アディのこと

アディのこと

帰国後5年で綴り字の間違いが多くなってきたのは、やはり英語の'音'を忘れてきたからだろうと思います。海外の記憶が怪しくなってきた中で、書きにくかったことをそのまましておくよりは、まとまりのない文でも書いておこうか思うのですが、その一つが、ロンドン時代の友人アディのことです。ヘブライ語の看板が立ち並ぶ通りにあった、アラブ人、ユダヤ人、ポーランド人などの出稼ぎ移民の社交場と化していた喫茶店でなにげなく知り合いとなりました。このアルジェリアから亡命してきたアラブ人は、現地の革命政権に捕まった両親とともに拷問を受けた子供時代のトラウマのことを、母国語と異なる不利な外国語(英語)で語らなくてはなりませんでした。エレガントな英語の表現と内容の不均衡。アディは私を前にして喋るときは常にイギリス人のように言葉に凝り教訓的に語ったのは、宗教の背景も考えられますが、多分アラブ人たちの多くがそのようにイギリス人のように語らなければ、偏見と誤解のうちに一方的に差別されるリスクを常に意識していのかもしれません。ある日, 喫茶店で時間潰しにきたときです。アラビア語の曲線性と、ヘブライ語と漢字の直線性を念頭に描いた絵の横に、アラビア語を書いて見せてくれと頼んだときは、思い出の中では、アディは驚きの表情を示し、変な奴と思っただろうか。「いまわたしはTakashiと喫茶店でコーヒーを飲んでいる」と書いてくれました。この点は説明を要するかもしれません。一般的にヨーロッパの人々は、異国から持ち帰ったエキゾチックなお土産を見るような好奇心はありますが、ただそれだけのこと。残念ながら、非ヨーロッパ語圏の文字など何物でもないと思っています。無用な文字などは見せてくれるなというのが日常の現実です。この傾向は教育が高いインテリになればなるほど強いようです。例えば、アカデミックな講演会に出席しますと、知識人が依るのは、語る言葉、正しく言えば、古典ギリシャラテン語の文法性に規定された音声であるという強い印象をもちます。ちなみに私の語る言葉は、ジャパニーズ・イングリッシュ(上添字)とちょっぴりアイリッシュ・イングリッシュ(下添字)の混合テンソル!の如き救いがないbroken Englishで仕方がないのでありますが、ただその私がみても、これは酷すぎる英語じゃないかと呆れても、聞いたこともないアクセントが時々漂っていても、非英語圏のインテリの英語がそれでも立派に通じているのは、やはり聞き手との間において共有している文法性に決定的に依ることなのだとおもいます。あたかもスポットライト(照明)によって照らし出された知識人の語る言葉の優位、ギリシャラテン語の文法性に規定された音声の優位、ここになんとも反論できないようなある種の優越性があることは明らかです。そして、大事な点ですが、対抗的に、民族主義の(ロゴスを超えた)共同体精神が、同じこの語る言葉を住処としているということは、デリダが説明した通りです。ここで、'対抗的に'、という意味は、互いに敵同士なのに、だからこそ、補い合って、というような意味ですね。ただし付言しておきたいのは、このようなヨーロッパ人であることに属しているにもかかわらず、そうでないことを強いられているような人々がいるということです。貧しいヨーロッパの国々からきた人々の非存在性のことです。バブル破たんで巨大な債務超過を背負ったPIGS、すなわち、ポルトガル(P)、アイルランド(I)、ギリシャ(G)、スペイン(S)ですね。ギリシャなどはヨーロッパの中のヨーロッパであるとみなされがちですが、現実には自らを代表する声をもっていません。EUが語るギリシャ、ドイツが語るギリシャしかなかったのですから、今回の選挙の結果はこれに抗する政治的なものと考えることできるのではないかと注目している次第です。
さて音声の優位で意味されることは、音声の文字に対する優位です。われわれアジア人が自らの文字を公に開示することの気まずさは、果たして何と喩えることができるでしょうか?大胆にいってしまうと、それは、多文化主義(マルチカルチュアリズム)のロンドンでは顔を描いてはならないような約束のプレッシャーと似ているものではないかと仮説を立ててみます。感覚的に顔を描くとそれはかならずどこかの人種をあらわすことになり、不公平なヤバイ感じがありました。ロンドンにあっては、他の人種が作品をどうみるのかを常にかんがえなければなりません。そうでないと、人種差別主義者のレッテルを張られる危険があるほどです。ある意味で、顔は禁じられた偶像でした。と、禁欲的に、おのずと幾何学的な図形とか記号をつかって抽象的に表現することになっていきますが、これとは正反対に、抽象的でないものに依拠することによって、かえってより抽象性が高まることもあるのです。つまりここで抽象的でないものとは、自分の場合について思い出すと、漢字言語、あるいは、'ヤマト言葉'の故郷である漢字言語だと考えた時期があったかもしれません。しかし新たに問題提起。ヤマト言葉の故郷はほんとうに漢字言語なのか?音(ヤマト言葉)の故郷は映像(漢字言語)なのだろうか?ここでサイレント映画の映像をかんがえてみてもらったらわかるとおもうのですが、映像をみているときに映像をみてるのは何故なのかという問いは起きてくることはあります。しかしそこまで純粋に真っ直ぐに思考の対象を追求していくと、映像によっては音(語る言葉)を見出すことは不可能なほどです。映像は、還元できない現れの形式でしかありません。同様に、思考が漢字言語を見るときに、思考が音(ヤマト言葉)を聞くことは不可能。結局どこにも故郷というものが存在しないという結論が帰国後の現在の思いと重なるのですが。したがって存在するのは、ヴェーィユが言っていた故郷性だけです。(この故郷性はゴダールが「パッション」のときから考えることになりました。) 仮に故郷の存在をみとめるとしても、そのような故郷に安心して帰るためには、渡辺一民氏が言っていたように、まず豊かさが何であったのかを根本から問い直すことがなければなりません。ここでいう豊かさは、ロゴス(二項対立)と民族主義の優越性のこととして理解できるのではないでしょうか。3・11以降はこのことが切実になってきましたージャパン・アズ・ナンバーワンというナショナリズムに駆られた豊かさの破たんに生きているわれわれにとっては。最後に、これにかんして、大正時代の時枝誠記の反時代的な位置について言及せず終わるわけにはいきません。音声優位主義の言説がそれを言う主体(時枝)に触発した意味が何であったかをかんがえるときに、言語の故郷に帰ることを試みた時枝が必然として思考の形式に出会うことになったとおもいます。この思考の形式のなかで時枝が本居宣長の思考を辿ることになったという可能性については、子安氏の「漢字論」(岩波書店)に分析されていることが参考になりますが、大まかにいってしまうと、原初の書記的テクスト「古事記」には書く運動の脈略のない痕跡があるだけで、帰るべきとされたヤマト言葉という観念的統一は全部宣長の発明性に依ることだったのです。この発明性は、加藤周一が称えたような宣長の近代的な実証性とは全く関係がありません。宣長が近代的な意味で実証的であれば、日本語の実体的な起源を探すためにインドに行ったりノルウエーに行かなかければならなかったことでしょう、鎖国でしたけどね(笑)。どの母国語にも故郷がないことを知るためには、あるいはかえって不可能性としての故郷性の批判的意義を知るためには、大正時代の知識人が行ったようにヨーロッパのどこかの国と日本の間を行来往来するだけで十分かもしれません。三浦梅園的に不動点にある彷徨性が大事。これは交通性といえるほどのものかわかりませんが。と、最初に心配したように、見事にまとまりのない文になりました。