マーテル塔の'日本知識人' ー 柄谷行人と佐藤優

ジェイムス・ジョイスの「ユリシーズ」のテレマコス挿話における<マーテル塔>は、近代のいわば'外界なき'前衛精神の決定的勝利を意味していたといわれます。言い換えれば、<マーテル塔>は、「ユリシーズ」が書かれた1920年代ヨーロッパ知識人の特権的な場所をあらわしていたというのです。ところで柄谷行人の、(最近は佐藤優の)、特権性はただ彼らが「資本論」を読んでいる、あるいは解釈できるということに由来するのだが、かくもこのような日本知識人の「資本論」の他に依るべきテクストが無いという特権的読みが非常に<マーテル塔>的にみえてしまうのは一体なぜなのでしょうか?

この問題をデリダの批評に関連づけてとらえてみようとおもいます。なににしてもデリダの本を読む大前提として、近代ヨーロッパのエクリチュールの思考としての基底に、ギリシャ語とラテン語が存在したことを知らなければなりません。同様に、東アジアが思考を獲得するためには、原初的テクストを読む漢字文化圏として成立しなければならなかったのです。近代の<読み>が"外界' の排除として始まったことは何を意味するのか?近代の<読み>にとっては、古代ギリシャ語・ラテン語、そして漢字、から与えられるエクリチュール性が二次的なものとして配置されてくるのです。結局ジョイスを除いて二十年代前衛芸術家達は、声の故郷、ファシズムへ傾倒しました。現代アイルランド人の判読できない古代ケルトに遡ると想定されたゲール語で唱える知識達人はマーテル塔から資本主義の問題を分析してみせますが、それは、「資本論」だけに依るとしながらそこに記述されてはいない国家や民族の役割を心の中に書かれた文字(=声)に従って読み出す柄谷の姿とかわりありません。エクリチュールの外部性をいうデリダの問題提起は、ゴダールの仕事に分かりやすくみることができる (シナリオ=声の内部から外に出る映像のエクリチュール性)。柄谷の言うように本当に、この路(帝国=声)しかないのでしょうか?この路の内部に他の路が存在しければ最悪の映画をみるだろうという危機感