Andras Schiff アンドラーシュ・シフによるベートーベンのピアノ・リサイタルでかんがえたこと

昨夜はAndras Schiff アンドラーシュ・シフによるベートーベンのピアノ・リサイタルに行った。福島へのチャリティー・コンサートであった。6つのパガテル、第32番、そしてディアッべリの主題による33の変奏曲を弾いた。最後は、バッハのゴールドベルグ変奏曲の出だしを。それから東北震災犠牲者への弔いの言葉を語ったあとに、109番を披露した。もはや死者は甦ることはできないが、そのかれらがいなければ現在のわれわれも不可能なのだという芸術家の思いを、バッハなくしては後期のベートヴェンはあり得なかったという形で表現したものであった。グールドが構築したのとは異なる、祈りのベートベンであった。
言葉にならぬ心の中の思いもあり、アドルノの本を開く(W.Adorno, Beethoven Philosophie der Musik)。ベートヴェンの、古典主義的全体性を課題とすることへの不満を言い表すために、アドルノマルクス「ブリューメル18日」からの引用を朗読していたというのは、何度読んでも衝撃を受ける。

「ベートーベンの憤りは、全体の部分への優位ということと関係がある。いわば限定されたもの、有限的なものは撥ねつけるのだ。メロディーが低音で鳴る際には、それが全体でないために憤ったものとなる。音楽自体が有限であることに対する憤り。どの主題も、無くした小銭に対する憤りといったものだ。」

ロンドンで最後となったアルファンベルグのベートベン弦楽四重奏曲のときオペラのアリアがきこえた感じだった。昨夜自分のなかに起きたのは、アドルノ的にいうと、「ベートーベンの憤りは」が天に向けられたものだったといえようか。