の戦争に役立った兵隊だけだということに。このイデオロギーの虚説から、そこに沖縄で犠牲になった非戦闘員の人々が祀られることはあり得ません。(ただしこの点については、その戦死した兵隊達の無視できない少なくない部分が適切に祀られているのかどうか疑う必要もあるかもしれませんがね。) 死者達を差別せずの考え方を土台に、外国の例を参考にしながら公的な戦死者墓地を創り、A級戦犯靖国の霊については全国各地の神社に委ねれば十分であるとおもいます。念のために、最後にこの靖国問題に関しては、死は死体とは関係がありません。死体をみる内的な感覚から死者に過大な思入れをもつと('日本人'的に)、結局この国の政治家達に巻き込まれていく危険性があります。傲慢な彼らのやりたい放題にNO!を言うのは、徹底的に死を観念化していく<方法としての死者の声>からだと思います

 


神よ、なんという
苦しみだ
何事をも
感じてしまう
力を授かったのは、
恐ろしいことだ。
ヴァージニア・ウルフ「波」