フーコ『肉体の告白』

‪ ‪久々に新宿の書店に来たら、大変気になっていた本があった。今年出たフーコの『肉体の告白』。買う前に立ち読みする。拾い読みしながら、思い返すと、神との出会いがどうしてそれほど汚れてはならないものであると考えなければいけないのかと初めて考えたのは、アイルランドに住み始めて二年めぐらいのときからであった。汚れてはならぬ出会いといっても、キリスト教初期と中期では純粋さの意味が違ってくるということらしい。その違いは1000年前に当時の読者は定義的な説明も必要なく明らかなものだったけれど、現在その意味が全く失われている。このことは、2500年前の「礼」がなにを表していたのかわからなくなっているのと同じ事情だろう。第一章 「la formation d'une expérience nouvelle」は、2世紀の古文書に書かれた「新たな経験の形成」という性格のものである。「純粋」は存在するから存在するというのではない。「純粋」は純粋の言説が存在するから存在するというふうにフーコは考えていくのだろうか。『肉体の告白』は、30年のタイムラグを以って、ポストモダニズムの時代において<汚れていない出会い>を考えることの意味は何かを問う本。そうして考えてみると、現在取り組んでいる「明治維新の近代」(「論語塾」)と関係のない本というわけでもないような、ね。明治維新150年は、<汚れていない出会い>の教説の再語りのようなものなのだからね。近代国家の確立は一神教を必要としたとき、その「神」が定位する「新たな経験の形成」とは何だったのだろうか。ポストモダンの時代に一神教を考えることの意味はなにか?日本のポストモダンはそれを十分に考えたのだろうか?‬ 例えば中沢新一の「チベットモーツァルト」では、外部から、それまで自己が依拠していた知の枠組みを批判的に相対化していたのはそれはそれでよかった。だがそこに、ポストモダンの時代の多神教への文化的関心のことは書いてあるが、しかしポストモダンの時代に一神教を考える政治的意味のことは書いていなかった。敢えて書いていなかったのかもしれない。それが政治性を構成するのだけれど。ジョイス一神教を文学によって創造したように。最後の一神教は19世紀の国家神道だろうが、最後の最後の一神教は20世紀の毛沢東主義だと考えてみたらどういうことが言えるのだろうか?この話題は、昭和思想史研究会の講義後の居酒屋トークのひとつを為すものである。文化大革命儒教を消滅させたことの意味は何か?文革によって儒教が消滅していなければ、神<毛沢東>を媒介する解釈者の中国共産党による政治的抑圧が起きたか?常のこととして、解釈を作る権力が問題である。チベットの仏教とウイグルイスラムの市民権のことについて考えないものはいない。だけれど恐らく歴史はそれほど単純ではないのである。予定調和的ではあり得ない。可能性として、儒教が消滅しきったところから、彼らが全く知らないポストモダン孔子(「他の道がある」)が一党の原理主義(「この道しかない」)の根拠づけにとってかわることだって考えられる。「信なければ立たず」であれ何であれ、どんな言説が立つにしても、それを語るひとが対内関係及び対外関係を解決しなければならないアジアの人々のために考えているかどうかによるとおもう。そうでないと「実」でなくなってしまう。昭和思想史研究会はどう考えてきたのか、この私は考えているだろうか?8年間は何であったか?「グローバルデモクラシー」(子安氏)の存立は、国家祭祀の意味を批判的に考えたラディカルリベラルの<方法としてのアジア>によって、語り出されていく「実」のものであった

『言葉と物』のアルトーの叫びの意味は、ジョイスのFWと読み比べたスーザン・ソンタグが明らかにしたが、もっと愚鈍に問われなければいけなかった。『肉体の告白』がやったように

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