書くこと 1100ー1200

1、本居宣長は「神」字をシンと読むのではなくてカミと読んでそれが何か分からないという。思考不可能なものを思考する。自ら逃れて行く、沈黙に占拠している思考不可能なものは堅固な外部性(漢字)において在る

 

なぜ政治と宗教とは分離しなければいけないのだろう?宗教は自分自身を権威とするのだから、教会の中で何を喋って自由である。ところで政教分離の原則は江戸時代にはいってきたキリスト教がもっていた。明治憲法は外国人の為に政教分離でなければいけなかった。国家神道の元で政教分離だったというわけである。一見両立しないようにおもうが、国家神道はほかならない国家であったので、両立していた。さてヨーロッパはバロック時代に政教一致による腐敗が起きたと言われる。そういうこともあって、イギリス人はイタリアが大好きだがバロックだけは嫌いな人が多い。腐敗は具体的な詳細を知らないが、やはり今日自民党統一教会との関係みたいなことがあったのだろう。またバロックの芸術は凄いのだけれど、宗教は政治のもとで芸術の力に頼り過ぎたことが起きたのであろう。

絶対的保守主義の時代

 

国家が安定していれば、神と皇位との連続性を確立した明治の国家のあり方を変えなくてもいいというような絶対的保守主義が日本の主流となりそうです。厄介なのは、スタフグレーションでほんとうは国家は安定していなくとも、国葬の政治みたいなものに絡みとられていくと、「国はしっかりしているから安心だ」とでもおもうのでしょうね。

もちろん戦前と同じことが起こるとは思いませんが、嫌韓と反中の天皇教的ナショナリズムのもとでは、ヨーロッパが40年前からやっているような、グローバルデモクラシーの方向での移民国家的文化多元主義の確立は日本では極めて難しいとおもいます。そもそも自民党改憲案は国民主権の否定と天皇主権的なものの復活です。21世紀に一体どこの国が国民主権を否定した国と付き合うのでしょうか、大いに疑問です。

絶対的保守主義は可能か?この点について、安倍とも思想闘争に決着がつかないままに、安倍は他界しました。国家観をめぐる思想闘争で安倍を敗北させなかったら、安倍政治が続くでしょうが、これはやっていけません

潜在的言説の方向に置かれた人間は思考できないものを思考するときは、その思考不可能なものから自己を見いだす。人間は言語的存在である自己の意味を考える。これを繰り返す。たとえばそうして宣長国学的鬼神論の言説において絶対的保守主義の人間観をもったのだし、篤胤は民情論的鬼神論の異空間にある寅吉的人間観をもったのである

飢餓で読み解く世界史

アイルランドのジャガイモ飢饉はイギリスの植民地支配の権威を決定的に失わせた。アイルランドの独立は土地革命の性格をもったといえる。飢餓の記憶は民族を形成したと言っても過言ではない。1930年代のホロドモールはアイルランドのジャガイモ飢饉の90年後に起きた、スターリンによる人工的なウクライナの大飢饉。1920年代後半に土地革命を考えた毛沢東はホロドモールを知っていただろう。毛沢東とパラレルに、日本人ジャーナリスト橘樸は中国における永久的飢饉の反復を解決できるものとして満洲王国の構想を支持する。中国は、橘の広い行動範囲に渡った現場から語る時事論的言説に定位した

百年前の1922年は『ユリシーズ』の出版の年。ジョイスピカソ、ウルフのグローバル•モダニズムはヨーロッパの外の国に一体どんな影響を与えたのか?BBCラジオでインド人が思想的関心から岡倉天心について語っていた話を注意深く聞いた。岡倉は日本の芸術作品と共に近代の前の思想家達について言及したと説明していた。「アジアはひとつ」という言葉について、ナショナル•アイデンティティとして解釈していたが、これは間違い。「アジアはひとつ」は日本列島に中国やインドの芸術が辿り着いたという意味だった。アジアの芸術は中国の美術で代表されていたが、岡倉はアジアの芸術の拠点を中国から日本へ移動しようとした。アジア大好きの代表選手は竹内好だったとすれば、ヨーロッパ大好きの代表選手は和辻哲郎だった。この和辻は岡倉の講義に出ていた。和辻ははじめてアジアの意味を考えることができた。その和辻は本居宣長を正統としたのである。平田篤胤は異端とされた。われわれの考えでは、平田篤胤こそは絶対的保守主義の日本近代国家とは別の見方をもつ真のアジアの思想家だった

党葬で十分。哀悼を強制する国葬をやると憲法の中心にあってそれを支える思想良心の自由の侵害。戦前の抵抗は天皇主権に対したが、戦後のは民主主義によっては回復できぬ思想良心の侵害に対して

 

死者達の宇宙を覆う私語は生者とともにある。詩人がそれをきくことができる。しかし国葬によって生者は自分のために境界線を作り、死者の介入する私語を排除してしまう

 

 

戦前の国家祭祀はだれも祀ることが無く、ただ戦う国家が自らを祀るだけだった。同じように、日本の国葬も死者を弔うことはないんじゃないか。正しい始まりがない明治国家に死を委ねた生者を弔うだけなのだ。これから日本の主流となっていく絶対的保守主義の標識

相対性理論アインシュタインを考えるとき、ドイツに生まれたからドイツ語を喋るが、ドイツ人であるというアイデンティティに必然がない。わたしは相対性理論とともに言語を住処としても、どんな国家に定位することがないというようなことを言ようとするならば、相対性理論は透明すぎるのかもしれない

私は無神論者かもしれないが宗教を否定しない。宗教は人々を救済するために神という名のもとに自身の権威を作らなければいけない。このことを政治が奪ったら、宗教は人々を救うことができなくなって、人々を苦しめてきた岸教とか安倍教の政治権力側に堕落する。わたしが目撃しているのはまさにこのことである。

ヨーロッパ人はたとえ自分達現在に繋がってはいなくとも先住民を先祖として考える。だからアメリカ人がインディアンを祖先と考えないのは違和感があると言う記事を読んだことがある

日本知識人にとっては、米国の知識人がアリストテレス古代ギリシャ知との連続性をもつことが重要であって、インディアンを祖先に思うかはどうでもいい話。反権力的な感じがしない

10 憲法の中心に、思想•良心の自由としても内心の自由がある。一人ひとりが思想を作るためには内心の自由が必要だからである。国葬をやれば、思想を作る権利のない社会になってしまう

11 ジョン・スチュアート・ミル『自由論』は、ポストコロニアリズムから批判される本であるが、学生時代わたしは理解しようと読んだ

12 ポストモダン思想の貨幣論をめぐる議論ーフーコ『言葉と物』の<交換されるもの>の分析ーは、絶対的価値のない領域を考えさせる。ネオリベの市場論などを擁護していない

13 マルクスは労働・土地・利潤のような価値を生み出す源泉を求めようと努力したが、不毛な企てに終わった。同様に彼は使用価値という用語を頑固に保持していた。交換市場に絶対的価値が存在しないという単純な事実を認めることは、誰にとってもやさしいことではなかったからである」(ハンナ・アーレント『人間の条件』22)

金で買えないものはないのはわかっているけれど、極端なハイパーインフレのときは金で買えないものが出てくる。最初から差異しかない体系である使用価値を考えたほうがやさしい

 

14 自民党日本会議+統一教会

 

われわれが委ねてきた自民党国家神道の国家と日本国家の国家という二つの国家に仕えてきました。日本国家の国家は統一教会です。その結果、多元主義が進みません。反中と嫌韓ナショナリズム夫婦別姓ジェンダー平等、同性婚LGBT差別、障害者差別、外国人差別、etc…

15 わたしの上の全共闘世代は自己否定の力がすごいのだけれど、知識人批判を展開して、原初的党派性の消滅に導く暴力と同じ暴力に絡み取られてしてしまった。他方で、権力の集中に対してやっていけなくなるという明確なイメージを以って抵抗するあり方を台湾の向日葵運動と香港の雨傘運動が示してくれた

16 わたしの上の全共闘世代は論理的な自己否定の力がすごいのだけれど、文革的な知識人批判を展開して、自己消滅に導く原初的党派性の暴力をかわしながら、しかし結果的に大学からマルクス主義知識人を消滅させてしまった。他方で、権力の集中に対してやっていけなくなるという明確なイメージを以って抵抗するあり方を台湾の向日葵運動と香港の雨傘運動が示してくれた

17 ここに絶対的価値が存在しないという単純な事実を認めることは、われわれ観客(市民)は内部からは彼方にあってこの絵を見ている自身の存在を考えれば可能である。これは論理の展開でしかないような曖昧な観念ならば、画家は、その場合を偶然に立っているモデルを示した。われわれの視界はそのまま画家の視界と重なる。これは王の不在の、中心なき差異としての体系を表現する明確なイメージを見ている(われわれが王であるとして自身を観念できるが、これはあまりに不安定な均衡である) これはフーコの他者を不可避とする存在の構造である

‪ ‪Bei der fortschreitenden Erkenntnis der Struktur des λόγος konnte es nicht ausbleiben, daß diese Phänomen des apophantischen >Als< in irgendeuner Gestalt in den Blick kam. ‬ーHeidegger

 

With the progress of knowledge about the structure of the logos, it was inevitable that this phenomenon of the apophantical “as” came to view in some form.

 

 

ロゴスの構造についての認識が進むにつれて、この命題的な「として」の現象は、なんらかの形態において視線に捉えられずにはいませんでした。

18 正常か異常かで語られてしまうのはコワイよな。もしこの私が安倍を殺したら、私が殺しちまった行いが古典的刑法の基準である違反か否によって語られる権利を求めるよ。そしてポストモダンが見抜いたように、刑法の正常か否かの言語は、同化主義の、<一>的多における一つの階級を想定したポストスターリズム的な教育の領域の言語にこそよりよく機能する

19 ゴダールは『映画史』の冒頭でブレッソンの映画論をめぐる方法論を呈示することによって、映画史の語られ方を問題にする。例えば、ハリウッドはクローズアップの映画だったのにたいして、ソビエトモンタージュを発明したという言説を批判して行く。「夢の工場」とは映画の語られ方である。ハリウッドに対抗して映画を作った「レーニンは疲れ果ててしまった」のであった、とゴダールはだれも言わなかったことをはじめて語る..

20 量子力学の「クオーク」はジョイスの本から名づけられた。

四人の聖人がトリスタンとイゾルデの関係を物語る。寝取られたマーク王は地上世界を見渡すカゴメであると語るジョイスの文においては、quo(何)?quo(何)?quo(何)?、「号令をかけても、みんな的外れ」。どんな意味も、不規則に生成される。古典的調和像が成立しない量子力学的世界を読むとるひともいる。世界はどんどん崩壊していく。世界を再建する生命論的イメージはジョイスの言語には無い。われわれができることと言ったら、思考不可能なものを思考して行くだけである。‪言語的存在は存在の意味を問うい続けるーquo(何)?quo(何)?quo(何)?‬m

21 ノマドジーはノモドとモナドジーの造語。柄谷は外部を考えたとき、窓がないから外部が無いと考えたが、大袈裟だな。ネットみたいな窓をライプニッツは考えていたのではないか

22 文学は政治が作り出した社会の中で一番疎外されている人間を主人公にしてきました。女性蔑視の日本文化を当たり前とする社会に疎外されている男性を主人公にしたっていいわけですよ

23 トランプ支持者が訴えているようにはマイノリティ移民が白人を襲うことはないように、嫌韓が喋るようには韓国は日本がコリアから国家を奪ったという意味で日本を支配をしてはいない

24 国の分裂をもたらしたのに、国を安定させたという認識的誤謬があります。心の自由を殺戮し尽くす国葬の政治と言うか、思考できないような経験となるはずです。わたしは国葬そのものに反対です

25 絶対的保守主義に抗って

26 アラビア世界は多数の言語で沸騰していた国際的で高度な建築術を持っていた。バベルの塔はその文化多元主義のシンボルだったから、ユダヤは非常にネガティブに描いた。神の罰によって共通の言語が破壊されて人々は互いにコミュニケーションを取れなくなったと聖書で物語った。バベルの災厄は一神教が作った文化多元主義の語られ方だったのである。わたしが好きなのはフーコの説明で、物で書かれた物の古典世界は音声化のもとで読めなくなったのである。例えば12世紀からの朱子学の透明な言語はアジアにおけるバベルの災厄で、六書的世界が読めなくなったのである。

27 "もう何も失うものがないからこそ、何かを獲得することができる"という近代人たちが国葬を求めるのだろうが、わたしはこう言いたい。失ったら、失うことができるのだ、と

28 こんなに在日の人々が同化しないなら日本国家は解体すべきでしょう。国籍を廃止した後、新しい国家が移民的国家文化多元主義の方向でアジア市民権を構成すべきだと思います

29 米国の学校では日本人は「国際人」と自ら名乗る。移民の子供もそうか。私は反対だ。国際人は世界中のナショナリズムを補完する、何処にも属するが何処の国の部分とならない概念か

30 わたしはだれか?地球の地下茎(リゾーム)でいいじゃないか

31 宗教2世は、日本植民地主義の話を聞いたら、涙を流していた。この涙は嘘ではないだろう。国家犯罪をひとり一人が償えるかという問題があるが、歴史修正主義に抗議する責任はある

32 ヨーロッパはアジアやイスラムに向かって自らを照らし出したが、それよりも前に江戸思想史は中国に向かって自らを照らしだしていた。つまりアジアは漢字文化圏の自己自身を作り出した

33 カフカ論のドゥルーズテンソル概念を打ち出した。言語支配者の中国はマイナー言語の日本語における学者的議論に注目している。カミは神(シン)のテンソル化(差異化)ではないか

34 天の道を失ったら人の道を得ることができるというが、天の道を獲得できなかったら天の道を失うことができるのではないか。そうしてパラレルにある天の道と人の道の間を往還できる

35 20世紀の精神の成立は映画とともにあった

 

二人は同じコインの表と裏。20世紀は大衆が登場する。大衆は帰属を奪われた根無草。大衆の面倒をみたのは映画だった。人生は映画から与えられたものを映画に返さなかった。その結婚どういうことが起きたか?スターリニズムはそ大衆を労働者階級にしていくし、ヒトラーは大衆をファシストにしていった。

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37 子供時代は描くのが苦手ではなかった。公園でいつまでも木の枝を描いた。美術の先生が実物の枝と絵を比べて見て感心した。暫くして存在しない枝を書き込んでいたのを知って驚愕した

 

よくわからないが、オーストラリアから日本に戻ってきた体験もあって、同化無き連続性について関心があるだけではなく、それを描かなくてはいけない。今は言説の線をいかに構成するか探究している

 

38 独裁者はギリシャ時代はいない。ローマに誕生した。独裁者は選挙によってしか出てこない。ネロの演説原案を書いたのはセネカ。ブレアの演説を広告会社が書いていたようなものだ

39 安倍は公式参拝を前提にした、皇室に依存しないナショナリズムー反中と嫌韓ーに日本を見いだそうとした。国が安定していれば神と皇室との連続性に依拠するあり方が絶対的保守主義である。われわれ自身は、外部にたいする拒絶とともに成り立つ、依存せずとも連続性にあるものに覆い尽くされる。しかしこれは根源的誤謬である。われわれ自身の表現とは絶対的保守主義からの差異にしか成立しないからである

40 台湾を植民地化した日本と我が領土としてそれを取り返す中国。帝国主義反帝国主義も土地に対する支配に全面的に規定されている体制である限りにおいて本質は全く同じではないか

41 国家の独立を求めずナショナリズムが重要とならないあり方はグローバルデモクラシーである。それはアジアにおいて実現している。様々なアイデンティティに開かれている台湾である

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43 顔はpersonal historyだから十字架に集まった人々の顔を宗教画家は描かない。私の解釈。一人ひとりの顔の下に、共同体の成立と共にある差異の体系を為す仮面がある

44 近代は権力を構成する中心に表象があり、権力者は表象を支配できぬことをつねに怖れる。言説を受け入れると、この外部へ脱出するまで、われわれは気付いたときにはもう物を言えなくなっている。精神分析学はオイディプス三角形をもつ言説である。また同様に、文献学のオリエンタル学に拠らない、ヨーロッパが非ヨーロッパを描く人類学も構造主義をもつ言説と考えられる。

45 『名づけえぬもの』は、サミュエル・ベケットによる1953年の小説です。ものは名が与えられます。そうして、自ら表象する表象が人間と名づけられました。我は表象する、故に我は存在するー目に見えず耳に聞こえないものの名を思考する限り生じる絶えざる根源的錯誤のなかで、名づけえぬもの(L'Innommable)に出会うのではないでしょうか

46 人口論のトッドはワーキングクラスの単一価値観に寄ったファシズムは教育が充実する価値多元主義の戦後では起こり得ないと言う。しかし日本の絶対的保守主義の主流をどう説明するか

「我、価値多元主義において考える」。だからといって、明証性のなかで絶対的保守主義に微睡んでいても、「我、民主主義にあり」とはならない

48 吉本派の思想家(内田)は、天皇のもとでみんな平等であるという人権が成り立ったと話す。それって皇帝に対する臣下達の関係を社会主義的だと考えるようなお馬鹿さんの考え(失礼)

49 満洲王国は私にとってはベルトリッチの映画の中にしか存在しなかったが、現在、思想史的に満洲王国を考える。橘樸は日本と中国との平等な関係を前提にした満洲王国のあり方を考えた

50 幸福のない家庭生活は、リアリズム文学の住処であるが、或いは、苦しんでいる先祖が送ってくる合図と説明してくれたオカルト教団への債務であるらしい。どちらも近代

51 教える仕事をやっていたときは、自分が偽の先生だとおもっていたが、教え子たちがわたしと議論できるようになれるように励ましたいとソクラテスのようにいつもおもっていた

52ソクラテスは、弟子たちが議論できるようにしてあげた。そして無知の知の優越性をめぐる議論も、精神的価値のあることを考えることができるようになると教えたのだろう

53 人間は二度見なければいけない。映像は二つ必要である。溥儀は日本侵略の記録フィルムと満洲王国の中心に自分の姿の映像を見て呆然と立ち上がった。「何が問題かわからない」と言う自民党議員に家庭崩壊の映像と自分の顔を見せたらどうか

54 原発災害、東京五輪を目撃しても『現代思想』の若手は作る近代に絶望していないのか。絶対的保守主義は「哲学の作り方」を語る。吉本派の思想家(内田)が天皇へ道案内

55 ゴダールの映画史は映像は印象派の画家がやったように身の周りのものが使われる。映画史は映画の語られ方である。遠近法は原罪であり映画は償いだという。どういうことなんだろう?

アジアはどうして自分たちは西欧のコピーなのかと嘆いてきた。しかしポストモダンの時代になって、ヨーロッパは自分たちはオリジナルであると嘆いた。遠近法は原罪であるとか

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ゴダール映画のカメラは命題論理だといわれます(Deleuze)。わたしが知っているのはこれしかありません。ホフスタッターのゲーデル式です。英文学の柳瀬氏はジョイスの言語はホフスタッターにおいていいあらわされていると断言しますが、どうなんでしょうか。代名詞に、過剰なほどものと名前を指示させるジョイスの文があります(テクストが傍にないので今度探してきます。) ジョイスの文は文法的であるけれど、受け入れることができるかどうかです。ゲーデル式をどう解釈するかですが、議論のルールはただ一つ、それは議論に解決を与えるなです。そのことによって、ジョイスの世界とは思考の自由と覆い尽くせない広がりをもっていることはたしかです

 

57 集団リンチの日本的同化主義に反発する、帰国子女のわれわれの存在というのは、共同体は包摂できるけれど、われわれはその共同体を拒む外部の位置をもっていなければいけないのだ

58 私自身は私の存在を包摂できるが、私の存在は私自身を拒む権利がある。そうでなければ私の存在は外部性を失ってしまうから。私は私自身には思考できない。そこで私は私を支える

59 私がアイルランドへ行ったときは日本では極右翼の支配する國とされていた。しかし行ってみると、IRAは米国のハリウッド映画が物語るアイルランド(「祖母を守れ!」)を選挙で利用していた。現在はその政治団体であるシンフェイン党は南アイルランドでは右翼ポピュリズムとして現れたが、世界では<ウオール街を占拠>が物語る、1%の支配を推し進める金融資本に抵抗する、左翼ポピュリズムの表象となっている。結局、アイルランドはこれしか無いというオリジナルなものは無いのである。

60 アイルランドから英国へ行くのは英国に加担するのかと咎める友人もいたが、自分の現場をダブリンからロンドンに移したのだ。橘は自己の立つ現場を中国から満洲王国に変えたように

61 橘樸は今日の悪夢としての中国の官僚資本主義主義を予告していたジャーナリストであるだけに、彼の中国主義からアジア主義、農民民主主義への方向転換を注意深く考える必要あり

62 昔BBCのラジオドラマで天使と対話しているスピノザの生涯を描いていました。天使は、教義(ユダヤ教)に疑問に感じるひとにとってよい話相手かもしれません。バクニーンは天使が好きですが、サターンの役割も高く評価していて、イブに知識を与えてくれたサターンと蛇こそはほんとうの養ってくれる親であったと

63 ミルトン『失楽園』。サターンは、神との闘いに敗れた俺たちは敗者になっただけで、神の超越化を受け入れる理由がないと言う。日本の主流である絶対的保守主義にサターンが必要。移民を向かいれるときはわたし達はサターンや蛇のような養う力を持たなければいけません

64 ホッブスは人間の探究がありかれの社会契約論は、王権神授説が全く知らなかった、新しいロゴス、<所以然之理>としてありましたが、加藤弘之ホッブス論は、支配の根拠<所以然之理>を問うことよりも、支配の正統性<所当然之則>を論じることを重んじたのではなかったではないでしょうか

65 宮沢の8月革命説は天皇機関説の継承なのだ。日本会議は日本を変えようと呼びかけるのは嘘で、実は明治維新の国を絶えず作り直すあり方をやめて戦前回帰する只の反動主義なのだ

鄙びた田舎の温泉宿に来たら日本会議の機関紙を初めてみた。学生の時に聴いた宮沢の8月革命説は下らないと思ったとか書かれている。緊急事態に備えてウクライナのように戦えという

66 サルマン・ラシュディ、NY州講演で刺される。ニューヨークはもっと亡命中の海外アーチストや作家が喋る機会を作らなければいけないと訴えていた。日本人には全く理解できない話か

67 和辻哲郎は、戦後憲法になろうと、国体は何も変わらないと証言しました。彼が考えていたのは現人神でした。国家が安定していれば神と皇位との連続性に依拠するよいう明治に確立された絶対的保守主義はこれから日本の主流となるのではないでしょうか。その根拠として、国家日本を成立させた明治を批判する近代批判の言説ーわれわれのポストモダンーは消滅してしまうかもしれません(既に上野の構造主義は消滅しました)。国葬を契機に国体の復活です。これにいかに抵抗できるのかわたしは明確なアイデアがありませんが、ヨーロッパが過去の植民地主義の反省として確立して来た移民国家的文化多元主義の方向をもつ国家観が意味を持ってくるのではないかと思っています。間違いを恐れずに言うと、元々、古代天皇制はコリア知識人が制作した移民国家的文化多元主義でした。だから日本は戦前の国体を捨てて国家を作り直すことができるのです

68 叔母さんから戦前の話を聞いた。一年に4回も校長先生が教育勑語を読見上げた。特別のセーラー服を作って登校した。真似して「朕惟うに 我が皇祖皇宗国を肇むること」と誦じた

69 引退した孔子は隠者の声を絶えず聴いた。だが私は私の思想でないものである。私は隠者であるという思想ー道教的なものーは私ではなく、根源的誤謬である。ならば思考し私の思想であるものは何でなければならないのか?世界とは孔子にとって「世界ー内ー国内的亡命」(子安先生)。隠者のように自然へ行かない。公にたいする批判をやめない

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隣(卑近)の思想

西欧でもセクハラについて知的な議論があまりない。そしてこんなことを書くと怒られるかもしれないが、日本において平和主義についても知的な議論があったということは稀である。戦後の思想は貧しいのである。何故だろうか?言葉があまりに命を語りすぎたのかもしれない。九州の親戚の家に行ってロシアの戦争のことがあって中国の戦争が非常に心配されていることを知った。どうして戦争が起きるのかと聞かれて、明確に答えることができなかったが、大きな国になろうとするから言うことをきかない隣国との間に戦争が起きるのではないかと言った。中国は共産党のままでいいから、国内マイノリティーとの関係を良くし、また隣国との関係を大事にすることが戦争を回避する道である。隣というのは、近代が前近代とする隣組というネガテイヴなイメージがあるが、隣どうしは大切にしましょうというのはアジア的な考え方である。これは17世紀の伊藤仁斎が語り出した卑近の思想である。どうして隣を大切なのかといえば、部分の近傍にこそ全体があるからである。中国は自分達が全体であるから、部分である台湾をもつことができると考えているが、発想の大転換で別の見方もできよう。中国は部分であり、台湾は全体である。そうしてひとつのアイデンティティに還元されない豊かなフラクタルな構造を保つことができる。これは日本についても言える。教育勑語のように明と清の理想が明治維新において実現したのであるが、日本の近代化の失敗は、中国のように帝国化したことだった。日本は一国でしかないのに自らを全体であるという根源的誤謬に陥ってしまった結果、隣国を部分として支配してしまったのである。しかしそれでは西欧列強がアジアを植民地化したことと変わらない。ある意味で、今日の中国は戦前の日本も失敗を繰り返そうとしていないか。隣国のアジアの変革によって日本の変革を実現しようとする真のアジア主義の考えとは、中国とコリアを全体として考え、日本を部分として規定していく思想だったのである。

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72 映像に概念を適用できるのか、映像が概念を生み出せるのか分からないが、絵葉書においてあるように映像に書く権利をあたえたい。論理があっても、書く権利がなければやっていけない

73 裁判所は法を発見するという意味で法は人々に権利を与える。しかし司法の自己抑制というよりは自己放棄、政府の子会社である日本最高裁のように法に書く権利を与えない場合もある

74 トランプはかくも人気があるのはどうしてだろうか?

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75 NHKが来賓客のことを語るのは安倍が海外から高く評価されていると解釈しているからである。国家は、国葬をどう理解するかというNHKの解釈に存在する。恐ろしいことではないか

76 それにしても、安倍に殺された人々がいるのに、黙祷しなければいけないのでしょうか?戦前でしたら、黙祷しなければ、「非国民」とラベルはりされたかもしれません。しかし来月はそこまでは強制されないでしょう。個人の自由があるから?しかしファシズムは個人の自由を否定しきらなくても成立するのです。そういう意味で、日本的柔らかい個人主義の似非多元主義全体主義は両立します。
考え過ぎかもしれないですが、自民党を中心に国家主義の側は死者にヒエラルキーをもたらす靖國神社の代わりを探しているように思います。それに対して、これほどの人たちが反対しているのを興味深く観察しています。思想良心の自由の侵犯だと考える人たちもいますが、わたしはこの数年間「鬼神論」を勉強してきましたが、国家の成立は鬼神の祀りと共にあります。安倍の国葬は何か、鬼神の弔いを壊すに等しく、これを認めてしまっては、自分達を支える国家が亡くなっちゃうというような精神の危機感があるのかもしれません。

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日本儒教近代が四国と九州から起きるのは応仁の乱のときに僧侶達が大量の書籍を持ってこの地に避難した歴史がある。三浦梅園の国東半島は豊後水道によって懐徳堂に繋がっていた

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80 近代は一生懸命に遠くへ出かけなければいけない。知の枠組みのなかで、アーリア人の起源を探しにチベットへ行ったり、古代日本語の起源を探しにインドへ行く

81「歴史は、現在と過去との対話である」とE・H・カーが言った。日本は150年前の過去しかないから現在が語る独白しかない。現在と過去との対話のために500年前の過去を呼び出せ

82 

ヒルベルトは言った。「点、線、面」ではなく、机、椅子、ビアマグで言い換えても、幾何学はできるのだね」。点、線、面から、その「本来」の実体を剥ぎ取り、それらの関係性を規定する体系として把握できるからだ。

David Hilbert says;.it is quite possible for Geometry to express itself with "a desk", "a chair", ""a beer mug" instead of "a point"," a line","an plane".
In the other word, Geometry can be considered as the system of relations without its substantial origin, "a point"," a line","an plane".

83 

女神‪ アンナ・リビアが救済するためにアイルランド大地を勃起させる。ジョイスならではの大飢餓の描写。飢餓のストレスが異常な性欲を起こさせたという説もある。土地の分割を防ぐ対策として、50歳過ぎて結婚がおこなわれた

Scroaching my hand and starving my famine to make his private linen public. Wallop it well with your battle and clean it. My wrists are rwustry rubbing the mouclade stains. And the dneepers of wet and gangres of sin in it ! ( Joyce, Anna Livia Plurabelle, Finnegans Wake )‬

84 多元主義社会民主主義は単一価値観のファシズムを打ち倒したが、この民主主義は極右翼とナショナリズム的カルトに悪い形で足を引っ張られてヨーロッパの普遍を再構成しなければいけない。アジアの普遍の再構成が難しいのは、政治の中心にいる極右翼が戦争責任が裁かれていないことと、絶対的保守主義

85 文学者とジャーナリストは、大逆事件幸徳秋水についてまたゾルゲ事件の尾崎秀実も検察の作文(作り物語)を受けいれて彼らを評してきた。戦後免田氏の冤罪事件に戦前の痕跡がある

86 大学時代はどうしてデリダフッサールを批判したかを説明できなければいけなかったのに、フッサールすらわかっていない私には無理だった。今は最初に能の舞台の近代を少し考える

87 「言語活動とはそのためのもの、翻訳のためのものであり、コミュニケーションのためのものではない。」(D🟰G)。漢字文化圏における帝国中国の優越性は仏典の翻訳にあった。華厳経は仏教の中国化である。今日の中国は中国語が一国の音声化された母国語になってしまったので隣国とマイノリティから反発されていることを十分に自覚しているか?

88 古代天皇は大陸から漢籍を輸入して学んでいたから優越性があった。つまり本が彼を偉くした。中世は天皇は貴族達から金を貰うために学問をした。文を売った。復古主義の始まりである

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91ナショナルアイデンティティのイメージ。イギリスですら守っていなかったヴィクトリア朝憲法における女性達の権利を奪う家庭の役割を強調した。新国家は「政治」は独立したが「経済」が独立できない。内戦のために、アイルランド人はイギリス人をよりも多くのアイルランド人を殺すことになった。銃による政治は中々終わらない

92 どちらも500年の歴史をもつ西欧絵画史と日本思想史との衝撃的な類似性。遠近法は眼を作ったが、眼からは神は消滅した。鬼神論は精神の眼を語ったが言語から神(シン)が消滅する

93 マルクスが明らかにしたのは、資本主義社会とは増殖に向かってひとつだけのルールが排他的に支配する体制である。そのルールとは利益である。

94 絶対的保守主義とは、国が安定してさえいれば、神と天王との連続性に拠ることができるという全体論的な見方である。連続性を観るのは心である。彫刻を前にするときのように非連続的なものを見るのは眼である。心と眼は互いに独立している。精神と身体,心的事象と物的事象という二つの系列は相互に平行し対応するが,因果的に一方が他方に影響するのではないとするスピノザが二元論(心身平行論)を説いたように、心と眼は全体論的な見方を構成しない。

95 国葬のときは安倍は死を以て国に尽くした日本人のなかの日本人などと公に言われるのでしょう。国葬に続いて大喪の礼をやれば、戦前との連続性ができてしまうと考えるのは私だけですか

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ナショナルアイデンティティの毒

司馬遼太郎は、ナショナリズム批判を持っています。彼自身の若者たちの知性が国に奪われるということですね。それを日本について言うのはいいですが、アイルランド独立運動にまでそのことを指摘するのです。皇国のファシズム愛国心アイルランドのnational identity に適用するのはどうもね。同じかんじで、加藤周一は知識人の高みから、ナショナリズム批判を一般化します。日本左翼はナショナリズムに冷たい視線を送ります。第三世界のnational identityは毒を持っているのを彼らは知らないのです。例えばアフリカ作家たちがコンラットを敢えてアフリカ文学の父とするのはどうしてでしょうか?アイルランド植民地主義のスペンサーをアイルランド文学の父とします。なぜか?あえて敵を父とすることによって、近代が作り出した敵味方の二項対立を解体して、ヨーロッパをやっつけてしまうのです。こういうことはnational identityの毒です(笑)

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フラファテイーをたたえる

司馬遼太郎は、アイルランドを紹介する本の中で、映画監督フラファテイーのことを書いているんですね。これは面白いと思いました。しかし彼のドキュメント映画とされている映画はフランス人の女優を使ったりしているので、ドキュメント映画の父と呼ぶのは議論があります。ムルナウと比較されますが、人類知のストーリーテラーというかんじです。何というか、エスキモーのイメージとか漁夫のイメージを作ったのですね。レンブラントは誰も入らなかったアムステルダムのゲットーに初めて入ったときは、旧約聖書のイメージを利用しています。ゴダールが言ってますが、フラファテイはこのレンブラントの継承です。

100 どの哲学者の思索は深くて底に届かない。しかし思想史からすると、どんな思想も完全なものは無い。そして思想の歴史は連続性が無い。思想史は親不孝の始まりである