「われわれは毅然とテロと戦う決意が求められている」。しかし憎悪ゲームに取り囲まれてしまったそのわれわれはそれで本当に幸せなのかという問題

 

イギリスのような国にはファシズムがなかったとおもわれていますが、イギリス軍が地球の裏側まで展開し拡散していたので、全体主義が起きてきた国の中に軍国主義の軍隊がなかったのですね。比べると、戦前日本の場合は、ファシズムが成り立ったのは、国家主義からうまれた、全体主義軍国主義が同じ方向に歩んだからでした。しかし単純ではありません。たとえば、北一輝の主張が軍国主義だとしても、久野と鶴見共著「現代日本の思想」が「ホームラン性のファール」と形容した北一輝の思想にアンチ全体主義の言説の可能性を期待していたことはたしかです。さて2015年の現在、ふたたび全体主義軍国主義が一緒の方向に歩みだそうとしています。ここでいう全体主義は、一つの国家=一つの言語=一つの民族 <Une nation, une language, une race>と主張する国家が、国家の排他的他者をヘイトスピーチすること、そして靖国公式参拝的な、戦う国家=祀...る国家という等式に従わせようとする国体的言説です。またここで軍国主義は、絶対的平和主義という名の集団的自衛権の行使であることは明らかです。この場合、21世紀が20世紀の戦前とは異なる点は何でしょうか?21世紀の日本は自らを、アメリカの<帝国>の構造に組み込む仕方で、全体主義軍国主義を一致させてきたのではないでしょうか。<帝国>の根底に、グローバル化に対抗していく政治的言説があります。それは帝国の敵対的他者を排除する政治的言説とかんがえられるものです。絶叫されることになった「テロ」の意味をさがしても時間の無駄。「毅然とテロと戦う決意が求められている」というアメリカの帝国の言説が、それを言う共同体(日本)に触発する意味のほうが問われるべきです。(帝国の政治的言説としては、ほかに、官僚資本主義の中国の「新儒教」、ロシアはわからないのですが、中国の御用知識人たちのように再び共産党のリーダーシップに期待する「ポストモダンのモダン」化がおきているようです。ヨーロッパではどうも第四帝国的な「表現する自由」なのか?ギリシャの選挙の影響は反「帝国」的な方向に行くのか?)。しっかりみる必要があるのは、「毅然とテロと戦う決意が求められている」の意味とは正反対に、グローバル資本主義が構成するテロ、極端の格差というテロが推進されていく有様ですね。グローバル資本主義と帝国の権威主義体制にたいして抗議していく市民たちが、過激分子として弾圧されていく危険性が常にあることです。アラブの春やオキュパイ運動にたいして、また昨年の台湾と香港の抗議にたいして実際に弾圧がおきました。ポスト共産主義の帝国は人々の抗議を独立を求めるエゴィステックな民族主義の動乱だとして名指して弾圧しています。またアメリカとヨーロッパの帝国が、ヨーロッパ外の人々の抗議を(あるいはヨーロッパの内の外国人・移民の抗議を)「表現の自由」の脅威としてきめうけて弾圧しているのではないでしょうか。安倍について言っておくと、かれは集団的自衛権のプランを作れずに非常に焦っていたとおもいますが、どさくさに人道支援という名目で自衛隊の新しいあり方を掴みそうです。戦前の総力戦とは異なる、見えない戦争のつくりかたです。一貫してかれが行っていることは、平和共存を願う東アジアの日本から、TPPと核体制の日本、つまりアメリカ<帝国>の日本へのシフトですね。恥ずべきことに、日本は憎悪ゲームの世界戦争の舞台にデビューすることになりそうです。しかし憎悪ゲームに取り囲まれてしまったそのわれわれは本当に幸せなのでしょうか?