ネット小説『最後の日本語話者』

 

一 天

寅吉の家の庭に松の木がある。寅吉は自分の木のしたに立っているし立たなければいけない。燃え上がる緑の木でなければならないであろう。

 

寅吉は江ノ島に生まれた。海を見ながら ある作家が語った言葉を思い出していた。<何者〉かが、或いは〈何物〉かが、日夜、世界史と呼ばれる無限のたわごとを書き綴っている、と。普遍的河が合流する海は世界史と言われると考えてみたらどんなことが言えるだろうか?海は書かれているから堅固なのだ。われわれ自身を海へ投射させるものよ、何も変えるな、すべてが変わるために!

 

昨夜、寅吉は松の枝を通って下ってきたアマテラスから結婚を申し込まれた夢を見た。どうしようか。
夢の中でアマテラスは寅吉に告げた。
「我が子孫の日本人は消滅するが、言語の存在としての日本語は精神的なものを表現できるならば発展して続きます。」
寅吉はきいた。
「日本人がいなければ日本語は存続できないです」
アマテラスは言い返した。
「日本人が存在するから日本語が存続できないのです。」と。
夢を見続けなければ死である。しかし寅吉の夢は覚めた。

 

寅吉は太陽を回って踊る
夜に、海から現れた
岸辺に寄せる波が
一日の終わりのよう
夜がうねる
海の広がりを足もとにかんじて
故郷をなつかしむ
夜に、海から現れた
この新しい島が最初の朝を迎える時、
霧のかわりに現れたのが太陽
寅吉は強い波のように
この地に立ち上がり
湘南の人々となった

 

 

雨、霧とは別に、熱がもたらされ
夜の終わりが生じる
江ノ島の無垢な子供たちがよろこぶ
富士山の姿がはっきりと見えてきたから

漢字の存在を考えることは、ロゴスにおいて言語的存在である人間が自己の意味を考えることと同様に、最高なものがある不可避な他者を包み返す根拠を考えることである。日本語の文とは何か?日本語の文は漢字で始まる。述語の面から漢字を包む。日本語の文は。漢字に最高なものがあるが、それを包むためには日本語の文はそれを超えるものがなければいけない。漢字とは不可避の他者である。だけれど日本語は江ノ島の太平洋に開いた洞穴の出口の如く、解決がない。

洞穴の出口に解決はない。

誰も死すべき運命にある
この島で土地を耕し闘った
この島で仲間を愛し生涯を終えた
次々に押し寄せる波、波
時の海が江ノ島の岸に押し寄せる

子供の泣き声、嗚呼、世界の震撼 
船を襲う嵐、嗚呼 世界の震撼
床の足音、波の轟き、嗚呼、世界の震撼
恋人の溜息、嗚呼、世界の震撼 
母のすすり泣き、嗚呼、世界の震撼
栓が抜けてしまった、嗚呼、世界の震撼

寅吉はコンビニのアルバイトが終わった後に彼が通っているシン・ジャパニーズ・スクールを思った。生徒たちは平仮名とカタカナのほかに日本語を読めない。これでは考えることができなくなった島の民たちのために、校長先生は日本語を、便利に英語を使って教えている。だが英語そのものの難しさがある。彼は考えてみた。聖書の翻訳を可能した、近代英語の成立は、宗教改革に先行する知識人たちの登場と共にあるから、理念的なものを表現するあり方を持っているのではないか。しかし日本語はどうして難しいのだろうか、これは知識人のことを考えるとわかるような気がした。古代の歴史とか神話を書いたのは、中国知識人と朝鮮知識人と彼らが育てた日本知識人であった。日本語の成立には、ひとつのアイデンティティに踏み潰してくるひとつの起源がないのだ。排除せずに、漢字と共にあること、ここに日本語の本質があるのだ。本質は固体的であるし固体的になっていくから、漢字仮名混淆文が生まれてくる。

 

身体を支える力はなく、私は道に迷った瀕死の馬
かつて寅吉は大地、大地と一緒であった
頭を持ち上げ、堂々と歩み進んだ
しかし現人神の為に自由を失ってしまった
逃げる途中で枝にひっかけられ、傷でからだはぼろぼろ
茨が突き刺さって苦しい
平和な日はない

 

言語は世界は衝突遁走万華鏡Collideorscapeに絡みつく。

 

寅吉は江ノ島にたなびく白雲を眺めて、その裏側に、空と地を往来する江ノ島をおもい浮かべた。無限の青空の平面に投射できる比類なきもの。司馬 江漢は、江戸時代の絵師、蘭学者で、春波楼、桃言、無言道人、西洋道人と号した。江ノ島の油絵で最初に描いた。伊勢参りの人々は旅の途中、鎌倉の七里ヶ浜から、江ノ島と富士山を眺めて、司馬の絵を確認したのである。洞穴の傍らに座って、寅吉の想像の中ではアマテラスが描く自身の姿と海の江ノ島を描いている。地上の寅吉が見ているものと何もかも類似しているものが、天空のアマテラスが見ている雲の裏側にある。「何もかも」と書いたが、一点だけ異なる。類似の見方を徹底すると、寅吉が見ているイメージはそれ自身をもっていると考えられるが、白雲の裏側はそれに似ている筈だけれどそれ自身をもっていない。大きな差である。白雲の裏側は、それ自身をもたないゆえに、寅吉が見ているものに似ている。それに対して、寅吉が見ているものは何者から自由であるためには、自ら類似しているものから自立していなければいけない。類似者を白紙にしなければいけない。そうしてそれ自身をもつものに似ている類似者が裏側にされるだけでなく無にされる。寅吉が見上げた天の江ノ島は無に支えられている、比類なき絶対の美となる

 

ニ 地

 

寅吉は校長先生の家の家畜小屋に戻る。家の暖炉の上には絵が飾ってある。居間には母娘がいて、いつも同じ椅子に座っている。彼女らは寅吉にあまり話しかけない。娘は編み物をしている手を止めて、温めた牛乳を寅吉に給する。
寅吉はお礼を言って、牛乳をもって小屋にはいる。草むらに寝転がり日本語のためのノートを手に取る。雨足が激しくなってくる。起き上がり、机の前に座り、日記を書きながら独白。

五つの頭をもった校長先生が青空学校で寅吉に言った言葉を寅吉はおもい返す。世界は類似のネットワークであると。精神の両端、すなわち、屑litter と文字letterは、互いに似ていないように見えて、物で書かれた物のようにくっつき合う。屑litterは文字letterとなり、文字letterは屑litterとなる。こんなふうに世界は類似し合うのだよと。

寅吉は考えた。我々は道具世界の中を歩いている。岩岩の島の中を歩いていると思っているが、実際はそこは瓦礫の中である。物から微かな媚態を感じ取るその瞬間に、たちまち、そのような人間的な意味が消失した世界の儚さのなかに佇んでしまう。つまり、途絶えることなき幻想の反復。

 

 

天のアマテラスは何を描いたか?書いたのか?
慈悲深き白壁の宮殿に 
向かっていくこの飛翔には
苦い欺瞞がともなう
島にたなびく、言語を失った白雲
雲の軍勢が、東に指差した超越者の時計台を超えて行進する
と、風である、このわたしに、激痛がもたらされた
愛する人よ、雨粒に打たれてはいけない

 

小屋の入り口に人影が見える。大きくなった雨の音が聞こえてくる。レンブラントの「夜警」みたいに、光で輝くように絵の中央に描かれた天使の顔。女神は校長先生の娘である妙音の顔であることが分かる。妙音はちょっと恥ずかしそうに言う。「あまりまじまじと見てはいけませんよ」彼女は父が戻ってきたしミルクパンがあるから家に食べにこないかと言う。寅吉はありがたいと言って、後で伺いますと返事した。

小屋の中。雨の音。

寅吉は日本語ノートを開く。
はじまるのはテーブルから 椅子のときもある
靴だったかもしれない
でも戻って来てしまうのはここ、 なにもうつらない鏡
崩壊の静寂さ 
わたしはこの土地を さまよった どこにもいた
けれども、わたしの土地はみつからなかった。

自分は一日中島のなかで生活しているし、思考の倦怠は特別驚くに値しない。そうだ。驚きの欠落、このことが私の思考経路を塞いでしまっている原因だ。一日中離さず持っているこの日本語ノートに、言葉を書くという欲求。寅吉は、アマテラスから、最後の日本語話者である自分に結婚を申し込んだ夢について考えた。なんて返事したらいいのか。書き綴る。

太陽を描くためには太陽でないものを描かなければならない、とあなたは言った。
だから、私は黒い太陽となった。
裂け目であり、副詞であり、彷徨う金の子羊。激昂で砕け散った十戒の言葉、風なのだ・・
それらは自身を代表することができず、代表されていた。大文字の他者が、声なき声を搾取していた

龍の島に対する攻撃に思考を巡らす。・・私は感じる。彼らが破壊を望んでいる世界に属している自分自身を・・私はその世界に帰属している」。これほどまでに言葉から真実性が剥がされてゆくとは!科学と技術の道具的世界。私はその世界に属しているー思考を巡らすー

 

寅吉は新しい小説の構想について五つの頭をもつ校長先生と喋ったことをおもいだした。この校長は日本語を音声化しなければ、また漢字の依存をできるだけ少なくしなければ、日本人の創造性は期待できないと考えていた。校長は、「最後の日本語話者か?よし、ChatGPに聞いてみよう」。五つの頭の四つは龍の頭だったが、一つはChatGPだった。回答はこうだと校長は語る。

「エノシマにあるちいさなニホンゴがっこうが、ものがたりのブタイです。こうしゃからはアオイうみがノぞめ、そのフウケイはニホンのうつくしいシゼンとブンカをショウチョウしていました。しかし、ジダイはすすみ、ガクセイたちはジョジョにニホンゴにたいするきょうみをうしなっていました。
コウチョウセンセイは、えいごでジュギョウをおこなっていました。これは、コクサイてきなゲンゴとしてのジュヨウがたかまっていたためでした。しかし、コウチョウじしんはニホンゴのカチをしっており、ことばのミリョクをまもりりたいとねがっていました。

せいとたちの中には、かんじをよむことがむつかしく、かなのイミをリカイできないものもおおくいました。ニチジョウテキなコミュニケーションにもえいごをしようし、ニホンゴはただのかもくにすぎませんでした。

しかし、ひとりのせいと、トラキチはちがいました。コンビニでハタラキながら、ニホンゴをまなぶジョウネツをもっていました。トラキチはサイゴのニホンゴわしゃのひとりとされ、ゲンゴのカチをタイセツにしていました。」

ここで校長は焼酎をぐいと口に含んだ。寅吉はいつもに増して校長が一体何を喋っているのかさっぱりわからなかった。しかし校長は回答を続ける。

「あるヨル、トラキチはふしぎなゆめをみました。ゆめのなかで、シンワのメガミであるアマテラスからケッコンをもうしこまれたというのです。ユメからさめて、コンランしたきもちですごしました。シンジャパニーズスクールへゆき、コウチョウにそのゆめをはなしました。

校コウチョウはほほえんで、トラキチにいいました。「ゆめはときイミをもちます。アマテラスがけっこんをもうしこんだというのは、ニホンゴへのアイジョウが示されたのかもしれません。あなたがたいせつにしていることばが、みらいにもつづくようにドリョクすることがジュウヨウです。」

トラキチは、そのことばにココロをうたれました。かれはケツイをあらたにし、ニホンゴのガクシュウをつづけることをきめました。そして、シュウイのせいとたちにも、ことばのミリョクとタイセツサさをツタエルことをはじめました。

ものがたりは、えのシマのちいさなニホンゴがっこうでのできごとをつうじて、ことばのタイセツさとブンカのソンチョウがエガレれます。トラキチとコウチョウせんせいのドリョクによって、サイゴのニホンゴわしゃとされるひとびとのシセイがミライにつながってていくことがしめされるのです。」

 

寅吉は、校長の音声中心主義の言葉は〈漢〉を〈日本〉から異別化し排除したと考えた。そうして純粋なものに依拠しようというわけだ。これは盗みだ。
暗闇の龍は寅吉にきく。「一体何が盗まれると主張しているんだ?」。寅吉は答える。「江ノ島だ。宇宙全体を抱擁する愛の映像。」と。
龍が寅吉の前に進んで向き合う。「お前は本当に日本の神が分かっているのか」という。
寅吉は言う。「天皇家万世一系伝説に有り難味などいっさい感じないですよ。国さえ安定していれば神と皇位との連続性によることができるだなんて思いません。」

アジアは天が精神(鬼神)に影響する(朱子)。西欧は天から精神は自立した。寅吉は精神に投射されるスクリーンを与えた。寅吉の龍とは、生と死の合理から離れたものが、再び精神(鬼神)として身体のスクリーンに現れたのであった。

龍は言う。「わたしと出会った時を覚えているか」
「私ははっきりと覚えています。あの時、あなたは自分のことを、"私を見つめる本だ"、と言いました。そして、"私が言葉である"と言いました。"本の中の言葉だ"と」
龍は寅吉に言う。「言葉だと?お前は、この私から天使を奪ってしまった。私は片割れになってしまった。お前は純粋なイメージの光を盗んだ。私はお前のもとに、復讐を遂げるためにやってきた。言葉なんか糞食らえ」 と、真正面からの照明の強い光。龍の姿が見えなくなるほどの大量の光が放たれた。龍の自爆テロだった。

女神の大地よ
龍の墓である汝よ
マストを立てよ
死と
眠りが
復活するのだ

 

三 路

 

雨の恩寵を浴びながら
とぼとぼと歩いた、裸足で  
気づかなかった
雲の隙間からこぼれた陽光に 
地面の若葉が輝いていても  
寅吉には掌の骨しか見えなかった・・・

小鳥達が舞い降りる動作
アマテラスの螺旋
ゼロの静止。微風の接吻の中で戯れる花々。
それから空への飛翔
どこに誘われるのか、誰も語ることができない..

寅吉は自分の棺を探して一日中野良犬のようにほっつき歩いたりした日のことをぼぼんやりと思い出していた。破れ傘のように寺の空隙がある、霊魂の逃げ場がたくさんある路。登り坂を上がったり下り坂を下がったりして、険しい崖になっている山二つのところで間もなく驟雨になった。洞窟の中にある洞窟のように、松と松の隙間から現れる海に包まれ、海を包む無限。彼は歩き続け、とある学校の校庭に辿り着いた。
柵を乗り越え校庭の端にある小さな花壇に向か向かう寅吉の姿は地元の者に目撃されていた。不審者が侵入したという通報を受けた現地の警官は学校の現場に駆けつけた。校庭の花壇にうづくまって死体の様にぐったりとして動かない男の姿が直直ぐに視界に飛び込んで来た。二人の警官はその顔をのぞき込んだ。
「うっ、くっせーな。裸足じゃないか、こいつ!」

たまらなくなって鼻をつまんだのは年輩の警官の方であった。若い警官が懐中電灯で顔を照らし出すと、痩せこけて陰鬱な表情が浮かび上がり、窪んだ鋭い眼から不吉な鈍い反射が帰って来た。若い警官はしゃがんで寅吉の肩を揺さぶりながら一言一一言を明確に発しながら尋問した。「おい、しっかりしろ・・・具合が悪いのか、どこから来たんだ・・・言っていることが分かるか、名前は?」

 

年輩の警官の方はアルトーのズボンのポケットをがさつな仕種で調べ始めた。警官の一人が大きな溜息をついたのが聞こえた瞬間、寅吉はつぶやいた。
「アメツチハジメアリキ」
呻くように口腔の奥から言葉を発したので、二人にはその不明瞭な音を容易に聞き取ることができなかった。口がたまらなく臭くて、彼らは咄嗟に鼻を摘んで顔を背けた。「ちぇっ、腐ってんじゃないのか。やれやれ、こんこんな奴の世話しなきゃならないなんて、ついてない日だぜ。」

不平をこぼしながら、さらに鞄のなかを探ると、日本語ノートを取り出した。パラパラ捲ると、電灯でその文面を照らすと日本人がよめない漢字が彼方こちらに書いてある。

年輩の警官は呆れたように溜息をついた。舌打ちをして、彼は同僚の顔を見た。しだいに雨の勢いが増してきた。若い警官は寅吉に向かって大きな声で職務質問を続けたが、一向に反応がなかった。「頭がいかれちまってんだ」。軽蔑の眼差しで彼は寅吉を見下ろした。
「毒虫野郎!」

と、追っ払うように年輩の警官は寅吉の顔に思い切り唾を吐きかけた。正気を少し取り戻したようにみえると、若い警官は電灯を近づけて、幾分残忍なやり方で顔を強く照らし出した。言葉を求めた。その瞳が光の炸裂で切り裂かれたかのようにみえた瞬間、寅吉の意識に現れたのは、銀のスクリーンに映し出された女の囚われの姿。髪の毛が殆ど丸刈りに刈り上げられており、その澄んだ大きな瞳からは雨粒程の涙がぽたぽたとこぼれ落ちて止まない。

泣いているのは誰だろう・・・僕か・・・島の女達か
泣いているのはアマテラスであった。

寅吉は身体の表と裏がひっくり返ってしまうような怒りを激しく感じ、声を振り絞って激しく叫んだ。

「言葉なんて糞食らえ!」

警官達はその怒りの籠もった地から轟くような声にすくんでしまい、「そこは立ち入り禁止だ」と慌て警告したが、その時すでに寅吉は凄い勢いで駆け出していた。彼は柵をよじ登り、花壇に植えられた木に向かって飛んだ。必死の思いで木の枝の一つを掴んだ時、寅吉はまるで自分の手を握ったような錯覚にとらわれた。ぐいと頭を挙げ、漢字の音の呪文のように呟いた。捕らえた大木を地中から引き抜こうと、木の枝を掴んだ手に渾身の力を込めた。ついに寅吉は阿呆船のマストを地中から引き引き上げていた。肛門が開き、屁がひねり出た。
希望の息吹きで帆が一杯に膨らむと、大いなる旅立ちを祝祝福する閃光の馬が天道を駆けた。太平洋から渡って来た風が、雲を運び、雨を降らせ、旅立ちの儀式を盛り立てた。刻まれた様に四方に散乱した雲の一つが凄い勢いで海に落ちると、一人の女性の悲鳴が寅吉の身体の芯を激しく貫いたように思えた。嵐だ、嵐が来るぞ。船のマストを今一度堅く握り占めると、至福の絶頂の中で、寅吉は自らの生が輝くのを慄然と確信した。

(了)

 

(完)