フクロウ猫はかく語りき ー ホ~、二十一世紀はどんな時代だろうか?

フクロウ猫はかく語りき

ホ~、二十一世紀はどんな時代だろうか?分子の小さな人間達が活躍する時代になるニャ。「大きな人間」のままだと「一億総活躍」としか繋がることができないよ(おー嫌だ)。寧ろ70億と繋がりたい。折角生まれてきたこの惑星の色々な住人と結びつきたい。と、この多様性の70億と繋がる条件を考えるとき、人間的環境のもとで分子の小さな人間である方が有利。いま書いている、インターネットはもっと人間的な環境に進化していくはずだ (インターネットから街頭に出た人々は、<人間が一人でも飢えたら民主主義とはいえない>という究極の理想を持ち始めた。) 二十一世紀的人間の思考とは何か?政治を批判するときに自ずと芸術のあり方を批判するという思考方法が、分子の小さな人間達たに広く共有されるようになるのではないか。既に、行き詰まりの政治に対する代表制批判とアートの表象批判、この両者の互いに切り離せない関係に気がついている。だがその前に、ポストモダンのモダン化という妙な現象が現在席巻している。厄介だ。再び19世紀的20世紀的なナショナルな文化論の方向に、益々非政治的になってきた。アートの方もこうした非政治性の特異点に絡み取られている。ポストモダンのモダン化とは何か?それは左か右かわからないという非政治性の特異点からのマッチョな脱出、と定義しておこう。(左か右かわからないのは'スターリン'が発明した魔法使いの杖。) 現在の非政治性の克服を説くマスコミ文化人達が今更'レーニン'を召喚するの?(本当はそこに'毛沢東'を読んでいる?毛沢東なりすましレーニン!?) ポストモダンのモダン化の言説自身が左か右かわならないほど右翼的といえる。 ポストモダンのモダン化からは、'レーニン'であれ'毛沢東'であれ、二十一世紀的人間の思考はあらわれない。ただ行き詰まりの後期資本主義にとって都合がいいような、再び大きな人間にたいする消費としてのノスタルジーを深めるだけだ、とフクロウ猫は語ったのであった