田中克彦「ことばと国家」を読んで

田中克彦「ことばと国家」を読んで

田中氏の言語学についてはなにもいうことはない。知識もない。ただここではこの言語学がもつ言説性を問おうとしている。

1、民族の「XX人」は19世紀近代の国民国家が発明した。<XX人の言葉の下を掘れば共通の言語と必ず出会う>は、<諸君の大地の下に民族の起源が必ずある>と同じ詐欺である。が、なぜ言語学は、言語の純粋な起源を否定できるのに、都合よく「XX人」という贋の文化概念の方を実体化してしまうのか?...
2、この言語学は、「社会主義民族主義」とそれがよぶものによって、国家がいかに「死語を甦らせる」のかと語っている。「ユダヤ人が固有の言語を持たねばならないという着想は、一面では社会主義の民族理念に触発されたものであり、他面ではプロレタリアート解放運動の必要として生まれた」という。(この場合「ユダヤ人」は「アイルランド人」に置き換え可。実際に死語の国策的復活に関して、イスラエルの言語政策は「成功例」として、アイルランドの「言語政策」は失敗例として比較されたりする。) だが、ここで、この言語学が指示する「固有のもの」は、いったいだれのために語る「固有のもの」なのか、とわたしは問う。この言説は、「プロレタリアート」(つまり農民)の側から語るように語っているが、結局これは、言語学が自らが自らのために語る「固有性」でしかないのではないだろうか?つまりこの言説は「プロレタリアート」(つまり農民) の代わりに語るように語っているまさにこのときに、この言説の側には、あたかも、「国土」が固有の言語を住処とするという自らのブルジョア的表象にまったく自覚がないのである。
3、以上は、言語学の専門家でないこの私の読み間違えかもしれない。冒頭にことわったように、この言語学がもつ言説性を問うているだけである。この言語学の言説が依って立つブルジョア性を指摘することは、田中氏が繰り返し厳しく戒める「教条主義的な」イデオロギーの虚説なのだろうか、と私は心配である。しかしそうであれば、民衆史的言説(社会主義プロレタリアート解放運動)に言及する言語学は、どんな特権的な根拠から、「教条主義的な」イデオロギーの虚説から常に免除されているというのだろうか、ともおもう。「大衆的基礎」によってか?それならばそれは特権的にだれが「大衆的基礎」と名指すのか?「大衆的基礎」であると思われていれば「大衆的基礎」であるという「共時意識」か?そんな「共時意識」とはなにをいうのか?その同一反復的な中心に、「ことばと国家」の書き手のほかに、だれが存在するというのであろうか!?

参考文 (田中克彦、'ことばの純粋性とは何か' 、「ことばと国家」)
「ある一つの言語がいかに純粋であるかを分析的に示すには、その言語の固有性が、隣接言語との対比において証明されねばならない。そばあい、文法構造の固有性を他言語と比較するというような試みをおこなっても、大衆的基礎をもちえない。そこで、言語の純度を分析的に証明しようとすれば、どうしても語彙の独自性に手がかりを求めることになる。語彙の独自性とは、そこに外来語と思われる異物の混入度が低いことによってはかられる。したがって、純化主義が大衆的な基礎をもって一つの運動に高まるためには、どうしても外来語の排斥という形をとることはよく知られた事実である。
母語の純度への意識は、より強力な他の文明と言語に接したばあいの危機感によってもたらされる。ふつう、ことばはひたすら実用的に使われているかぎり、だれも純度などに気はかけないのである。むしろ、母語における手段の不足が感じられるや否や、必要なものはただちに、できあいのものを他からとり寄せられる余地がことばに残されているのは、望ましくさえある。
しかしたとえば、英語という強力な敵に包み込まれてしまったアイルランド語にとっては、多少の不便は、その言語そのものの存続のために、あえて支払わねばならない代償である。アイルランド人はそこで次のような数字を引き合いに出す。英語とアイルランド語から、それぞれ十万語を取り出して比較してみよう。英語においては、その本来の固有の語は33%を残しているに過ぎないのに、アイルランド語においては80%までも維持されている。すなわちアイルランド語は自立して、しっかりと維持されており、英語に比べてはるかに高い純度をもつ独立の言語であると。
だが、こうして議論をおこなうことは誰にも可能ではない。つまり、日常用いている語のごれが異物であって、その異物がどの言語から由来するのかという判断を、語源研究の成果にもとづいておこなえる人は、そう多くないからである。いや、ほんとうのところは誰もいないと言ったほうがいい。そこに生じうるさまざまな議論をこえて、母語であると思われていれば母語であるという共時意識、すなわち、歴史をすべて現在としてとらえる意識が最も公平な判断を下すだろう。もともと、言語の使用のさなかにおいては、人は語源などをたずねたりはしない。言語のすべては現在化されているのである。」