読むことの快楽、見ることの快楽、学ぶことの快楽

読むことの快楽、見ることの快楽、学ぶことの快楽

論語」のなかで本当に孔子が言った言葉がどれだけあるのかは本当はわかりません。孔子の死後、後世に書き足された言葉が多くあるのですね。書き足されたり、削られたり、ふたたび書き足されたりと、本としての「論語」も、今日のものよりももっと厚かった時代のことが推測されます。「儒教」という言葉も孔子は知らなかったか、知っていても自分の「学」において意図していなかった言葉でした。この「論語」がなにを語っているかは、江戸時代の思想家(伊藤仁斎)による、朱子の「論語」解釈の批判をとおして、なんとか理解の条件を理解できるぐらいです。朱子の解釈は「論語」を捉えるフレームとしてこれを読む必要もありますが、仁斎の脱構築的な注釈によって朱子の解釈を批判的にみていくと、依拠できるような解釈は殆ど残っていきません。「論語」は読むことができない原初的テクストとして存在しています。ただ孔子の文献学者としての仕事ぶりをみることができます。孔子以前には古の言葉が存在しなかったといえるほど、かれ以前の古典の本、すなわち古えの言葉を初めて編...集したのですね。現在にひきつけて、これと比べられる話は、ゴダール以前は、ある映画作品がいつ何年に存在したということしかいわれなかったのに、70年代後半から着手されるかれの映画史的編集によって、ある体系性をもって、その作品の映像がどの作品の映像よりも<前>なのか<後>なのかということがはじめて意識されるようになったのですね。時間のキャンバスに映画の歴史が風景として現れてくるという驚き! <前>に存在したものを見ているときになぜかくも楽しいのかということです。ただ古の言葉とか過去の映画は一つ二つみただけでは考えることはできない。<前>に存在したものは、千、二千と見ていかないと考える事ができませんが、視線に先行してこの<前>という観念が存在していることの奇妙さ不思議さに絡み取られていく思考が、ここで書きたかった快楽なのです。またこのほかに、学ぶことの快楽に、自分の殻をやぶって大きな世界を知る喜びがあるとおもうのですけど、宗教というのもこういう喜びがあるのではないかと想像はしています。「法哲学」のヘーゲルがいうようには、国家が学をとらえるときは、国家が宗教を取り込むときのような腐敗が起きない、とはおもいません。やはり学びも国家意識のなかで腐敗してしまうと怖れます。この点については、存在していたらの話ですが、孔子も偉い人に仕えるチャンスもあったと思うのですけれど、いつまでも諸国を放浪していたのは、国家から逃げていたようにおもえて仕方ありません。これは、かれが学を腐らせたくなかったからか?「論語塾」で学んだこと。孔子は自分の学問の「終わり」のことは、顔回の死後、鋭く意識していたことです。私の理解では、最愛の最も信頼していた後継者の死は、孔子の内部のなかで、知(学)が 非知(宗教)に一番接近した実存的なときだったかもしれません。 学びは腐敗することは決してありませんでしたが、終わらなければならなかった。この唯物論的構成性は、日本人の自然観の<腐敗したもの=消滅するもの> <腐敗しないもの=生成するもの>とは違いますがね