ユーチューブのパリのデモを契機に考えたこと

‪ ‪ ‪ パリのグローバル資本主義を推進してきたマクロン政権に抗議するデモはもう幕引きか、それとも再び始まるための終わりなのか。ユーチューブのパリのデモを契機に大局的に考えたことを書いておこうとおもう。グローバル資本主義にたいしてグローバルデモクラシーという視点を子安氏は打ち出していて、これから考えるヒントをもらった。さて不完全だが自分なりに考えをまとめると

‪ 1、アジアでもヨーロッパでも、貧富の格差の問題の解決を、グローバル資本主義を推進してきた国家に再び委ねることは倫理的に不可能である。国家を批判的に相対化する究極の主体の形成と国家に介入する自立的な人民のあり方が課題となっているゆえんである(ラディカルリベラリズム)。

‪ 2、方法としてのアジアであれ方法としてのヨーロッパであれ、両者の言説は、言語的存在者が存在の意味(生死の意味)を問う意味ある世界の再構成が垂直軸と水平軸において要請されている点において同じ方向性をもっている。

‪ 3、21世紀における普遍主義の再構成の模索がそう簡単に特異点無意味(ファシズム)に陥っていくことはないと思うけれど、ナショナリズムに引っ張られることによって悪い形をとっていくことは避けられないのか?対抗的に市民の思想も鍛えられてくるとおもう

‪ 4、グローバルデモクラシーは、言語を可能とする、したがって思考を可能にしていく生死の意味を倫理的に問う普遍主義と多様性をもっている。そこからそれぞれが自分の言葉で語る自由と責任が成り立つーヨーロッパ語圏で、漢字文化圏で。

‪ 5、日本の近代は常にヨーロッパのために考えるか、その反動でもっぱらアジアのために考えるという繰り返しだったが、‬今日の問題は、中々ヨーロッパのようには確立できないアジアの政治的多元主義はどうなるかということ。私自身考えてきたか?

北一輝と明治維新の読み

‪ ‪ 北一輝社会主義者の視点から、天皇主権の天皇機関説の問題をみていたが、彼の国家から民主主義が生まれるという如き社会主義者の幻想もまた問題をもっているといわれる。国家主義者だからこそ明治維新の正体を見抜くことができたかもしれないということもある。(思想の地震みたいなー実際に地震が影響していた?ーアイロニーの過剰なレトリックで綴られた文のわたしの読み間違えでなければ大体北の言う通りに)、現実は「信仰的中心」を京都コルシカ島から連れ出してこれに政治権力を集中させてしまった明治維新の無責任体制が、昭和十年代の全体主義を実現させてしまったのであるのだから。『大正を読み直す』を読む必要あり

万世一系の皇室が頼朝の中世的貴族政治より以来七百年政権圏外に駆除せられ、単に国民の信仰的中心として国民の間に存したることが、維新の民主的革命において民主主義の大首領をコルシカ島より輸入せざりし天佑に保全せられたる真義はいまだ埋没せらる。(北一輝 支那革命外史)

眠れない夜に考えること ー 貨幣、テクスト、映画

眠れない夜に考えること

‪『資本論』を読むと、貨幣(等価交換)を物語るテクストが存在することから、貨幣が存在すること(貨幣フェティシズム)へとマルクスの関心が移っていくようでありますが、一体これはなんだろうかとおもっていました。‬また、宣長は神々がいるかどうかよりも神々を物語るテクストは存在していることの意味がどうも大事らしいのですが、篤胤の場合となると、神が存在するという神学の一神教的見方をもちます。これはなんでしょうか?存在を語るテクストが存在するという思惟から、存在することを証明していく思惟が生まれてくるという展開。言説の差異化の運動でしょうか?‬

最後に、‪『昼顔』のブニュエルにおけるようなフェティシズムを物語る見方は、見ることに過剰な意味づけをもつとおもわれます。媒介なく直に神々を見ているという関係を敢えて物の語りによって語りを構成する見方もフェティシズムの見方かもしれません。それが、世界宗教的な一神教的見方(見えない神が存在する)を語る言説にとって代わられると、言説の差異化の運動のなかで、体系的構築性のもとにいくような物の見方が現れてくるのでしょうけれど、それと同時に、体系的構築性が救済論的同一化に壊されていく思考の不均衡は大変面白いというか...‬

国家と祭祀

‪明治国家は国家として承認されるために政教分離を必要とした。国家は寧ろ政教分離をもつことによって、祭祀国家が成立したのである。戦う国家=(自らのために)祈る国家は政教分離の対象となる宗教ではなかった。21世紀に日本の依るべき道を定めるために、思い出させたいのなら、大切なのは、祭祀国家の大嘗祭ではなく、敗戦後にアジア諸国に向けて祭祀国家をやめたとする誓いの方ではないか

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「大嘗祭」の問題

聖徳記念絵画館では、「五箇条御誓文」、「江戸開城談判」、「即位礼」、「神宮親謁」、「廃藩置県」、「岩倉大使欧米派遣」といった壁画のあとに、21番目の「大嘗祭」の壁画(1871)がくる。「靖國神社行幸」の壁画(1895)は64番目である。オフィシャルガイドの説明文は「『大嘗祭』とは、新穀を天照大御神に供えると共に、自らも召し上がり、... 大嘗祭は一代に一度です(天皇の「代替わり」にともなう儀式)」とある。古来から続いてきたように教えるが、「大嘗祭」の壁画に先行する一連のイメージ、その後に続く「靖國神社行幸」を含むイメージを見ればわかるように、「大嘗祭」は近代の発明、国体の制作を完成させる国家神道の発明としてあったのである。事実上の国家的行事として多額の公費をつぎ込むやり方は、戦後憲法に明らかに反している

卑近的史上あるいは至上的卑近 ー至上なものは卑近なものにある

至上なものは卑近なものにある。それはどういう意味か?至上なものが君主から国家へ移る近代に、人間は国家の位置をもつ。そこで客体の側の自らをみる主体の構造が成り立ったのである。‪しかし至上なものが卑近なものを住処とすることは、至上なものとの同一化(国家理性)を意味したり、または卑近なものとの同一化(ナショナリズム)を意味することなのだろうか。近代の終わりに、卑近的史上あるいは至上的卑近に向かって、近代を成り立たせた国家理性とナショナリズムの構造から自立する究極の主体の確立が要請される時代が始まったのではないか

能の仮面

気になったことだけれど、はずしてはならないという能の仮面。外したら、舞台に見えている集まってきた音楽の粒子たちを仮面にしているその仮面をどうやって聴くのかしら?