MEMO

アイルランドはどちらかというとフランス革命のマッチョ主義の犠牲となったマリー=アントワネットに共感があるという印象をもった。ところでマリー=アントワネットという名の紅茶、私のようなものでも嗅覚と味覚のギャップに一瞬イメージが宙吊りになるそのサロン的デリカシーがわかった‬...


野性の少年』(L'enfant sauvage 1969)は、フランソワ・トリュフォー監督 François Truffaut がJ・M・G・イタールによるアヴェロンの野生児の記録を映画化した。 イタール博士はトリュフォー自身が演じている。 『アヴェロンのヴィクトールの新たな成長に関する報告書』Rapport sur les nouveaux développements de Victor de l'Aveyron 1806 は、フーコ『言葉と物』(第4章 語ること)が言及している。これを読んではじめて、"言葉は言葉についてなら語ることができる。言葉は映像が語るようにはつくられてはいない"とするゴダールの問題意識がある時代の言説に深く関わっていることを理解できた。『映画史』の構想は「語ること」をめぐる言説に対する批判の目的をもっていたのである。


朱子的宇宙観をもつからこのようにいわれる距離が成り立つのだろう。パスカルと比べてしまったら、そこに漱石はいるだろうか。漱石もなくなるしパスカルもなくなる。おそらくそれが差異を消す近代のやり方なのだけれど、差異を作りだす脱近代の方法であるとおもっている。「西洋人がこれは立派な詩だとか、口調が大変好いとか云っても、それはその西洋人の見る所で、私の参考にならんことはないにしても、私にそう思えなければ、到底、受売をすべきはずのものではない」

‬(夏目漱石、『私の個人主義』)


‪たかが発音記号、されど発音記号。ブルバキのことばかりいわれるけれど、音声学を知らずして記号学構造主義を理解できない。そこから誰も彼も記号学構造主義に行く必要がなく一人でいいのだ、と、音声学の大家が憂いているとその娘が話してくれた。学生時代にきいた話だったが、その意味はなんだろうかとはっきりとわかっていない。今日ならば、ポスト構造主義とポストコロニアリニズムから<帝国の構造>へ行くのはひとりで十分だ‬ということになるのかしら


トランプが正しいとおもう39%と、内閣支持率の4割越。その全員が馬鹿だとは思わぬが、沈黙している人々がこんなにいるのか。否、もっと増えるかも。私は及び腰だけれど、存在の沈黙している惨めからは「無駄話」と「虚栄」とおもわれている、存在の沈黙しない惨めさを選択する人々の側にいたいと考えている。


古本屋さんの通りを歩く散歩。切手収集をしていた子供時代の切手交換をなんとなく思い出す。友達と会って交換することに飽きたとき、絵の美しさに気がついた日があった。今日あらためて、切手になっている幾つかの伝統絵画を見ると、コンパクト(周密)になっている。そこからそうして思索が成り立つ魅力...


‪映画のイエニーはロンドン時代のヴィクトリア朝風コスチュームでなくて本当によかったとおもっている。マルクスは、といっても、もちろん映画のマルクスのことであるが、人間の本質的平等観をもっていたので、かれのなかで「革命」の概念が成立していたように描かれている。映画は、このヘーゲル左派がエンゲルスの影響下でイギリス政治経済学を読むことによって「階級」の観念をもつに至る経緯を伝える。そうして後半では「階級」をめぐる同一性に絡みとられていく展開をみることになる。つまりマルクスが何を言ったか、誰がマルクスなのか、お前か、それともお前かという類の話である。再びイエニー。映画のイエニーが最後までフランス語で喋っていたのはどうしてなのか。フランス語をもたなければ「意味」がなかったそういう時代をあらわそうとしていたのか?ハーレントは亡命後に?ドイツ語を喋っている自分がドイツ人云々であるとはおもわないと言ったように、イエニーはフランス語を喋るからと言って自分はフランス人云々であるとはおもわないと考えていたのか。確かなことは、ロゴスが思考の優先順位をもつということ。ロゴス的存在としての人間の根拠が何であるかが問われている。フランス語をもたなければ「意味」がなかったそういう時代をあらわそうとしていたとしても、言語と時代に先行するのは思考の優先順位であるロゴスである


‪ワールドカップはポストコロニアル世界をもつ。参加国の数ではオリンピックよりも「普遍性」があるとする見方が成り立つ。世界はアフリカチームの監督が現地の非白人という意味を考え、セネガルの映画はポストコロニアル世界の問題を問う‬


人々は「平和状態」のなかで、ひょっとすると自分が加害者として働いているかも知れないとはもはや考えようとはしないし、まして「平和状態」そのものが世界の多くの恵まれない人々の我慢と悲惨の上にきずき上げられたものであるかも知れないとは決して考えようとはしない。

小田実「私自身のなかの平和」'71


「あなたも知っているだろう。この島の悲しみを。…だからきっと分かるはずなんだ。戦争の無意味さを。平和とは当たり前に生きること。命を精一杯輝かせて生きることだということを」


" What absence is made of "


‪問題は、安倍さんになりたいとおもうものがあまりにおおいこと。そうして幸せをつかむのは、安倍晋三ひとり。ほかは生きていけなくなる‬。私は生きているが生けていけただろうか。あなたも生きているが生きていたか。そしてあなたもどうか?


ブルジョワ的に考え過ぎているといわれても、(近代法ブルジョワ的なのだ、仕方あるまい)、文明国の刑法は罪と罰の関係が商品と価格の関係としてあるように成り立っているとしよう。罪を買ったら支払うべき罰が書かれているという感じで考えてみる。ところが刑法をもっているのに罪を犯されたものが罰を事実上支払っている国があるとしたら、なんという野蛮さ!転倒しているこの不公平さは、何だろうか?国が民主主義を成り立たせないあり方を反映しているのだろうか‬。人権がニュースになる国際放送がこのことに無関心でいられるはずがないだろう。国際問題化しなければ解決しないことばかりである。



MEMO (三省堂 大辞林より)


実字

1、名詞・代名詞・動詞・形容詞・副詞など,実質的な意味をもつ漢字。

2、〔江戸時代の漢学者皆川淇園らの説〕 具体的な事物を表す漢字。人・犬・馬・山・川・草・木など


虚字

1、実質的な意味をもたず,文の組み立てを助ける字。いわゆる前置詞・後置詞・接続詞・助字・感動詞などに相当し,独立して用いられることが少ない。於・于・乎・者・也・矣・哉・則・焉などの類。

2、〔江戸時代の漢学者皆川淇園らの説〕 実在の事物を表さない字。走・生・高・低など,主として動詞・形容詞・副詞などに用いる字。



Aの主張から考えるときは、同じものは同じようにはありない、どんなものも変化する、と。しかしこの自然哲学の考えかたを、そのまま人間と人間が交際する社会に適用できるか。憲法が「時代に合ったもの」となっても、憲法そのものをゼロにしたような戦前との連続性を回復する形で変わることはゆるされるだろうか?だから、客観的に永遠に変わらないものは存在するとは言えないが、時代に無関係に、共同体にとって同じでなければいけないと決めなければならないものが存在するではないか。例えば原理的なものは同じでなければならないと考える。(通常は言論の自由と思想良心の自由が原理的なものとしてかんがられますが、それを弾圧した天皇ファシズム軍国主義を可能にしたのは国家祭祀だったので、国家祭祀を禁止した天皇象徴制が原理的なものとおもってます。いづれ天皇を終わせる必要があるでしょうけれど。)

Bの主張から考えるとき、「憲法が目指してきたかたち」に「近づける」の意味をはっきりさせるために、「憲法が目指してきた社会のあり方」を「自分たちのものにする」というふうに置き換えて考えてみる。(今朝考えたことですけど主権の問題を避けて憲法のことは語れまでんが、小学生に理解させるのは難しいかもしれないのでそこで)。ここで、「自分たちのものにする」の「自分たち」はだれなのか?「自分たち」が憲法を「もつ」から「憲法が目指してきた社会のあり方」を問うことが成り立つ。「自分たち」の代わりに『「自分たち」でないもの』が憲法をもつということはありえない。『「自分たち」でないもの』があたかも「自分たち」のために「憲法が目指してきた社会のあり方」を問うことはゆるされないのでないか。(解釈改憲の問題はここにあり。また憲法の人類史的視点はわれわれはわれわれ自身であることをたえず乗り越えよと言っていることをどう考えるか。)


‪米最高裁は入国禁止令支持か。移民で成り立ってきた多様性の歴史を隠蔽するような、だれもかれも同じ喋りかたをしなければならないアメリカ英語みたい


17 states sue Trump camp over family separations, allege migrants not getting due process

ー The Japan Times



ニューヨークにかぎらず、わかいひとたちにまかせたほうがうまくいくんじゃない?


‪ホーホー、‪呑気なふくろうねこの呟きだけど、宮沢賢治銀河鉄道は天へ行く。海の底で息を吐ききった虚から自ずと身体の中心から吸う実の息が天道に満ちるように、天命(運命に近い意味)を待つニャ。人事を尽くして天にゆだねよ、と、2500年前の人は考えたのは、いまだって同じ。ホー、変化に向けてやることをやり尽くしたら、舞台でお天道様を仰ぎ見るしかない‬ニャ。そうしたらそれはそれですごいことだとおもう


狂言には、能のように、上からジリジリとわたしたちを圧迫して、感動の押し売りをするようなところがありません。」花田清輝


The momentum mv Leibniz called the "dead force", while mv² is the true measure of the "living force", whose totality in the universe remains constant


・Scholar in Room with Spiral Staircase.Rembrandt's representation of space is reminiscent of Leibniz's spatial concept, which has to do with the dynamic development of forces and continuous temporal transitions.


mvは死んだ力とライプニッツが呼ぶモメント。mv²が生きた力で真の尺度だ。 生きた力は宇宙の中で全体として、一定である。ライプニッツは保存則を経験的でなく、形而上学的な等価物とみなした。結果は全て原因に対応すべきであり、失われるものはなにひとつ存在しない

レンブラントの空間表象はライプニッツの空間概念を喚起する。力の時間的発展と連続的継起上の変化を扱う


REBIRTH;

For this reason, global capitalism will no doubt become

unsustainable in 20 or 30 years.  The end of capitalism, however, is not the endof human life.  Even without capitalist economic development or competition, people are able to live.  Or rather, it is only then that people will, for the first time, truly be able to live.  Of course, the capitalist economy will not simply come to an end.  Resisting such an outcome, the great powers will no doubt continue to fight over natural resources and markets.  Yet I believe that the Japanese should never again choose such a path.  Without the recent earthquake, Japan would no doubt have continued its hollow struggle for greatpower status, but such a dream is now unthinkable and should be abandoned.  It

is not Japan's demise that the earthquake has produced, but rather the possibility of its rebirth.  It may be that only amid the ruins can people gain the courage to stride down a new path.(Kojin Karatani)


サイズ


 「みんな」はどれくらい「みんな」なのだろうか?映画について考えるときはこれが大きな問題とならなければならなかったのです。「みんな」のサイズは、蓮見重彦が語りかけるような高い美意識の観客だとあまりにも小さすぎます。それは民族だとしたら、巨大すぎて集合論について語らなければならなくなるほどです。「みんな」は、意外に、個人のことか?真っ暗なところでひとりで本を読むようにスクリーンを見ている孤独な個人?だが、その場合でも、他から見られれているという意識がなくなるだけの話で、隣の他のひとびとが消滅してしまったわけではありません。そうして映画の思考は、どうしても共同体を問題とせざるをえません。この共同体がいかにスクリーンをみたか?について考えていくと、例えば詩人があるいは民族が自らを世界に投射するやり方と、共同体が自らをスクリーンに投射するやり方とは同じではないはずなのです。


テレビを見ながらでは絵が描けなくなりますが、ラジオならばOK。人々が見ている政治家は、隣人に話しかけぬ現在の観客が見ている映画と同じ。リュミエールの映画は最初はカフェで上映されたので、人々はもっと自由に喋りました。人々が黙り始めたのは、映画が世界の風景を見せるようになってからです。美しい風景、これが民主主義にとってヤバイ(笑)


‪漢字が日本語を滅ぼすというだけの根拠で、漢字廃止をいうのは、ラヂカルでもなんでもなく、単に質の悪い考え方であるだけ。漢字廃止論は漢字書き出し文で考えられた思想をもっていないから、明治維新の近代を相対化できない。安倍さんを靖国に行かせてあげなさいなどと最悪のことを言ってしまう‬のではないか


‪Immanuel Kant " Was heiß Aufklärung?" ( "What is Enlightenment?")‬


‪The public use of man's reason must always be free, and it alone can bring about enlightenment among men; the private use of reason may quite often be very narrowly restricted, however, without undue hindrance to the progress of enlightenment. But by the public use of one's own reason I mean that use which anyone may make of it as a man of learning addressing the entire reading public.  ‬


知ってほしい、あなたもある意味で死者なのだ。ー ボルヘス


前衛がつぎつぎに消されていけば、後衛でさえ、前衛になる。

花田清輝


‪どの時代も、確立した物の見方と異なる見方が起きてくる。問題は、言語表現の成熟のなかであらわれた新しい見方が常に道徳的に頽廃しているようにみえるのはなぜかということ。マニエリスムとかヌーベルバーグとか。江戸思想の古学も漢字受容から1500年経た言語の成熟のなかから現れてきた。‬