思想はいかに自立するのか? - これからだれが'自発性'を語るのかーー

秘密保護法でなにが言われているのかさっぱりわかりませんが、これから起きることははっきりとわかります。「構造と力」の著者は最近は、繋がりすぎてもヤバイというようなことを言っているようですが、これは、何のためにかわからない集団的自衛権の戦争と徴兵の時代にあって無理矢理に一億の繋がりを求めてくる新国民道徳にたいして批判的にどう抵抗するかをいう実践的な言葉かもしれません。ところでこの浅田彰は80年代になにを言ったかというと、一言で言うと、山口 昌男「文化と両義性」に書いてあるような祭祀的な構造主義ではもうやっていけないということでした。例えば、山口は他の文化人類学者と同様に演劇に関心があったようですが、(宣長を喚起する?) かれの祭祀的な構造主義的な哲学の舞台で、どちらが中心の項でどちらが周縁の項であっても、平和主義とその否定(軍国主義)を衝突させても、認識方法としてのこの種の(周縁が中心を活性化させるという)異化効果は、思考の活性化と呼ぶにはあまりに両義的な曖昧性しか生じてきません。繋がりすぎていてあたかもいつまでも灰色に灰色を重ねていくような、思考の最低限の水準がシニカルにサバイバルするだけ。さて思想の自立を問う問題をかんがえるときも、祭祀的な構造主義弁証法の内部に絡みとられては無意味です。なぜなら思想とその否定(無思想)を互いに否定させる弁証法からは、都合よく全部が出てくるしまた同時に都合よくなにも出てこないからです。たしかに運動においてはトータルな認識の発展のために理念と理念の対立は欠かせないでしょう。ですが、未来に繋がる痕跡を消滅させてしまうまで暴力で互いを徹底的に否定しあってはついに消滅しまっては意味がありません。そうして、日本の'68年'の異議申し立てが画期的だったにもかかわらず、現在に痕跡を残していないことがいわれています。そのことを考えたうえで、むしろ大切なのは、思想の自立でいわれる意味を<中心と周縁の間の弁証法>的に問うことではなく、思想の自立をいう言説がそれを言う主体を触発する意味を問うこと。現在に繋がりすぎないこと。未来にも繋がること。どんなに困難な内容でも、困難なコミュニケーションの痕跡を残していくために

 問題というのは、問題提起したときに、既に解決されているのだ、と、哲学者のウィットゲンシュタインがいいました。たとえば、<思想はいかに自立するか>も、自身に答えをもっています。そうだとしたら、それはいったい何か?思想の自立の言説がそれを言う人に触発する意味は、彼の新しい思想が何に依拠するのかに依ります。他の思想では一度も存在しなかった、言う人の自発性がみえてくるのではないでしょうか。さて今日報じられている世界的動乱で、グローバル資本主義と無関係なものは一つもありませんが、「疎外感」の語で括ることはあまりに無意味にみえます。ところで思想の自立を問うのは、だれなのか?それは、19世紀の第二インター以降の国家の内部に社会主義を捉える20世紀のスターリズムではなく、それに対抗的な二十世紀半ばのノンセクト・ラディカルの西側民主主義でもなく、ほかならない、21世紀から現れた、(つまりその前は似たようなものはあったが存在することがなかった)、非暴力の抵抗の自発性だと段々おもうようになってきました。安倍の「この道しかない」が極端までに自発性を押し殺していく方向だとしたら、この正反対の方向に、もはや議会制的組織だけに頼れなくなった、非暴力の抵抗から一人一人の自発性を推し進めていくしかなくなった、白紙の本のごとくあらわれてくる市民の'でもくらてぃあ'が存在しはじめたのではないでしょうか。