‪ポストモダンの時代に真実を考えることの意味は何か?

ポストモダンの時代に真実を考えることの意味は何か?

形而上学は存在を存在として考えることの意味を問う。17世紀が読み解くアジアの形而上学の始まり(13世紀)に、すべてを語り尽くすと語る主体が登場する。それは、近代の真実を自己が話し自己が聞くという主体の体制の先駆を為すようにみえる。さてポストモダンの時代に真実を考えることの意味は何か? 近代の魂で考える<一>と異なって、ポストモダンの<多>は思考される身体を考える。近代は、語る主体は存在するから存在するとする。ポストモダンは、語る主体は言説の語る主体が存在するから存在すると考えてみようとする。他者が住処とする存在の多義性が語り出されて行くのは、二つの身体の間の投射からである。投射によって規則的なものー言説の配置ーが成り立つ。二つの身体の間を引く線、語る主体(自己同一性)の線、それから逸れる(差異化の)線、これらが言説の配置を形成していく