記号としての<口髭>を読む

記号としての<口髭>を読む

政党の大きな人間が闊歩する時代にノスタルジーを感じるような、ポストモダンのモダン化の気持ち悪い方向に絡みとられるなと自身にいいきかせています。安倍の側で政治が非政治化したら、他の誰でもない自己の意志と権能が政治化していくチャンスがきたと開き直りたいぐらいです。この意味で、たとえば、公共放送の番組を利用してヒトラーを真似た口髭で安倍自民党を見事に批判した歌手の意志を称える声は、その通りにききたいとおもいます。風刺する大衆芸能の意義ですね。他方、Simulacrumの時代にあって、同じものは決して繰り返されないということもかんがえる必要はないでしょうか?冷淡な言い方になりますが、チャップリンにつづく二度目の口髭では、(オリジナルのヒトラーの真似にはならず)、億万長者の成功物語を真似た反復、皮肉にも意図せずして(同化主義を唱える) オリベ教説の強化として作用していたのかもしれません。ここにやや極端な反例を出しましたが、現在は相反する二つの視点を常に考えておかなければならないほど、もはや真実らしい確実なひとつの意見(この路しかないかの如く主張する)に安住するような楽観はゆるされなくなってきたようにおもいます。