SUMMARY <No.4> ー われわれの分裂か、'戦後日本論ー沖縄から見る'、子安「帝国か民主か」より

・子安氏は、戦後日本の分裂をいう説得力を欠いたありがちな分析をひとつ紹介しこれを批判している。その分析によれば、「日本はまず2000万のアジアの死者に謝罪すべきであると護憲派の平和主義者は主張する。それに対して、300万の自国の死者、特に兵士として逝った死者たちへの自分たちへの哀悼がまずなされなければならないと、自主的改憲派、あるいは靖国派は主張する。」(加藤典洋)。ここで、自主的改憲派がそのまま、アジアの死者を無視する靖国派に一致することをあらためて確認できる。

・「「祀られる死者と祀られない死者」とがいう二様の死者に対応する分裂が、われわれの間にあるのではない。もし分裂があるとすれば、死者を選別しようとする国家とその選別を拒絶するわれわれとの間にあるのである」。そうしてこの国家とわれわれの間の分裂を解決しようとして、無理なナショナリズムがもちだされる。

 

「何度読んでも分からない加藤典洋の「ねじれ」論を、私はこの稿を書きながらまた読んでみた。彼は戦後日本のねじれ現象を、国民における平和憲法の受容のあり方に代表的に見ている。戦争放棄条項(第九条) をもつこのいわゆる平和憲法を敗戦国日本の国民はマッカーサーから与えられたのである。この与えられた憲法によって平和立国という戦後日本の国是を日本人は確立したのである。これは加藤は敗戦後日本のねじれという。だがなぜこれがねじれであるのかは、私が代弁する言葉によっては分からないだろう。私にもあま...り分かっていないのだから加藤の代行する言葉によって見てみよう。
「要するに、いかなる戦力ももたない、「武力による威嚇又は武力の行使」を国際紛争解決の手段としてはどのようなことがあっても認めない、という条項が、原子爆弾という当時最大の「武力による威嚇」の下に押しつけられ、また、さしたる抵抗もなく、受け取られているのである。/わたしが戦後の原点にあると考える「ねじれ」の一つは、この憲法の手にされ方と、その内容の間の矛盾、自家撞着からくる。/しかし、それだけではない。その矛盾が、指摘されない。というより、その矛盾、「ねじれ」の中にある「汚れ」がわたし達によって直視されず、わたし達においてまた、抑圧されてしまう。・・・しかし、わたし達はこれを「押しつけられ」、その後、この価値観を否定できない、と自分で感じるようになった。わたし達は説得された。しかし説得されただけではなくて、いわばその説得される主体ごと変わってしまったのだ。」

長々と加藤のいうところを引いたが、こう引くことによって彼のいうねじれはいわゆる平和憲法を押しつけられたものとみなすことからなりたっているようだ。原爆を最初に使用したアメリカ、人類学的原罪を負う汚れた戦勝国アメリカによって敗戦国日本に押しつけられた非武装的平和主義の日本国憲法、ここに戦後日本のねじれの大本があると加藤はいうのである。「押しつけ憲法」自体がもっているねじれは、敗戦国日本に押しつけられた非武装的平和主義をいつの間にか、自分のものであるかのようにしていった日本人の国民意識のねじれとして内在化させる。加藤はもっぱらこの後者のねじれ、すなわち戦後日本人の意識・心理のねじれの問題にするのである。
戦後日本人の意識のねじれは二重人格的なわれわれの分裂をもたらしていると加藤はいう。戦後憲法の平和主義的理念を己れのものとして日本に根づかせようとする護憲派のわれわれがいる。一方、憲法が押しつけられたものという事実を重視し、自分の憲法を制定すべしという改憲派のわれわれがいる。「簡単にいうなら、日本の社会で改憲派護憲派、保守と革新という対立をささえているのは、いわばジキル氏とハイド氏といったそれぞれ分裂した人格の片われの表現態にほかならない」戦後日本は分裂したわれわれからなっていると加藤はいうのである。これは戦争の死者追悼をめぐるねじれ、あるいは分裂でもある。日本はまず2000万のアジアの死者に謝罪すべきであると護憲派の平和主義者は主張する。それに対して、300万の自国の死者、特に兵士として逝った死者たちへの自分たちへの哀悼がまずなされなければならないと、自主的改憲派、あるいは靖国派は主張する。もちろん私はここで加藤によって簡略された対立図式にしたがってわれわれの分裂を記しているのである。加藤がいう言葉をもここに引いておこう。

「日本の護憲派、平和主義者は、戦争の死者を弔うという時、まず戦争で死んだ「無辜の死者」を先にたてる。その中身は、肉親であり、原爆など戦災の死者であり、二千万のアジアの死者であり、そこに、侵略者である「汚れ」た死者は、位置を与えられていない。ここで三百万の自国の死者はいわば日陰者の位置におかれるので、あの靖国問題は、このことの正確な陰画、この「空白」を埋めるべく三百万の自国の死者を「清い」存在(英霊)としおて弔おうという内向きの自己と、ハイド氏の企てなのである」

 

「私はさきに「祀られる死者(数えられる死者)と祀られない死者(数えられない死者)」がいるといった。だが戦争の犠牲者にこの二種の札を付けた死者があるわけではない。死者を選別するのは、あくまで生者である。祀る死者として選別し、数え上げるのは国家である。それは決してわれわれではない。「祀られる死者と祀られない死者」という二様の死者に対応する分裂が、われわれの間にあるのではない。もし分裂があるとすれば、死者を選別しようとする国家とその選別を拒絶するわれわれとの間にあるのである。加藤の「ねじれ」論の不可解さは、ねじれや分裂をわれわれのものとしてしまうことに由来する。ねじれや分裂をわれわれのものとする加藤のいうわれわれとは、国家と同一化した「われ...われ国民」である。加藤の「ねじれ」論とは、間違いなくナショナリストのものである。だから加藤ではこのねじれを正すこと、すなわちナショナリズムの筋を通すこと、われわれの国家日本の筋を通すことが求められるのである。「三百万の自国の死者への哀悼をつうじて二千万の死者への謝罪へといたる道が編み出されなければ、わたし達にこの「ねじれ」から回復する方策はない、と考える。」

ーわれわれの分裂か、'戦後日本論ー沖縄から見る'、子安「帝国か民主か」より