アイルランドのウイットゲンシュタイン

ウイットゲンシュタインがアイルランドに滞在して書いた文(『探求2』)。これを読むと、漢文の「風景」のことではないかとおもったりしている。朱子『鬼神論』とそれを読む江戸思想こそ、「いまだに解明を待ち望んでる」。まさにそうなんだ。だけれど、明治維新150年の言説によって、「さっさと屑みたいに隅へ掃き寄せられてしまうことになる。」平滑空間という開かれた全体のことは言われるのに、そこから排除されてきた漢字エクリチュールのことはだれもいわない。自身への反省をこめて

‪<見る>という概念はごたごたした印象を呈する。実際それはごたごたしている。ーわたしは風景に見入っている。わたしのまなざしはさまよい、わたしはあらゆる種類のはっきりした、あるいはぼんやりした動きを見ている。この後者がわたしにはっきりと刻みこまれ、前者は全く朦朧としか印象に残らない。それにしても、われわれの見ているものは何と甚だしく引き裂かれて見えうることか!ーだが、それはまさしく、ひとが見られているものごとの記述と称しているものなのである。そのような記述には一つの本来的かつ正常な場合など存在しないーその残余はまさしくいまだに不分明であって、いまだに解明を待ち望んでるか、あるいはさっさと屑みたいに隅へ掃き寄せられてしまうことになる。‬

‪ーウイットゲンシュタイン(藤本隆志訳)‬

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=10217275652740943&set=a.10204437539556137&type=3