イギリス知識人はなにをかんがえているのか?

 

イギリス知識人はなにをかんがえているのか?

イギリスの知識人の、「神は存在するとも言えないし存在しないともいえない」という彼らの好む不可知論は、内部に絡み取られていくあまりに巨大な全体論的言説は避けよということを言い表しているが、これは認識の限界の問題をこえて、外部世界の他者との関係を問う倫理的態度をつくっているようにみえた。
9・11以降、ネオリベの論客にたいして激しく論争を展開した、「AGAINST ALL GODS」のリベラルの論客、GRAYLINGの講演で印象深かったのは、社会とは「まず外部から入ってくる他者を信頼した上で成り立つ運河のエンジニアリング」と言ったことだった。。つまり、<どこから来たか>の問いは内部から内部に即しては不可能。それは外部の視座がなければ意味をもたないのだ、とわたしは理解した。
これにかんして、<どこからきたか>を内部的に指示する起源の表象は、語源学的にFinnegans Wakeを仏語Finと英語beganの結合とみる。が、この語は、111_1111から、_を取り除くプログラム的加算の唯物論的方法でしかない、とあえてかんがえる必要があるのではないだろうか?。弁証的には<どこから来たか>は外部の視座から意味をもつだけだ。読むということが、常には19世紀的ブルジョア的に読む人の内部に委ねられていくことが不可能なことだってある。