書くこと 100−200

11 書くことは並べること。ガリレオアインシュタインも方程式に裏側はない。思想の言葉は裏側ー思想家ーをどうしても考える。だが常に思想家がそこにいるのか?思想史ならば存在する

12 世界は痕跡である。起源を問う近代は、何処からきたかに答えるために遠くへ行く。近代とは別の考え方は、眼の前に見ているものこそが隠されているものだと考える。痕跡が答えである

13 世界とは痕跡の他にない。ラス・メニーナスは、眼の前に見ている世界こそが隠されている世界である。『古事記』も、眼の前に見ている言語が隠されている言語。漢字しか書いていない。世界とは痕跡。『古事記』には漢字しか書いていないとはいえ、再び漢字に起源を見いだすような悪循環を避けるためには、思考を可能にしてくれた「不可避の他者」の存在が要請される

14 理に逆らう情ほど人に遷るというのに、顔回の怒りは遷らなかったと孔子はいう。この孔子の言葉をどう理解するか。仁斎の詳しく書いた注釈があるが、簡単ではない。これについての『仁斎論語』の評釈が助けてくれる。これを読んだ後に、情を言語化するというか、「情」はどのように語られてきたか知的に語ることの大切さを考えた。宗教ならば、禁じられた怒りを語ることに価値がない。論語』は彗星のように流れる実に短い言葉でさりげなく、知識人にとってのタブーを破っている。また心をどうとらえるか。理を心によって置き換えることはできない。聖人の教えは仁にもとづくのであり、これは心によっては支えることができないのではないかということを考える。ここで、性は理であり(性即理)、心が支えることができないのではないかということもあらためて考えることになった。理気二元論コスモロジーが批判されている仁斎においては理念性が要請されているこの点が重要である。難しいが、仁斎は、理から切り離された「仁」との関係をもった情動を語っていたのだろうか。心の本体(性•本心)が大切なのではない。仁斎は、「仁」に向かう心の動き、慈愛の心という他者に向かう心の動きを重視する。「仁」は仁斎において愛である。人が生まれながらに持っている、四端の心ー惻隠の情、悪を憎む心、謙譲の心、物事の是非を見きわめる心ーが再構成される。ドゥルーズ哲学にとって大きな意義をもつ反ロゴスの情動について、ヒューマニズムのモダンではなくポストモダン的に、仁斎における理念性とともに考えたいとわたしはおもっている。しかし情動を再び別の体系で体系化することに意味はない。面白くもない。最初からわかっているが、情動は言遂行的に意味をもつことができると思っている


15 書くこと並べること。世界は「怒り」をどう語ってきたか?マルチチュードは草原に燃え広がる情動として語る。理に逆らう情ほど人に遷るというのに、顔回の怒りは遷らなかったと言う孔子の言葉をどう理解するか

16 世界とは反ロゴスの情動。川を挟んで洗濯する二人は、夜、世界の中心を外部のstem(幹)と石(stone)におく。あちらへ流れこちらへ流れる水に成るために

17 世界とは「文明国家」。政教分離の観念はキリスト教がはいってきていた江戸時代にあった。明治は西欧から来た人々に適用する政教分離を示し、かつ、国家神道政教一致を確立した


18 書くことは並べること。世界とは思考の自由。数を数で数えることならば易しいが、数に正しさ(矛盾がない)を理念化すると難しくなる。エクリチュールは孤児であるほうがいいか


19 世界は思考の自由。理念的なものを思考の明確なイメージを衝突させよ。イメージは方法としてある。だが高く遠く外にある近代主義的理念は、対抗的に呼び出される実体に絡みとられる

20 世界は戦前に戻らない誓い。戦争する普通の国にならないことは易しいが、理念化すると難しい。絶対平和主義と、合同演習で軍隊が国の外に出ている解釈改憲が両立してしまっている


21 書くことは並べること。世界は表層的なものである。神話も映画も根底に民族はない。というか、根底なき表層的なものである。両者は民族を越えるものではないか。世界映画は世界神話におけるようなものとしてある。草の根運動のプロ化と失われた自発性を問うただけのアイルランド映画は、ナショナリズムの映画とされるのはなぜか?ナショナリズムの破綻を表現していると解されるのはどうしてか?それは少なからず映画の世界性によるとおもう


22 世界は解釈である。解釈の解釈で忙しい。憲法改正前に解釈で改正済。解釈改憲による軍国主義国家神道(公式参拝)の復活、国民がノモス的主権を譲った解釈改憲的象徴天皇。国は何も無い

23 19世紀の復古主義は考えることができなかったものを考えるために儒教経書を新しい読み方で解釈した。近代日本は国学からしか生まれてこなかった。神道儒家神道だった。エスタブリッシュメント政教一致的な「国体」を考えた。問題は明治維新の王政復古化。現在からみると、長州が京都から連れ出した天皇にノモス的主権者が奪われてしまった歴史だった。今日ギロチン台の首みたいなただの札の肖像になってしまったが、明治が確立しておらずまだ可能性があった時代に、societyを人間交際と訳し、「人民people」を考えたのは、福沢諭吉。それはみとめなければいけないとおもう。子安先生の福沢諭吉論が中国語に翻訳されているらしいが、福沢も新しい読み方が必要である。


24 書くことは並べること。世界とは運河である。イギリスも自由があるが、おなじくらい規制もある。イギリスから規制を取り除くとオランダが出来上がるというのがわたしのオランダのイメージ。スペインから独立した時代にユダヤ人を受け入れていったのは、気にしなかったといわれる(清潔にしないといけなかっただけ)。気にしないことは易しいことではないかとおもう。だれでも入ってくるアムステルダムの運河をみると、考えることは、先ず他者を信じることが先行している。そういうことを近所のユダヤセンターでイギリスの有名なリベラル知識人が喋った。なるほどとおもってこの話を聞いていた。しかし気にしないことを理念化すると難しくなるに違いない。気にしないことはどうして正しいのか、これを言語化しなければいけなくなるから、個人主義とか国民思想とかで。リベラル知識人はユダヤ系住民で占めた聴衆者から猛反対をうけていた。いっしょに、カール•ポッパーもやっつけれていた

25 どうして日本では権力集中を問題とするものがマイノリティを排除するファッショ的人物と政党しかいないのか。果たしてこれは遅れた日本近代の問題か?近代主義に立つとファシズムを問題とすることができる。近代はもっとホンモノにならなければいけないと。しかし近代主義を批判するポストモダン的言説からは近代主義ファシズム批判は成り立たない。もう近代は終わっているからだ。ポストモダン的言説は次のように問題を再構成する。権力集中の問題は言説の問題である。つまり明治維新の王政復古化の問題を隠蔽している問題だと。またマイノリティ排除の問題は、歴史的に、<韓>の排除を前提にした国家の成り立ちにかかわる問題だとみる。福沢諭吉に責任がありそうな、反アジア•反中の言説をどう考えるか。近代主義は近代化が進まないのは中国のせいだと繰り返し非難してきたが、これは近代主義の根源的錯認と言わざるを得ない。近代主義の近代国民国家を語る高く遠い理念は対抗的なナショナリズム(民族主義)を呼び出してしまうのである。

26 世界はもっと言語を集中させなければいけない。だけれど、ポストモダンは、主体を否定しきってしまうと、戦前の天皇ファシズムの復活はあり得ないが、安倍政治が解釈改憲の国家祭祀復活(公式参拝)と解釈改憲的象徴天皇(国民のノモス的主権の譲渡)を前提に皇室に依存しないナショナリズムを組織化するなかで、これにたいする抵抗を行うことができるのだろうか


27 書くことは並べること。「子曰、天生徳於予。桓魅其如予何」(『論語』)は次のように書き下される。「子の曰く、天、徳を予(わ)れに生ぜり。桓魅(かんたい)、それ予を如何(いかん)」。漢字文化の日本語では主語(「天」)は常に漢字である。「テン、トクヲワレニショウゼリ」と書くこともできるが、「てん、徳を予れに生ぜり。」は文法性は保たれていても、受けいれることができない(grammatical but unacceptable )。主語は漢字でなければいけない。ここで、漢字の表意性によって、「天」の意味はわかるから、読まなくてもいいのだ。さてもし主語面に帰るあり方に文化的意味を見いだすならば、漢字の表意性に帰るあり方を見逃してはいけない。それと、「天生徳於予」と、「天、徳を予れに生ぜり」を並べてみると、「生」(用言と体言)に「ぜり」をおくことによって活用化している。国語的説明では、用言は、体言にたいして、活用化しているというけれど。西田幾多郎のように、主語面に帰るよりも述語面に帰るあり方に文化的意味を見いだすならば、漢字(中国語)を利用した、体現の用言化のことをみる必要がないか。わたしは言語の専門家ではないので間違っているかもしれないが、漢字は不可避の他者である、解体-日本思想史からみえてくることについて言うと、日本文化が漢字文化であるのは、主語面に帰っても述語面に帰っても漢字に依ることなくしては成り立たないあり方をいうのではあるまいか


28『言葉と物』の新しい表紙は、ベラスケスの絵画だが、フーコが汚されていない表象的記号と呼ぶ画布の裏側が省かれている。原画が醸し出す異様な感じがしない、自然な絵となっている。本の表紙と、表はなにが描かれるかが隠されていない原画の二つを比べると、絵の中の人物と裏側から見ているわれわれの傍らに王の不在を考える。東アジアにおける現代の問題を絵に読みとることができるかもしれない。われわれが見ている四角形の表(タブロー)の中心に、国家の名がある。われわれはわれわれと彼ら自身を描く(書く)画家とともに、漢字文化の命名制作を見ている。大いなる他者が漢字を与えてくれ思考を可能にしてくれた漢字が現在は一国の母国語として音声化しているのに、隣国及び国内マイノリティにたいして王の存在ー帝国の支配ーを主張している。精神は声が思考できない存在だからこそもつ「われわれ自身」における本性的•優越的地位に従属させられる

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29 書くことは並べること。世界とは、定義可能なものと定義不可能なもの、定義してはいけないもの、二重化されるもの、二重化がいらないもの、とを覆うものと覆うことができないもの


30 世界は定義する。世界は芸術を定義できる。例えば『フィネガンズ・ウェイク』一冊を以って定義できよう。だが世界はファシズムを定義してはならない。理念化の問題があるからだ。近代主義がやるようにナチズムまでも理念化してしまうと、日本はファシズムが存在しなかった。しかし天皇ファシズムは存在した


11 世界は隅々まで二重化できるか?近代主義は隅々まで二重化する。二重化は近代主義の物の見方なのである。そうして本居宣長を二重化する近代主義は自ら分裂させた本居宣長の二重性に驚きを禁じ得ない。宣長における文献的実証性と教説的国家主義の分裂を指摘する。宣長の古意を解釈するため方法として古代人の心を仮定しているー理念的なものではないーが、近代主義に実体化されている。近代主義宣長から国家神道を切りはなす。しかしこの宣長から国家神道を切りはなすことはできはしない。この場合、宣長の生きた江戸時代に国家が無かったのだから、宣長ハイデガー問題として、宣長と(国家の時代にしか登場しない)ファシズムとの関係を明らかにしたのは、近代主義の根源的錯認と言わざるを得ない。この根源的錯認を前提に、近代主義宣長から国家神道を切り離している。天皇ファシズムは国家祭祀の近代化である。この天皇ファシズムが問題となっているところに、ヨーロッパのファシズムを前提に、宣長ハイデガー問題を語り出している(なんのために?)

12 書くことは並べること。世界とはいしころたち。路でどれかをひろう。8個を上下左右のポケットにいれる。どれかを取り出して他のポケットに入れる。繰り返すとそれらは裏側へ行く、たくさんある小さな入り口。宇宙の鏡を立てた言語の果てから見るー汚されていないくしゃくしゃになった物で書かれたもの

13 世界とは不均衡なまま安定してしまったものか、あるいは、世界とは均衡したまま不安定であるものなのか。独裁に慣れてしまうのはどちらか?明日革命が起きるのは一体どちらかなのか?

14 世界は書く\描(か)く。「書く画家」としての世界が描くのは、トポロジー的地図みたいな反デザインのもの。"Ecrire c'est dessiner" 終わるために終わることができる、至る所微分(不)可能な、解体-思想史が表現される線を展開できるか?最近は音楽をイメージに貼り付けている。ネットのだれも利用しているテクノロジーをのおかげで、やっとイメージと音との関係のことを考えることができるようになるのか?

15 書くことは並べること。思想史とはなにか?思想史を書くことは並べること。<と>を外部化する、解体ー日本思想史の平面にブラックホール的なものとホワイトホール的なものが存在する。仁斎は無鬼神論ではないが、ブラックホールとしての死より生を論理的に先行させるようないわば検閲的領域で、人が人として成り立つ学の意義ー有的存在が無限となる可能性ーを実践のなかで問うた(『思想史家が読む論語岩波書店、)。ここで、仁斎から書きはじめるのもこの理由がある。 17世紀の市井の学者である仁斎はまた、孔子における世界-内-国内的亡命のあり方をはじめて言った(『仁斎論語ぺりかん社)。この場合は、徳のない乱世にたいして「東海に浮かぶ筏」を以って距離をとったのとは違って、引退しても公を正す批判をやめない「国内的亡命」のことが言われる。晩年孔子は自分の中で絶えず、自然の中に隠れる隠者と対話していたのではないか。多分当時孔子のように自問する人達が一杯いたとおもわれる。「国内的亡命」と子安先生が呼ぶのはどうしてか。わたしの理解では、サイードにおけるアドルノ達亡命者の観察による(亡命者は権利は与えられていないが、全体を見渡す特権を持っているかのようであった。)
形而上学とそれを批判した超越的なものを考えようとする契機として、『伊藤仁斎の世界』(2004)、『「歎異抄」の近代』(2014)の清沢満之論、「仁斎学講義 『語孟字義』を読む」(2015)の仁斎における朱子との思想闘争をあらためて読むことは意義があるとおもう。
さて鬼神論は、思想史に言説的情報をどんどん生み出すような、GeistやSpirit、精神的なものを表象する、ホワイトホール的なものである。鬼神論はアジアの共同体が共有した。朱子の鬼神論ー所謂「無鬼論」かと理解されているーにはじまる、徂徠の<制作論的有鬼論>、宣長の<国学的有鬼論>、篤胤の<民情論的有鬼論>。朱子学脱構築した江戸思想史を論じた『江戸思想史講義』(岩波書店2010)を発展させて、今度は朱子をポジティブにとらえた講座「第二江戸思想史講義」において子安先生が展開するこれらのものは、ほかならない、アジアを考えることによってはじめてよく認識できるものである。現代における柳田の一国知的鬼神論の問題を考えることができるとおもう。「四書」はアジアにおけるバべルの災厄だった。
鬼神論を学んだこの三年間、朱子は言語の透明化であるが、言語を半透明にしていく江戸思想史のことを考えた

16 世界は、on the line 線上にある。「四書」はアジアにおけるバべルの災厄だった。鬼神論を学んだこの三年間、朱子は言語の透明化であるが、江戸思想史における、言語を半透明にしていく、多元主義の線を考えた
17 書くことは並べること。世界の平面は、ブラックホール的なものとホワイトホール的なものが存在する。ブラックホールとしての死より生を論理的に先行させるような検閲的領域で、人が人として成り立つ学の意義ー有的存在が無限となる可能性ーを問う

18 世界は、GeistやSpirit、精神的なものを表象する。鬼神論はアジアの共同体が共有した。思想史に無と有をめぐる言説的情報を豊かに生み出した、ホワイトホール的なもの

19 ヘーゲルは最初から思弁的ではなかった。バタイユヘーゲルの政治論的言論の形而上学化である。脱構築的至高性から、国家理性=聖なるもの=権力政治への徹底的批判が可能となった

20 世界とは亡命的なもの。外国のデモで捕まったらヤバイ。国外追放の危険があるデモ参加は「間違い」でも、国の全体がみえる外国人だからこそ私のことではなくてこの国のために自由に喋らせてくれとおもう。
21 世界とは大いなる筏である。17世紀の市井の学者である仁斎は孔子における「世界-内-国内的亡命」(子安先生)のあり方をはじめて言った。この場合は、徳のない乱世にたいして「東海に浮かぶ筏」を以って距離をとったのとは違って、引退しても公を正す批判をやめない「国内的亡命」のことが言われる。晩年孔子は自分の中で絶えず、自然の中に隠れる隠者と対話していたのではないか。多分当時孔子のように自問する人達が一杯いたとおもわれる。「国内的亡命」と子安先生が呼ぶのはどうしてか。わたしの理解では、サイードにおけるアドルノ達亡命者の観察による(亡命者は権利は与えられていないが、全体を見渡す特権を持っているかのようであった。)
東海に浮かぶ筏」については、東夷も徳があれば中華になれるとする解がある。「筏」は徳なき政治からの亡命ならば、それは亡命である以上、政治的なものであり、自分では決める自由はないだろう。乱世から逃れることを考えた「孔子」は沢山いたに違いない。国内的亡命の場所をさがすのは「筏」の場合とは異なる。老荘的に隠者のように自然に隠れるかどうかは、自分で決める自由がある。やはりこの場合も、「孔子」たちがあちらこちらに大勢いたのではなかったか。
22 論語』は君子の謙譲的エートス(「人は人としてあれ)」を書いているが、身分のある臣下のためにあるものである。しかし17世紀にはいってこれを身分なきもの(商人や農民)が読むとき一体何が起きるのか考える価値がある。ただし、ここで、「人」を「人間」と訳しては問題がある。『論語』は江戸の学者たちが注釈した。これらを読めば、『論語』は対自的関係(我と汝)か対天下的な関係が書いてある。ここで概念を定義したりすることは殆ど無い。しかしフランス語訳は「人間」が真理の舞台で認識するようにされているそんな感じである。そもそも、「人間」と言われるものの成り立ちは「人」にたいして優越的な真理を求める近代である。近代オリエント学はイタリアではじまる。中国研究は支那学と呼ばれる。詳しく書けないが、『論語』の現代語訳は、フランスの支那学を勉強して「人間」homme をみる見方で行った学者の翻訳によるのである。これは『論語』のヒューマニズム化である。圧倒してくる近代文献学の体系的な研究にもとづくが、はじめに、見上げる他者(ヨーロッパ)と見下げる他者(アジア)とが交差していることを知らなければいけない。近代からヨーロッパはアジアにたいしては真理的知の権力をもっているこの問題は、よく知られるようにサイードが指摘している点であるが、『言葉と物』のフーコがやるようにヨーロッパをヨーロッパ自身に関係づけて知を中立的に(自動機械仕掛け的に)自己完結化してしまうことが果たしてできるのか問われる。分かりやすく言うと、隠蔽されている知の従属の問題から逃げてはいけない。「人」を「人間」の意味でとってしまうと、ヨーロッパ知の主体は集中するが、江戸思想の言語は拡散してしまうだろう。これは単に翻訳の問題ではない。他者との関係の問題である。

Foucault (渡辺一民訳)

博物学が生物学となり、富の分析が経済学となり、なかんずく言語(ランガージュ)についての反省が文献学となり、存在と表象がそこに共通の場を見出したあの古典主義時代の<言説(ディスクール)>が消えたとき、こうした考古学的変動の深層における運動の中で、人間は知にとっての客体であるとともに認識の主体でもある、その両義的立場をもってあらわれる。従順なる至上のもの、見られる鑑賞者としての人間は、「侍女たち」があらかじめ指定しておいたとはいえ、ながいことそこから人間の実際の現前が排除されていた、あの<王>の場所に姿を見せるのだ。それはあたかも、ベラスケスの絵全体がそのほうを向いているのにもかかわらず、その絵が鏡の偶然によってちょうど無断侵入とでもいったように反映しているのにすぎぬ、あの空虚な空間のなかで、これまでそれぞれの交替とか相互排除とか絡み合いとか散光といったことが推測されてきたあらゆる形象(モデル、画家、王、鑑賞者)が、突然、その知覚しえぬ舞踏を止め、充足したひとつの形象のなかに凝結し、ついに肉体をそなえた視線に表象の全空間が関係づけられることを要請するにいたったかのようなのである.

Lorsque l'histoire naturelle deviant biologie, lorsque l'analyse des richesses deviant économie, lorsque surtout reflexion sur language se fait philology et que s'efface ce discours classique, où l'être et la representation trouvaient leur lieu commun, alors, dans le movement profound d'une telle mutation archéologieque, l'homme apparît avec sa position ambiguë d'objet pour un savoir et de sujet qui connaît; souverain soumis, spectateur regardé, il surgit là, en cette place du Roi, que lui assignaient par avance les Ménines, mais d'où pendant longtemps sa présence réelle fut exclue. Comme si, en cet espace vacant vers lequel était tourné tout le tableau de Vélasquez, mais qu'il ne réflétait pourtant que  par le hazard d'un miroir et comme par effraction, toutes les figures dont on soupçonnait l'alternance, l'exclusion réciproque, l'entrelance et le papillotement (le modèle, le peintre, le roi, le spectateur) cessaient tout à coup leur imperceptible dance, se figeaint en une figure pleine, et exigeaient que fût enfin rapport à un regard de chair tout l'espace de la representation.

23 書くことは並べること。世界とは、鏡が映しだす汚されていない画布の裏側と窓、黒インクの旋律、ニーチェ、映像と共にある音の差異化していく「大きな力」

24 世界とは死に切った過去。記憶できないが忘れることもできない、そんな規則のないものに、規則を直に適用できないけれど、規則を緩やかに保って解釈を与えることはできる。復古主義

25 世界は目覚めることのできない悪夢。死んだか生きているのかわからない過去。死に切った過去は反復される同一性の形式ではなく差異である。復古主義は差異化である

26 書くことは並べること。世界とは非在郷。マルケ王は召喚する、クォーク三唱、号令をかけても的外れ。物語と言説、雑多なものをことごとく召喚する宇宙的平面

27 世界は亡霊のひそひそ話。魂とは、消滅してしまうまえに、小さな入江の波ーずっと眠りこけていた耳にそそがれる毒ーだった。小さな声で大それた真実を告げる
28 世界とは…..世界よ、きみにひとつ忠告がある――いいかね、きみは帽子をかぶって、手に杖を持って、出て行くんですね…どんどん歩いて行く。あとも振り返らずに歩いて行く。遠のけば遠のくほど、ますますいい

29 書くことは並べること。世界とは根源、空、理である。ギリシャは世界における根元性について初めて考えた。インドは根元が空だと考えた。これは中国にとって思想革命であった。根元が理であるコスモロジーを考えていく

30 世界は、「水」の明確なイメージをもっている。それは包むものである。包むものは包まれない。「水」は包むためには包むものをもっていなければならない。タルコフスキー

31 ヘーゲルは最初から思弁的ではなかった。バタイユヘーゲルの政治論的言論の形而上学化である。脱構築的至高性から、国家理性=聖なるもの=権力政治への徹底的批判が可能となった

32 書くことは並べること。世界とは4つの大罪である。ヨーロッパのわれわれ自身の起源の罪、アメリカのそれを補うわれわれ自身の無起源の罪、西欧と異なる日本の祀る神は祀られる神の罪、西欧とは別の近代があると自負する中国の孔子を真っ二つに割る罪。一番めの罪はよく知られているが、三番めと四番めのはまだ分析されていない。三番めに関しては、日本知識人は古代には戦う国家の死者を祀る天皇と彼が定位する全体のために歌を書いた高さから、今日『資本論』的全体を読むこだわりを示す罪をおかしている(世界資本主義の分割としての帝国のあり方を分析できたけれど。) 帝国と帝国主義の区別がはっきりしなくなってきた独裁的皇帝のために彼らが全く知らなかった理論を捧げている?ロシアの皇帝が社会主義に仮装した罪もあるが、無垢で残酷な子供だから仕方ない。現在は、米・拡大EU•中国の帝国化と共に、皇帝的資本主義の帝国になった(日本よりはデモの自由があるみたい)
33 書くことは並べること。世界とはなにか?ギリシャ人は世界における根元性について初めて考えた。インド人は根元が空だと考えた。これは中国人にとって思想革命であった。根元が理であるコスモロジーを考えていく。
世界は「枢軸時代」(ヤスパース)。孔子「世界- 国内的亡命- 存在」(子安先生)だった。プラトンとエレミアと仏陀も、此方からみえる向こう側を考えた。
世界は「論語空間」。天皇・貴族•寺社が独占した学は江戸の武士政権によって民が共有できた。市井の学者さんが行った中世の朱子学脱構築である「論語空間」の形成を読み、「朱子空間」の再構成の近世•近代を考える。
世界とは構造である。言語からみえる向こう側を、数学の形式で示すよりも、言語のなかでわれわれに繰り返される言説的像とともに書く

34 書くことは並べること。世界とは物の見方である。聖人は教えるから偉いならば、教える独裁者が称えられることだって。仁斎は聖人孔子は学ぶからスゴイと言う。学ぶ人はだれも聖人になりえる。「教」のと「学」、どちらが民主的か?

35 聖人は命名する。「鬼神」の命名によって国家を制作した。聖人は文字無き時代に「敬」の概念を考えた。だが人の無い時代に思考を考えることが可能か?声は考えると答える者は「漢字借り物」論を言う。漢字ではじめて声を考えているのに

36 伊藤仁斎山崎闇斎の「敬」を捨てて古義堂を開いた。闇斎塾に集まったのは武士。下級武士は近代化の推進者。王政復古は明治維新の「教」化である。「教」字は鞭を含んでいる

40 アイルランド知識人はケルト神話は民族が支えるというような見方を問題にしていた。『古事記』は日本民族が支えるという見方はいかに江戸思想史において成り立つのか現在考えている

42 沖縄の問題を考えた吉本隆明は『古事記』を分析したのはどうしてなのか?沖縄からみえる向こう側ー神話を語らなければいけないのか?神話の根底にある民族の存在とその思考(<われわれ自身>)の権利を証明したいのか?だけれど人間は17世紀に成立した。人間が存在しない時代に思考を考える意味があるのだろうか?

43 ナショナリズムの思想は正しいか否かは答えることはできない。ナショナリズムの言説はいかに成り立つのか、思想史はどう考えるかを考えてみることはできる。思想史とは言説史である

43 書くことは並べること。『論語』は文•徳•忠•誠と並べる。朱子は自己否定の観念はすごい。仁斎は曖昧な観念だけれど、学と行いにおける道徳的自立性が一体であること、難しくない日常の卑近において自分のものにする忠が一番大事だという明確な思考のイメージをもっているとおもう。易しいものも理念化すると難しくなることも考えている。

44 書くことは並べること。狂気と天才。ヒトラーが生まれたからアーレントが現れた。イデオロギーが語る世界を説明し尽くす死。思想史が書くあり得た別の世界の囲い込まれない活動的生

45 世界への投射から消してはならないものがある。天皇が語った神話を稗田阿礼の記憶を媒介にして「このままに」に『古事記』テクストの上に実現してみせたのは、漢字知識人たちだった

46 世界は此方から見える依るべき包摂しつくせぬ大きなもの、この見えないものに名を与える消去できない制作主体、永久革命の世界への投射に抗して命を超える耐久性を作品に与える制作

47 世界は誰が見る?『女官たち』の画布の裏側からみえる彼方向にも、画家から見える彼方にも、「人間」は不在だ。先験的経験的二重体の人間は形而上学的空間に定位していないから

48 表象的記号である画布の裏側からみえる向こう側は依るべき包摂しつくせぬ大きなものか。この見えないものを描く(書く)制作ー名を与えるー主体を消してはいけない。画家から見える向こう側は此方側にある。たしかなことは、17世紀は「人間」の不在を表現していること。世界とは構造である。言語からみえる向こう側を、数学の形式で示すよりも、言語のなかでわれわれに繰り返される言説的像とともに書く。

49 ベラスケスのラス・メニーナス』の
画面から制作主体である画家を取り除くと、われわれ自身の肖像画となる。同様に、『古事記』の本文から、制作主体である漢字知識人の書き手を取り除くと、姿は見えないがひそひそ声のわれわれ自身の起源となる。人間(人)のいない時代に遡って人間(人)の思考を考えることに意味があるのか?思考不可能なものを思考すること、これも人間の解釈の言説を構成する。)

48 17世紀において人間はデウス・エクス・マキナdeus ex machina)である。画布の裏側からみえる彼方と画家からみえる彼方との間の安定していた不均衡ー王位の空白ーを解決するか

49 世界は歴史を書くこと。書くのは誰?18世紀吉宗の蘭学解禁、宣長国学で中国の影響から離れた後、近代日本成立は国学から。応仁の乱で崩れた権門体制の再構成。天皇•貴族•下級武士•宗教者•軍人•官僚が19世紀における新しい支配体制を書くー江戸時代の差別と比べることができないほど差別の拡大が起きた(全アジアに広がる)

50 丸山真男はこう語る。「名より実へ、主観的道徳より客観的人倫態へ、の徂徠の工作をして、バベルの塔を建築するに終わらせない為に残された方向はただひとつ、道の背後に道を創出した絶対的人格を置き、この人格的実在に道の一切の価値性を依拠せしめるよりほかにない。徂徠学における先王及至聖人はまさにかうした究極的実在として登場するのである。」
In erecting a system that places substance over name and objective human relationships over subjective morality, the only way to avoid erecting a Tower of Babel was to establish an absolute personality standing behind the Way as its creator. All the values of the Way had to be rooted in the personified entity. In Sorai’s system, the Early Kings and the sages emerged as such ultimate entities. 

「自然の秩序の論理の完全な克服には、自らの背後になんらの規範を前提とせずに逆に規範を作り出しこれにはじめて妥当性を賦与する人格を思惟の出発点に置くよりほかない。徂徠が「夫れ道は、先王の立つる所、天地自然に之有るにあらず」(弁名下)といふ時、先王は実にかうした道の絶対的作為者たる意味をもつものであった。」
 
If the theory of natural order was to be completely overcome, no normative standards of any kind could be present in the background as the premise; instead, the starting point had to be human beings who, for the first time, invented norms and endowed them with their validity. This role of absolute inventors of the Way was precisely the role Sorai assigned to the Early Kings. “The Way”,he said, “was established by the Early Kings. It doesn’t exist naturally in heaven and earth.

丸山は「自然」と対抗的に措定される「作為」の問題を指摘している。結局は、近代主義のゼロからの出発ー永久革命ーを語りきかせている。しかし荻生徂徠は『弁名』で本当にそんなことを言っているのだろうか?儒学知識人の徂徠は天を否定されたら考えることが全くできなくなるとおもうけど。丸山は徂徠の命名制作論を全然理解していないのではないか。丸山の語り口は、明治の知識人が徂徠=ホッブスという等式で、支配の根拠を物語っているみたいなところがあって、そもそもホッブスは政治の根拠を問うた思想家なのに、この彼から支配の根拠のことだけをきくかのような日本知識人の理解は酷く偏っていないか?

51 書くことは並べること。世界とは、『17世紀のペラスケスの名画「侍女たち」は「人間」の不在を表現している』に言い表されている。鏡、窓、人物の眼、画布の裏、部屋の入り口、画面上の対角線と交差点そして表象自身。これらに表象されるものは多様である
(「多様性の統一」というような内部に絡みとられたレッテル貼りは不可能)

52 「四書」はアジアにおけるバベルの災厄だった。世界は「遺失物を預かっているので受け取りに来い」というが、だけれど「物で書かれたもの」は「物の形亡くしたもの」になってしまった現在は、「可畏きもの」の逃げ去る痕跡を辿って歌う詩人だけが..

53 ヨーロッパへ行くとき、「神の存在」という問題から逃げることができない。逃げても、ヨーロッパを出たとき、アジアの漢字文化圏は神をどう考えてきたのかを考えている

54 他者が存在した痕跡は主語にある

漢籍とは前近代の中国において中国語(漢文)で書かれた古典籍を指すが、漢籍を読むために仮名が作られた歴史と文化を学ばずに、ヨーロッパでJapanese alphabetを教えることができるだろうか?ニーチェは物の見方の違いは文法の違いによると言っていた。この点については、時枝が発見したことが大変重要で、日本語の主語は漢字である。日本語に関心をもつ者ならば漢字を書こうとするものであるから、彼らに、主語が漢字でない文は精神的に価値のある思考を構成できない、と、そう考えてみたらどういうことが言えるかと問題提起できる。その場合、「漢字は概念を表現する」という理解でいいのか?日本の国家的成立とともにあった、『古事記』は、制作プロセスを説明する序文が証言しているように、中国と朝鮮の知識人に育てられた、漢字知識人たちの存在がなければ実現しなかったのである。そうして、日本語の主語は漢字であることを考えることは他者の問題を考えることである。最近は、言語支配者の中国がこの他者問題をどう考えるのか興味がある。「表現する」とはなにかを問う哲学的問題もある。他者が存在した痕跡は主語にある。痕跡を消す者は、主語を述語とともに規定する場の固有(共同体-内ー存在)を言うのではないか。学ぶことは尽きない。

52 ゴダールにとってアルファビル的世界とは構造である。言語的命題論理(=カメラ)からみえる向こう側を、構造主義的数学の形式で示すよりも、言語のなかでわれわれに繰り返される言説的像とともに書く

53 世界の根底に恐怖としての屈辱が存在する。この屈辱が左翼的方向にいけば道徳性になるし、右翼的方向にいくとナショナリズムになる。現在は左からの声が小さい

54 世界は劣等感である。アイルランドの劣等感、スイスの劣感感、ヨーロッパの国々の劣等感はすごいのなんのって。何か日本は劣等感があまりない。西欧からこんなに馬鹿にされていても

55 書くことは並べること。遠藤周作が書いた西欧への劣等感からは逃げられない。また中国人は世界のどこにいても中華を感じることができるとすれば日本人は世界のどこでも東夷でもある

56 世界は根源的錯認。われわれは疑う、ゆえに、われわれ自身は存在しない。米国語しか知らないくせに、「アイルランド英語で大丈夫か」とわざわざ言ってくる日本人は自己が普遍的知識人であるという錯認にある。また漢文を読まないのに(大正知識人から読めなくなった)、コミュニケーションの手段でしかない米国語が精神的価値のあるものかと文化的に見下している。この優越感は自分は周辺を見渡す中華に立っているという錯認ではないか。東夷のくせに。デカルトが疑ったみたいに、次々にこうした錯認を考えると、日本人は固有なものとしては存在しないことがわかるというもの。

55 われわれはアジアにおいて考える、故に、われわれは無神論とともに存在しない。アジアの共同体をめぐる言説は、自己否定の明確な観念よりも 祭祀共同体の曖昧な観念をもつ。これと、西欧の無神論と比べるとそれほど無神論的でないような鬼神の明確な言説的イメージ(民を聞く学者的議論)を衝突させる。儒教知識人は宗教改革を推し進めた朱子においてそうであったように民における祖先崇拝の伝統を否定しない。またアジアの影響のなかで、19世紀の異端的知識人である平田篤胤は柳田邦男の「先祖の話」を準備した「民情論的有鬼論」であった。ロゴスの論理的順序としては、先行するのは「生」であるから、「生」と「死後の世界」と一緒にしてはいけないが、だからといって、「死」が無視•否定されることにはならないのであって(また魂の消滅についての議論に唯物論的解決を与えるのではなくて)、孔子の「迎える魂がなければわれわれはやっていけなくなる」、これが鬼神の明確な言説的イメージである

56 世界よ、何も変えるな、すべてが変わるために!ヌーヴェルバーグの盟友トリフォーの死が『映画史』の制作の契機だったといわれるが、最近は姉の死のことがいわれるようになった。ゴダール(God-ard)は映像は復活するだろうという聖書の言葉をひく。ロゴスでもなく作用と働きでもない霊魂のことか?霊魂はなぜ、消滅しないのだろう。共同体のために。祭祀儀式におけるのとおなじである。その場合子孫は観客である。だけれどそれだけではないだろう。新しく映像を復活させるためではないか。ゴダールはタルコフスキのようには映画の外部を信じていない。ゴダールは初めてこのことを語った。映像の復活、これは映画においてである(言説<スクリーンは死装束である>)。映画において映像が復活する。何も変えるな、すべてが変わるために。そうして世界に向かって己を投射する、自己写像的な思考の形式が成り立つ。

57 書くことは並べること。世界とは曖昧な観念と明確なイメージ。自己否定の観念が明確でも精神的従属の体制に曖昧ではね。香港は曖昧な観念であるが、精神的従属の体制のもとではやっていけない明確なイメージを与えてくれた

58 世界とは言論の自由である。言論の自由によっては覆せない絶対的権威に対しては暴力が正当化されるとしても、国家の側に同じ規模の暴力を作ってしまう

59 世界は非対称性である。宇宙物理学の記述する初めに救われる思いがしたのは、党派的兄弟殺しの原初的罪とは別の、消滅し尽くすことのないイメージを与えてくれたから

60 書くことは並べること。世界は思想史を書く。学は倫理的共同体とともに成り立つか?これは、知の平等な共有を語ったマルクス主義から書きはじめなければならない

61 世界はなぜ地名が二つあるのか?ヘッジ•スクールではボランティアで英語を教えていた先生が古典語の文法の知識しかない場合もあった。学校でアテネから求婚されたと空想してしまって古典ギリシャ語で返事を書く農民がでてくる芝居の名は、『トランスレーションズ』

162 書くことは並べること。世界とは此方<と>彼方。われわれは此方にしか関心がないときは彼方はないし、彼方しか関心がないときは卑近な此方はない。<と>を理念化すると難しくなる

163 世界は超越的なものを考える。親鸞<と>仁斎を考える。親鸞は、此方から彼方へ、此方から彼方へ運動する、往生還相と考えた。仁斎はロゴスと働きの二元論ではなく気一元論を考えた

164 世界は此方と彼方。朱子清沢満之は、絶対平等の此方からみえる、絶対無限の彼方を考えたかもしれない(子安先生)。ヨー ロッパに最高のものがある。アジアの彼方がヨー ロッパの此方を包むためにはそれを超えるものをもつ必要がある(竹内好)。このことをアジア主義は気がついたが、アジアを侵略する戦争で破綻した

165 世界は此方と彼方。ゴダールはテレビの此方からみえる、彼方を考えたー土地なきインディアン。その映画の名は、here&there •こことよそ

166 世界はアイロニーである。論語』はアイロニーの微言。孔子は志をもつが制作の秋(とき)に非ず。社会主義時代のポーランド知識人が砂場で遊ぶしかない自分達の姿を撮ったビデオメッセージを思いだす

167 日本も権力者を笑う狂言があるが、抵抗の文化を為すアイロニーに届かない。アイルランド作家が書く一行に10個のアイロニーがある。一頁読み終わったら相当に性格が悪くなっている

168 英国のアイロニーのセンスはアイリッシュがもちこんだらしい。BBC放送作家はハロルド•ピンタをはじめユダヤ系。ある日、ダブリンの映画館で私の前に座って自分の映画をみていた

169 どの他と比べて大きいものは一つだけ。だから無限とは一つである。それは神でなければ自然であると。スピノザの存在を語るときに隙間なく全てを説明し尽くす冗談に笑うしかない

170 書くことは並べること。世界は文法的なもの。荻生徂徠も、あのオスカー•ワイルドも、江戸の漢文(中国語で読め?)とラテン語ギリシャ語の文法性(英国に行く前にアイルランドで身につけた)のおかげであれほど高い精神性をもった文を書くことができた


171 世界は存在が存在する。存在とは、言語的存在である人間が存在の意味を問うあり方である。存在は、アジアの普遍主義の中でそれとは別の見方から、存在の差異としての意味を問う。つまり鬼神をめぐる言説はどのように鬼神の存在を語ったか?あるいは精神Geistをめぐる言説はどのように精神の存在を語ったか?鬼神を名づけることと国家を制作すること、原初的なあり方に遡ることと神話的起源を指示すること、共同体の成立を考えることと魂の救済を考えること、相互に支えあうこれらの物の見方が、童子問』(有限的存在が無限になるのは学によってである)、『仁斎論語』(隠者との対話、孔子における世界-内部的亡命)において明らかにされた有限的存在者としての言語的存在である人間が行う存在の意味の問いー生と死の有限の此方からみえてくる、世界-無限ーにかかわるとわたしはおもう。

172 魯に帰る孔子の前に隠者が現れる。『論語』は、われわれの文化にない孔子の内部的亡命を語る。だが隠棲と国内的亡命の区別は難しい。『フィネガンズ・ウェイク』もその区別が難しい

173 国内的亡命を扱った能や歌舞伎の古典作品は私が知る限りでは存在しない。日本近現代文学は恰も亡命者のように生きるヨーロッパ的自己とその疎外を描いても、それは内部的亡命だろうか

174「弱腰だけれど逆らってやる」と、映画ぐらいのものを抵抗の文化にする身振りとジェスチャーをもつ彼方は、負けても、隠棲でない、われわれの文化にないような内部的亡命の形がある

175 ゴダール『映画史』は映画とは何かと問うても、「何々だ」とは語らない。「思考の形式」とだけ。全てのものはヌーヴェルバーグが称えた過去の監督達の身振りとジェスチャーで書いた

176 世界は、要請または排除に尽くされるものではなく、迂回に包摂されるものではない。デカルトというのは、要請される知または実証主義的経験知のしらふに行くのでもなく、形而上学的知の覚醒に行くこともないというんだね、何となくそれはわかる。デリダだから明らかにできた差異というか、これほどわかりにくいこともないし、翻訳で益々わからなくなるが(溜息)、フーコのデカルト論を差異化している、デカルト懐疑主義のラディカルさ、差異こそが、他者の岬を支えているとおもう。

177 
「あらためて」とは何か?どういう意味なのだろうか?
子安先生のブログより(思想史の仕事場からのメッセージ)

「第二江戸思想史講義」では朱子学をただ日本近代思想の成立にとっての否定的な思想体系としてのみ見るのではなく、東アジアに成立した唯一の普遍的な思想体系として見ることから、あらためて日本の近世・近代思想の読み直しを考えるものです。


178 世界は新しい普遍主義を模索するが、極右翼の影響で非常に悪い形でこれを探さなければいけないようだ。普遍主義をあらためて見直す。「あらためて」という言葉、その意味は何か?

179 世界は修復不可能。記憶の中では、ダブリンの映画館に行くと、説明もなく、勝手に上映作品を変えている。「畜生、またか!仕方ない、これでも見るか」と、諦める。映画がはじまる。「なんだ、この映画は!?」。しかしその映画のフィルムが切れた。真っ暗のなかで何十分も修復を待つ。と、「次の映画の客が入ってくるのにそこでお前は何してんだ」と呆れたスタッフがわたしに告げにくる。このスタッフはフィルムが切れたことも知らない。後ろをみるともうほかの観客もいない。わたしが最後のひとりだったようだ。一応説明してみた。スタッフは確認すると言って何処か行ってしまった。帰ってこない。別のスタッフがやってきた。「勝手に入ってきちゃ駄目だ。外で並んで待っていろ」という。追い出される。なにも知らない出口で並んでいる人たちから非難の眼差しを浴びる。なんでここにきたのかわからないし、なんでここを出なければいけないのかもわからない。しかし人生なんかそういうものだった、あれは天の声だったんだんじゃないだろうか、と、今朝雲空を見上げてやっと気がついたのである。と、ショーン・オケーシーの演劇『ジュノーと孔雀』(1924)をおもう。題名は、ギリシャ神話に出てくる女神ヘーラーのローマ名、ジュノーが孔雀を従えた姿で登場することが多いことから、苦悩するヒロインをこの女神に喩えたものである。内戦の時代の作品であった。銃の政治が終わらない。アイルランドは修復不可能だった。ラストは追放されたように、ジュノーは家を出て行く。結局だれも救われない。労働者階級にとってこのまま、絶望だけだ。しかしこれ以上ここにいても意味がなかった、少なくとも外に出たことだけはジュノーが得ることができたことなのではないか..

180 書くことは並べること。天命の自由と人義の自由。中江兆民はフランスから帰って漢文を勉強した。自由民権運動の為に思考可能な漢文を書く。翻訳の問題に還元できぬ他者の問題がある

181 世界とは、見つめてくる本。思考の柔軟性を可能にするものは、一文一文が緻密にできている、どの一文も曖昧だけれど、全体における明確なイメージがある
182 世界はフェルメールの絵のなかに表象される。シャンデリアである。それ迄は普遍主義のなかで普遍的なものを考えたが、多元主義の方向を以って普遍的なものを考えることになった

183 映画を語るとはプラトンの洞窟にセザンヌの光を与えること。このヨーロッパを語る光は外部にある。岩戸隠れ伝説についての解釈の言説は神話を語る光が洞窟=民族の内部にあるという

184 書くことは並べること。なにが<先>で、なにが<後>か。12月9日は「王政復古の大号令」が出た日。。近代日本は復古主義からしか成立しなかった。問題は、王政復古で天皇に全権力が集中したまま昭和10年代に全体主義軍国主義が同じ方向を向く。視線が<先>で、観念が<後>だった


185 書くことは並べること。映画史と思想史。映画史は視線と観念の時間的順序を問題にする所で、思想史は<前>と<後>の論理的順番を問題にしている。映画史はわたしにおいて思想史に置き換えられている。天皇ファシズムは視線が<前>で(王政復古の壁画)、観念が<後>である(軍国主義)。論理的順序として、天皇ファシズム文革ファシズム先行する。文革ファシズムの場合は、観念が<前>で(媒介性の消去、目に見えない読む手が規定されてくる「文」の消去)、視線が<後>である(孔子像真っ二つ)。なにが<先>で、なにが<後>か論理的順序にしたがって観る見方は、アジアで成立した唯一の形而上学である朱子学において成立していたものである。生が<先>で、死後のことは<後>である。しかし鬼神論では、観念が<先>で(「理気論」の理気論的コスモロジーを前提に、魂魄は気と気であるというような分節化)、視線は<後>である(祖先祭祀)。

186 概念を展開すること。ポストモダン知の時代において書くことは並べることである。文学史や美術史、映画史を作ったのは歴史感覚をもつフランス。だがフランス思想史があるのか?そもそもフランス思想なんかあるのだろうか?現代フランス思想の存在を勝手に言っているのは日本だけである。ヨーロッパ思想史は存在する。ただしそのヨーロッパは地域的な意味で言われるヨーロッパ。こう言うならばわかる。「思想史ー古い国のフランスとイギリスは普遍思想をどう語ったか、新しい国のドイツとイタリアは普遍思想をどう語ったか、 20世紀以降の国々は普遍思想をどう語ったか」。さて日本思想は存在したのだろうか?わたしは思想史アマチュアだから、間違ったことを言う権利がある。自由に喋らせてくれれば、思想は日本の古代と中世に存在しなかった。学問が天皇•貴族•寺社に独占されていた古代と中世は内部での議論があっただけだ。思想は学者の議論という意味での言説空間であるとすれば、思想は武士政権が町人と農民に学問(朱子学)を解放した江戸の近世に成立したとわたしは考えてみたい。そうして江戸思想を中心にした日本思想は、朱子学の普遍思想をもつアジア思想史のなかで存在する。ここでもアジアは地域的意味である。「アジア思想史ー中国は朱子学をどう語ったか、朝鮮は朱子学をどう語ったか、日本は朱子学をどう語ったか、台湾は朱子学をどう語った」と言ってくれたらわかる。ここで概念を展開することー鬼神論の解釈的言説の展開。日本固有の日本思想は存在しないのは、ヨーロッパ固有の思想が無いのと同じだ。「普遍的思想ーヨーロッパとアジアにおける展開」は存在する。これが、普遍的なものを多元主義の方向性を以って観る見方である。書くことは並べることである。

187 世界とは顕現ではなく存在である。普遍言語を方法化したジョイスは普通の人々の不完全な言語の存在を見いだした。彼の文学はドゥンス・スコトゥスを体現しているとエーコは言う
189 ‪世界は分割に関心をもっている。「分割線を引いてみようというのか?だが、あらゆる境界線は、無限に流動する総体の恣意的な切断にすぎまい」(フーコ)
190 思考は、みずからと異なるもののまえでいかにして身をかわすことができるのか?一般的にいって、ひとつの思考をもはや思考しえないとはどのようなことであろうか?そして新たな思考を創始するとはどのようなことであるのか?」
191 世界は一つの時期を切りとろうと望むのか?「大正」という切り取りは、大正デモクラシー大逆事件満洲事変の間にあった統制であることを隠蔽してしまう。「二つの時点において対称的な切断を行い、両者のあいだに一個の連続的で統一ある体系を出現させる権利が、そもそもわれわれにあるのだろうか?(フーコ)
192 書くことは並べること。世界とは‪ < p, o , e , m, t , h , e , a , t , r , e > ‪
193 世界はローマの選ぶ民主主義。ギリシャ的<語る民主主義>が伴わないとなにが起きてくるのだろう?「大多数の支持する「安パイ」に入れておこう」、「自民党、他より良さそう」。河で溺れた人は岸側の暗い方へ行けば助かるのに、明るい真ん中の方へ行ってしまうことで助かる確率が非常に低くなるのだけれど
194 世界は映画と溶け合う。映画は現実を模倣し、現実は世界を模倣した。21世紀に入って20世紀の主要な映画作品の名が忘れられていくと、リア王ゴダールゴダール教の成立とともに、映画を表す名となった。この名は寧ろ、映画の外にいた芸術家達の関心を捉える。そもそも映画が定位していたのは映画の外においてであった
195 世界は救済しなければいけない。世界は純粋な理性が限界を超えて行く。宗教的になってくるこの国は、ケインズ主義への批判が<何でもかんでもカネが解決する>教に収縮しちゃったように、絶対平和主義への批判が<何でもかんでも武力が解決する> 教に膨張していないか?批判精神の卑近を拠り所にしていない
196 批判的卑近とはなにか?高すぎる要請でも、解釈し尽くす排除でもなく、また遠すぎる迂回ではないような、包摂できない穴だらけのものに表象される名のなきもの。思想史と私は呼ぶ
197 批判的卑近は反時代的精神である。『童子問』の要請、『文学に現はれたる我が国民思想の研究』のラディカルモダニズムの排除、『朱子語類』の迂回。どこにも属するが部分にならない
198 批判的卑近は反時代的精神である。高すぎたり卑小すぎるのでもなく、また遠すぎるのではない。天を仰ぎ見るわれわれは土地のどこにも立つが、決して地より低い深さにはならない
199 ラス・メニーナス』を見よ。鏡やチェスボードの平たい表面の横滑りに驚く。文学は表面の芸術。現れるのは王でも人間でもなく、横向きになったデウス・エクス・マキナである
200  200は欠番である。


書くこと 1ー100

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1 書くことは、ネットの写真の整理のように、並べることである。世界とは、吠えているもの、漢字とギリシャ文字、硬張らしたまま弛めるもの、動くもの、顔の輪郭、物で書かれたもの


2 書くことはネットの写真の整理のように並べること。世界とは、さえずるもの、何を言っても通じないもの、筏で亡命する「徳」字、弛んだまま硬張らしたもの、お尻の輪郭、投射


3 書くことはネットの写真の整理のように並べること。世界とは、つぶやくもの、終わらないもの、逃れるS字、nymphē、氷河の下にある惻隠の心、正しいはじまりをもたないもの


4 書くことはネットの写真の整理のように並べること。世界とは、揺れるもの、貧しいもの、往来するもの、こちらの向こう側にあるもの、表から見える裏、投射されるもの


書くことはネットの写真の整理のように並べること。世界とは、貧しいもの、蓋がしまらないもの、紐を結べない靴、実現不可能な計画、縮小のなかに比類なき大きさをもつもの


世界とは、卑近なもの。隣どうしのもの。招待されないもの。頭を埋める「孝」の字。鰐のA。暗闇に浸るもの。言説無き沈黙が沈めるもの


書くことはネットの写真の整理のように並べること。世界とは、名づけられないもの、囲いきれない無言の可視的標識、夜に浸っていくものが再び光のなかにおかれるときに流れゆくもの


世界とは、草原に放たれた火、単純に増加するもの、水平的平等における下に広がる円錐、見あげる天空とコアラを抱く「敬」字、臍で呼吸するもの、帰ることがないもの、顔の下の仮面

世界とは、循環するもの、不可能なもの、石版、スクリーン、白紙の本、垂直的平等における上に広がる円錐、天地を隔つ巨大な柱を自ら支える「聖」の字、未来を思い出す部屋

10 書くことはネットの写真の整理のように並べること。世界とは、動かないもの、善意で世の為にたたかった敗者を嘲笑うもの、闇と光の神話、死者から奪った声なき声を返さない生者への復讐

11 世界とは、支えることが不可能なもの、巻く主人と巻かれたら巻き返す奴隷、右翼と左翼、支えることができると考えなければやっていけなくなったもの、囁き声がとまらない

12 世界とは、異端なもの、贋物、鋭く職業的に刺したもの、i の空間にアナを開けること、表面上の時間の観念、近づくものとそれを遠ざけるもの、白紙も署名ではないだろうか、無の

13 書くことはネットの写真の整理のように並べること。世界とは、太陽の周りを回って踊るもの、出国前夜の再び帰らないための葬式、宇宙の栓が抜けて沈む「誠」字、直線から逸れるもの

14 世界とは、住処のないもの、宇宙にすむもの、仮部屋の身分なき儒者における宇宙よりも微妙なもの、内部世界の言葉の方向へゆっくりと歩く形式、投射されるものが投射するものである

15 世界とは、世界から逸れるもの、世界の外にすむもの、世界とわれわれ自身に無関心なもの、有音と無音とのペアを失ったもの、自己の美しか関心がないもの、世界が暗闇包まれた天岩戸

16 書くことはネットの写真の整理のように並べること。世界とは、壁のなかでその内部に沿ってあるくもの、死を観念化できるもの、イメージの傍らに無があるもの

17 世界とは、只上にあるもの、分裂していくもの、自らの過去の姿を発明し続けるのをやめたら化石となってしまうもの、アテネから結婚の申し出を受けたもの、無垢で野蛮なもの

18 世界とは、愚鈍なもの、原初の泉にむかって這うもの、天の鬼神と話すために穴だらけの傘をもつもの、天下を問う「形」の字、俯瞰するもの、旋回する神の視点

19 書くことはネットの写真の整理のように並べること。世界とは、トンネルを抜けたら出口がなかった、不安定で均衡なもの、制作の秋。他方で不均衡なものの安定は非政治的である

20 世界とは、半分のもの、言葉を誰から誰かへの贈り物にしてしまうことのない半分の声、半分の言葉だけが絶対無限の貨幣だ。大いなる他者の現前を翻訳に縮小することのない半分の言葉よ

21 世界とは、幸徳と大杉の非暴力市民としてのあり方。しかし国家は百年後に市民が立ち上げれないように、先手を打って市民を殺戮した。国に逆らうと怖いぞという恐怖を植えつけた

22 書くことはネットの写真の整理のように並べること。表象の思考とは、並べることにおける<と>のラディカルな外部化である。ものの秩序の裏側にはもうひとつの秩序がある。そこで言語的存在の人間は存在の意味を考えることができる。博物学は目に見えるものにとらわれたので、表象の思考がどうしても可視的なものに規定されていた。映画史も、映像が大きな力をもった映画たちを対象としていたから、博物学とおなじような問題をもつことになった。存在の意味を探求する思考の歴史としての映画史がはじまるのは映画が消滅してからである(本当に消滅したかどうかではなく、理念的に消滅したとかんがえてみるのである)。わたしはこれを、世界の向こう側にある、<絶対無限の貨幣>と呼ぼうとおもう

23 世界とは、民信無くば立たず。政財官マが推進した安全神話と復興神話の後は、新しい資本主義の神話か?「お上にすがる」ことは倫理的に不可能だが、何を言っても通じない乱世である

24 書くことは並べること。世界とは、アジアである。台湾人のために台湾を考えるシナリオと、中国を考えるシナリオが必要だ。日本のために台湾と中国を手段とするシナリオは要らない

25 世界とは、日本語でも国語でもないもの。ハンナ・アーレントナチスから逃れて米国に亡命したとき、ドイツに生まれたからドイツ語を話すが、ドイツ人だと考えたことがないと言った

26 世界とは、風の音か、先祖の囁きか?風の音と同時に先祖の囁きをきいているとしたら、そこは天にちがいない。天でなければ、夜が沈めて光の中に浸る、死装束としての裸体の上に佇む

27 書くことは並べること。世界とは、遠いもの同士を近づけるもの。天の道と人の道。誠が媒介する。だけど死者の間にヒエラルキーを作る政治家が語る「誠」字は倫理的姿勢の反対である

28 世界とは、顔淵。この学の後継者を失った自己の力が及ばぬ天を見上げた孔子は自己の力が及ぶもの、思想の根拠地を考えたか。世捨人にならず公を批判する国内亡命の場所を探した

29 世界とは、情報がはいっていないもの、コミュニケーションが成立しないもの。芸術作品は情報もコミュニケーションもない。抵抗は情報のためでもコミュニケーションのためでもない

30 書くことは並べること。世界とは、卑きものと高きもの、実なるものと虚なるもの、「学問は卑近を厭うこと無し」、襞とペン、現在進行中のもの、上昇と下降、斜線からくるもの

31 世界とは、先ず言っておかなければいけないことは、本質的に、読めないもの。一つの原理でないもの、言語的存在である人間にとって、自己の力が及ぶものは言葉の他にあるのか?

32 世界とは、鍵がかかっていてわたしのほかにだれもはいってこれない墓跡。いかに脱出するか?人間が佇むのは、「巨石の如き多言語墓跡」の下に広がる海においてである。鯨。天に通じる

33 書くことは並べること。世界とは文学。リアリズムが描いた中流の没落する運命はどうでもいい。神話は不毛なナショナリズムの怖さがある。最後の文学は神話的リアリズム。絶対平等からみえる彼方の絶対無限を書いた

34 世界とは戻ってくるもの。フランスのヌーヴェルバーグは若者達が次々と盗んだ車で道行きの旅をするが、アイルランドのヌーヴェルバーグはアイルランドを一周して出発地に戻ってくるというもの

35 世界とは差異化。朱子の思想は宗教改革であった(講座「第二江戸思想史』)。江戸思想は、古代儒教を差異化した、朱子学における万物が性に帰る同一性の中の理気論的差異化を解体する差異化である


36 書くことはネットの写真の整理のように並べること。世界とは、空集合、沈黙、無関心。空集合。演劇のなかの天の嘆き。「忠」字のなかの心の不在。封筒を開いたとき手紙はなかった

37 世界とは、砕け散るもの。顔、鏡のなかに映る自分の顔、自分の内面に思い描いている自分の顔と一致しないことに気がつく男は鄙びた裏道の唄声をきく、鏡と窓、鏡の裏側に立つもの

38 世界とは、無矛盾なもの。哲学者は絶えず矛盾を以って世界に問題提起してきた。解決しないことが議論の規則。普遍か普遍でないか?深さに絡みとられず、新しい普遍を制作すること


39 書くことは並べること。世界とは隠されたもの。『侍女の間』。描くことは隠されたものを眼前に並べること。『古事記』もその裏側に起源を隠すと言われる他者も明白に隠されている

40 世界とはギリシャ的なもの。17世紀の仁斎論語(子安先生)は、ヨーロッパが新しい普遍主義を構成するために古代ギリシャへ帰るように、アジアのギリシャ精神と呼ぶべき孔子へ帰る

41 世界とは鬼神論をめぐる言説(子安先生)。朱子理気論的コスモスロジー宗教改革。徂徠の制作論的有鬼論、篤胤の民情論的有鬼論。敗戦を消した柳田の先祖の話は朱子国民国家化である


42 書くことは並べること。世界とは、すべてのものとそれを超えるもの。世界はすべてのもの、神話はそれを超えるもの。世界神話を包むことができないのはそれは自ら投射するからである

43 世界とは、包むもの。世界神話は『古事記』を包むときは己に包むものを積極的にもっていなければならない。包むものは、『古事記』を超えるものだから、民族的なものではありえない

44 世界とは、「何からなにまでまっ暗闇よ」。本当にそうならば光も闇も存在しない。17世紀のヨーロッパの危機だ。なぜギリシャにたちかえったのか?バロック絵画とオペラが誕生した

45 多言語文学は翻訳が先行する。世界中の言葉の翻訳を通じて意味されるものが事後的に明らかになるならばどの言語も借り物。迷宮に言語と思考を与えてくれた大いなる他者の存在は無い

46 FWの翻訳が先行する普遍言語としてのプロジェクトは破綻しているが、世界中の河の名を書いた世界神話として成り立つ。各々の河が神話に対応するならば、世界神話は海である

47 世界とは、アジアにおける自民党的政治の敗北から始まる。『古事記』を国語•日本語と<一国>民主主義から逃すこと、これが安倍と日本会議との思想闘争に打ち勝つことではないか


48 書くことは並べること。世界とは、隠者たちと出会った孔子にとって、「世界ー内ー国内的亡命」(『仁斎論語』子安先生)。隠者のように自然へ行かない。公にたいする批判をやめない

49 世界とは幾何学の精神。ヨーロッパの危機にあって、他者の岬を幾何学の精神が支える。ギリシャの亡霊。アジアは行ったり来たりする牢獄のなかで湾曲した壁に別の他者の岬を投射した

50 世界とは、家族的なもの。夫婦同姓でなければ墓を守れないならば、墓は要らぬ、産業廃棄物ゴミの日に骨を出せばいい。「義」字よ、犬の腹にもどれ、「孝悌」の字ならば台湾の駅にある


51 書くことは並べること。世界とは、言語によって分節化されるものである。しかし文はものを指示してこそ、思考は確実なものだろう。。だけれど、同時に、思考は指示されるものに限定されることはない。そうでなければ、主述の関係で構成される文の普遍性が失われるから。普遍を豊かにするのは転移である。こうして命題的文は思考を可能にする。神話も文に定位するから、普遍性が失われない。来月から、宣長の『古事記伝』を読む。子安先生が語る宣長と篤胤との関係を考えてみると、これは文藝復興運動のイェイツとジョイスとの関係についても言えるのか。『古事記』の宣長アイルランド神話のイェイツは神話の根底に民族を指示したが、篤胤とジョイスは、それを超えるものである、世界神話は民族的ではないとかんがえたのではなかったか。世界が暗闇に包まれたとき、それを思考できるのは民族的なものではないとおもう。そもそも、見えないものに名を与えることによって国家を制作する超越者はこれを民族のために行うのではない。神話素?である、闇を考えるために、わたしは『フィネガンズウェイク』の’浅瀬の二人の洗濯女’をじっくり読み直す必要がある!


52 書くことは並べること。世界とは、国内的亡命的なものである。亡命して世界の外に出てしまうのではなく(隠者と出会ったも孔子は自然へ出てしまうことはなかった)、漢字文化圏のアジアと江戸思想の外部をもちつつ、思考が可能か問う国内的亡命としての<内>において、「世界-内-存在」は脱構築される。「内」は投射の形式である。自ら投射する言語的存在を覆い尽くすことができない。比類なき大きさをもつものは天しかない。国内的亡命的なものは天下の公をただすことをやめない。市民の時代において帝国の天下主義は成り立たないことを言う

53 世界は、市民の時代である。市民の時代において、世界史の構造も、帝国の天下主義も、成り立たないことを言うことができるのは、<世界ー内ー国内的亡命>である

54 世界とは、おお、何もかも話して。アナ•リヴィアのことを、何もかも。浅瀬の洗濯女達は、ホメロスオデュッセイア』冒頭から来た?空である、O字から、tell me (話して)、tell us (話して)と。夜。天岩戸のときのような世界を覆う原初的な暗闇。二人の輪郭がなくなって木と岩に成る

おお

なにもかも話して

アナ•リヴィアのことを。なにもかも。


現代の世界神話である、ジョイスフィネガンズ・ウェイク』の’浅瀬の洗濯女たち‘は、ホメロスオデュッセイア』の冒頭のようにはじまる。Oの字は空ではないのか。Oの字から、tell me (話して)、tell us (話して)と木霊する

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55 書くことは並べること。「教理問答」において書かれた言葉の終止符、ここから、『フィネガンズ・ウェイク』か、人間的声の復活か、にわかれる。新たに多元主義デリダへ行くか、普遍主義になったデリダ主義を批判するポストコロニアルへ行くか

56 世界とは、おお、何もかも話して。アナ•リヴィアのことを、何もかも。浅瀬の洗濯女達は、ホメロスオデュッセイア』冒頭から来た?おお、空である、O字から、tell me (話して)、tell us (話して)と。夜。天岩戸のときのような世界を覆う原初的な暗闇。二人の輪郭がなくなって木と岩に成る

57 世界は、バッシャーン!「バベルの塔のべちゃべちゃしゃべり」(ジョイス)。アジアにおける言語支配者は、四書はアジアのバベルの災厄であることに気がつかないで、帝国の中心に漢字があるという根源的錯認、母国語のべちゃべちゃしゃべり


58 書くことは並べること。帝国が近代的測量を始めたのは増税を行うためだった。世界とは、地図である前に本であった。本は、地名と場所の情報をうたで伝えた民の記憶を記している

59 世界は速度によって消滅する。嘗て船で二か月要したパリに飛行機で9時間で行ったとき、パリは消滅した。現在は時間の距離があるだけだ。思想史遠足的な距離は未だ支配されていない

60 速度は世界を消滅させてしまった、インターネットが覆う時代は同時性を考える。枢軸時代。またヨーロッパはヨーロッパの外へ出た危機の17世紀に、アジアでも外へ出る運動が起きた

61 書くことは並べること。世界神話は民族的なものに非ず。Huges Caput Earlyfouler (「巨大頭の早起き汚し屋」)にH・C •Eが自らを投射しているーHere Comes Everybody

62 書くことは並べることである。井筒はカオスがコスモスに先行するという。世界神話はコスモスとアンチコスモスが対立関係であるとは語っていない。デカルトにおいても思考不可能なものが思考可能なものと共にある

63 世界とは、思考不可能なもの。宣長は「天地」をアネツチと読むことによって思考不可能なものが思考可能なものにおいて不可避的になった。中国文明からの自立を言う言説である

64 世界とは考えたことがなかったもの。中国は自ら帝国として投射することによって思考不可能なものー独自の社会主義、方法としての中国ーが、思考可能なものーマルクス主義的民族国家ーにおいて不可避的になった。しかし言語支配者は帝国を支えてきた書記言語の漢字を失いつつある現実に鑑みると、自らを帝国として主張することは根源的錯認ではないだろうか。しかしそうしてコミュニズムは終わるために全く考えたことがなかった理論に規定される。17世紀のイギリスの王権がそれがまったく知らなかったホッブスの社会契約論に規定されはじめたように。天安門広場事件が差異化の決定的な契機だった。


N'était-ce pas aussi à partir de l'erreur, de l'illusion, du rêve et de la folie, de toutes les expériences de la pensée non fondée que Descartes découvrait l'impossibilité qu'elles n'en soient pas pensée,ーsi bien que la pensée du mal pensé, du non vrai, du chimérique, du purement imaginaire apparaissait comme lieu de possibilité de toutes ces expériences et première évidence irrécusable?‬

‪(Foucault, L'homme et ses doubles)‬


65 キミの獲得した全思想史を総括せよ。理念と正義は先行したものの権利の語りにある。思想史は先行した思想を考え、映画史も先行した映画をみる。思想史と映画史は似たもの同士である


66 書くことは並べること。物で書かれたもの。Don Dombdomb and his wee folly ! (FW) 「愚かな丘男と何でもハイの川女!」(宮田恭子氏訳)。ジョイスにおける思考のイメージを遍歴する


67「愚かな丘男と何でもハイの川女!」(宮田氏訳)は、デリダ的な不可避の他者に出会うHelloの迂回の戦略であるが、ポストコロニアル的には男性原理同化主義に対する<いいえ>を構成する


68 自民党的の新自由主義はカネに最大限の自由を与えるだけの<なんでもかんでもカネがものをいう>。自民党新保守主義はみんな<なんでもかんでもハイという女でなければいけない>

69 キミの獲得した全思想史を総括せよ。理念と正義は先行したものの権利の語りにある。思想史は先行した思想を考え、映画史も先行した映画をみる。思想史と映画史は似たもの同士である。”Pares … paribus facillime congregantur. “ 似たものは似たもののところに集まりやすい。ーキケロ『老年について』Eiji Kunikata氏訳) 

70 書くことは並べること。世界とは、外部からやって来るが内部において生じるもの。「火ここになき灰」、膣の火の鳥、黄泉の国のイザナミ、巨大墓碑は物語のような死の分裂化である

71 世界とは、自然へ出ない世界ー内ー国内亡命であると語られた後に、救い無き世界ー内ー穢なき黄泉の国の運命がはじめて語られた。外部から来るが内部に在るものは、死の分裂化である

72 世界とは言語的なものである。言語を逃がすために、集中した権力を解体すること、これを主張する者のどんな共同体も均く言語にアクセスできる権利を否定してはならない


73 書くことは並べること。世界は見上げるものと見下げるものに分裂する。見上げるものは自己は常にコピーに過ぎないと悩む。見下げるものは自己はいつもオリジナルに過ぎないと悩む

74 世界は東と西とに分裂している。東はどうして自己は常に統一がないような偽物なのだろうかと悩む。西はなぜ自己はいつも統一しかないホンモノでしかないのかと悩んでいる

75 世界は見上げるものと見下げるもののほかに、「われわれ自身」である。救済しなければならない政治は「われわれはわれわれである」を侵略する恐ろしい危機を訴える。未来ー戦争と開発と同化主義ーに対する抵抗をわれわれに「敵」だと非難する「われわれ自身」

76 書くことは並べること。『フィネガンズ・ウエイク』のCollideorscapeは、万華鏡kalidoscope、 衝突するcollide、逃走 escape、を縮約しているジョイスの造語。「衝突遁走万華鏡」(宮田先生訳)

77 世界は衝突遁走万華鏡Collideorscape(FW)。主体を他のものー言語的存在ーにするのは、漢字文化を通じて、国家の向こう側にみえる、ロゴスとアンチ•ロゴスの衝突

78 世界とは子供たち、無垢で残酷なものである。原初的兄弟殺しの党派的なもの。党派的でないものも党派的である。カインとアベルの原初的兄弟殺しと革命とを衝突させた近代


79 書くことは並べること。世界がもしロゴス的論理的順番によるときは、先行しているものが他のものを排除するとする根拠はない。此方も彼方も保たれるので、均く並べることができる

80 世界は、港のない国の海からの旅立ち。ノアは島影を認め、屋根の下からガーガー鳥を放った。インターネットは既に何千年前にあった。ウイルスもコミュニケーションを待っていた

81 世界は、沈黙というものはない。何かが常に音をたてながらなにかが起きている。闇の声たち。声の力を失っても、小鳥たち。河の指輪にする草の輪もないっていうのに


82 書くことは並べること。アジアの啓蒙主義とヨーロッパの啓蒙主義。学と道徳自立性は江戸の儒者においてはともにあるべきものだった。武士政権を直に批判するのは危険な時代だったので道徳批判を通じて批判した。学と政治的自立性はヨーロッパのブルジョワジーのものである。

83 世界は写像的なもの。精神的点のモナド。点は線に従属しない対応の写像世界?哲理的にはモナドモナドが一理か?道徳世界においては、人に実をもって対する忠恕こそが中心となる

84 世界とは交換である。『フィネガンズ・ウェイク』では王マーク(「クォーク三唱」)は天を旋回し、H・C ・E(Here Comes Everybody)は大地を歩む。『古事記』において記されたような天上界と地上界の間で統治権の交換が起きたのかは読めないでいる


85 書くことは並べること。世界とは、行列の先頭にある理念的なもの。国家、共同体、卑近なもの、私、と並ぶ。これとは逆に、私を先頭として世界が最後の行列もある。しかし外から並ぶことが不可能なのは輪である。輪は「われわれ自身」だから

86 世界とは並ぶもの。行列の理念は排除のない民主的なもの。しかし並ぶものにとってあまりに遠く外にあるときは、「われわれ自身」の輪がもとめられる。行列はこの排除を招く根源的錯認

87 世界とは、サイード は言う。テキストを読む我々には世界性(worldliness)があり、またその世界の中で生きている存在(世界内存在)でもある、と


89 書くことは並べること。文学に現れた世界では、なぜ投射された理性的思考よりも、民族的実体が支持される危険があるのか? 原初的なものを読む近代主義の理念による脱神話化は、理念が遠く外にあるために、民族的実体を内側に呼び出してしまうということか

90 世界とは、「子の曰わく、晏平仲善く人と交わる。久しくしてこれを敬す」(「論語』公治長第五)とあるように日常の行い。しかし日常の行いを理念化すると難しくなる。遠く外にある

91 世界は聞こえない。神話の根底に民族があるといわれるが、だけれど民族を成立させる訓(よ)みによっては神話を訓(よ)むことがことが不可能。訓は民族しか聞こえないのである


92 書くことは並べること。記号に現れた世界では、世界の危機は世界の意味がその世界の外から来るあり方にある。問題提起が可能な入り口はなく端も隣接するものもない記号の危機である

93 芸術に現れた世界では、世界の危機は世界の意味がその世界の外から来るあり方にある。芸術において芸術の外にあるものを信じることは芸術の危機ではないか?そう考える者にとっては、たとえば光源は論理的に正当化されなければいけない。蝋燭の影はあり得ない。そうしてこそ自然は空間における理念の発展である。しかし精神Geistはものと共に世界に彷徨う。歴史は時間における精神の発展である。精神にとって、遠近法は原罪であるから償わなければならないということが告げられる。20世紀において償うものは映画という名が与えられた

94 書くことは並べること。映画に現れた世界では、問題提起が可能な入り口を為すものをさがす。裏から見る。端をみる。隣接するものを考える。書くために並べる。編集に対して、遠近法は思考の柔軟性を奪うイデオロギーである。並べる為に書く


95 書くことは並べること。帝国の植民都市ダブリンを舞台にした、挿話テレマコスで始まるジョイスユリシーズ』はひび割れた手持ち鏡に映る世界の姿を書いた神話的リアリズム

96 世界は起源。ホメロスオデュッセイア』はヨーロッパというのは何処からきたのかを神話を利用して伝える。神々は『古事記』の記述と違って他所からいきなりがやってきたのではない

97 世界とは、東雪谷二丁目。空中庭園、妖精の舞踏、犬のうるさい鳴き声、万世の木鐸薔薇の名前を超える鴨たち、彼方側にある明鏡止水の白鳥ボート、なんのこっちゃ?


98 書くことは並べること。「仁斎論語」においては天は仰ぎ見る天となったが、聖人とはいえ、実直者でわれわれに身近な孔子、学ぶことが好きな孔子のイメージをもつ。生と死。鬼神へつらう者は知者ではないが、生が優先されるからといって死が排除されるわけではない

99 世界は知識革命。「四書」はアジアにおけるバべルの災厄だった。それから800年後にこのことをはじめて言うことができた。近代日本は正しいはじまりをもたないと

100 近代はヨーロッパから起きたし、ヨーロッパの外のアジアからでも起きた。だけれど政治はただフランス革命から。世界よ、間違っても、自由に喋らせてくれ



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書くこと 100−200


書くことは並べること。ガリレオアインシュタインも方程式に裏側はない。思想の言葉は裏側ー思想家ーをどうしても考える。だが常に思想家がそこにいるのか?思想史ならば存在する

世界は痕跡である。起源を問う近代は、何処からきたかに答えるために遠くへ行く。近代とは別の考え方は、眼の前に見ているものこそが隠されているものだと考える。痕跡が答えである

世界とは痕跡の他にない。ラス・メニーナスは、眼の前に見ている世界こそが隠されている世界である。『古事記』も、眼の前に見ている言語が隠されている言語。漢字しか書いていない。世界とは痕跡。『古事記』には漢字しか書いていないとはいえ、再び漢字に起源を見いだすような悪循環を避けるためには、思考を可能にしてくれた「不可避の他者」の存在が要請される

理に逆らう情ほど人に遷るというのに、顔回の怒りは遷らなかったと孔子はいう。この孔子の言葉をどう理解するか。仁斎の詳しく書いた注釈があるが、簡単ではない。これについての『仁斎論語』の評釈が助けてくれる。これを読んだ後に、情を言語化するというか、「情」はどのように語られてきたか知的に語ることの大切さを考えた。宗教ならば、禁じられた怒りを語ることに価値がない。論語』は彗星のように流れる実に短い言葉でさりげなく、知識人にとってのタブーを破っている。また心をどうとらえるか。理を心によって置き換えることはできない。聖人の教えは仁にもとづくのであり、これは心によっては支えることができないのではないかということを考える。ここで、性は理であり(性即理)、心が支えることができないのではないかということもあらためて考えることになった。理気二元論コスモロジーが批判されている仁斎においては理念性が要請されているこの点が重要である。難しいが、仁斎は、理から切り離された「仁」との関係をもった情動を語っていたのだろうか。心の本体(性•本心)が大切なのではない。仁斎は、「仁」に向かう心の動き、慈愛の心という他者に向かう心の動きを重視する。「仁」は仁斎において愛である。人が生まれながらに持っている、四端の心ー惻隠の情、悪を憎む心、謙譲の心、物事の是非を見きわめる心ーが再構成される。ドゥルーズ哲学にとって大きな意義をもつ反ロゴスの情動について、ヒューマニズムのモダンではなくポストモダン的に、仁斎における理念性とともに考えたいとわたしはおもっている。しかし情動を再び別の体系で体系化することに意味はない。面白くもない。最初からわかっているが、情動は言遂行的に意味をもつことができると思っている


書くこと並べること。世界は「怒り」をどう語ってきたか?マルチチュードは草原に燃え広がる情動として語る。理に逆らう情ほど人に遷るというのに、顔回の怒りは遷らなかったと言う孔子の言葉をどう理解するか

世界とは反ロゴスの情動。川を挟んで洗濯する二人は、夜、世界の中心を外部のstem(幹)と石(stone)におく。あちらへ流れこちらへ流れる水に成るために

世界とは「文明国家」。政教分離の観念はキリスト教がはいってきていた江戸時代にあった。明治は西欧から来た人々に適用する政教分離を示し、かつ、国家神道政教一致を確立した


書くことは並べること。世界とは思考の自由。数を数で数えることならば易しいが、数に正しさ(矛盾がない)を理念化すると難しくなる。エクリチュールは孤児であるほうがいいか

世界は思考の自由。理念的なものを思考の明確なイメージを衝突させよ。イメージは方法としてある。だが高く遠く外にある近代主義的理念は、対抗的に呼び出される実体に絡みとられる

10 世界は戦前に戻らない誓い。戦争する普通の国にならないことは易しいが、理念化すると難しい。絶対平和主義と、合同演習で軍隊が国の外に出ている解釈改憲が両立してしまっている


11 書くことは並べること。世界は表層的なものである。神話も映画も根底に民族はない。というか、根底なき表層的なものである。両者は民族を越えるものではないか。世界映画は世界神話におけるようなものとしてある。草の根運動のプロ化と失われた自発性を問うただけのアイルランド映画は、ナショナリズムの映画とされるのはなぜか?ナショナリズムの破綻を表現していると解されるのはどうしてか?それは少なからず映画の世界性によるとおもう


12 世界は解釈である。解釈の解釈で忙しい。憲法改正前に解釈で改正済。解釈改憲による軍国主義国家神道(公式参拝)の復活、国民がノモス的主権を譲った解釈改憲的象徴天皇。国は何も無い

13 19世紀の復古主義は考えることができなかったものを考えるために儒教経書を新しい読み方で解釈した。近代日本は国学からしか生まれてこなかった。神道儒家神道だった。エスタブリッシュメント政教一致的な「国体」を考えた。問題は明治維新の王政復古化。現在からみると、長州が京都から連れ出した天皇にノモス的主権者が奪われてしまった歴史だった。今日ギロチン台の首みたいなただの札の肖像になってしまったが、明治が確立しておらずまだ可能性があった時代に、societyを人間交際と訳し、「人民people」を考えたのは、福沢諭吉。それはみとめなければいけないとおもう。子安先生の福沢諭吉論が中国語に翻訳されているらしいが、福沢も新しい読み方が必要である。

14 書くことは並べること。世界とは運河である。イギリスも自由があるが、おなじくらい規制もある。イギリスから規制を取り除くとオランダが出来上がるというのがわたしのオランダのイメージ。スペインから独立した時代にユダヤ人を受け入れていったのは、気にしなかったといわれる(清潔にしないといけなかっただけ)。気にしないことは易しいことではないかとおもう。アムステルダムの運河をみると、考えることは、だれで入ってくるが、先ず他者を信じることが先行している。そういうきとを近所のユダヤセンターでイギリスの有名なリベラル知識人が喋った。なるほどとおもってこの話を聞いていた。しかし気にしないことを理念化すると難しくなるに違いない。気にしないことはどうして正しいのか、これを言語化しなければいけなくなるから、個人主義とか国民思想とかで。リベラル知識人はユダヤ系住民で占めた聴衆者から猛反対をうけていた。いっしょに、カール•ポッパーもやっつけれていた

15 どうして日本では権力集中を問題とするものがマイノリティを排除するファッショ的人物と政党しかいないのか。果たしてこれは遅れた日本近代の問題か?近代主義に立つとファシズムを問題とすることができる。近代はもっとホンモノにならなければいけないと。しかし近代主義を批判するポストモダン的言説からは近代主義ファシズム批判は成り立たない。もう近代は終わっているからだ。ポストモダン的言説は次のように問題を再構成する。権力集中の問題は言説の問題である。つまり明治維新の王政復古化の問題を隠蔽している問題だと。またマイノリティ排除の問題は、歴史的に、<韓>の排除を前提にした国家の成り立ちにかかわる問題だとみる。福沢諭吉に責任がありそうな、反アジア•反中の言説をどう考えるか。近代主義は近代化が進まないのは中国のせいだと繰り返し非難してきたが、これは近代主義の根源的錯認と言わざるを得ない。近代主義の近代国民国家を語る高く遠い理念は対抗的なナショナリズム(民族主義)を呼び出してしまうのである。

世界はもっと言語を集中させなければいけない。だけれど、ポストモダンは、主体を否定しきってしまうと、戦前の天皇ファシズムの復活はあり得ないが、安倍政治が解釈改憲の国家祭祀復活(公式参拝)と解釈改憲的象徴天皇(国民のノモス的主権の譲渡)を前提に皇室に依存しないナショナリズムを組織化するなかで、これにたいする抵抗を行うことができるのだろうか





MEMO 思想史

1、西洋古典叢書official pageの京都の知と繋がるFacebookのおかげで注釈を読みながら何とか数行を読んだだけだが、新宿の本屋で買ってしまった。思い返すと、ヨーロッパはヨーロッパであるためには、自らを神話的なものとリアルなものを以って語ることが大切である、と、ヨーロッパの彼らからよくこの話をきいた。正直彼らの真意を理解できているとはいえない。よく知らないが、おなじ感じで、日本文化を支えるものとしてある『古事記』を読めばいいということになっているみたいだ。これは何だろうか?仮にそうだとしても、沖縄問題を考えるときに『古事記』が読まれるのかがわかならないのである。現代の問題を考えるために、言語支配者の圧倒的優位のもとで言語マイノリティであった原初的古代を読んだりするのは、日本知識人が日本知識人であるためにやっていることなのではないか。『古事記』から考えると、「沖縄を日本に返せ」という発想しかなくなるようにおもう。

「我は『古事記』を読む、ゆえに、我は母国語•日本語とともに<一国>民主主義の日本人として存在する」。しかし『古事記』は訓(よ)めないことを考えると、これはなにか根源的錯誤があると思えて仕方ない。復古主義の近代が思考を規定しているのは明らかだが、21世紀は復古主義のなかでそれとは別の考え方ができないのだろうかとおもう。「日本人は皇室と日本語」などといつまで言っているのだろうか?


2、1980年代の「江戸万歳」は終わりました。これから、江戸をどう語ろうとするのでしょうか?


津田左右吉は、『日本の皇室』のなかで、多分象徴天皇制を評価したうえで、江戸時代(近世)に政教分離が成り立っていたとみています。本当にそうならば、戦後(現代)は近世が支えているというかんじです。明治(近代)は、うまく天皇を東京に連れてきて、明治維新を王政復古にしていくのですが、ほんとうにそれでうまくいったかどうか、これは現在のわたしの関心です。武家政権の批判とされる言説は危険だったので、ヨーロッパのような政治思想は無かったのですが、あえていいますと、江戸時代は西洋列強の時代の鎖国をふくめて、「完璧」だと考えてみようと思っています。鎖国を言うならば、鎖国が無いと思われている現在、東京五輪ファーストで海外留学生を受けいれないやり方こそが鎖国そのものではないでしょうか。江戸時代に許されない差別はありました。しかしその規模は帝国主義の明治が作っていく差別の比ではありません。しかしこういう文章を書くことができるのは明治(近代)のおかげと言わざるを得ません。ちなみに、中国は「近世」「近代」「現代」を、「現代」というのですね。近代批判を現代批判と表記しています。これに関しては、やはり「近世」と「近代」と「現代」を分節化してほうがいいのではないかと思っています。そうすることで、色々多様なものがみえてくるからです。明治10年代は、言論を自由に展開できた、面白い思想家がいますー岡倉天心清沢満之、「人民people 」の思想をもつヘーゲル左派みたいな福沢諭吉も。「近世」と「近代」のあいだというか、この間こそは「現代」を支えるものとおもいます。「現代」を支えるものは、現代そのものに属するものではなく、また「近世」あるいは「近代」に属するものでもありません。「現代」と呼ばれるものは、「近世」あるいは「近代」と呼ばれるものと差異的に関わるだけです。Wx別の見方「江戸」+ Xx別の見方「明治」+ Yx別の見方「昭和以降」、という感じで。「近世」「近代」「現代」は直線上にある、点、点、点ではなくて、フラクタル的に概念を展開するものだとおもうのですね。全体(「近世」「近代」「現代」)が部分に宿るのです。その部分は、江戸時代の「近世」、明治時代の「近代」、あるいは1970年以降の「現代」です。


3、9/11はなにを意味していたのか?思想は9/11をどのように理解するのか。ポストモダン的に言えば、9•11は存在しなかったとあえて言わなければいけない。9•11をどうみるかの見方しか存在しないのだ。そうするとどんなことが言えるか?十分に考える力もないが、ヨーロッパにいた時代を思いだしながらここでかんがえてみようと思う。ロンドン同時爆破事件(2005年7月7日) を報じてきたBBCは報道の真実性•中立性を保つために政府が頻繁につかう「テロ」という言葉を控えると発表したときのことを覚えている。厄介なのは、当時ロンドンのようなマルチカルチュアリズムは平和の時代は最大の恩恵を受けるが、戦争のときは最大の損失を被る。ロンドンにいたわたしの観察では、ブレア政権はわれわれ自身と彼らとの分割を強調しはじめた。言語はどんどん透明になっていく。そうして国家とテロを理性と狂気の関係に置き換えて問題を理解しようとしていた。しかしやはりこれはやり過ぎである。冷静に考えると、そもそも国家はそれほど理性なのか?テロは国家にたいするテロしかないのか?国家テロというものは無いのか?またテロは狂気と等しいとされているがほんとうにそうなのか?しかし狂気とはなにか?多元主義の言説が、「われわれ自身」をめぐる二項対立の対抗言論ー理性は西欧であり、狂気は非西欧であるというようなーに収縮していってしまうそこで起きてくる問題は、純粋な理性(西欧)が純粋な狂気(非西欧)の隅々まで説明し尽くすようなラディカルな近代である。(われわれ自身というのは、自己自身のほかになにも指示しない言葉である。純粋な理性は、自分自身への関係しかない点において、純粋な狂気とおなじである。差異が無い透明な言語化の果てに、純粋な理性ははじめから純粋な狂気ではないだろうか)


4、ヨーロッパは民主主義を成立させるのに500年を要しました。日本は近代化のスタートがはやくて150年の歴史があるので、今日における言論の自由なき民主主義の問題を何とか理解できます。中国の歴史に自由な議論が二度だけありましたー諸子百家春秋時代辛亥革命の数年間です。中国の民主化は、30年前にはじまったばかりです。このように極端に短い凝縮した期間のなかで、民主主義を全体主義だと言ったり、反対に、全体主義を民主主義だと言ったりするような根源的錯認が起きるのではないでしょうか。(ドイツも、フランス革命の150年間を、10年間に凝縮させた結果、ワイマール体制のなかから、あり得ないナチスが出てきます)。毛沢東?それは民主主義にとって最悪の固有名です。抗日のゲリラ戦の軍人としては活躍しましたが、独立後に起きた彼を神格化した文革ファシズムは2000万人を殺したアジアの災害と言わざるを得ません。資本主義を推進して格差を作り出しているのはだれであるかわかっていないのは、資本主義と格差を正すために自分達の存在理由があると宣伝している中国共産党です。アジアでは開発と戦争と同化主義はどんどんすすみますが、政治的な言論の自由はまったくすすみません。中国のせいです。中国はソビエトと異なる「独自の社会主義」だからでしょうか?しかし民主主義の感覚は何処にも存在します。8000万人の党員がいる中国共産党の一党支配のほうがより民主主義だったと発見させてくれたのは、10万人だけに支えられている独裁者習近平のおかげです。文革ファシズムの研究と天皇ファシズムの研究は十分とは言えません。これからの課題ですね。中国に民主化を求めるためには、先ず日本がもっと民主化する必要があります。


毛沢東フィーバーは、今年7月1日に創立100年を祝った中国共産党が直面する矛盾した現実をあらわにしている。国家主席習近平のもとで、党は中国人の生活のほぼすべての側面における中心になった。中国が成し遂げた経済発展を党の功績だと主張し、中国人民に対して党に感謝するよう求めている。」


5、歴史を書くこと


1、古学は江戸幕府が公の学問とした朱子学を解体した。17世紀の古学における豊かな注釈を利用して、12世紀の朱子がいかに紀元前5世紀の『論語』を読んだかを考えることができるか。


2、17世紀の古学における注釈を利用して12世紀の朱子が紀元前5世紀の『論語』を読んだかを考えるときは、『朱子語類』の裏側にヘーゲルがあるような…初めから19世紀が見ている。


3、国学における古学は、文献学に、人を人が存在しない原初的なものに結びつける。思想的には中国文明からの自立を論じた。近代国家日本は国学の側の古学からしか誕生しない。


4、20世紀は現代中国語と宋代の口語文の知識を以って12世紀を読むときは、絶望的に、20世紀のために読む。20世紀は独自のものを永久革命的に作り出さなければ化石となってしまう


7、前と後の思想


明治なんかに精神史があるのか?いや、明治の前の時代の反時代的な権利を観る思想史は思想史に宿る精神史が何とかみえるかもしれない。この意味で、江戸思想史なくして明治に精神史がない。戦後日本は思想がなかった。否、竹内好がいた。彼は恰も権利性をもって破綻した前の時代の思想からものを言った。近代の超克論の再構成である。ちなみにゴダールの映画史は精神史だったので、彼の映画史は過去から精神(Geist)としての呟く映画たちを呼びだした。しかし竹内は文革のとき沈黙した。彼の後に思想がない。その結果、平成に思想史も精神史もない。このままだと令和に思想も思想史も、精神史もないだろう。しかし中国が関心をもっているような学者の議論はある。その議論は竹内好から来るものである。思想と精神がなくとも、学問は存在している。文化•芸術と思想と学はそれほど一体ではなかったということか、ヘーゲルが思弁的に考えたようには。包摂されない道としての学のことは伊藤仁斎が言った。遅れて後から来たような、前の時代の権利として言われたこの‪多元主義の‬ことは現在の思想史に書き記されるべきである。


8、「アルファベット文字は、直接的にはいかなる言語も語らぬがゆえに、すべての文字(エクリチュール)のうちで最も無言である。しかし、声とは無関係でありながらそれは声にいっそう忠実であり、声をよりよく代理(表現)するのである。」(デリダ)


• 思想史の言説空間がとらえるアルファベット文字のあり方のことについてだけれど


• 大いなる他者(=言語支配者としての中国)が消される自立的言語(母国語)の体制は、「漢字借り物」論の固有言語の観念をもっている


・「漢字借り物」論は、固有の日本語を考えているつもりでも実は知らずにアルファベット文字を考えているだけなんじゃないか。そうだとすれば、


• これがほかならない、国家が定位している声の近代(=西欧)である


• 「われわれ自身」とともにある固有言語の観念は今日におけるナショナリズムとともにあるが、これはアルファベット文字の近代が作りだしたものではないか。500年の歴史しかもっていないものなのに、これを無限に遡って起源なき起源に結びつけるのである。


’L'écriture alphabétique est la plus muette qui soit, puisqu'elle ne dit immédiatement aucune language. Maid étrangère à la voix, elle lu est plus fidèle, elle la représente miex.’(Deridda) 「アルファベット文字は、直接的にはいかなる言語も語らぬがゆえに、すべての文字(エクリチュール)のうちで最も無言である。しかし、声とは無関係でありながらそれは声にいっそう忠実であり、声をよりよく代理(表現)するのである。」


9、古事記』を訓(よ)んだ和辻哲郎の「祀る神は祀られる神である」を支えるのは、解釈の成り立ちの構造である。しかし<祀る><祀られる><神>と名づけれた、表象されるものは、洞窟の外部の限界を構成する不可避の出入り口をもっている。訓(よ)むことができない『古事記』を言語の存在として考えることになるのは外部においてである。

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10、The first thing to say about “Kojiki" [The Records of Ancient Matters] is, in an important sense, that it is unreadable. Writing is unable to pass through the Chinese reading of a character ex post facto. Text adresses itself to which constitutes its outer limits.


わたしなんかは朱子学理解度ランキング下から何番目だと思うが、話を聞いていただけども、朱子学を勉強したこの何年間、形而上学的思索がどういうものかすこしはわかってきたか。デカルトというのは、要請される知または実証主義的経験知のしらふに行くのでもなく、形而上学的知の覚醒に行くこともないというんだね、何となくそれはわかる。デリダだから明らかにできた差異というか、これほどわかりにくいこともないし、翻訳で益々わからなくなるが(溜息)、フーコのデカルト論を差異化している、デカルト懐疑主義のラディカルさ、差異こそが、他者の岬を支えているとおもう。

われわれの疎外の原因は何か?これは表象政治論が答えなければいけない。しかし日本の表象文化論の哲学者は哲学の問題としてどう考えるのか言わない。リベラルなことを言うだけである。哲学を信じていないのだろうか?


産業革命があった国は世界の少数派です。世界の多数派は、産業革命が無かった、あっても、20世紀のかなり後半にやっと実現したような国たちなんですね。産業革命と民族資本の形成を不可能にしたのが帝国主義です。さて産業革命とは、物の見方を変えただけで、人間の精神に何か影響を与えたのでしょうか。イギリスのような産業革命が起きなかったけれど、フランスで政治革命が起き、ドイツでは思想革命が起きましたね(おかげで、反時代的に、いま、ここで、人間の精神なんかについて考えています)。進んでいたイギリスは自慢の言論の自由はあるのですが、政治革命と思想革命と結びついていないので、情熱のない言論の自由の様相を呈しています。それでも、ポスト大英帝国のイギリスを支えるのは人権と結びついた国際報道であるとはっきり考えています。アジアのほうを見渡すと、この150年間、産業革命があって、経済と技術、マネーがどんどんすすみますが、人間の精神を支える言論の自由の方向性をもった政治革命が起きてきませんね。どうしてなのでしょうか?政治革命が起きないこのことを考えると、日本の近代は、良い悪いはべつとして、復古主義による近代化しかなかったとおもうのですが、しかしこれからは、“明治に帰れ”とは別のあり方を考える必要があるとおもうのです。何かこの国の衰退を恐れるひとがたちが出てきているようですが、戦争と開発と同化主義はどんどんすすんでいくのに、精神的に価値のあるものを作って行けるのか、むしろこのことをわたしは恐れています


commonwealthとネグりとハートが呼ぶ公共性の意義


2010年十月以来、ネットと社会の相互関係の中に生きている。反原発デモの例の様に、自由の為に連帯の重要な意義をみとめこれを求める民主主義を観察した。又全く逆のこと、即ち、同じ人々が救済を求めんが如く隷属の為にバラバラの分断に向かい石原や橋下の様な政治家に集まる民主主義も観察する。自由の為に連帯を求める愛が、隷属の為にバラバラの分断に向かうこと。この矛盾は、スピノザによれば、行き過ぎた愛の崩壊によって生じてしまう。では、いつ人々は差別主義者の憎しみを棄て、愛のもとに戻ってくるのか?<他者>を拝し動物の如く生存するだけの孤独に耐え切れなくなったときに帰還する。いつ人々は、石原や橋下の様な、<他>との相互関係で豊かになる文化を拝す差別主義者の憎しみ(「痛さ」)を棄て、愛に戻ってくるのか?効率の名のもとにただ動物の如く生存するだけの惨めな孤独に耐え切れなくなったときに公共空間に帰還する。これはウィトゲンシュタインの私的言語批判の新しい解釈を喚起する考え方であり、commonwealthとネグりとハートが呼ぶ公共性の意義をあらわした考え方だ。

最後に、20世紀精神史を総括する上で、commonwealthの考え方は決定的なパラダイムである。

ドレフュス事件からスペイン市民戦争・第二次大戦の大空位時代までは、「西欧の不可能なアイデンティティー」が中心テーマ。

・1970年初頭までは、「ヨーロッパ」(但し19世紀的ヨーロッパ中心主義ではなく、植民地主義を反省した多文化主義アイデンティティーとしての)

・今日まで(2012年)。新植民地主義の復活を背景とした、多国籍企業グローバリズム、ネットと、怒るマルチチュードの時代。20世紀精神は、共通のものを表した概念を表現する。アイデンティティーや同一性の概念ではなく、単独性といった関係性の概念が鍵。例えば、commonwealth

今日、ネグリは、現代における顕著な四つの人間像について語った。即ち「債務を追う人間」「メディアに媒介される人間」「恐怖する人間」「代表される人間」のこだ。それに対して、人間の尊厳の保証にかかわる「コマン」は、媒介なきソーシャルな劇場として、いかに、この四つの人間像とは別のものを呈示できるか。つまり、どんな抵抗する主体性を生産できるか、だ。

マルクスが言う通り、資本は単独では価値を生産できない。資本は、価値を生産するためには、必ず従属した労働を必要とする。ここに、資本が国家を利用して労働の政治活動を妨害したがる理由がある、とネグリは分析した上でこう言う。しかし労働は益々言葉やコミュニケーションに関わる技術と資本に結合していくのは、それが本来的に従属を欲することがないからではないかと。たしかに、エンゲルスに注目したドゥルーズガタリが強調していたのは、あらゆるものをあらゆるものに繫げるの人間労働の抽象的な生産性である(「アンチ・オィデプス」)。現実にこの言葉とコミュニケーションを生産する労働に支払われないのは、ネグリ&ハートが結論したように、市場それ自身の失敗なのである。だからこそ、資本主義を超えなければならないというのだ


明治日本に啓蒙主義が入って来たのは、功利主義といっしょなんですが、あそこの大学はそこにずっといるのです。啓蒙主義を損得の計算だとおもっています。しかしカント的啓蒙主義は人格主義とするのが正統です。議論は人格におけるものだと思いますーだから誰でも議論できるようにお互いにすることが大切。またデモは人格をかけた義憤ですが、同時に自分の力の無さを知る場でもあります。国民主権と言われてあたかも全能だったと自らを考えていた自己に対する抗議があります。どうしたらいいのかをはじめて考える場です。わたしは、デモも必要だし議論も必要だと思います


小学生のときはいじめてくる奴を撃退すると喧嘩両成敗みたいな感じで罰せらますよね。あれは正当防衛だと言いたいとおもいました。

日本人は自分の誤ちを気にしないが、他者の過ちを過大評価する、と、日本左翼は指摘しますね。たしかに、戦前は、攻撃されてもいないのに、攻撃されたと思い込んで、防衛するために相手国を攻撃することがありました。個人について成立する違法性阻却事由としての正当防衛を国家におけるものとして考えることができるか。国家の正当防衛についてはイギリスも思想家が論じているようですが、憲法の絶対平和主義と両立するものでは無いようです。しかしかくも絶対平和主義を導く憲法の言語の論理として文法的ですが、人々が受け入れることができるものなのかとは思います。残念ながら、自衛隊の米軍との共同演習は北朝鮮にたいする、憲法が禁じる「武力よる威嚇」に該当しますが、反対しない野党は自民党の解釈憲法をすでに認めていると言わざるを得ません。問題となってくるのは明時代の海帝国として成立した国家アイデンティティを求める中国の台湾侵略と沖縄(中国からすると、中国の冊封体制に属する、朝貢貿易相手国琉球です)です。慎重に考える必要がありますが、自衛隊を日本の外に出さないことを明確にした上で、台湾との間でアジアにおける安全保障について意見を交換し合うことが必要という意見があります。厳しい現実が目の前にありますが、これは曖昧な「核抑止力」よりも効果があるのではないかと考えます


現在は危機の30年?


「E.H.カーは国際政治における現実主義と理想主義の問題を研究の対象とした。カーはその著書《危機の20年The Twenty Years’ Crisis》(1939)で,戦間期の国際的危機について,ヨーロッパに支配的である自由放任主義による利害調和の考え方が〈ユートピア的立場〉であり,これに対して,ファシズム国家は力ばかりを強調する〈リアリスト的立場〉であって,それぞれが一方に偏しているところに危機が存在していると指摘した。カーは道義が重視されている国際政治において,権力の要素を分析し,国際問題を解決するには,政治秩序の一機能でしかない法は有効性をもたないとし,〈政治的なもの〉による解決を強調した」(コトババンク)


MEMO

 


無政府主義的な態度はギリシアの悲劇家と哲学者によっても表現された。アイスキュロスとソポクレスは、国家によって布かれた規則とオートノミーとの対立を説明するためにアンティゴネーの神話を用いた。ソクラテスアテナイの当局に絶えず疑問を投げかけ、意識の個人的自由の権利を主張した。キュニコス派は、人間が作った法律(ノモス)と関連付けられた権威を退け、自然法則に従って生きようとした。ストア派は、国家の存在を伴わない市民間の非公式で友好的な関係に基づく社会を支持していた Wiki



MEMO

9/11はなにを意味していたのか?思想は9/11をどのように理解するのか。ポストモダン的に言えば、9•11は存在しなかったとあえて言わなければいけない。9•11をどうみるかの見方しか存在しないのだ。そうするとどんなことが言えるか?十分に考える力もないが、ヨーロッパにいた時代を思いだしながらここでかんがえてみようと思う。ロンドン同時爆破事件(2005年7月7日) を報じてきたBBCは報道の真実性•中立性を保つために政府が頻繁につかう「テロ」という言葉を控えると発表したときのことを覚えている。厄介なのは、当時ロンドンのようなマルチカルチュアリズムは平和の時代は最大の恩恵を受けるが、戦争のときは最大の損失を被る。ロンドンにいたわたしの観察では、ブレア政権はわれわれ自身と彼らとの分割を強調しはじめた。言語はどんどん透明になっていく。そうして国家とテロを理性と狂気の関係に置き換えて問題を理解しようとしていた。しかしやはりこれはやり過ぎである。冷静に考えると、そもそも国家はそれほど理性なのか?テロは国家にたいするテロしかないのか?国家テロというものは無いのか?またテロは狂気と等しいとされているがほんとうにそうなのか?しかし狂気とはなにか?多元主義の言説が、「われわれ自身」をめぐる二項対立の対抗言論ー理性は西欧であり、狂気は非西欧であるというようなーに収縮していってしまうそこで起きてくる問題は、純粋な理性(西欧)が純粋な狂気(非西欧)の隅々まで説明し尽くすようなラディカルな近代である。(われわれ自身というのは、自己自身のほかになにも指示しない言葉である。純粋な理性は、自分自身への関係しかない点において、純粋な狂気とおなじである。差異が無い透明な言語化の果てに、純粋な理性ははじめから純粋な狂気ではないだろうか)


エレミアをたたえよう


たしかに投票しない若者が多いが、本当に問題はそこだけだろうか?ランボーが嘆いたように、昔は男も女も預言者の言うことを聞いたが、今は政治家の言葉しかきかない。厄介なことに、ネオリベの時代は、政治家の言葉を借りて預言のように語る、10%の人間が社会を代表しているという根源的錯認である。イザヤとエレミア、プラトン仏陀孔子がでてきた2500年前は、人間は自己の力およぶものに拠ることの意義が言われるようになったのではないか。言語的存在である人間にとって、自己の力およぶものは言葉のほかになにがあるのか?国家祭祀も祭祀者の倫理的姿勢が説かれるようになった。現在のコンテクストで考えると、国家が自ら祀るような、そのために戦争する国家の体制から離れていったのではなかったか。戦争を対象にもたない戦争の成立?時代は絵はレンブラントのエレミア




西洋古典業書より

ホメロスオデュッセイア

第1巻1-3行

Ἄνδρα μοι ἔννεπε, Μοῦσα, πολύτροπον, ὃς μάλα πολλὰ

πλάγχθη, ἐπεὶ Τροίης ἱερὸν πτολίεθρον ἔπερσε·

πολλῶν δ' ἀνθρώπων ἴδεν ἄστεα καὶ νόον ἔγνω,


Andra moi ennepe, mūsa, polutropon, hos mela polla

plankhthē, epei Troiēs hoeron ptoliethron eperse

pollōn d’ anthrōpōn iden astea kai egnō,


記者会見を国民は一生懸命見ているが、スガーリンは貴族の肖像画のような此方に無関心な冷たい眼差しだった。ポスターのスターリンは、これは怖いが、人間らしい暖かい目をしている


映画と現実とが溶け合っている、それが例外ではなくて当たり前になってしまったような光景。映画の主流はコンピュータグラフィックスで、顔をやめて仮面ばかりになっていたしね




1980年代の「江戸万歳」は終わりました。これから、江戸をどう語ろうとするのでしょうか?


津田左右吉は、『日本の皇室』のなかで、多分象徴天皇制を評価したうえで、江戸時代(近世)に政教分離が成り立っていたとみています。本当にそうならば、戦後(現代)は近世が支えているというかんじです。明治(近代)は、うまく天皇を東京に連れてきて、明治維新を王政復古にしていくのですが、ほんとうにそれでうまくいったかどうか、これは現在のわたしの関心です。武家政権の批判とされる言説は危険だったので、ヨーロッパのような政治思想は無かったのですが、あえていいますと、江戸時代は西洋列強の時代の鎖国をふくめて、「完璧」だと考えてみようと思っています。鎖国を言うならば、鎖国が無いと思われている現在、東京五輪ファーストで海外留学生を受けいれないやり方こそが鎖国そのものではないでしょうか。江戸時代に許されない差別はありました。しかしその規模は帝国主義の明治が作っていく差別の比ではありません。しかしこういう文章を書くことができるのは明治(近代)のおかげと言わざるを得ません。ちなみに、中国は「近世」「近代」「現代」を、「現代」というのですね。近代批判を現代批判と表記しています。これに関しては、やはり「近世」と「近代」と「現代」を分節化してほうがいいのではないかと思っています。そうすることで、色々多様なものがみえてくるからです。明治10年代は、言論を自由に展開できた、面白い思想家がいますー岡倉天心清沢満之、「人民people 」の思想をもつヘーゲル左派みたいな福沢諭吉も。「近世」と「近代」のあいだというか、この間こそは「現代」を支えるものとおもいます。「現代」を支えるものは、現代そのものに属するものではなく、また「近世」あるいは「近代」に属するものでもありません。「現代」と呼ばれるものは、「近世」あるいは「近代」と呼ばれるものと差異的に関わるだけです。Wx別の見方「江戸」+ Xx別の見方「明治」+ Yx別の見方「昭和以降」、という感じで。「近世」「近代」「現代」は直線上にある、点、点、点ではなくて、フラクタル的に概念を展開するものだとおもうのですね。全体(「近世」「近代」「現代」)が部分に宿るのです。その部分は、江戸時代の「近世」、明治時代の「近代」、あるいは1970年以降の「現代」です。


「自己とは他なし絶対無限の妙用に乗托して、任運に法爾に、この現前の境遇に落在せるもの、即ち是なり。」清沢満之





西洋古典業書の京都の知と繋がるFacebookのおかげで注釈を読みながら何とか数行を読んだだけだが、新宿の本屋で買ってしまった。思い返すと、ヨーロッパはヨーロッパであるためには、自らを神話的なものとリアルなものを以って語ることが大切である、と、ヨーロッパの彼らからよくこの話をきいた。正直彼らの真意を理解できているとはいえない。よく知らないが、おなじ感じで、日本文化を支えるものとしてある『古事記』を読めばいいということになっているみたいだ。これは何だろうか?仮にそうだとしても、沖縄問題を考えるときに『古事記』が読まれるのかがわかならないのである。現代の問題を考えるために、言語支配者の圧倒的優位のもとで言語マイノリティであった原初的古代を読んだりするのは、日本知識人が日本知識人であるためにやっていることなのではないか。『古事記』から考えると、「沖縄を日本に返せ」という発想しかなくなるようにおもう。「我は『古事記』を読む、ゆえに、我は母国語•日本語とともに<一国>民主主義の日本人として存在する」。しかし古事記』は訓(よ)めないことを考えると、これはなにか根源的錯誤があると思えて仕方ない。復古主義の近代が思考を規定しているのは明らかだが、21世紀は復古主義のなかでそれとは別の考え方ができないのだろうかとおもう。「日本人は皇室と日本語」などといつまで言っているのだろうか?


グラフを見ると、9・11から、100年前のレベルに戻ってしまったことが明らか。世界はもう西欧のイスラムの戦争をやめて、共に成長可能なグローバリズムをグローバル•デモクラシーに基づかせる必要がある。このことをいうために、ピケティー唯物史観に基づかないなどと言っている場合じゃない

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今朝の一面も総裁選に占拠されている。これは新聞か?自民党集票マシーン化である


ホメロスには、プラトンにある「インスピレーションによる詩作」の考えはないという。ホメロスの「現場にいることの多さが知の多さ」の原則に基づくのはジョイスにおいてもそうだ


ダメな新聞と言われるけれど、学者の議論は新聞にあるのだしね。フェイクブックは<すべての言説がここに>という「本」になるような驚くべき可能性をもっているのに、まだ議論がない


現在の世界の貧富の格差は20年かけて1890年の水準に戻った。9/11以降戦争が起きる。日本は二度「戦後」があったが、戦前の文学は格差拡大と共に戦争体制の日常を語った


12年間を振り返ると、わたしは心に響く投稿文がひとつもない。死ぬまえに、安倍をやっつけるような決定的な一文を放ってやりたい


今朝は新聞は競馬予測みたいになっていないが、明日はどうか?われわれの自由は服従に甘んじやすく、言説は無駄に繰り返される(「世界は注目しています」)


今朝は新聞一面は競馬予測みたいになっていなくて良かったが、明日はどうか?われわれの自由は服従に甘んじやすく、言説は無駄に繰り返される(「世界は注目しています」)


眼は手を見る欲望の主体である。線を描く手は、表象という、軽く遠く外の冷たい形でしか欲望を知らない。手は眼が支えるが、手は手自身が支えるときに表層的表象が白紙を覆う


外国で新聞を読めるようになるにはどうしても二年間かかるか。毎日一面の大見出で国の全体の意味がわかる。ここ日本は読む為の苦労は無いが、一面は国の全体の3割しか伝えない


ヨーロッパで新聞を読めるようになるが、日本新聞を読まなくなる。読めば読めるが、東京に戻って気がつくが、日本人の読者の読み方がわからなくなっていた。アジアがみえない


漢字という不可避の他者のもとに、『古事記』が成立する。訓読みにおける、表象という、軽く遠く外にある読みを支えるのは漢字である。訓(よ)むことが不可能であるにもかかわらず、訓(よ)んでいるのは、他者を消した、透明な、表象を表象する迷路。しかし他者は迷路によっては覆い尽くすことができないだろう


昔のように、いまは自民党の外に出るひともいないんですよね。総裁選がプロレスみたいだと興奮しているひともいますが、小選挙区時代の総裁選はひとりの人が書いたシナリオに沿ってセリフを分配してもらってたたかっているような感じです(ひとりは誰ということではなくて、理念的なものですが)。シナリオが二つ必要なのですがね、シナリオAとシナリオBと。

マスコミは、自民党だけが十分に統御されたシナリオをもっているが、野党はシナリオがないような印象を作りだしていないでしょうかとおもいます。これはManufacturing Consentです


推敲

鬼神論をめぐる言説「鬼神に事えることを問う」で表象されるものは、論理的順序を以って一体である見えるものと見えないものを考える可能性である。この思考可能性を昼と夜と名づける。そうして昼の本と夜の本が成り立つ。しかし問題となってくるのは、昼の本に侵入する夜ー頁を捲ると羽ばたく闇ーである。理が覆い尽くすことができない


天照大御神が隠れた岩戸、鍵のかかった誰も入って来れないこの部屋の中にずっといたの?思金神が対策を考えていたときは脱出していたかも。祀る神の中に祀られる神はいない。nー1


津田左右吉は「日本精神東洋文化抹殺論に帰着する悪魔的虚無主義の無比凶悪思想家」として不敬罪にあたるとして攻撃された。実在しない神の名誉と尊厳ってなに?構成要件なんか無い


ἀρνύμενος ἥν τε ψυχὴν καὶ νόστον ἑταίρων.


arnumenos hēn te psūkhēn kai noston hetairōn.


松平訳「己が命を守り、僚友たちの帰国を念じつつ」


ホメロスオデュッセイア』講読

第1巻5行より


seeking to win his own life and the return of his comrades


ホメロスオデュッセイア』講読の注釈を読むと、ψυχή(プシューケー)(魂、命)。後の時代のプラトンのように、「魂」が独立した存在と考えられることはないという


「惟れ郢の路の遼遠なる、魂は一夕にして九逝す」『楚辞』


ダブリンとロンドンでは英語を喋っていたように(あまり喋れない)、東京で日本語を喋るが、毎朝起きた自分がライオンか日本人かもしれないので人間である為にはどうすべきか考える


嗚呼、英国が砂漠で行った核実験に反発したオーストラリアの自然を重んじる国のアイデンティティはどうなってしまうのか。自然もアジアの民主化も中国のためにうまくいかない


この失敗した選挙制度は、忘れたかもしれないが、英国二大政党制がモデルだとさんざんきかされた。その英国に毎日一面で、与党の保守党党首選挙の宣伝を垂れ流す新聞があるのか?


マスコミは総裁選の有力候補者が脱原発だったと繰り返すけれど、いつまでに全原発を廃止するかの期限(10年とか20年とか)を一言も言わないような脱原発は意味を為すのだろうか


ホメロスオデュッセイア』は魂を独立したものとして考えていなかった。「命」と訳される。ジョイスユリシーズ』では魂の転生が議論される。キューブリックの映画『2001年宇宙の旅(2001: A Space Odyssey』は魂は無限の彼方に行く(宇宙船の中がバロック様式の部屋のようになっている)。「魂」のプラトン的インスピレーションだけれど、場所の情報を求めて探検しに行くのである。平田篤胤も魂の行方が問題となるが、魂はそれほど遠くにはいかず、先祖的距離というか、生者の近くに留まる。魂と身体をめぐる分節化の成功は、文学的修飾においてどれだけ豊かに考えることができるかによる


「天地無用」の漢字と、矢印が描かれた段ボール箱を前に、外国人配送人は困惑して立ち尽くすだろう。私も、宣長がやったように、『古事記』の冒頭にある最初の文にある「天地初発」の「天地」を「アメツチ」と訓(よ)むと、指示されている、表象されるものがわからない。「ものを見せてくれ!」。「天地」という名が与えてられているけれど、この名のまわり(境界)で、軽く遠く外の冷たい表象作用のなかで呆然としてしまう。これは解釈の問題ではない。わたしはこれを言説の箱と呼ぶのである。


家族の価値を強調するならば、どうして夫婦別姓同性婚をみとめようとしないのか?




ジャック•タチの映画に、「天地無用」の漢字と、矢印が描かれた段ボール箱を前に、外国人配送人は困惑して立ち尽くす姿がある。とにかく箱は矢印の方向に向かって吊り上げられた。映画は終わった後、一緒に観ていたフランス人の友人があの方向でよかったのかという。ところであの字はなんて書いてあるの?ときかかれた。このとき、わたしは、別の「天地」のことを考えていた。前書きが長くなったが、私も、宣長がやったように、『古事記』の冒頭にある最初の文にある「天地初発」の「天地」を「アメツチ」と訓(よ)むとしたら、指示されている、表象されるものがわからない。ものを見せてくれ!「天地」という名が与えてられているけれど、わたしは、この名のまわり(境界)にいる。命題(漢字を主語とする)から指示へ行く線と、分節化から転移へ行く線とが交差するところに立ってはいない。ズレてしまっている、軽く遠く外の冷たい表象作用のなかで呆然としてしまう。表象の細くて軽い線が横断するだけの世界は、媒介なく、神々の果てしなき欲望が透明に現れてくる。あっという間に過ぎ去るような美である。問題となっているのは、解釈ではない。表象をめぐる言説なのである。アドルノが美と呼んだ理の弁証法的否定の多元主義が成り立つかどうか?わたしは本居宣長を言説の箱と呼ぼう


「言語を破壊するな 信じる価値語れ」(國分功一郎)。O.K、そうだけど、それは自分自身への抗議の言葉。わたしならばもっと愚鈍に安倍に向けて、「平気で嘘つくな」と言いたい


アルジェリアで拷問を受けて仏に亡命してロンドンに暮らしているひとから、ファーストフードのカフェで、どうしてアメリカはアラブにやって来て問題を起こすのかと聞かれた


「漢字借り物」論は意味の近代主義が先行する。訓(よ)めない原初的テクストを訓(よ)んでは、遡ることをやめない深い固有のものを照らす。届かない表象の線は細くて殆どみえない


民主台湾をめぐって中国と米国の衝突で起き得る第三次世界大戦を避ける為に、今日本は憲法を利用して何ができるのか?国会を開かず、投票権なき総裁選をメディアが煽っていたのでは


Ἰθάκη


ジョイスユリシーズ』では、教理問答のナレーションで構成される挿話イタケの終わりは<書かれた言葉の眠り>である。このあと、挿話ペーネロペーにおけるモリー・ブルームの声の独白が始まる。

デリダディコンストラクションの多元主権が恰も、普遍主義の様相を帯びてくるなかで、これにたいする言説的批判が、ポストコロニアリズムとともに、展開されてくることになったが、アイルランドの挿話イタケの解釈は重要となってきた。


アベノミクスは安倍の思想と切り離して経済政策の翻訳としてとらえたら安倍の敗北はあるのか?安倍が拠る歴史ー王政復古クーデターーは正しい始まりをもたない。先ずこれを知ること


ジョイスユリシーズ』では、キュクロープスはナショナリストユダヤ人嫌いで、ブルームと対峙する。彼を撃退してしまう(パブが洞窟である。) ジョイスの見方では、土地に執着する点において植民地主義者と反植民地主義ナショナリストは同じ。野蛮なマッチョだけれど、ケースメントレポート(1904)で読んだ、ベルギー植民地主義者に鞭で撃たれるコンゴ現地の人々への同情は嘘ではないだろう


And J. J. and the citizen arguing about law and history with Bloom sticking in an odd word....

 -Persecution, says he, all the history of the world is full of it. Perpetuating national hatred among nations.

 -But do you know what a nation means? says John Wyse.

 -Yes, says Bloom.

 -What is it? says John Wyse.

 -A nation? says Bloom. A nation is the same people living in the same place.

 So of course everyone had the laugh at Bloom and says he, trying to muck out of it:

 -Or also living in different places.

 -That covers my case, says Joe.

 -What is your nation if I may ask? says the citizen.

 -Ireland, says Bloom. I was born here. Ireland.

 The citizen said nothing only cleared the spit out of his gullet and, gob,he spat a Red bank oyster out of him right in the corner.


Joyce、Ulysses


「夜景」と名づけられたレンブラントの集団肖像画中産階級が中心にいる新国家と市民社会が描かれているが、女性において表象は遠く外にあって冷たいものだろう。表象の線は槍のように細くて、殆ど何も表象されない絵である。暗闇のなかでその一点だけが明るい神秘の中心に位置していているが、どうだろうね?同化主義の近代にたいして、No、No、Noと言っているのではないか。レンブラントはこのギャップを表現した。(と、わたしはゴダール「パッション」における見方からどうしても絵を見てしまう)


「次の首相を決める総裁選」という言説。自民党提灯もちがやる解説が溢れるけれど、分析される(?)各候補者の「頭の中」は、野党リーダー達との議論なくして、何がわかるのか?


2017年に安倍晋三内閣が、野党の臨時国会召集要求に3カ月以上応じなかったのは憲法53条に違反する。政府が説明責任を果たさないのは国会の審議する権利を侵害しているよ


政府が説明責任を果たさないのは国会の審議する権利を侵害する。この時代は野党の臨時国会召集要求が憲法の中核を為す。2017年安倍がこの臨時国会召集要求を異常に長い期間無視したことは、2016年にG7伊勢サミットー宗教の権利の侵害と解釈改憲国家神道の事実上の復活ーがあったことと無関係ではないと私は思う


丸山真男市民社会論は戦前の講座派の包摂であるが、中国論、特に中国における所有の形式をめぐる言説の形成が影響をもったのか。どういうことか?これから勉強する


60年代の前衛的近代の解体運動が先行した、デリダディコンストラクション(脱構築•脱近代)の多元主権が普遍主義の様相を帯びてくるなかで、それにたいする言説的批判が起きてきた。溝口と柄谷におけるアジアはどう語られたかの語り方に再び新しく普遍の一元主義が再構成された。しかしその高すぎる理念と、民主化の経験をもった人々のあいだを媒介するスクリーンが不在であると言わざるを得ない。表象の線は細くてあまりに遠い。ヨーロッパからもどってきたアジアと呼ばれる言説的配置において、わたしは根源的錯認を疑う、故にわたしは存在する


政策というよりは紋切り型の言葉たち。何処からとなく絶えず流れてくる陰謀の噂。政治の風景が嘗てないほどせまくなってきた。ローマ以来独裁者は選挙からしか生まれてこない


現在進行中の「第二江戸思想史講義」(子安先生)は朱子を保つ。帝国中国が拠る近代主義的誤謬解釈から自由な『朱子語類』は本となる、また江戸思想史において本は自ら脱領土化する


台湾人のために台湾を考える政治家あるいは中国人のために中国を考える政治家が必要であって、日本のために台湾または中国を手段とする政治家なんて要らないよ


カラヴァッジオの飛ばない天使もよく知られているが、ラウェンナの天使は表象されるものの不在を指示している。クレーの天使は表象の線化である


向日葵運動や雨傘運動のリーダー達が成熟していくような成熟は河野にない。岸田の出身大学は民主主義を教えない官僚養成機関。ファショ的橋下や高市に委ねると記憶を形成できない


川端康成の「国境の長いトンネルを抜けると雪国(日本)だった」の言説的でない言説(文学)について、トンネルを抜けると出口がない、だから考えよと教えてくれたのはイェイツの詩


このポスター’モーツァルト魔笛』’は、モーツァルトシャガール化である


映画の課題とはプラトンの洞窟にセザンヌの光を導きいれることだった。映画の可能性が尽きたときに、ベーコンにおけるピカソをめぐる解釈の言説化の投射がはじまった


源氏物語』の背景として、書き手の女性達の間で書くものを支えるのが書かれるものだった。男性に依存する苦しさの中で、歴史と神話のオイディプス的理を否定した物語に美が現れる


宣長の批評でポストモダン的だとわかる『源氏物語』。近代文学の主体の成熟のない駄目なポストモダンが読んでもなあといわれる。だがポストモダンが成り立ってしまう。仕方ないのだ




朱子の祖霊的鬼神論へと方向づける宗教改革朱子鬼神論は官僚的知識人をもつ。制作論的有鬼論の徂徠は聖人に、民情論的有鬼論の篤胤は民衆に、同一化している。「宣長の有鬼論と篤胤の有鬼論との間には鬼神をどう見るかの違いよりはその人の思想という位相における違いがある」(子安先生)。徂徠の最高の弟子であった宣長の「安心なき安心論」と篤胤の「救済論的鬼神論」との位相の違いをかんがえることができる。

徂徠の最高の弟子であった宣長の「安心なき安心論」と篤胤の「救済論的鬼神論」との位相の違いを考えることができる。とくに、困惑させてくる「安心なき安心論」において、存在それ自体を問うような、精神世界における新しい思想表現にかかわる、宣長宣長とする思想がある。


五年前に小林秀雄本居宣長』に書かれた宣長の墓を訪ねた。松坂へ行った思想史遠足。宣長は「神道に救いなし」と考えた。傍らで、平田篤胤は「魂の行方の安心(あんじん)」を言う


朱子の無鬼論とも理解される宗教改革と、制作論的有鬼論の聖人と民情的有鬼論の信との間に、子安先生との思想史遠足が成り立っていたのであった。これから新しく何を考える?


宣長の有鬼論と篤胤の有鬼論との間には鬼神をどう見るかの違いよりはその人の思想という位相における違いがある」(子安先生)。


没落はここで止まるだろうと誰も言えない。没落しても、ヨーロッパの国なら文化がある。イタリアをみよ。しかしこの国は?嗚呼、没落するとしか言えない。没落は小泉から始まった


古代からの近代の読み出し(X)は、遠く外にあるような表象でしかない。妨害者(Y)があるから表象はよそよそしいままだ。そこでXのYへの執拗な非難が言説の歴史に起きるのか


全人類が反日になった日を想像してみました。ネトウヨによる反日認定は思考の対象がない世界。「私」も成り立たない世界。何か、カタカナだけの世界に生きているような..カタカナだけでも科学はどんどん進むでしょう。しかしカタカナだけの世界では精神世界の思想表現がないのではないかと思います。英語で詩をほんとうに書けるかという問題があります。もし「私」であるという一本の直線さえあれば、思考の対象にすれば、全部との関係がかわると思いますが、難しいようでしたら、ネトウヨが寄るカタカナのほかに依拠できる言語が必要でしょう。(すでに、カタカナだけでは考えてはいません)


‪裏なくして精神世界の思考を表現できるか?


コインは表と裏がある。コインを考えるときは表だけ見ればいいのではなくて、常にその裏も考える必要がある。裏を考えてこそ、思考の投射がある。アジアの言語も表と裏がある。表は声、裏は書記言語。だけれど表(声)しかなくなっていて裏(エクリチュール)がないようなあり方を思考の論理的前提として考えることができるか。‪表だけで精神世界の思考を表現できるか?音声中心主義のラディカル•モダニズムの言説は自らの裏側をもっていない。裏は只表の対抗的否定であって、精神世界への思考の投射が考えられていない


鑑賞者をその視線の場においた瞬間に、画家の眼は鑑賞者をとらえてむりに絵のなかに連れこみ、特権的であると同時に強制的な場所を指示したうえで、輝く可視的な形相を彼から先どりし、それを裏がえしにされた画布の近づきえぬ表面に投射するのである(LES MOTS ET LES CHOSES  Foucault 渡辺訳)‬


フーコが「裏」と呼ぶものに見えているものは「表」から見えている。裏側に隠れているものは無い。たとえば「古事記』の「裏」に見えるものは全部「表」から見えている。漢字である


木村草太よ、手詰まりを打開したいことは分かるが、民主主義を教えない官僚養成機関の東大法学部出身裁判官の為に筋のいい思考法ばかりでばく、筋の悪い市民の憲法も少し考えてくれ


大国主天照大御神に国譲りを要請され、対話と武力を交えた交渉の末に幽事の主宰者となった。『古事記』の知的な語りは勝者を正統化する歴史ロゴスとは違う。稗田阿礼は男性なのか


平田篤胤は幽事をかかりごとと読む。大国主に目に見えない世界を支配させる。鬼神は目に見えない。民衆が鬼神というものを信じるから、これを根拠に共同体が形成されるという


朱子宗教改革の影響がなければ、徂徠の有鬼論的方向はなく、宣長国学的有鬼論と篤胤の民情論的有鬼論もなかった。国学と幽顕論からそれぞれ、国家神道統治権論を切り離せない


謂わば無鬼論と理解された朱子宗教改革の影響がなければ、「弁名論」の徂徠、国学宣長と政治神学の篤胤から影響を受けた後期水戸学は現れてこなかった点を考えると、朱子の影響の大きさは、有鬼論を展開した「神の国」日本を発明したのは他者•中国であると言わざるを得ないほど大きい


みんな投票権もなかったのに随分熱心だったみたいだけど、自民党の総裁選の結果に、あなたはしあわせなの?


自民党総裁は未来の首相らしい。わたしは投票所に行くのは自分がいかに無力であるかを知るために投票するのであるが、今回は投票すらできなかったよ


先づ自然の言語は鄕土の方言ありて、五方各同じからず、又時世に隨ひても移りかはるもの也。然るに字音は、他國の音をうつせる者にして、もと此方の自然の者に非るが故に、方音の差たがひあることなく天下同一に天はテン地はチにして、異音なし。(本居宣長 漢字三音考)


戦前の思想をそのままの形で語る極右翼の安倍が、未来の首相、右翼保守党の総裁を助けた。小泉以降底無しに没落する日本を支えるものが何か誰もみえない。熱狂したあなた、見える?


反日」と叫ぶ政治は益々暗くなってきた。政治のアンチ•ロゴスのお陰で、洞窟のなかにあったアートはロゴスをもつようになる。つまりアートはラディカルに見えなくなってくる


「現代の政治の世界では、なぜ理性的な思考よりも、神話的で非科学的な考え方が支持されるのか?」


古代は神話に依拠したが精神が暗くなってきた。精神は哲学と呼ばれるものにロゴスの光をみる。ラディカルに暗い暗闇が輝く17世紀に、言語的存在としての人間が存在の意味を考える


神道の救いなし」の本居宣長と「魂の行方の安心(あんじん)」の平田篤胤の間には言語論的な位相の違いがある。前者は規範的言語、後者は言遂行的な言葉である(孔子的である?)


戦前の思想からきた安倍が新首相をコントロールするようでは、小泉以降底無しに没落する日本を支えるものがみえないが、漢字文化、憲法の国家祭祀禁止、反原発(反核)体制だとおもう


イギリスの政治家は醜く描かれる自分の姿(新聞風刺画)を毎日恐れているそうです。これは新聞が読者に距離をとってもらうためにやってきたことです。日本新聞はもうお見合い写真みたいな政治家の写真(他にいい人がいないと思わせる)をやめて、彼らのおぞましい醜い顔の絵を示すべき、議会民主主義の為に


表意性を持つ漢字では読む力が大切。しかし『論語』現代訳は新しいほど漢字を使わない。それを集団で大きな声で読み上げるのは、音声中心主義の近代の方向だー声のナショナリズム


漢字文化圏ではどちらが偉いかはどちらが本をより読めるのかできまる。わたしが本居宣長よりも『古事記』をよく読めたらわたしのほうが偉いのである。実際は宣長が偉いのはわたしより『古事記』を読めるからである。さて古代は輸入した漢籍を読めた天皇が彼の権威をつくったとしたら、近代の男尊女卑とは違って、『源氏物語』を書き、また『古事記』の成立を担った可能性のある宮廷女性は力をもっていたのではないだろうか。稗田阿礼は女性であったという説がずっと言われてきた


イタリアに行けたら建築と人間の関係を考えたい。平等における水平性が言われるが、平等に垂直性はないのか?石田梅岩が垂直的平等を考えるために「天下」の概念をかんがえたように


「道なるものは天下の公共,人心の同じく然るところ」仁斎


五年前子安先生のもとで読んだ津田左右吉『文学に現われたる我が国民思想の研究』は『古事記』を指示するとき、『古事記』に現はれたる我が国民思想とは何かを問う。さてフーコ的にとらえると、「民族」において表象と欲望は、<民族>主人公を欲望の対象として表象する他者の現前に結びつけられる。しかしこれにたいして、本居宣長中国文明からの自立を考えてやったように、文学に「国民思想」を投射することによって、ここから、津田は皇国史観を批判することができた。しかし最近子安先生が問題にしている「近代主義的誤謬」について私なりに理解すると、「国民思想」の表象という、遠く外にある立脚点は根がなくあまりに表層的だから、民族日本の深層を呼び出してしまうという、理念の実体化の危険に関する理論的な問題がある。これをどう考えるか


昔、目の前で、<新聞>の腕章をした男が警察車の屋根から脱原発の集会の様子を撮影したのを目撃した。われわれは集まってきた傍観者のように映っているのだろう。そして新聞の読み手はその写真を見て自分たちとおなじような傍観者の姿を見るかもしれない。われわれは自分自身の映像をもつ前にわれわれは奪われたのである。義憤のなかでわれわれは国会の中にいる首相がわれわれのまえに出てきて説明することをもとめているというのに。そして、首相はわれわれのまえに出てこないこと、怒る市民の姿が隠蔽されることはいまもおなじである


何だ、あのブレクジット論は?権利のない社会に対する抗議がポストモダンと結びついたことも理解できないような、オカルト教会的口調の予定調和論がハンナアーレントを解説してるの


書くことは、ネットの写真の整理のように、並べることである。世界とは、吠えているもの、漢字とギリシャ文字、硬張らしたまま弛めるもの、動くもの、顔の輪郭、物で書かれたもの


書くことはネットの写真の整理のように並べること。世界とは、さえずるもの、何を言っても通じないもの、筏で亡命する「徳」字、弛んだまま硬張らしたもの、お尻の輪郭、投射


書くことはネットの写真の整理のように並べること。世界とは、つぶやくもの、終わらないもの、逃れるS字、nymphē、氷河の下にある惻隠の心、正しいはじまりをもたないもの





歴史を学ぶとは、何の前に何が来たか考えることではないだろうか。これを十分に考える時間があったはずである。日中戦争と太平洋戦争の前に王政復古クーデターが来た。必然として、正しい始まりをもたない近代日本は正しいものがない。安倍政権が来た。われわれは反復の悪夢に囚われている


歴史を学ぶとは、何の前に何が来たか考えることではないだろうか。これを十分に考える時間があったはずである。日中戦争と太平洋戦争の前に王政復古クーデターが来た。必然として、正しい始まりをもたない近代日本は正しいものがない。歴史修正主義の安倍政権が来た。われわれは反復の悪夢に囚われている


安倍内閣のときは国会の臨時召集があることはあった、憲法が無視されたわけではなく、ただ遅れたのは偶然で、陰謀ではないといわれるかもしれない。しかしそうだろうか。吉本隆明によると、すべてが党派的なことなのである。党派が無いと考えることも党派的なのである。問題は、なぜ安倍は国会を軽視するかである。わたしはこれは原理主義的な宗教における問題とかかわると考えている。近代の平田神道の曲解された理解とその影響下に、靖國は、古代天皇から三種の神器を預かる伊勢神宮と共に、宗教の自由や言論の自由を保障した憲法と国会より上にある統治権をもっているとする思想を隠しもっているのかもしれない。だれかそれを隠しているということではなく、理念的なものである。しかし理念的なものでも、こう言わなければわからないから書くのである。いまは、間違えても自由に喋らせてくれと苛立っているのは、街頭の抗議する女性たちだけではない。国会も議論できないと苛立ちを示しているではないか。国民主権の危機である。伊勢サミットから、安倍と日本会議は、解釈改憲軍国主義復活と公式参拝国家神道の復活を前提に、憲法的皇室に依存しない天皇ナショナリズムー日本人の「反日」でないアイデンティティ形成ーを押しすすめて来ているのではないか。世論は、「東京五輪を反対しているのは反日である」という安倍の発言で五輪開催を支持する方向に変わったのである。恰も救済されたかのように支持し始めた?何であれ、戦前の思想からきた歴史修正主義者•安倍が新首相をコントロールするようでは、小泉以降底無しに没落する日本を支えるものがみえない。歴史を学ぶわれわれにとって現代を支えるものは、精神世界の思想的表現を可能にしてくれた、アジアの隣どうしを成り立たせた漢字文化、憲法の国家祭祀禁止、反原発(反核)体制だとわたしは思う




日本にしかない、内閣支持率という、そこそこの自由があるという曖昧なイメージ

ダメな政治家になっちゃったらいけないとばかり自分の問題としてストイックに自己否定している反省になっちゃうのが日本のあり方かもしれません。そこそこ自由がある国という常に曖昧なイメージはあることはあるが、自民党を否定する明確なイメージをもっていないような..。しかしそこそこの自由といっても、これについて苛立っているのは街頭で抗議する女性だけではありません。国会も議論する自由がなくなっているのがこの国の現実です。これに関して香港の学生のことを少し考えてみたのですが、あちらからはそれほど思想が伝わってきませんが、自分たちの力でここまできたのに、何も頼らなかった彼らのもとで自由を制限されたらたまったものではないという明確なイメージをもっていますね。これが成熟して思想になっていくのかもしれません。


日本にしかないという意味でファショ的なもの、「資本論』を読むことのこだわりを示すことと、内閣支持率という、そこそこの自由があるという曖昧なイメージ


徂徠とって大きな歴史は思想の歴史。自ら投射する思想の歴史は比類なき大きさをもつから。篤胤が宣長にみた矛盾した救い無き世界には無理だが、精神(鬼神)が思想史を支えれるか?


『映画史』のゴダールは、鬼神ラングロワの光(初めに言葉ありき)と共に、貧しいものに映画の名を与えた。初めて映画史の思考が可能となった。そしてフランスが成立したと言う



都市の大衆の一部はファシズムが吸収し、その他はスターリニズムが階級としてこれを組織化した。ソビエト映画はハリウッドと競い合う。ナチスはハリウッドに勝てなければ体制が危ういと考えた。現代国家は成立したのは20世紀すなわち映画の世紀においてであった。ゴダール『映画史』は20世紀の終わりに<制作論的映画論>を展開できた


そもそも科学者に国境なんてあるのかしら?開かれた国と閉じた国というような、米国とは全く逆さまの日本のイメージの全体を語りたがるのは、オリエンタリズムのヴァリエーション


イデオローグが歴史の歴史があると語るときは、時間の歴史を語る科学者の話のようには受け入れられない。別の歴史が存在したはO.K だが現在における別の民主主義を主張できるか


街に出ると、感心するのだけれど、女性は弁がたつひとが本当にいっぱいる。日本の女性は生かされていない。何だ、あの内閣は?


「日本に戻ってきた」と地理的な意味で言うが、「日本に帰った」と言いたくない。またそう言うことは間違っている。


震度5は普通に大きい地震ですが、何故それを怖いと感じたのか、東日本大震災の前の安全神話東京五輪を復興神話としようとしていた安倍政権のこと、昨夜はかんがえました..


「希望」の字を見ると、会話に出てくる’hopeless’の語を思う。アイルランド帝国主義を推進して破綻した経験と罪悪感がないので国に希望をもつ若者が多い(失望もする)


『野火』をホラーのジャンルとおもっているお兄さんと会話が噛み合わない。おなじ精神世界の産物だが、『野火』は思想的表現をもつ。『ソドムの市』も精神世界の思想的表現である


熱狂のないナショナリズムとはなにか。安倍の自民党を疑うが、「反日」の烙印をする極右翼が怖いと思って、間違っていても自由に喋らないことが恰も権利だと考えるナショナリズム


神が死なないとか死ぬとはどういうこと?ギリシャ神話は神は不死である。北欧神話では神は不死ではないので黄金の林檎を食べなければいけない。『古事記』の大国主神は「隠れる」


<律法>は人間の記憶ではなく、<石の板>にゆだねられた。真実の<言葉(パロール)>は、書物のなかにこそ求めなければならない。‬ 20世紀においては、宇宙を支えるものは投射されるスクリーンに委ねられた。これは観客を投射しはじめたテレビから成り立たなくなったと、ゴダールは考えた


同調圧力も現在は、多様でなければいけないという同調圧力になってきたが、軍事的規律の監獄の中にいると感じることはまったく変わらない


「シュレデインガーの猫」の物理学者シュレデインガーはアイルランドに亡命を求めた。ユダヤ人だったシュレデインガーの亡命をアイルランドが受け入れたのは非常に例外的なことだったと言わざるを得ない。リミックのユダヤ人コミュニティを絶滅させてしまったナショナリストだったとはいえ、エイモン・デ・ヴァレラ大統領が数学者だったからかもしれない。彼の仕事の重要性を理解できた。しかしほんとうのところ理由ははっきりわからない。知る人ぞ知る、ダブリンにハミルトンがいた。古典的世界は現代を支えることができるかという問いにたいして、知識人と文化人は、そのハミルトンの物理学を考えながら、YESと答えることがある。しかし言語や文学にかかわる問題となると簡単ではない。古典的世界が現代を支えることができるだろうか?アイルランド語(ゲール語)は事実上消滅してしまった、絶えず彼らにとって問題となっているのは、精神世界の思考的表現についてである。現代の英語が精神世界の思考的表現を生み出すことができるかわからないでいる。明らかにジョイスはこの問題を考えていたが、わたしは読めない。そもそもジョイスは方法的に読めないことをエッセンスとする文学を書いた。だから私のようなアマチュアはこの問題を考えるためには日本に戻って、日本近代を誕生させた国学の古学を考えてみたら何か手がかりがあるとおもった。漢字文化はいつか英語文化に取って代わられるだろうが、まだ消滅してはいないから、アイルランドの場合と比べると考えやすいかもしれないと思われた。しかし甘かった。当然、日本は日本の問題がある。古典的世界が現代を支えることができるか、この問題を考えるためには、現代のために、現代から読みだされる古典的世界を前提にはできないのである。これは答えられない問題ではないか?そうしてこれについてまとまったことも書くことができずに、あっという間に十年以上が過ぎてしまった。しかし、古典的世界が現代を支えることができるか、この問題を考えることをやめることはできない。多分来年の講座『第二江戸思想史講義』の最終回で、枢軸時代のヤスパースがいうプラトン仏陀やエレミアを孔子ー17世紀古学が見出した孔子像ーに置き換えて考えてみようというのである。孔子もまた、彼に先行する、経書的古典世界が彼の生きた現代(春秋時代末期)を支えることが可能かと考えたにちがいない。孔子経書を編集したが、どれくらい読めるものが存在したかわからない。失ったから何かを得ると考えるのは近代であるが、失ったから失うことができるのではないか。失われたものが支えることが不可能だが、依るという理念がなければやっていけなくなってしまうのではないだろうか。これは信の構造というか..


自民党は選挙にしか関心がなく、野党は共産党を除いて政権交代の準備をしていない感じで、このまま政策交代が起きないのか?社会民主主義の政党を潰した国民が自ら罰を受けている


中国知識人と朝鮮知識人と彼らのもとで学んだ日本知識人は『日本書記』を書いて歴史を作った。『古事記』は本当は歴史がないと知っていた読み手に語られる世界がここにあると示した


「テレビを消しても囁き声が続く。風か?それとも」先祖か?」とゴダールは『映画史』のなかで語った。しかし柳田國男のように「先祖さま」と言わなかったのは何故か?「先祖」「先祖さま」の差異は意味がある


現在、ナショナルギャラリーに保管されている 、嘗てIRAによって誘拐されたフェルメールの作品「手紙(ラブレター)を書く女」。アイルランドに住んでいた、南アフリカ出身の所有者の富豪は身代金を要求された(誘拐は一度だけではなかった)。現在はこの絵は修復されているが、戻ってきたときは、召使いの女性と手紙を書く女主人との間を引き裂くような大きな傷が残っていた。蹴飛ばしたか、銃で絵を殴ったのか?当時の写真を見たが、傷を見て、同化主義の近代に怒っている武闘派反植民地主義民族主義マルクス主義のことを考えた。わたしにとって、9・11よりも、絵になされたテロ行為を知ったときのほうがショックだった。破壊されたこの絵の写真を通じて、9・11を理解していたほどである。現在は、ヨーロッパ近代にたいして問題提起しているイスラムから、この絵をかんがえることが必要なのかとおもう。しかし、絵が好きなので、政治のコンテクストから離れて、どうしても絵のなかに表象されているものを熱心に読んでしまう。17世紀のオランダ。窓の外を見ている女中は、女主人の手紙を届けるが、誰かに見られていないかと心配である。女主人は多分、アジアの海にいる船乗りに手紙を書いている。絵のなかの絵は、ナイル川に流され、ファラオの娘に拾われて大切に育てられたモーセを描いている。絵のなかの絵は婦人の妊娠を知らせる手紙を暗示している。これはスキャンダルである。女中の不安はこれだったのである。「手紙を書く女」というのは、17世紀オランダの中流に好まれた、フェルメールの前から既に確立していたテーマだった。ダブリンで何百の絵をみることができた。ラブレターとは何だろうか?カフカは遠隔の婚約者に沢山手紙を送った。愛を書いているが、奇妙なことに、婚約者が彼に近づくのを避けていた。敢えて遠ざけていた。遠くにいるものに静かに情熱を保つこと、あえて遠く外にある表象に欲望をゆっくりと持続させること、なにか、これは、近代に成立してくる、書くことのエッセンスかもしれない。


日本におけるアジアの明確なヴィジオンの形成もないままに解釈改憲軍国主義がどんどんすすむ


純粋な憲法とは、正しさをめぐってロゴスが先行する論理的順番を重視する、憲法のロゴス化である。民主主義も全体主義ならば純粋な憲法ではない。況や政府の解釈改憲憲法ではない


ニュートン万有引力の法則の「法」がいかなる意味で「法」ーカントは自然を問題としたがデカルトは人間を問題とした、だから前者は批判哲学であるが後者は存在(コギトエルゴスム)を問うーであるか教えてやった。西洋遠近法の「法」がいかなる意味で「法」ー映画は原罪としての罪の償いーであるか教えなければいけなくないとおもっている


岸田よ、「ブラックボックス」(無知のヴェール)に行け!新しく生まれたら君も新アベノミクスの世にアルバイトで生きる確率が高い。成長を待つな。政治が介入すべき不平等はそこだ


ロンドンに引っ越したときは、8年間のダブリンで見たことがなかった、インド系とアラブ系とアフリカ系の移民を見た。顔が本当に面白い。しかしわたしは簡単なスケッチでも顔を描くのをやめた。顔を描くと特定の民族を中心にしているような危険な感覚をもったからである。これはマルチカルチュラリズムの感覚というか、「同調圧力」のようなものだったかもしれない。当時は周りにユダヤ系の友人が多かったというともあったかもしれないが、抽象を表現するようになっていた。これはこれでわたしにとってはチャレンジであった。ロンドンを中心としたマルチカルチュラリズムは多元主義の思想である。イギリス全体を考えると、それを支持する人は少ないようにみえた。労働党がマルチカルチュラリズムを推進したのは、アラブ人たちが、嘗てのユダヤ系移民のように、労働党に投票する未来を考えていたからと言われる。しかし思い返してみると、イギリスは、わたし自身の反省として、他者の思想をめぐる思想闘争が十分にあったかどうか、現在このことを考える。イラク戦争を契機に、保守党政権とともに、<われわれ自身>がファーストだというような Brexitを実現してしまうほどの反マルチカルチュラリズムの言説が英国をとらえているようだ。大英帝国の時代とちがってもうイギリスは一国ではやっていけないので、再びヨーロッパに戻ってくるのは時間の問題とみられているが、北アイルランドにおける平和合意がどうなってしまうのか大変心配である


幸徳と大杉の非暴力市民としてのあり方の理解がないと、国に逆らうと怖いぞと国家が先手を打って市民を殺戮した恐怖を見逃すと思う。「お上にすがる市民」の宮台のお喋りのように

レーガン後に左のゲームの規則が変わったのはクリントンからか?アフリカ系の人気はあったけれど、市場と両立する社会民主主義、要するに米国のネオリべ化、中近東のタカハ的介入


政財官マが推進した安全神話と復興神話の後は、新しい資本主義の神話か?民信無くば立たず。「お上にすがる」ことは倫理的に不可能。だけど何を言っても通じないような乱世である


表象の思考とは、並べることにおける<と>のラディカルな外部化である。ものの秩序の裏側にはもうひとつの秩序がある。そこで言語的存在の人間は存在の意味を考えることができる。博物学は目に見えるものにとらわれたので、表象の思考がどうしても可視的なものに規定されていた。映画史も、映像が大きな力をもった映画たちを対象としていたから、博物学とおなじような問題をもつことになった。存在の意味を探求する思考の歴史としての映画史がはじまるのは映画が消滅してからである(本当に消滅したかどうかではなく、理念的に消滅したとかんがえてみるのである)。わたしはこれを<絶対無限の貨幣>と呼ぼうとおもう


首相の答弁能力への疑問に対して、寧ろ記者の質問力に呆れるDappiの投稿は情報を持つ者と持たない者との交換できぬ差異を無視した、どっちもどっちという日本的情緒の垂れ流し


戦前ドイツ社会民主主義は、天皇を廃止せず金融資本をコントロールすればよいと理解された。その考え方は天皇ファシズムに陥った戦前は破綻したが、象徴天皇制の戦後では成り立った


ハンナ・アーレントは亡命したとき、ドイツに生まれたからドイツ語を話すが、ドイツ人だとおもったことがないと言った。憲法愛国心を感じてはいけない。問題は憲法でなく愛国心


常に見なければいけない二人の他者とは、ヨーロッパという見上げる他者とアジアという見下げる他者。ヨーロッパには政教分離を示すが、アジアで祭政一致(国家祭祀)を行っていた


「希望」をもつナショナリズム。国会の臨時招集を拒否する自民党を考えると、議会制民主主義の国民主権がヤバイ!

自民党には任せられないが政権やってもらうのが無難」


現在の選挙制度死票があまりに多すぎます。安倍の説明しない政治を投票率の低さから説明する考えがありますが、しかし安倍の説明しない政治は、日本会議イデオロギーー自分たちは国民主権と国会よりも上にある国家神道的な祀られる神天皇に位置しているーによるものではないでしょうか。また長州のクーデターで成り立った王政復古、この正しい始まりをもたない近代日本の原点に帰ろうとしていることをはっきり言明しています。クーデターを正しい始まりと考える人間は説明なんかしないでしょう。問題は、安倍の説明しない異常な政治は、極右翼でない、菅の説明しない政治、岸田の説明しない当たり前の政治になっているようにみえます


エレミアをたたえよう


たしかに投票しない若者が多いが、本当に問題はそこだけだろうか?ランボーが嘆いたように、昔は男も女も預言者の言うことを聞いたが、今は政治家の言葉しかきかない。厄介なことに、何でもかんでもカネがものをいう、ネオリベの時代は、政治家の言葉を借りて預言のように語る、10%の人間のためにある。彼らはすべてを知っている、代表している、という根源的錯認にある。イザヤとエレミア、プラトン仏陀孔子がでてきた2500年前が画期的だったのは、人間は自己の力およぶものに拠ることの意義が言われるようになったからではないだろうか。言語的存在である人間にとって、自己の力およぶものは、言葉のほかになにがあるのか?国家祭祀も祭祀者の倫理的姿勢が説かれるようになった。<祀る神が祀られる神>に倫理的なものは存在しない。現在のコンテクストで考えると、国家が自ら祀るような、そのために戦争する国家の体制から離れていったのではなかったか。戦争はあった。しかし戦争を対象にもたない理念的戦争が成立したかもしれない


リアリズム文学が描いた中流の没落する運命はどうでもいい。神話は不毛なナショナリズムの怖さがある。最後の文学は神話的リアリズム。絶対平等からみえる彼方の絶対無限を書いた


ショパンの時代はフランス革命とともに民族主義が平等を実現する為にあった。現在はグローバリズムに抵抗して民族主義の形を利用する地域はあるが、その積極的な実体は存在しない


BBCフリーマーケット論にパニクる英国民を落ち着かせて彼らを啓蒙する役割に自覚的だ。自民党でなければ「同盟」はないと訴えるアベ演説にパニクる国民を啓蒙できるのは誰か?


世界とは、アジアにおける自民党的政治の敗北から始まる。『古事記』を国語•日本語と<一国>民主主義から逃すこと、これが安倍と日本会議との思想闘争に打ち勝つことではないか


多言語文学は翻訳が先行する。世界中の言葉の翻訳を通じて意味されるものが事後的に明らかになるならばどの言語も借り物。迷宮に言語と思考を与えてくれた大いなる他者の存在は無い


FWの翻訳が先行する普遍言語としてのプロジェクトは破綻しているが、世界中の河の名を書いた世界神話として成り立つ。各々の河が神話に対応するならば、世界神話は海である


皇室は存続したかったら象徴天皇制国民主権を損なわぬ意義を理解できる「賢い」人を外からいれて成熟するしかない。国民も<天皇大好き>反共和主義的非成熟からいつ卒業できるの


子安先生が語る宣長と篤胤との関係は、文藝復興運動のイェイツとジョイスについても言えるか。神話の根底に民族を指示したが、それを超えるものである、世界神話は民族的ではない


天皇家から離れてよかったねと言うひとはこのわたしひとりだけなのか


幸徳や大杉を国家から自立した市民の先駆として考える強力な共和主義の理論をつくることが重要だとわたしは思うので、天皇界隈の上流階級の人権を一生懸命心配する時間がないのです


もう遅いのかも、しかし第三次世界大戦を避けるために、憲法の平和主義を利用して何ができるのか考える為には二つのシナリオが必要である。民主台湾のシナリオと帝国中国のシナリオ


民主台湾のシナリオと帝国中国のシナリオを考えるためには、子安宣邦氏『帝国か民主か』(2015)と柄谷行人氏「帝国の構造』(2014)をわたしは読む


国会を開こうとしない自民党政の責任が問われていたのに…この国は元々政府が国会をつくった国なんだ。そして社会民主主義の政党を潰してしまった国民が罰せられているのか


日本では権力集中を問題にするものがどうしてマイノリティを排除するファッショ的人物と政党なんだろうか?結局権力集中の問題を権力の解体ではなく集中によって解決しようとする


再び五輪問題。北京に民主化を求める日本は自らもっと民主化していかなくては。野党はアジアの民主主義を考える議論が始まる。反中•嫌韓の安倍政治の愛国心に絡み取られては不可能


救済論の政治とは何か?「われわれ自身」の恐ろしい危機を訴えるトートロジーに絡みとられる「現実感」が結局、未来ー戦争と開発と同化主義ーに対する抵抗を「敵」だと非難し始める


自民党的の新自由主義はカネに最大限の自由を与えるだけの<なんでもかんでもカネがものをいう>。自民党新保守主義はみんな<なんでもかんでもハイという女でなければいけない>


立憲民主党は成熟しなければいけないよ。青春の汚れなき再出発物語ではなくて、大企業労組から自立した、共産党との成熟した関係を。自民党の派閥的畜生集団乱交よりは節操がある


立憲主義の近代


美濃部達吉ら「立憲学派」は、国家法人説天皇機関説に基づき、憲法による天皇大権の制限を主張した。何故失敗してしまったのだろうか。現在の立憲主義は、国民にとって遠く外にある理念なので(「議論するひとは空気が読めない。政治的安定を掻き乱す」)、それは強力なナショナリズムを訴える声を呼びよせてしまったのではあるまいか。立憲民主党が「不人気」なのはこういうことではないか


安倍の解釈改憲軍国主義と国家祭祀(公式参拝)が復活した。格差が拡大し戦争体制が進行した戦前文学の証言、昭和十年以降の軍国主義全体主義が同じ方向に一致した歴史を考える


挫折はある。だが市民というのは勝つことがないのだから選挙ぐらいのことで敗北はない。敗北したのは野党ではなく、ジミン党ではないか?アベ党になってしまった。国民はそれで幸せなの?


選挙の話ばかりしていると、選挙が総裁選になっちゃうよ。選挙で負けても安倍政治を敗北させる大きな課題がある。


アイルランドの永遠に続くかに思えたエスタブリッシュメントの政治に政権交代が起きたし、イギリスではサッチャー主義の無敵のブレア政権が倒れた。どちらの場合も世論がデモを支持した。文化と芸術を巻き込んでの長い思想闘争と論争があることも大切だろう。日本はデモはあるが原発事故が起きても十万人を超えないし(稀に越えても報じられないし)、野党はあることはあるが、国が何を支えにするのか全く分からなくなっていても自民党を倒す政権交代が起きない。充実した学者的議論はあるが、思想闘争らしきものはない。対抗言説ばかりにみえる。結局は歴史修正主義の安倍だけがベラベラ喋っている。そもそも戦後の思想が何故こんなに貧しいのかについて現在あえて問うことは、思想闘争の出発として考えることができる。多分戦前の思想闘争をゼロにしている問題があるのではないかとおもう。思想史がこれを明らかにできる筈である。しかし市民の思想史の関心はどうなんだろうか?思想史を研究する市民大学はもう存在しない


前川喜平は「政治家には言えないから僕が言うが、日本の有権者はかなり愚かだ。」と言うのは我々への侮辱。「日本の有権者は愚かな政治家よりもっと愚かだ。」と客観的に言っておけ


日本の有権者は、国会を中々開かない危険な現状維持を望んで、国民主権を捨てるかのような愚かものになった日付は特定できる。2016年5月26日


政治の意味を再構成するために、政治の危機を新しく定義しなければいけない。政治の危機とは何か?記号の危機は記号の意味がその記号の外から来るあり方にある。そうして考えると、例えば自民党の危機は、常に共産党の意味が共産党の外から来ていることが自民党支持者の側から問題とされるように、自民党の意味が自民党の外から来るあり方にあるといえないか。その結果、自民党とは何か?と、問うことができないでいる。国会を中々開かない自民党政権にたいしては、問題提起ができない、入り口もなく、端もなければ隣接するものもない。これが、ほかならない、政治の危機である


国会を中々開かないでいる政権にたいして野党が審議を妨害されていると苛立っているのは主権者である自分の問題として関係があること、このことがわからなければいけないと思います


神話を支えるものが民族であるという言説にたいしては、神話を理念によって脱神話化する近代主義の読みは民族的実体を呼び出す危険がある。神話を民族から脱出させること。神話は民族を成立させた訓によっては訓(よ)むことが不可能なのである


挿話テレマコスではじまる、ジョイスユリシーズ』は、大英帝国の植民都市ダブリンを鏡(ひびわれた)で映し出した本である。オスカー•ワイルドのアナキズムを継承したジョイスは、帝国と自立的に対等になるために、言語支配者の英語で書くか書かないかは問題ではなく、帝国がなくてもやっていけるアイルランド人を主人公とした1日を描写することが大切だと考えていた。『ユリシーズ』はリアルにブルームの日常生活を描写している、と同時に、神話がブルームをとりまく人々の無意識を構成している。ギリシャ神話的なものが日常に介入するとき、武闘派的領地奪回の無意識を垣間見る。ハンガリー系かリトアニアユダヤ移民の子孫であるブルームは、パブのなかで、コスモスポリタン的市民の立場の「アイルランド人」を主張して、キュクロプスとして描かれた民族独立運動ナショナリストとのあいだで衝突が起きてしまう。ジョイスの観察では、土地を奪うか取り戻すかをめぐって土地に執着する点において、武闘派反帝国主義者と帝国主義者は同一である。「アイルランド人」も理念的なものなので、人々にとって遠く外にあるものだから、強力な民族主義アイルランドの実体を呼びだしてしまった歴史を示しているのかもしれない。この場面では、ブルームは岩(ビスケット)を投げつけられて、エレミヤとして天に昇天してしまうが、ここら辺は、漫画的というか滑稽に描いているので、単純な人格の膨張みたいなところがある。しかしそれほど単純ではないだろう。ブルームは明らかに武闘派ではないが、土地の奪回についてどう考えていたか。またブルームをビスケット岩で「処刑」してしまった武闘派反帝国主義者も、ベルギーにおけるコンゴ住民にたいする鞭打ちの記事(caseman report)を読んで同情していたことは嘘ではないだろう。


ὀσσόμενος πατέρ' ἐσθλὸν ἐνὶ φρεσίν, εἴ ποθεν ἐλθὼν 

μνηστήρων τῶν μὲν σκέδασιν κατὰ δώματα θείη,

τιμὴν δ' αὐτὸς ἔχοι καὶ κτήμασιν οἷσιν ἀνάσσοι.


come from somewhere and make a scattering of the wooers in the palace, and himself win honor and rule over his own house.


松平訳「胸の内には勇武の父の姿を描きつつ、どこぞから父が立ち帰り、屋敷内の求婚者どもを蹴散らして領主の地位を取り戻し、再び自領を治める日を夢みていた」

ホメロスオデュッセイア』講読

第1巻115-117行

西洋古典業書official page より


フランスのテレビ番組の論争。移民について話している。共同体の宗教的起源に拘る排他的な意見を聞くのは痛い。宗教の違いは死後の世界をどう語るかの違いだけと思っているだけに


ダブリン最初の日、監獄にいる元神父の許しを求める手紙と、少年時代に教会の中で性的虐待をうけて怒る青年が返事した手紙を新聞の一面で読んだ。詩を交換している。詩が力をもつ国


五十歳まで聖書を自分で読んで、カトリックに真理があると理解したアイルランド宗教画家が映画友達だった。友人達は彼は絵を売る為にプロテスタントから改宗したんだと噂していた


もしケインズとダーヴィンが生きていたら、何でもかんでも市場が解決してくれるから国は介入するなとするネオリベと何でもかんでも神が創造したとする原理主義に抗議するでしょう


Darwin and Keynes’s revolutionary ideas have met with extraordinary resistance, as the persistence of creationism in some circles shows; and by the restoration of the classical school of microeconomics at Keynes’s alma mater, Cambridge University.’


日本の野党は英国の労働党ぐらい頑張っているとおもうのだけれど、与党である保守党の官僚支配にもっているような危機感が自民党に無いことが問題である。また野党は憲法を守るつもりのない自民党憲法を守れと言っても戦いにならないのだから、政府にたいして、アメリカと中国のほかに、アジアを主語にした外交のあり方ー憲法を生かしたーをもっと問うことができるのではないか


明治のロマン主義文学は理念がある。大正ロマン主義は理念も思想もない。日本的なもの、三角関係か四角関係の構造かしらんけれど、称えているのは昭和の人間である。天皇と民主主義の両方を誇りにおもう、理念も思想もない変な自分を称えているのではないか


易経』(岩波文庫)


19世紀の復古主義は考えることができなかったものを考えるために儒教経書を新しい読み方で読んだ。近代日本は国学からしか生まれてこなかった。神道儒家神道だった。ここで、エスタブリッシュメント政教一致の「国体」を考えた。問題は明治維新の王政復古化。現在からみると、長州が京都から連れ出した天皇にノモス的主権者が奪われてしまった歴史だったのである。今日ギロチン台の首みたいなただの札の肖像になってしまったが、明治が確立しておらずまだ可能性があった時代に、societyを人間交際と訳し、「人民people」を考えたのは福沢諭吉子安先生の福沢諭吉論が中国語に翻訳されているらしいが、福沢も新しい読み方が必要である。

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世界は解釈と解釈の解釈で忙しい。憲法も改正前に解釈で改正済み。解釈改憲による軍国主義国家神道(公式参拝)の復活、国民がノモス的主権を譲った解釈改憲象徴天皇制。国は何も無い


神話も映画も根底に民族はない。両者は民族を越えるのではないか。世界映画は世界神話におけるようなものとしてある。草の根運動のプロ化と失われた自発性を問うただけのアイルランド映画ナショナリズムの映画とされるのはなぜか?ナショナリズムの破綻を表現していると解されるのは少なからず映画の世界性によるとおもう


解釈の複数性、解釈間の戦争の問題は、思うに、解釈の定義そのものによって構造上可能になっているのです。というのも、解釈は無限になされ、解釈自身が自らを判断し決定する際に基点となる絶対的な地点は存在しないのです。-フーコ「ニーチェフロイトマルクス」-


絶望がもたらした政権交代しないという選択に自民党が絶望しているかもしれない。だって永久にアベノミックスをやめれないんだから


わたしの勝手なインスピレーションだけれど、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌は路のいしころたち。いしころたちのどれかをひろう。上下左右のポケットにいれる。どれかを取り出して他のポケットに入れる。繰り返す。いつのまにかいしころたちは裏側へ行く、たくさんある小さな入り口になっている。そして言語の果てから見る。まだ汚されていない、くしゃくしゃになった、物で書かれたもの


脱近代の多元主義か、それとも近代の普遍なのか、当惑しながら、浅田彰の文を読んでいますが、あるいは、これがポストモダンモダニズム化なのかと?現在、同じことはできないのですが、「普遍的な知識人」をあえて貫くとしたら、「帝国的知識人」になってしまうのではないかとも考えました。ただ加藤周一を語る浅田彰は知識人は必要だと言っていることはよくわかります。理念的知識人を前提にしないと、もっと解明されなければいけない戦前の天皇ファシズムの問題を批判的に分析できなくなってしまいます。今日における憲法をどう観るかにも関わってきます。一般にポストモダンは知識人は無理だと考えますが、しかしフランス人は柄谷が転向したように、知識人をやめたとはいったでしょうか?相当にシニカルなひともいますが。浅田はそこまで柄谷にくっついて行くことはなかったのでしょう。ここがしっかりしている点だと思います。加藤周一も生かされています


現地の人々の口は重い。国の過去を語るその恥ずかしさは、辞書のない日常言語は恥ずかしいと思わされている場合と同じかもしれない。正統の中の異端的神の救済もずっと黙ったままだ

イギリスの子供達のヒーローはベッカムでありホーキングだった。現在日本の憧れは大谷とホリエモン。自由に喋る世界的科学者はいても国籍についてばかり言われる

彼方の生活は国政選挙の投票権はなかったがデモの権利と自由があった。此方は投票権はあるが惨めだ。非暴力なのに、重装備の警官に囲まれてのデモでは、言論的活動が禁じられている

外国のデモで捕まったらヤバイ。即国外追放の危険があるデモ参加は「間違い」でも、国の全体がみえる外国人だからこそ私のことではなくてこの国のために自由に喋らせてくれとおもう

ヘーゲルは最初から思弁的ではなかった。バタイユヘーゲルの政治論的言論の形而上学化である。脱構築的至高性から、国家理性=聖なるもの=権力への徹底的な批判が可能となった

世襲議員は益々流れないトイレみたいな状態だし、死票の問題だけではないですよ、恥ずかしい話、与党の総裁選が選挙です。結局容認できないほどの低い投票率を齎らした小選挙区制について、もし他ならばもっと悪くなるのでしょうか?予言でなければ教条主義の言葉?否、小選挙区制は問題がなかったのかもしれません。そうすると、何が問題なのでしょうか?この国が民主主義を愛することもないし民主主義に愛されないのは、正しい始まりをもたない日本的近代のせいであるとあなたもわたしもいい加減気づくべきです

人間は知の客体であると同時に認識の主体となるのはいつからか?何処から現れるのか?答えは全部、ここに書いてあります。「ぼくが訳しておきましたから」(渡辺先生の口調で)

•『論語』は君子の謙譲的エートス(「人は人としてあれ)」を書いているが、身分のある臣下のためにあるものである。しかし17世紀にはいってこれを身分なきもの(商人や農民)が読むとき一体何が起きるのか?これについて考える価値がある。ただし、ここで、「人」を「人間」と訳しては問題がある。論語』は江戸の学者たちが注釈した。これらを読めば、論語』は対他的関係か対天下的な関係が書いてある。ここで概念を定義したりすることは殆ど無い。しかしフランス語訳は「人間」が真理の舞台で認識するようにされているそんな感じである。そもそも、「人間」と言われるものの成り立ちは「人」にたいして優越的な真理を求める近代である。近代オリエント学はイタリアではじまる。中国研究は支那学と呼ばれる。詳しく書けないが、『論語』の現代語訳は、フランスの支那学を勉強して「人間」homme をみる見方で行った学者の翻訳によるのである。これは『論語』のヒューマニズム化である。近代文献学の体系的な研究にもとづくが、はじめに、見上げる他者(ヨーロッパ)と見下げる他者(アジア)とが交差していることを知らなければいけない。近代からヨーロッパはアジアにたいしては真理的知の権力をもっているこの問題は、よく知られるようにサイードが指摘している点であるが、『言葉と物』のフーコがやるようにヨーロッパをヨーロッパ自身に関係づけて知を中立的に(自動機械仕掛け的に)自己完結化してしまうことが果たしてできるのか問われる。分かりやすく言うと、隠蔽されている知の従属の問題から逃げてはいけない。「人」を「人間」として読むと、ヨーロッパ知の主体は集中するが、江戸思想の言語は拡散してしまうだろう。単に翻訳の問題ではない。他者との関係の問題である。

「共闘」というのは難しいことなんだと思うよ。ダブリンのトリニティ大で世界各国から二千人ぐらい集まったフェミニズムの大集会があったときのこと。最初から分裂しそうな言い争いが起きた。見上げると壁にズラリと男性の写真が飾られている会場の中であった。男どもに見下ろされるこんな場所で大会をなんでやらなくてはいけないんだ、と、怒っていた壇上のスピーカーが「われわれのなかに青ざめた男が一人いる!」と指差した。一斉に全員がふりかえって一番後ろの席にいた私を見た(汗)

デュラスがどこかで書いていたが、世界の男性で見捨てられていて一番力がないのはユダヤ系男性、ポルトガル男性、それと日本男性。ダメな三番目に女性は楽々勝つチャンスがあるのに


ファシズムを切り口として、アメリカと中国と日本を考えるために

権力の集中を解体しようとするものがどうして、マイノリティを排除するファッショ的人物•政党からしか出てこないのか、これは日本の問題である。似非維新的右翼のポピュリズムだけではない。吉本的左翼も天皇抑止論を展開している。
もしこれを民主主義的危機を利用するファッショ的なものであるととらえると、対抗的に、ファシズム的危機を利用する民主的なものがある。
ニューディールケインズ主義以前の古典的保守主義自由主義に帰るためにファシズム的危機を必要としているようにみえるのがアメリカの問題。マッカーシズムのことを考えるが、もっと現在に眼を向けると、バイデン大統領はオバマ政権時代に副大統領を8年間務めたが、トランプの後に登場した。急進派(サンダース)と折り合いがわるく、共和党と話ができる大統領だという。
無理にまとめるつもりはないが、民主主義的危機を利用するファッショ的なもの(日本)であれ、ファシズム的危機を利用する民主的なもの(米国)であれ、近代の終わりから、世界資本主義の分割である帝国の時代の始まりへ移行する現象だろうか。アメリカと日本の関係だけを考えてもね、それは二項対立における予定調和的な構造主義アメリカと日本は独自の社会主義といわれるポストモダン国家の中国との関係のなかにあることも考える必要があるから非常に複雑である。ファシズムを切り口として、アメリカと中国と日本を考えるために、アメリカのファシズム(われわれ自身の無起源)はヨーロッパのファシズム(われわれ自身の起源)と何がおなじでなにが違うのか?中国スターリニズムにおける文革ファシズム(孔子を真っ二つにしたわれわれ自身は書記言語を否定して一切を声に委ねた)とは何か?天皇ファシズム(戦う国家が国家自身を祀るわれわれ自身)の理論的解明とともに、必要であるとおもう。ただしあまりにも厳密に定義してしまうのは別の問題がある

いつも思うことですが、トッドの分析はいつも当たり前なことを言っているだけです。しかし、ネオリベグローバリズムをコントロールするグローバルデモクラシーを確立しなければいけないこの時代に、いや、「<地球はひとつ>は幻想だ」、「家族システムはそうなっていない」というようなトッドの主張ー統計学者が当たり前のことを繰り返すだけーは、もっと知識人的に理念的なことを言わなければ、そのうち反イスラムの極右翼に利用されちゃうかもしれませんね(彼らはトッドを利用できないかどうか研究しているじゃないですか)。同化主義に従わないイスラムから、共和主義のための家族を守れ、トッドは家族がフランスを支える根幹だと言っているなどと。トッドは家族の型を研究しているだけでそんなことを主張していないですが。
アメリカに近づき過ぎたトッドはファショ的なトランプを批判できないですね(むしろ彼は教育のある知的な政治家と言うかもしれません)。
わたしの考えは、家族というのは疑うことができないものと思います。国際結婚と同性愛と独身者の権利も含めて、もっと自由な色々な形の家族的あり方がみとめられるべきです。『論語』は家族を公理のようなものとしていて、大切なのは、ここから出発して、家族の枠を超えて、友人関係とかの関係を広げていくこと(「孝悌忠恕」)。この場合も、<みんなひとりひとりがマイノリティーに成る>という方向性をもつことがわたしにとって大事。
まあ、でも、ナチスを裁いたヨーロッパの極右翼は、安倍晋三のような極右翼とおなじに考えることはできません。戦争責任を果たさない歴史修正主義の安倍は戦前のそのままの主張をおなじ形で喋っているじゃないですか。極右翼が台頭してきたヨーロッパについてはファシズムの問題を考えなくてもいいようですが、日本はそうではありません(同じことが起きるというような話ではありませんが。)
ヨーロッパは新しい普遍主義を模索していますが、極右翼によって悪い形で、これを行わなければいけないでしょうね、そんなかんじです。

伝統をゼロにした下級武士が推進した日本近代化は世界に類のない。精神的空白をこの明治漢文が埋めた?和辻と大正教養主義に憧れた父が晩年、『教育勅語』をもっていたのは驚いた

三島由紀夫が死んだ日はヘリコプターが飛んで煩くて考えることが全くできなかった。明治維新の失敗は戦争で勝ちさえすれば解決すると大衆に向けて訴えた言葉のように私の思考を妨害した

タイメンだと、ここだけの話ですがと相手の顔色を見ながらヒコウシキの話をするが、空気が読めないオンラインではコウシキの話しかできないらしい..

昨日は荻生徂徠『弁道』を見せてもらった。道についての冒頭の文に感動した。家に帰って、『弁名』の名についての冒頭文を読んだら、わかっていたつもりだが、わかった

「敵基地攻撃」で自民党支持率の低い土地も攻撃されるのか

漢籍とは前近代の中国において中国語(漢文)で書かれた古典籍を指すが、漢籍を読むために仮名が作られた歴史と文化を学ばずに、ヨーロッパでJapanese alphabetを教える自分に対する軽蔑があったかもしれない。ニーチェは物の見方の違いは文法の違いによると言っていた。この点については、時枝が発見したことが大変重要で、日本語の主語は漢字である。初心者は漢字を認識できないのは当たり前だが、日本語に関心をもつ者ならば漢字を書こうとするものである。主語が漢字でない文は精神的に価値のある思考を構成できない、と、そう考えてみたらどういうことが言えるか、と、問題提起できる。その場合、「漢字は概念を表現する」という理解でいいのか?日本の国家的成立とともにあった、『古事記』は、制作プロセスを説明する序文が証言しているように、中国と朝鮮の知識人に育てられた、漢字知識人たちの存在がなければ実現しなかったのである。そうして、日本語の主語は漢字であることを考えることは他者の問題を考えることである。最近は、言語支配者の中国がこの他者問題をどう考えるのか興味がある。「表現する」とはなにかを問う哲学的問題もある。学ぶことは尽きない。



このまま、アジアに共感をもたない戦争犯罪人の孫である安倍が東アジアを代表するかの如く語る通りのことを聞いていたら、東アジアはアメリカと中国とによって分断されて消滅してしまうことはないのかと心配である。政府は現在のアジアとどう関わるのか、それはうまくいっているのか、もっと中国の民主化を求めるために日本の民主化が足りないのではないか、憲法を活かしていないのではないかなどを野党が国会で明らかにすべきであると思うのだけれど。

Japan’s former PM warns China invading Taiwan would be an ‘emergency’ for Tokyo (Financial Times)

前島は漢文を読めるだけでなく書ける人でしょう。漢字文化のなかに生きていながら、漢字の体制を否定していく明治知識人の影響は大きいです。津田左右吉とか、「漢字借り物」論の論者とか、百田なんかそうです。しかし前島は百田をみたらおなじことを主張するでしょうか?現代国語学の音声優位主義は、漢字を排すれば西欧におけるように文明がもたらされるという主張を隠しています。英語は漢文訓読法の文法性が支えていたのですが、財界が文部省に介入して、喋る英語が必要だというようになって、結局考えない人間を生産していくことになったのではないか、これは一考の価値ありです。漢字を少なくすればするほど考えることができないから、批判精神がなくなってくるから、そうして原発安全神話が成立することになったのではないかと指摘するヨーロッパ語の先生たちが何人かわたしのまわりにいました。あのオスカー•ワイルドは古典語の文法性のおかげであれほど高い精神性をもった文学を書くことができたと思います


高田馬場の塾に中学生のときに行かされたときのこと、ほんとうにつまらなかったが、気になる国語の先生がいた。授業を殆どしないで、自分は高等師範学校出身であること、一円切手の明治知識人が唱える漢字廃止論はけしかんと繰り返し言っていた。この塾に、大江健三郎がアルバイトで来ようとしていたが、子供のことを書き始めた彼の小説を痛烈に批判していた話は覚えている。この先生はいつの間にかいなくなっていた。当時はまだ、「アジア」という言葉が危険な感じがする時代で、その先生も行き場もないような危険な雰囲気をもっていた。漢文を教えるときに、漢文とラテン語を一緒に勉強しておけと言っていたのをよく覚えている。ラテン語の一文を喋る。なんだ、これも漢文か?現在これについて考えることは、明治の漢字がなければこの文章も書けないことをみとめなければいけないが、しかし『教育勅語』に顕著な明治における漢字体制ー下級武士の近代化は江戸の伝統を否定するーは失敗だったとおもう。「日本は抵抗の文化が無い」のも、近代に抵抗する前近代をゼロにしてしまったからではないか。荻生徂徠も、あのオスカー•ワイルドも、江戸の漢文とラテン語ギリシャ語の文法性のおかげであれほど高い精神性をもった文を書くことができたのだろうかとわかってきたのはこの2、3年のことである、遅過ぎか..

Parisのフランス人に冷たくされるとアジア系移民の人々が助けてくれる。ダブリンからパリへ行くと上手くいかないことが多々あるが、助けてくれるのはコーリア系である。最近は余裕のある中国系が助けようとしてくれる。それほど言葉が達者でない移民に助けられるときは、フランスは移民を大事にしてきた国ではないかとおもってしまう。英国はフランスと同様に移民を必要としているが、移民同士を競い合わせている。与えられる少ない分け前を争っている。よく指摘されることだが、Parisで暴動が起きると車が焼かれるだけだが、Londonの暴動は人を殺す。イギリス人を恨んでいるのだろう。フランスにおける宗教と言論の問題について色々報じられるが、寧ろ戦争の問題ではないかとおもう。戦争している国の悪口を言ったらどういうことが起きるのかフランス人はもっと考えるべきかもしれない。イギリスの文化多元主義は戦争で崩れてしまった。現在はbrexit である。都知事と大阪の維新の会の政治家をみるとどうなってしまったのかとおもうが、国家はマイノリティを教えるが、マイノリティから学ぶことができるのは共同体である。共同体の根底にひとつの民族があるとはおもえない..

岸田首相と立憲民主党の泉代表よ、伊勢神宮参拝しないで。何故か?

(1 )伊勢神宮は、全国に8万といわれる神社を包括する宗教法人神社本庁の『本宗』で、皇祖神とされる『天照大神』を祀(まつ)る宗教施設

(2)通説は『天照大神』を中心にしていると考えるが、しかし大国主神を中心にしていることを隠しているのではないか。大国主神は、記紀の神話に,葦原中国(あしはらのなかつくに)の国作りを行い,国土を高天原(たかまがはら)の神に国譲りした神として語られている。 これが、天皇=神から預かった三種の神器をもつ伊勢神社が国の統治権をもつ根拠となっている。

(3)伊勢神宮は、1869年の明治天皇の参拝から1945年の敗戦まで、国家神道の中心的存在であり、政府が宗教を利用し、国民の思想を統制した国家神道体制を展開したのである。

(4)天皇明治憲法に書かれている権力(天皇主権等々)をもつだけでなく、憲法に書かれていない、死者を主宰する権力をもっていた。これが国家祭祀である天皇ファシズムを為した。「敵を殺して死んだら神になって靖國神社に祀られる」といわれた。(自身を)祀る国家は戦う国家であった。公式参拝は戦前との連続性を成立させてしまう危険がある。戦前とおなじことは起きなくても、国民主権の構造が壊されて行く危険がある。実際に、政府は憲法にもとづく国会の召集を拒否している。これは前首相の安倍晋三が主宰した伊勢サミットの影響ではないだろうか。

(5)国家神道はアジアの2000万人を殺した。しかし国家神道と戦争の関係を否定する教説が主流らしい。初期明治政府の神祇官復活が政教分離の問題としてあっただけだという。そうして、「靖國神社としての日本人」という偽の文化概念すら唱えられている現在、与野党のリーダーの伊勢神宮参拝は大変危険であると言わざるを得ない

野党は批判するのは当たり前で、野党時代のキャメロンも議会で憎悪をもってブレアーを激しく非難したが、解説したBBCは愛情表現だと見抜いていた。流石演劇の国である

日本も権力者を笑う狂言があるが、抵抗の文化を為すアイロニーに届かない。アイルランド作家が書く一行に10個のアイロニーがある。一頁読み終わったら相当に性格が悪くなっている


You must go in quest of yourself, and you will find yourself again only in the simple and forgotten things. Why not go into the forest for a time, literally? Sometimes a tree tells you more than can be read in books.
- Carl Jung

ブッシュのイラク戦争をまったく反省していないかのように堂々と語る、国会でのキシダの「敵基地攻撃能力」という言葉にあきれました。このハト派はストレートにこういうことを言えるのは、敢えて書きますが、またこう書かないとわからないから書くのですが、期待されている通りの最高の「学校教育」を受けているからだとおもいます。Educationの訳(1870年頃に確立)が与えられた「教育」は基本的には上からの集団的な訓育(しつけ)であり、フーコ『監獄の誕生』を読むまでもなく、その最も相応しい場は軍隊であったのです。近代の制度としての教育は、普遍的教育理念をもちながら、むしろ社会的差別を構造的に作り出しているかもしれません。「学び」を「教育」と考えているひとたちにゾッとします。「教育」の「教」字の左側は<鞭>だからです。左翼はもっとこのことに取り組むべきだと思います


律令制確立と『古事記』完成に貢献した持統天皇元明天皇。古代は能力あれば女性は普通に天皇になれたのに、現代は違う。単純に比較できないが、男尊女卑は近代の方が酷いのか

画家はフェルメール自身か?ハプスブルク家の象徴たる双頭の鷲が、シャンデリア基部の飾りとして描かれている。これはハプスブルク家カトリックを擁護していたことから、カトリック信仰を表現しているのではないかといわれている。それはわからないが、フェルメールがどうしても普遍的なものを表現しなければいけなかったのだとおもう。思想史的な関心から言うと、中産階級が主流となる国家の時代がやってきたときに、カトリックを国家の思想にとってただ否定的なものとして考えるのではなく、ヨーロッパにおいて成立した唯一、普遍的なものとして考えてみた思考のイメージである。当時は上流の貴族と、画家が多分『真珠の耳飾りの少女』で描いた下層の農民はカトリックであった(これはアイルランドでこの絵を見たときに考えたことである)。それ迄は普遍主義のなかで普遍的なものを考えたが、フェルメール多元主義の方向を以って普遍的なものを考えたことになったのではないか(スピノザのようにとか)。

12月9日は「王政復古の大号令」。近代日本は復古主義からしか成立しなかった。問題は王政復古で天皇に全権力が集中したまま昭和10年代に全体主義軍国主義が同じ方向を向く

映画を語るとはプラトンの洞窟にセザンヌの光を与えること。このヨーロッパを語る光は外部にある。岩戸隠れ伝説についての解釈の言説は神話を語る光が洞窟=民族の内部にあるという

イシハラの息子ね、「なんでもかんでもカネが解決する」と言ってきたのは、この場合は、右翼における自己否定のアナキズムで、国に一切頼らないという自分の信念すらも否定する

日本は権力集中を解体しようとするものがマイノリティを排するファショ的な人物と政党しか出てこないが、ファシズムが拘りを示す美意識が全然なくてコストの計算ばかりしている

提案型はsounds goodですが、平気で統計を改竄する政府を追及して問題を明らかにすることなく、景気について提案できるものなのでしょうか?

死刑は国家の残酷で野蛮な処刑である。今日3人の死刑執行があった。ヨーロッパは死刑を廃止した。韓国はEUに加盟できる。韓国は死刑を停止したから。日本は入れてもらえない

外国人であろうとなかろうと、生活していたら共同体を形成する意思があるとみとめられる。その意思がある以上、住民投票の権利を必要とする共同体のメンバーである。なぜ排除する?

死刑執行の問題はやはり冤罪の問題がある。昔は冤罪は国家犯罪だといわれた。経験と知恵を活かす陪審制の復活が求められたが、導入した裁判員制度は国体の秩序の発想だったのでは?

「右翼の排外主義」は間違い。右翼は同化主義であるから。排外主義は極右翼なのである。もっと悪い事に、日本の極右翼はドイツのと違って、戦争責任をとっていない国の極右翼である


佐幕派からみると、坂本竜馬横井小楠を理解したつもりで、田舎者の攘夷の私闘的テロを天下の普遍と考えた。圧縮されたアジア民主化の中でファシズムを自由と錯認する活動家みたい

政府は北京五輪「外交ボイコット」。人権重視の姿勢強調。しかし日本は女性の人権が危機だと習近平に言われるかもよ。他国の人権を言うのに自国の人権を侵害していたら、それは嘘

政教分離は、国家は教会と共存するが教会の中で何を言っても自由だというそれだけのことで、丸山真男は西欧の内面の自由の歴史的形成と理解していたとしたら私は分からなくなる

ダブリンのワーキングクラスは孤児みたいで親の話もしないが、ジョイスの小説に描かれた洗濯屋のモデルが自分の曽祖母だった可能性があると最近知って愕然としたひとがいた


何故日本では権力集中の解体を訴えるものが権力を集中するファッショ的なものからしか出てこないのか。読売新聞と大阪府との包括連携協定はメディアと権力者の危険な一体化ではないか?


なんだ、こいつ?

元号」は、「不便」かどうかの問題しかないと受け入れさせようとしている。アジア2000万人を殺戮した天皇全体主義が「元号」と一体だった事実を問題とする議論はどうでもいいとなーんとなく思わせるズルイ文章

「私は西暦と元号の併用という「不便」に耐えるくらいのことはしても罰は当たるまいという立場である。」内田樹


国家神道復活の禁止をやめたらこれから戦後日本は何を支えにするのか?神道統治権についてヤバイ語りがあるのに、安倍も立憲も国民も伊勢神宮にホイホイと行くのはどうしてか


京都は昨年の秋頃から人々が出てきたが、外国のお客さんがいないらしい。それほど人混みがなく、「お参りできてよかったですね」と言われたときは違和感を覚えた。お参りとは何か?


‪「記号の成立は、分析と不可分のものである。分析なしに記号が出現しない以上、記号は分析の結果である。同時にまた、記号は、ひとたび規定され分離されると新たな印象にも適用される以上、分析の手段でもあり、その場合には新たな印象にたいしていわば格子の役割を演じるのだ。精神が分析するから記号があらわれる。精神が分析をおこなうがゆえに、分析は際限なくつづく。」(記号の表象作用 フーコ『言葉と物』)‬


‪• このフーコの文は『鬼神論』における「精神」の意味を問うた子安氏の講座のおかげで何とか読めるようになったかもしれない。ここからゴダールがやったことも考えられるようになったのは、ゴダールにおいて成立している映画における形而上学的視点によることのようにおもう。撮影のためのクローズアップと編集のためのモンタージュを分析したうえで記号としたのである。そうして『映画史』においては精神が分析するから際限なく分析がつづく。ここで敢えてゴダールをフーコに関連づけると、差異が差異化されていく‬運動として映画のあり方が再構成されていくときゴダールによってそこで問われているのは、西洋の理性が西欧の判断の時代にはいる近代における(古典主義時代における)記号の表象作用ではなくて、外部の思考が外部の思考としてあるポストモダンの記号の作用である...


アジアは市民社会が現れなくても民主主義がなくても開発とマネーと経済はどんどん進む。しかし資本主義の問題を中国式資本主義は抱え込まないのだろうか?


何でもかんでもカネがものをいうから経済が不均等発展なのか?逆に、経済はどうしても不均等発展だから何でもかんでもカネがものをいうのか?


三十数年前ノンセクトの反公害の座り込みのときだったが、色々言われるけど、デモのたびにカネをもらっていたら家がたっているよと語るひとがいたっけなあ


カネの事実関係について嘘か本当か報道の仕方の話ばかりですが、そんなプロフェッショナルな細かいことではなく、世の中のために善意でやっている行いを嘲笑っていることが倫理的問題なのです


向こうの新聞はデモの時間と場所を教えてくれるが群衆の中で現場が分からない。目印は日本だと重装備した警察車だが、英国は抗議者を噛み殺す大量の犬たちを待機させた警察トラック


西ヨーロッパの反ナチスの人々が大混乱に陥いった、

スターリンヒトラーとの不戦条約によって、東ヨーロッパのコミュニストの活動家達が一斉に逮捕されてしまった。条約締結の日から、ナチス全体主義に抵抗する者は共産主義の敵となったのである。サルトルレジスタンス運動にいたが、この事実を知りながらも、ハンガリー動乱までスターリンを批判しなかったことが批判された。信頼を失うことになって、思想界は実存主義にとって変わって、反サルトル構造主義が台頭することになったと言われる。フランス革命を継承するロシア革命アナキズム国家主義か選択があったが、ボルシェヴィキ国家主義に託した。その結果、スターリニズムが出てきてしまった収容所群島現実に目を塞いで希望を見いだすという言葉しか出てこないとは..


こう言わなければわからないから言うのですけれど、裁判官よ、あなたたちの安全神話を推進した責任を十分に反省したうえでの判決でしょうか?


国が強くなれば格差の問題を自己責任に放り投げる今の維新の政治家を見れば分かるが、若ければ上手く行くとは限らない。150年前も、明治のリーダー達は若いだけだった。軍事力が無いから植民地を持たぬから不平等条約撤廃が実現しないと考えた薩長の田舎者よりも、西欧との経験のある徳川幕府に任せた方が交渉はうまくいった筈だ


近代官僚制は合法性支配。正当化は国民から来るのに、官僚は国民に従うつもりで与党と自民党提灯持ちに従属していたり、与党も官僚の言いなりになっていたら正すのは野党じゃない?


だれがヒトラーか否かをめぐって勝手に盛り上がるが、深まる議論がなければ茶番と言わざるを得ない。権力集中の解体を言うお前は、マイノリティを排するファショ的政党じゃないか?と立憲は維新に問いただすべきだ。また維新は立憲にたいして、社会民主主義でなければお前たちはどうやってヒトラーをやっつけれるのかと聞くべきだ。議論しないの?本当はドイツの「われわれ自身における本物」のファシズムを論じるだけでは足りない。日本の場合、ファシズム天皇ファシズムだったからだ。わたしならば、国体論を超えていく移民的国家の多文化主義の理念を語るのだけれど


石原語録とはなにか

死者の悪口を言うなと言っている未亡人みたいのがたくさんいるのでキモチわるい。禁止されているあらゆるものに反発する石原語録を拾い読みすると、あの安倍ですら我慢できた「参拝して何故悪い」と大袈裟に屈辱感を表出する。動物並の欲求にまで後退する自分の自由を主張する何か痙攣から喋っているように見える。他方で、地震災害を天罰と思い込んでしまうほど万物を支配した戦前の天皇権威主義の中に生きていると渇望している恥ずかしさを何と形容したらいいか?昭和とはこういう動物を作った時代なのだ。同時に、戦後の自由と戦前の権威の両方に希望を託す、人間とは思えないような、昭和前期と後期を持った石原のイメージを昭和の読者が愛したのか..


きみはヒトラーだと彼に告げた石原もそれをきいて喜んだ橋下のような人間が幸せを自分のものにしてやるためには、これ以上カネを与えてはだめで彼らから欲望を取り上げる必要がある


わたしは暇にしているけれど、安倍晋三日本会議の日本の未来を語るほどわたしは暇人ではないと思っていたところ、東京五輪石原慎太郎の死を惜しむ声、バカタレ、やはりどうしようもないな。かならずしも楽観的ではないけれど、思想の成長を考えるためにも、ポストモダン中国の未来を語っていたほうが意味を感じるが、五十代を終わろうとするわたしにはもう時間がないか..


アイルランドみたいにみんなが貧しい国はその中でいくら自分が貧乏でもそれほど惨めに思うことはなかったが、イギリスは貧富の格差がめちゃくちゃすごい。大富豪の王室の報道が流れると、本当に惨めになる。イギリスという国は自由がある。最大限の自由を享受するオランダと比べられる。多分香港はイギリスの植民地時代に植民地時とはいえ自由を経験したのでないか。だから今日の中国に対する抗議があるのではないか?しかしオランダと違うのは同じくらい権威的規則が英国にはあることだ。その権威主義は王室からくる。最近の調査では、英国王室に対する支持が下がっているという。チャールズとダイアナの離婚は、国教会の守護者としての王室のあり方のイメージダウンであると言われる。しかし単純ではない。王室にとってはユダヤイスラムと付き合って行かなければいけない英国の文化多元主義と共存するためには有利な出来事だったと観る見方もある。王室は開かれている印象がある。

歴史のことを言うと、英国王室は1916年のロシア革命アイルランドイースター蜂起で恐怖のどん底に落ちた。親戚のロシア皇帝のように殺されないように政治から距離を取りはじめた。先ずドイツ起源の名前を隠した。自らのアイデンティティを国教会の主宰者としての超越性に築こうとする。1916年は『文学に現はれたる我が国民思想の研究』(1916~1921)の出版の年である。津田左右吉はイギリスにいたらしいしこの歴史を興味深く観察していただろう。日本は京都にいた天皇と民衆との間に争いが起きなかったが、英国とは民衆と王権との戦いであると彼は言う。明治のホッブスの社会契約論の理解は、支配の側から国家の正当化を論じるが、しかしイギリスでは社会契約論は自由を確立するための国家理論であり、旧体制の全く知らないものであった。王様の首を切り落とす前に、思想闘争をもって、議会は王から権力を奪って成立したのだ。

スピノザ君主制に警戒していたのは王は名誉心のために戦争をしたがることである。たしかに、イギリス国民の8割がアメリカのイラク戦争に反対していたのに、エリザベスが全軍をたたえるメッセージによって、逆に、8割が戦争支持となったのである。英国においても天皇が政治に関わると国民主権がなくなって行くのと全くおなじ事態ー国民が自分の頭で考えることができなくなるーが起きたとわたしはおもう。労働党時代に王から権力を奪う憲法改革に取り組んだ。憲法裁判所ができた。最近憲法裁判所はボリスジョンソンの女王の権力を濫用して議会を開かない決定を違憲とした


中国のファンが大勢いる男子フィギュア選手の天の舞みたいなパフォーマンスを見て嬉しく思ったが、今朝は何の疑問なくそれを一面にした日本の新聞を見て(新聞に)悲しむ。今更?


ムルナウとフラファテイーの違いは当時の人類学の対立する方法論の違いが反映されている。若い女エスキモーみたいな獲物をとらえる眼差しがあると言ったのはゴダールである


みんなして公然と軽蔑している政治家達にどうしてあなた達は統治されているのか。人間は自分を幸福にしてくれるものよりも分かっていながら不幸にするものになぜ惹かれてしまうのか


“imminent”

BBCラジオでウクライナのニュースきく。もはや帝国と帝国主義の区別にそれほどほんとうに意味があるのかを考えさせるロシア


誠は宇宙に貫在せざるなし。此極の胸中より、彼極の胸中に至るまで、 萬方に全貫する者、是れ誠なり。乃ち至誠なり。神なり。是故に己を誠 にするの道は、其始め有神の無我に向って謙然又虚然として我が胸中を 開くに如くはなきなり。新井奥邃


あれ?夢の中で、会ったことがないフェイスブックの友人といっしょに笑っていたよ。わたしは呑気な人間である


敵基地攻撃能力 岸防衛相 相手領空内での爆撃を “排除せず”


敵基地攻撃能力 岸防衛相 相手領空内での爆撃を “排除せず”


これは自衛?戦争じゃないか!大声でこんなことを言っていたら、日本はアジアから生かしてもらえないぞとおもう。自民党を選んだらこういう大臣が出てくるのは必然である。人々は自分の生存に有利になるものよりも、分かっていながら自分の生存に不利なものをどうして惹かれていくのだろうか?タナトス(Θάνατος)は、ギリシア神話に登場する死そのものを神格化した神。 これを使って、フロイト死の欲動」概念を展開した。演劇や文学が取り組むべきテーマである。


現在は見えあげる文学博士とか思想史博士に取り囲まれているが、昔は鳥居さんが描くトイレット博士しかいなかった


ペレストロイカ(перестройка)のソ連解体のときは相当な議論があったとおもうのですが、だから解体してしまった、その後はどうなったのか気になっていましたが、「1918年から1933年までのドイツにおける保守革命」が、2000年代のロシアに読まれていたようです。保守的転回のプーチンも、シュペングラー、シュミット、ユンガー、ニーキシュを読んでいたみたいです。シュミットといえば、政治神学なんですけど..すこし考えてみますと、現在というのは、何か、一国社会主義の皇帝(=主権者)が死(戦争)を主宰する「例外的状況」なのですかね(<ー テキトーに書いていますから突っ込んでこないでね)。マスコミは彼の現実感覚を疑いはじめましたが、プーチンの思想形成が研究されています


ロシアはロシアはNATOの東方拡大に脅威をかんじていると言われる。ならば、中国も非難している、自国に影響のあるウクライナ原発攻撃の方がもっと怖い筈だ。最早理性を失っている。しかし真相は、元々プーチンNATOに脅威をかんじていたのではなくウクライナの民主主義に脅威をかんじていたのだろう


ロシアの中心にいる元々KGBからきたプーチンは騙すプロだからロシアが嘘ばかり言う。KGBは人を殺すプロだからロシアが破壊と殺戮を行なっている。プーチン戦争犯罪人である


議論のスキルだけでみると、日本の大学教授は、ヨーロッパの中学生に議論で勝てないでしょうね。あちらは小学生の時からDrama study ーシェークスピアぐらい読んでしまうーを勉強していますから。またイギリスでわたしも参加したのですが、大学人が労働者階級の受講者と一緒に、ウィットゲンシュタインを考えたり現代詩を読むことが議論を通してできるのですね。しかし日本の先生たちにとっては、議論なんか重要ではありません。わたしの義理のおじさんはウィットゲンシュタインを最初に訳した方ですが、哲学をめぐる議論よりも、いかにドイツ語の原文で読みこれを古典ギリシャアリストテレスと関連付けるか、これだけが大切なのです。しかしこれは何か、反権力的でないかんじですね。ネットを国益として考える中国とは違って、日本のネットは対抗的議論の中で発達しました。反権力的ですが、新聞にあるような時間をかけた学者的議論が無いですね。これでは新聞にとってかわることが無理でしょう。日本はポストモダンの知を議論する雑誌がありませんから、ネットの場を利用できるとおもうのですけれど、大きな思想史の知の枠組みの中での議論を読めないですね。わたしはやろうとしているのですが、ほんとうに力不足です


ウクライナが抵抗をやめ要求のめば戦闘停止=ロシア大統領。強姦者が抵抗をやめ強姦させてくれば安全だと言う。平和を愛するプーチンは次にウクライナに侵略をやめてと言うのか


戦争犯罪人プーチンの国が核をもっていることほど隣国にとって怖いことはないだろうが、戦争犯罪国家だった日本が核をもつ恐怖ほどではないのではないかと想像してみる


米国の地球全都市を破壊しても核が余るという「核の傘」の下でも安心できないし自国の核を加えても安心できないだろう馬鹿の核を求める欲望を満たすのは太陽を飲み込むしかない


武器といえば、アイルランドは海岸に流れ着いたスペイン艦隊の舟の破片で城を作ったりしたぐらい貧乏で、英国から解放しようとフランス海軍が上陸しようとしたら、海岸で彼らを迎える武装農民たちの武器が鍬と鋤だったのを見て「これはダメだ」と言って引き返した。「ナポレオンがやってきた」という当時の歌が残っていて今日パブで歌われている


BBCウクライナ報道は徹底して弱者に寄り添う。ヒューマニズムとはこういうものかと感心する。他方であの地球全体の天気予報は何か地球を半分もっていた過去のノスタルジーか?


ウクライナを語るのになんで台湾の話をしているの?「台湾有事は日本有事」の安倍発言に中国からの反発。「内政干渉だ」と。安倍と中国は自分に都合よく自国の国民に拍手させている


集団殺戮をやめさせるヒューマニズムの名において原発を攻撃するのは、電車の遅れを解決するためにパリの地下鉄全体を爆破しようとしたナチスの恐るべき破壊衝動に匹敵するか


キエフはバイキングが作った。交易を重んじていたバイキングがスエーデンからウクライナに来たのだ。バイキングの破壊して収奪するイメージは最早古いものである


NATOはヨーロッパを守ると言いながら、ヨーロッパ外の国ーイスラムーを爆撃しているのはおかしいという声はヨーロッパにある。現在はロシアにも対さない。自分探しのNATO


EUアイルランド議員の絶対平和主義はプライドだけを根拠にしている感じだが、国家予算を超える資金が米国から超カトリックにくる限り対英戦闘を止めれなかった事実は本当だ


昭和維新とか、戦争で勝ちさえすれば日本の問題は全部解決するとか、ああいう話って、顔をつるつるにすれば全部が解決すると思っているのとおなじような..


オランダの女性はほんとうに女性らしくない。先進国である。しかし南ヨーロッパの男性を見るや、オリエンタリズムの幻想にやられる。トリエステの夜のロマンテックな海に誘う


英国人はアイルランドに来るとエデンの園にやってきた気分になる。教養が高いのに、なんてロマンテイックな風景だと感じる。というか彼らの知がロマンテイックにさせるのである


1980年代はネオリベ経済学がスタフグレーションの理由を説明した。人々が依拠するものー貨幣賃金ーを保護する統制経済が市場の機能を奪っている。だが今日市場に委ねるアベノミクスのエンジアリングによってスタフグレーションが起きる。これは社会主義国のあり得ないとされたストライキ勃発と同じほどスキャンダルなのだ


 徴兵制はあり得ないと思い込んでいて、これ以上悪くなって欲しくないとして自民党に投票する若者たちにこの点を理解してほしいですのですが、アベノミクスをやめずにこのままどんどん不況にしていくだけで、徴兵制の憲法改正しなくても、経済徴兵できます。


一般の人の気持ちを逆撫でしただけか?貨幣の価値を担保価値としてとらえた近世の学説があったが、国民に委託された価値を保つ善管義務が日銀総裁にあるというふうに考えてみたら?





「美を殺す」ことは可能か。不死としての永遠と理念としての永遠。 ー 東京演劇アンサンブル『タージマハルの衛兵』(ラジヴ•ジョセフ作、三木元太 演出)の感想文

「美を殺す」ことは可能か。不死としての永遠と理念としての永遠。


ー  東京演劇アンサンブル『タージマハルの衛兵』(ラジヴ•ジョセフ作、三木元太 演出)の感想文


帝国の皇帝にとって、宮殿が意味するものは何だったのでしょうか。

「不死としての永遠」という、完全なものだったのでしょう。

この意味で、唯一の美であり、他の美はあり得ないと考えました。

そうして、今後タージマハル宮殿に並ぶほどの美を創ることを禁じ、美を殺さなければならない、と考えた皇帝は、衛兵たちに建造した職人たち二万人の両手を切り落とせと命じました。この命令に対して、なぜわれわれは王の命令に従わなければいけないのか、と衛兵の一人は動揺し混乱します。

衛兵の一人は、「自由に喋らせてくれ」、「間違っても許してくれ」、と考えます。

しかし、友人であるもう一人の衛兵は、「話をしてはいけない」、「俺達人間は考えなくていいんだ」、「仕事をやるだけだ」と説きます。

これは宮殿の監獄化です。タージマハルの衛兵が一望監視方式みたいな仕掛けのなかに生きているあり方を考えることになります。

皇帝と衛兵たちの関係を規定しているものは決して単純ではありません。見られている人は見ていますし、見ている人は見られています。処刑するものは処刑されますし、処刑されるものは処刑します。衛兵たちが発明する穴自体が落ちる穴であるように、もし最初から、皇帝を支える衛兵が「衛兵自身」であったとしたら、どういうことが言えるでしょうか。

衛兵の一人は、皇帝の首を切り落として皇帝の代わりに帝国の中心に立っている自分達の未来を予言します。大きな人間であるこの皇帝の位置にあっては、自らの欲望を極大化できるような権力を消費し尽くすまで、この場所を去ることが難しいでしょう。これは現代そのものです。


フマーユーン(小田勇輔)とバーブル(篠原祐哉)という二人のタージマハルの衛兵は、この囚われの場から脱出できるだろうか、と、昨年観た同劇団の『揺れる』の舞台を思い出しながら考えました。そして、「衛兵」とは何でしょうか。


タージマハルの衛兵は、外部にある鳥たちを世界の中心にすることによって脱出しようとしたのではないでしょうか。小さな人間に成ること、森の虫たちに成ること、ワイワイガヤガヤ、ウロウロウヨウヨして、ロゴスを以ってどんどん分裂していくことによって単純に増加していくものが、「衛兵」と名付けられていたのではないでしょうか。

「衛兵は舞台である。」

この命題から、タージマハルの衛兵は、父親的なもの、命令的なもの、規則に囚われずに、彼ら以前に誰も語ることができなかった、皇帝が囲いこむことが不可能な無限をはじめて語ることができたのではなかったでしょうか。タージマハルの衛兵によって、微かな声ながら、驚くべき大胆なことが語られます。

「美を殺すときに堕ちた月とはなにか。それは無(空)である。」


こうして、美は、本当の意味において、フマーユーンとバーブルによって「理念としての永遠」におけるものとして現れてきます。新しく誕生したこの美は、帝国の皇帝が決して殺すことができないはずです。


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靖国参拝の問題とはなにか?

なぜ靖国参拝がいけないのか多くの日本人は知らなかったりします。

海外mediaは靖國神社を戦争神社と呼びます。これは正確です。靖國神社の問題は、政教分離の原理をめぐる言説に即してその内部で考えるべきではなく、アジア2000万人の命を奪った形で祀る国家が闘う国家であったという国家祭祀の言説の問題として外部的に構成しなければならなりません。「外部的に」とは、台湾と朝鮮、中国、アジアから、靖國神社がどうみられたのかということです。果たして、靖國は帝国の日本国家と別々にあったのでしょうか?敵を殺して死んだら、神さまとして、靖國に帰れるぞと言われた兵隊にとって、死者を支配する、憲法に書かれていない権力をもつ天皇が参拝する靖國と日本国家は別々にあったのでしょうか?唯一正統な統治権をもつ古代の天皇から三種の神器を預かっている、国家と憲法(政教分離)の上に立つ伊勢神宮靖國神社と日本国家は「国体」としてひとつだったのです。

ところが政教分離の問題として考えてしまうと、明治初期の政府に神祇官として宗教者が入ったことが政教分離違反であったが、全体としては政教分離は保たられていたというような見方になります。国家神道の推進主体はあくまで国であって、その限りにおいて、政教分離は保たられていたのであり、靖國神社は無関係(無罪)だというのですね。ここから、文化として、「靖國神社としての日本人」のアイデンティティを主張するという根源的錯認に陥る危険があります。国家祭祀の問題は単なる認識の問題でしょうか。国家祭祀の問題を政教分離の問題に矮小化することは倫理的に不可能ではないでしょうか。


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MEMO

Japan's Olympic organizers lied about its weather, and now athletes are paying the price


ゴダールにおける顕幽論とかんがえてはいけないだろうか


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歴史は繰り返されるー最初は悲劇において、二度目は喜劇において。問題はあったが「開催される以上全力でやろう」と言った。現在は問題だらけでも「始まった以上応援しよう」と言う


本居宣長の自画像ー古代人という虚構の目に見えない影をまえにしているが現実には宣長がおり、宣長と至上なものとが際限もなく交代していくこの両義的な場所の主は最終的には芸術の鑑賞者にほかならない。漢の言説にとって以外、欠落するものはなにもない。鏡の裏から眺めているわれわれの視線が満たすように、欠如は絶えず充足させられているからである

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「書記化されたテクストは、その成立に前提される言語の再現的な訓みだしを阻む形で不透明なものとして存在する」(子安氏)。ゆえに、書記化された多元主義は『古事記』をよめない。『古事記』を読むためには、『古事記』の透明化が必要である。このことは、言語の拡散と主体の集中によって可能となる。再現的な訓みだしのもとであらわれる主体の配置とは、天岩戸、すなわちだれも入ってこれない鍵のかかったひとりだけの部屋のようなものである。思金神は天岩戸の傍らで神がいかにそこから脱出するか考えなければならない。『古事記』は反対のことを記しているのだろう。最終的にはアマテラスは外に出ることはなかった。これはそもそも書記化されたテクストの透明化の不可能を意味している。被支配者が受けいればなければならないような支配者の正当化にしては記紀神話が統合の難しさを隠蔽できないでいることと何か関係あることなのかもしれない。

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選手達にメダルをあげている場合じゃないと思うのです。外国人選手を避難させないといけないんじゃないのかしら、違いますか?


文化とは「死に切った過去」(三木清)である。『古事記』は死に切った過去。その成立した漢字書記言語を、事後的な平仮文にすることは、死に切った過去を生きているのだか死んでいるのかわからない過去にしてしまうことである。そういう過去は伝達のための情報の客体であって、コミュニケーションの主体のためのものではない。死に切った過去は、現在のためにあるような生きているのだか死んでいるのかわからない過去が支えることは不可能である。生きているのだか死んでいるのかわからない過去は、漢字は借り物であるようにかんがえて、『古事記』における漢字文を事後的な平仮文に「翻訳」(現代口語訳)してオリジナルの口誦を再現できたとおもいこんでいる。それは、たとえていうと、テレビがやる外国映画における「声の吹替え」みたいなものかもしれない。他を支配したいナショナリズムー吸血鬼的な怪物の欲望ーがみえてしまうんだね。私は『古事記』アマチュア。読むことができるとはおもっていない。アマチュアだから「訓(よ)むことができない」ことを己における思考の課題にすることができる。だけれど色々な時代の注釈ならば読めるのだしこれが中々面白いのである。色々の時代のものの見方がある。近代が自己の価値感を押しつけてくる現代文が「わかりやすい」のは当たり前。しかしそのわかりやすさを自明視するのは危険だ。たとえば近代の産物である民族と固有言語やまとことばを前提にしてしまう見方である。しっかり吸血鬼に杭いを打っておいたつもりでも、それでも生きているのだか死んでいるのかはっきりしない吸血鬼の棺桶はとりあえず、本の最後にでも示しておけばいいのではないか


3割支持しかない、棺桶のスガーリン。しっかりこの吸血鬼に杭いを打って打っておいたつもりでも、それでも生きているのだか死んでいるのかはっきりしない。増殖中


18世紀末以前に、人間というものは実在しなかったのである。人間は数千年の間物陰で己のついに認識されるであろう照明の瞬間を待ち続けていた。映像の世紀が19世紀末から始まる


台湾に行くまえに、向日葵運動がおきた背景について少しばかり台湾の歴史を考えた。そのまえに、30年前だったけれど、台湾の映画を見ていたんだな


ジャン=リュック・ゴダール


「映写機と映写室と、世界に向けて自分を投射する人間と---わたしは...自分を退けるのではなくて.....自分を投げかける人間というこの観念が好きなのです。しかしこの観念は死にたえつつある。それというのも、西洋では今ではもう、他の大陸に向けて自分を投げかけるということ、映像を交換するということがなされていないから、人々がイスラム世界をひどく恐れているからだ・・・私はかつては、小さな自分がより大きななにかに向けて、たとえば、星に向けて自分を投げかけるという観念が大好きでした。」


ジャン=リュック・ゴダールの世界 No.5


L'appareil de projection, la cabine, et l'être humain qui se projettre au monde. J'aime cette idée des homes qui se projettent au lieu de se rejette. C'est une idée qui est en train de mourir, parce qu'en Occident on ne se projette plus sur les autre continents, on n'échange plus d'images, on a une peur bleue de l'Islam.Mais j'aimais bien cette idée qu'on était petit et qu'on se projetait sur quelque chose de plus grand, par example une étoile.

(1987, Jean=Luc Godard)


演劇人ハロルド•ピンタ

舞台において女性が勝たなければならないが、常に大地の母である必要はないとおもう


東京五輪の近代についても発想の大転換が必要です。”なにかを失ったときは何かを獲得しなければいけない"から、中止して”もう何も獲得できないときにも失うことはできる'へと


2500年前に孔子は嘆いた。「筏で東海を行こうか?」と。現在はもう何を言ってもきいてくれるものはいない乱世だからである。”なにかを失ったときは何かを獲得しなければいけない"。その何かは孔子にとって、抽象ではない具体的な自ら行いを以ってする道徳のほかにない(対人的に、関係的なものだから、道徳はこうですよという定義がない。また孔子の時代は貴族中心から皇帝中心へと移り変わっていた)。だけれど乱世はこのことを言ってもまったく意味がない。だから乱世なのである。孔子は公から引退しても世を正すことをやめなかった。国内亡命の場所をえたこの彼のまえに、世俗から離れた隠者が時々現れた。”もう何も獲得できないときにも失うことはできる'という言葉を繰り返し告げてくるようだ。しかし孔子は受けいれることができなかった。2500年前は孔子は公にたいして何をしているのか理解できなかったが、おそらくそれは東アジアにおける批判というものの決定的な始まりだった。17世紀の伊藤仁斎は『論語』を注釈した祖述者である彼の『論語古義』は「宇宙第一の書」でなければいけなかったのである。伊藤仁斎の『童子問』における人としてのあり方をいう思想から、人が人を問う歴史と意味を考える解釈の空間がはじめて成立してくるとわたしは理解している。だからこそ京都にいた彼の思想はアジアにおける知識革命だったのである


https://www.instagram.com/p/BYICnoaBBOa/?utm_medium=copy_link


東京痴犬特捜部は税金の無駄


•安倍前首相「不起訴不当」と議決 桜を見る会巡り検察審査会東京新聞


「国民の命と健康を守る」スガーリンの無誤謬の神話


給付金で買ったテレビも二回ぐらいしかみていない。二十年以上テレビをみなかったのでテレビをみない。音がよかったりするから「映像の世紀」の効果音をきいてみたいな


神が存在するとかしないについてはアジアにも有鬼論と無鬼論がある。同一性と差異をめぐる存在の連鎖を語る朱子形而上学もある(理気論の性理学)。しかし神を殺すとは何だろうか。神を殺すということを反形而上学的にかんがえて存在の意味を問うのは、ヨーロッパの近代だというかんじである。だがフーコはこの近代を解体しようとしている。存在させないために殺すとは何かを問うとき、笑いを覆い尽くすことができないという。

「もし神が存在しないとすれば、神を殺すとは、存在しない神を殺すとは一体どういうことなのか。恐らく、存在しないから殺すということであると同時に、存在させないために殺すということであり、それが即ち笑いなのだ。」ーフーコ『侵犯への序言』


あらー、銀座の人出なんか倍ですよ。総理が減った減っていると言っている人流とは、孤立している自分の周りの人流のことなのではないでしょうか


極右翼の反証可能性なき戯言か


•小池知事「ですから、五輪はステイホームに一役買っている」 尾身会長の懸念を否定


昨夜の記者会見はなんだったのか?4000人を超えてしまった恐怖


4000人を超えてしまった現在、東京五輪を応援しているのは人間だけではないらしい。やはりウイルスもこの東京五輪を応援していると言わざるを得ない


私が知るただひとつの法。おなじであることは不可能だ。法は自らに、なにも変えるなと書くーすべてを変えるために


Faire du cinéma, c’est y voir clair dans la caverne de Platon grâce à la lumière de Cézanne.

ー Godard

プラトンの洞窟にセザンヌの光を」(ゴダール)


「陸上界を「厚底」が席巻、揺らぐ世界記録の連続性」(ロイター)


極限的に僅かな差異を競い合う五輪の記録は、「健全な肉体」でも「健全な精神」とも無関係で、身体はテクノロジーがなければ成り立たない。そのうち陸上にモビルスーツかアイアンマンが現れてきてもわたしは驚かない。このようにテクノロジーに依存するほかない五輪の崩壊が起きる。そしてデビルマンとかベム•ベラ、ど根性カエルみたいな生命主義的肉体が対抗してくるのかも..


世界を見渡すと、国どうしがウイルスといかに共存していくか一生懸命学んでいる。爆発的感染のなかの東京五輪とおなじことをやったらやっていけないと学んでいるのに、われわれだけが学ばないのか?テレビのまえで、自民党政治家とともに、われわれ自身の内部に孤立していて、熱狂のなかで何の経験も感性の成長もないとおもわれ..


古事記』を和本で読まずに、漢字書記言語の存在を意識して読むと、安倍応援団の日本会議の読みとは別の読み方ができるのであって、日本文化の外部的なあり方を考えることができる


古事記』を和本で読めば、<様々な民族が通過した日本列島>の多様性を表象できると言いたいの?待って!「民族」という言葉は日本帝国主義が完成した大正に初めて成立したのに


共同幻想論』の吉本隆明は全くの誤読。構造主義人類学の上野千鶴子とプロの三浦佑之は敢えて誤読。だが『古事記』を読んで資本主義に抵抗する思想闘争をやっていることは分かる


古事記』を和本で読まずに、それほど透明ではない漢字書記言語の存在を意識して読んで、訓(よ)めない大いなる他者を己の思考に持つ。開発と戦争と同化主義の問題を私は考える


1、『古事記』を和本で読まずに、漢字書記言語の存在を意識して読むと、安倍応援団の日本会議の読みとは別の読み方ができるのであって、日本文化の外部的なあり方を考えることができる。

2、『古事記』を和本で読めば、<様々な民族が通過した日本列島>の多様性を表象できると言いたいの?待って!「民族」という言葉は日本帝国主義が完成した大正に初めて成立したのに。

3、『共同幻想論』の吉本隆明は全くの誤読。構造主義人類学の上野千鶴子とプロの三浦佑之は敢えて誤読。だが『古事記』を読んで資本主義に抵抗する思想闘争をやっていることは分かる。

4、『古事記』を和本で読まずに、それほど透明ではない漢字書記言語の存在を意識して読んで、訓(よ)めない大いなる他者を己の思考に持つ。ここから、開発と戦争と同化主義の問題を私は考える。


吉本隆明近代主義の柳田邦男と折口信夫を考えたところでやめてしまったが、もし吉本が近代主義でないならば、柳田と折口が影響を受けた平田篤胤をもっと考えるべきだったかな


みんな言論に責任をとらなければいけない知識人ではなく、責任をとらなくていい文化人になりたい。「ホロコーストごっこ」を表現の問題としてしまうのは言論のゲンロン化ではないか


文化人は、もし知識人ならば権利のない社会に反対できていなかった市民としての自己の責任を語る所で、皆が文化(コメディ)を十分に理解できないから生じた錯誤の問題を暗黙に語る


近代の文化人でナチスに共感を持たなかったものはいなかった。ジョイスが例外だったのは、植民地の作家だったからだろう。しかし植民地をもたない国の近代文学の価値はゼロに等しい


若者達は多様なものに出会うことができなくなっている。ネオリベの時代は若者は属性ではない。若者とは職業であると考えてみよう。若者全員に休業補償をせよ


強い人間原理は、弱い人間原理と違って、縦軸と横軸の多様性を超えて存在する、どの時代も貫く同一性、固有言語やまとことばに定位する古代人を描いているみたいで、ヤバイね

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Penrose 

なんだろう?囲いこまれない道のような?

学か?


三国志』ー用意周到な文体で卑小なリアリズムが綴る国盗り物語。自国の文学として学校時代の読まなければならなかった違和感を台湾の友人が言っていた


原初的経典は神が単数形と複数形の両方で記されることがある。文献学的にはこれをそのまま読むしかない。しかしその矛盾は論理学•哲学を前提にする神学にとって大問題となる。


文献学と神学の差異は宣長と篤胤の差異である。それは、知の配置からみると、17•18世紀の<正統>と19世紀の<異端>の差異であるといえよう。<異端>の知でなければ、文政3年(1820年)に浅草で天狗に連れ去られた寅吉ーガリレオの天体知と神道コスモロジーとをもって再び浅草に帰ってきたーを受け入れることはなかった。平田篤胤『仙境異聞』において証言された話は明治維新の50年前である。平田篤胤佐藤信淵における<異端>の知は、<正統>の知にたいする対抗ではない。近代において一度物の見方が確立してしまうと、多様なものが整理され分類され表にされてしまう。それとは異なる物の見方が難しくなるが、ここにおいて別の見方をする異端的言説が重要となると考えられる。


‪「明治維新150年をいうより、仙童寅吉200年を考えた方が日本社会にとって大事であるかもしれない。」と子安氏は書かれている。明治維新が語る「王政復古」という正統の知の無理を明らかにしようとするとき、明治維新が築いたその150年<後>から考えるよりは、寅吉とともに、その50年<前>から考えるほうがみえてくるものがあるのではないだろうか


日本は来週ありません。150年の短い歴史でした。五輪閉会式がお別れ会です。それまで何が起きてくるのかみんなでみましょう





Je suis légion. Fascination de l’homme aux loups devant plusieurs loups qui le regardent. Qu’est-ce que serait un loup tout seul ? et une baleine, un pou, un rat, une mouche ? ―D=G


われは無数なり。フロイトの狼男は、彼を見つめる狼の群れに魅入られている。狼が一頭いたとして、それがいったい何になるだろうか。鯨が一頭、シラミが、ねずみが、蠅が一匹いたとして、それがいったい何になるというのか。


ゴダールにおける顕幽論とかんがえてはいけないだろうか


「感謝」「感動」のスローガンにあふれた戦争プロパガンダの絵画みたいだ。嗚呼スガーリンは誇りに感じる。だがなんかうつろ。女性蔑視、容姿や身体障害者へのやゆ、食品ロス…


ウイルスの100%が東京五輪「開催してよかった」。菅首相は「続投してほしい」の声がウイルスのあいだにつよい


「コロナ禍を克服する証し」の戦いに敗北した国家は、もう降伏したのに、安倍総統の姿も見えない瓦礫のなかで、まだ五輪選手たちに勲章をあたえています


初めにシナリオはAとB、二つ必要でした。東京五輪の中止を必要としないシナリオAだけで、中止して直ちに外国選手たちを避難させ帰国させるシナリオBはなかったのでしょうか?


われわれはみな、ソクラテスが獄中で死を待ちながら竪琴の演奏を習っていたときと相似した状況にある……ソクラテスに倣えば、少なくとも、生きていたことになるだろう……

シモーヌ•ヴェーユ


労働者たちはパンよりも詩を必要としている。/宗教だけがこのような詩の源泉になりうる。民衆のアヘンは、宗教ではなく、革命である。ーシモーヌ•ヴェーユ


ポストモダンは鬼神論をめぐる言説を読むのは思考の柔軟性のためにだけではない。シモーヌ•ヴェーユを読んだのは反スターリニズムの為にだったように、反マルクス主義の為にである


シモーヌ•ヴェーユも鬼神論も転向にみえても、マルクス主義をゼロにして何もかもゼロにするのとは異なる。何もかもゼロは安倍君を靖國に行かせてあげてという最悪の言説を語り出す


平田篤胤宣長没後2年に、夢のなかで本居宣長より入門を許可されたと言った。絵師に、この夢を描かせている。本居宣長から平田篤胤へ行くのは、山室の本居宣長に帰るためであるか


東京五輪選手村で初のクラスターか、ギリシャ選手団


惑星ソラリス』 の宇宙飛行士だけど、どうみても、詩人だったよな..

ソ連がむしろ地球を「対象」として地球を取り巻く帯としての宇宙を考えたのに続き、アメリカ政府は、宇宙開発予算を打ち切り、こんどは資本をより中心化されたモデルの方に引き戻したのであった」D=G


惑星ソラリス』は記憶の物質化である。同じことしか起きないから名を忘れてくる。名がないから思考もできない。歴史が終わる。ただ物である反復の形式を見ている


「固有言語やまとことば」と言っていないことが大切


「固有の都市や帝国をもたない芸術運動など存在しないが、同時にそれは固有の遊牧民、徒党、原始人を持つのである」(D=G)


<福島復興>だと威張っていたけれど、もうみんな忘れちゃって、いま目撃しているのは、東京五輪の災害化である


だれかを失った場合、われわれはその亡き人、いなくなった人が実体のない想像上の存在になってしまったことを悲しむ。しかしわれわれがその存在をなつかしむ気持ちは架空のものではない。/その不在はまさしく現実である。その人が死んでからは、不在がその人のあらわれかたになる。

シモーヌ•ヴェーユ


見えない空から毎日爆撃をうけているような閉塞感。何処にもいるような凡庸な独裁者はエスカレートしています


ピカソが絵画にしたゲルニカの村を人々は永遠に忘れないだろう。写真では忘却された。バスク語を研究したフンボルトの石碑の近くで、スペイン人は何で自分に道を聞いてきたのか?


1903年ブラームスの影響下から抜け出ることができたとはいえ、ワーグナーとリストの道を先へ進みながら自分の要求に合うような新しい可能性を見つけることはできなかった。この停頓状態に終止符を打ったのは「ツァラトゥストラはかく語りき」だった。

ーBartók Béla バルトーク「小自叙伝」1921


政府は国民にたいして無政府状態になっているだけでなく、自己にたいしても無政府状態になっているらしい。権利のない社会に反対しないで、あなたも私も死なずに生き残れるのか?


『名づけえぬもの』は、サミュエル・ベケットによる1953年の小説です。ものは名が与えられます。そうして、自ら表象する表象が人間と名づけられました。我は表象する、故に我は存在するー目に見えず耳に聞こえないものの名を思考する限り生じる絶えざる根源的錯誤のなかで、名づけえぬもの(L'Innommable)に出会うのではないでしょうか


メダルラッシュの熱狂も後ろめたさもあるだろうが、メダルを噛むパフォーマンスの、誰が一番タフか、勝った国家がたたえられるべきだのメッセージに、拍手喝采。恥をすてた日本凄い


たしかに、子安先生が指摘なさるように、荻生徂徠における『弁名』の命名制作論の見方はヨーロッパの社会契約論と比べることのできる意義深いものである。若い丸山真男はこのことをわかっていたが、明治のホッブス的徂徠論のように正確に理解したしていなかった。荻生徂徠の「制作」を近代主義的に解釈して「生産」であると読み間違えていた。そして徂徠はヘーゲル的だとかマルクス的であると考えることになった。しかし徂徠は国家のことしか考えていなくて、民のことは考えていない。マルクスの「労働」はヘーゲルの「精神」と同様に、カントの「理念」のあり方を中世の見方を支える「物」として再構成したものであった。ここをしっかり理解できていれば、徂徠の古文辞学において、後期水戸学における政治神学の<前に>、歴史の見方を語る言説とともに、カント的な仁斎の<後に>、天皇制国家の青写真である命名制作論が成立したことがわかる


五輪閉会式に天皇参加のクイズゲームを企画していた?「ホロコースごっこ」に対応する「天皇ごっこ」だ!安倍の影響を受けた「柔らかい心」の極右翼達が五輪儀式を利用している


病床ならばたくさんありますよ。五輪を中止して、選手村を専用病床として転用するときです


明治維新150年においても漢文エクリチュールで読んだアジアのコスモロジー形而上学のすべてを失った。philosophieを、どうして中江兆民が「哲学」ではなく「理学」と訳したのか忘れられてしまった現在、すっかり対抗西欧の近代しかなくなったし、対抗しかなくて、抵抗というものが日本だけ起きてこなくなったのはどうしてかと考えてしまう


「百五十年来の西欧文化の最も根本的な特徴の一つとして、自律的な独立した活動としての哲学が消滅したということが挙げられます。[…]哲学が、今や大学教授の仕事に過ぎないものになったということです。-フーコ「文学・狂気・社会」


まだサルトルが論じられる価値があるとしたら、ユダヤ人問題の分析だろうとポストコロニアルの論客は言います。マルクスユダヤ人問題によせて』で分析されていることですが、19世紀の近代国家の成立とともに国家に属さない他者の存在が可視化されることになりました。近代国家の成立とともに、全体主義が誕生します。日本をみても、明治維新の帰結として昭和10年代がありました。全体主義国家とって、亡命した私はドイツ語を喋るが、自分がドイツ人だと考えたことがない、愛国心のないハンナ•アーレントみたいのが、排除されるべき他者で、この他者の名が「ユダヤ人」であるとわたしは理解しています。とにかくハンナ•アーレントのような知識人の分析によって、ナチス全体主義としての意味がはじめて分かるようになりました。

レコンキスタ(Reconquista)は、718年から1492年までに行われた、複数のキリスト教国家によるイベリア半島の再征服活動の総称ですが、このように遡ると、ユダヤ人問題は、ヨーロッパのあり方に関わる問題です。近代国家の体制が押しすすめたユダヤ人問題を解決するためには、再び、近代国家に委ねることは倫理的に不可能です。EUは新しい普遍主義を模索していますが、この模索が(EUにも責任がある)極右翼によって非常に悪い形にならざるを得ません。

ユダヤ人とイスラエルの両者にたいする排除の言説が起きています。比べると、日本における問題も<韓>の排除です。『日本書記』『古事記』の時代に遡ると、<韓>の排除とともに、日本が成立しました。<韓>の排除とは同一性の差異を排除です。同一性を前提にして異質であると考えるからうまく距離が取れないのですね。もう現代は<韓>の排除を止めて、<韓>を不可避の他者として構成していくような関係をつくることが必要ではないかとおもっています。


読み飛ばされた大事な原稿の文を読んだ。許されない間違いであったが、いかに釈明するかが大切だった。決定的なその言葉が待たれていたが、「のりでくっついた」。菅は二度嘲笑う?


どんな崩壊も世界は知覚できないほどの非連続性が存在しない。そうして光から古典世界を支える理念が照らされるが、闇は理念の高慢が遠くに行きすぎないように押し留める。バロック


崩壊は不均衡において読み取れる。どんな崩壊も世界は知覚できないほどの非連続性はないが、不均衡が安定化してしまう問題を解決する為にはプライオリティを制作しなければいけない


東京五輪の中止を要請できなかった国連の限界は、グローバルデモクラシーを体する超国家組織は主権国家をモデルとする限り、国家中心に戻る必要がない時代に国家中心の現前にある


ヨーロッパへ行くと、国家と教会との自由主義多元主義的な共存を考えることができる。国家は教会が何をいうのか一切関わることはないが、教会の存在する自由をみとめるのである。現在進行形でそういう歴史のなかに生きている、ヨーロッパは、国家神道については日本人が考えるよりもよく知っていることに驚くときがある。

遠藤周作が読まれるし、ヒロシマと長崎にいたキリスト教信者の生き方をどう思うかと質問される。戦争体制のなかの宗教のダメージが日本人の、多分彼らからは無神論者に見えるこのわたしの、ネガティブな宗教観に反映されているとダブリンで言われたりした。

それにたいしては、分からないが、わたしは宗教そのものを否定することはない。と、おもっていたが、わかっていたつもりが、全然わかっていなかった国家と宗教の問題を東京にもどってから考えることになった。そしてこういう問題は、漢字文化圏である東アジアの中国や台湾、コリアの神に対する考え方も検討しなければわかってこないということに気がつきはじめている。


神道は宗教でしかないのに、現在も宗教でないようにと説く、ニッポンすごいのスピリチュアルの過剰に明るい語りが幅をきかせるのをみると、そういうのはヤバイとおもうし、また戦前の国家神道の問題が十分に認識されていない現状をみると、歴史修正主義の時代にあって大変危険な無知であるとおもうが、わたしは宗教をそのものを否定してはいないとおもう。もしそうでなければ、思想史の視点から、国家と宗教との関係のあり方を議論していないだろうし..


問題は、国家神道の問題を政教分離の問題として考えている根源的錯誤にあるようにおもう。政教分離は西欧人を受け入れる必要のあった明治からずっとあったのだし、その観念もキリスト教がはいってきた江戸時代から既にあったのである。

問題は、国家祭祀にある。生と死、この両者は、人間において、お互いに切り離すことができない。独立国家日本を誕生させた、復古主義の言説はそう語ってきた。問題は、日本ファシズム。生と死の覆い尽くすことのできない重なりあいの領域を国家が隙間なく包摂してきたときに何が起きてきたかである。ここから、アジア2000万人の命を奪ってしまったことをどう考えるかである。


もしヨーロッパ人が感じとるネガティブな見方があるとすれば、宗教論ではなく、むしろ道徳論にあるのではないかとおもう。復古主義の近代化の問題を考える必要がある。対抗西欧の近代化に対する反動である国民道徳論のせいで、日本ナショナリズムの言説に絡み取られていく歴史があった。日本ナショナリズムのなかの道徳のダメージが、日本人の道徳論にたいするネガティブな見方に反映されていることはたしかだ。

西欧の市民エシックス(カント、スピノザ)の哲学をめぐるアカデミックな分析は活発だし、17世紀における学問をもった近世儒者の道徳論も自由に語られる。しかし道徳のあり方を気兼ねなく喋ることはできないのは、歴史修正主義の政権のもとにあるからである。市民は日本ナショナリズムの言説に絡み取られることに警戒しなければならないことに十分な理由がある。


Quand le développement se subordinate la form et s’étend sur l’ensemble, comme chez Beethoven, la variation commence à se libérer et s’identifier à la création. ーD=G

ベートーベンにおけるように、発展が形式を従属させ、全体に及んでしまうとき、変化は解放され、創造に等しいものとなる。


映像の世紀」に、移動する人間たちを、彼らと共に動くひとりが意図もなく8ミリで撮影した映像がある。かれはそこで見たものをまさか日本人が見るとは思っていなかっただろうな


中国の戦場へ行った叔父さんは高田保馬の本をもっていた。マルクス主義を乗り越えることが課題だったという。戦後勉強していた二宮尊徳が後期近代を支えるものかは分からない


国内感染累計100万人なのに、ワクチン供給国第三位!?ワクチン外交で主導権を握っているのは安倍。五輪ナショナリズムを諦めて反中のワクチンナショナリズムを考えているのかも


「死にきった過去」をたたえる


生と死、この両者は、人間において、お互いに切り離すことができない。独立国家日本を誕生させた、復古主義の言説はそう語ってきた。問題は、日本ファシズム、国家祭祀である。生と死の覆い尽くすことのできない重なりあいの領域を、<未来を思い出す>国家が隙間なく包摂してきたときに何が起きてきたかである。しかし生と死の覆い尽くすことのできない重なりあいの領域が、「死にきった過去」と三木清が呼んだものに定位するならば、国家が介入する余白がないだろう。これがわたしの文化論である。アジアにおける反ファシズムとしての、「死にきった過去」をたたえよう


東京五輪に関するニュースで不快にならないものはない


IOC菅首相小池都知事に五輪功労章


古事記』に、生け贄の場面があります。スサノオノミコトが、8つの頭と8つの尾を持つヤマタノオロチを退治して、生贄にされるところだったクシナダヒメを救うのです。


尒、速須佐之男命抜其所御佩之十拳釼、

切散其虵者、肥河變血而流。

故、切其中尾時、御刀之刃毀


尒して、速須佐之男命其の御佩みはかせる十拳釼とつかつるぎを抜き、

其の虵へみを切り散らししかば、肥河ひのかは血に変なりて流れき。

故、其の中の尾を切りし時に、御刀みはかしの刃毀かけき


これをどう解釈するかですが、スサノオノミコトは、<動物>ヤマタノオロチを宇宙の中心として再構成することによって、外部へ脱出しようとしているのではないでしょうか?記号体制において、 和辻の「神」解釈から、言説を制作する主体へと自立していきます


イラストは『千の高原』より

漫画は石ノ森章太郎

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古事記』によると、八百万の神々が天の安河の川原に集まり、対応を相談した。思金神の案により、さまざまな儀式をおこなった。常世の長鳴鳥(鶏)を集めて鳴かせた。


於天安之河原。

神集集而。

〈訓集云都度比〉

高御產巢日神之子

思金神。

令思〈訓金云加尼〉而。


いかに外部へ出るか神は考えたのである。

この答えは、別の記述にありました。


古事記』に、生け贄の場面があります。スサノオノミコトが、8つの頭と8つの尾を持つヤマタノオロチを退治して、生贄にされるところだったクシナダヒメを救うのです。


尒、速須佐之男命抜其所御佩之十拳釼、

切散其虵者、肥河變血而流。

故、切其中尾時、御刀之刃毀


これをどう解釈するかですが、スサノオノミコトは、<動物>ヤマタノオロチを宇宙の中心として再構成することによって、外部へ脱出しようとしているのではないでしょうか?記号体制において、 神は、和辻の「神」解釈から、言説を制作する主体へと自立していきます




「感謝」「感動」のスローガンにあふれた戦争プロパガンダの絵画みたいだ。嗚呼スガーリンは誇りに感じる。だがなんかうつろ。女性蔑視、容姿や身体障害者へのやゆ、食品ロス…


ヨーロッパでは転向は問題にならない。ナチスの戦争協力が問題になる。戦後民主主義の日本は「ホロコーストごっこ」すらゆるされるが、転向が罪である。思想を変えてはならない、と


「顔を背ける」をたたえよう


顔を背け合う神々。顔を背ける神は背かれる神である。顔は仮面である。読むことができない記号体制である。そこに外部の思考がある。しかし顔は顔であるかぎり、祀る神は祀られる神である。意味するものー意味されるものを読むことができる記号体制である。


「五輪やって良かった」60%

        =

「国がなにをやっているのか理解できていません」60%


『教行信書』に知識人親鸞の思想を読める。お唱えで救われる筈もないのに私は人々の間で何をやっているのかと書いた。転向した三木清親鸞へ行った。現在も日本知識人を捉える親鸞


仮面の裏側に仮面しかない。仮面の裏側に顔があるのでもなく、或いは表である顔のしたに裏である仮面があるのでもなくて


何の経験も感性の成長もなかった八年間の理由は?「今までは五輪が目くらましになってきたからまだ良かった」と自民党が教えてくれているのに、まだ「五輪開催して良かった」なの?


伊藤仁斎は、天地において表象される往来の運動を道と呼んだ。道は路であると。『童子問』(1707)では、それを見上げる人が形而上学的「地」に立ってはじめて成り立つものを形而上学的「天」と名づけようとしているようだ。人は限りのあるものだが、だからこそ学が有限な人を無限なものにしてくれる。経験知の人はまだ登場していないが、それまで語られなかった人が朱子学の透明な言語における表象の限界に立っている。フーコの一文を借りると、

「厚みのある第一義的実在性としての人間、可能な認識全体の困難な客体であると同時に至上の主体としての人間」は、朱子学の透明な言語にいかなる場所も占めていないことが言われようとしている。

Et l’homme, comme réalité épaisse et première, comme objet difficile et sujet souverain de toute connaissance possible, n’y a aucune place. ー Fou cault

「厚みのある第一義的実在としての人間、可能な認識全体の困難な客体であると同時に至上の主体としての人間は、そこではいかなる場所も占めてはいない。」


伊藤仁斎にとって『論語』の向こう側にあるものは、親鸞が語った此方の世界の向こう側にあるものではあるまいか。


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現代国家は領土と人口のコントロールの為に安全安心を言う。安全スローガンを垂れ流しながら、人の流れを止めれなくなった感染日本は国家ですらない。明日国連にSOSの電報をうて


アジア主義ー近代の超克ーは日中戦争で破綻した。戦後竹内好は理念としての戦争を再構成した。戦争は戦争する必然がなく国家を対象にもたない。だが戦争も理念化すると難しくなる


<仮面の裏側に仮面しかない。仮面の裏側に顔があるのでもなく、或いは表である顔のしたに裏である仮面があるのでもなくて..>

アイルランドはヨーロッパの周辺にあるだけではなく、ヨーロッパの一国なのに植民地化された。われわれはなにか?これはアイルランドで取り組んだポストコロニアルの問題提起


竹内好は語る。平等の実現の方法と共に、最高の原理は西欧にある。ただし植民地主義の問題があった。アジアは、部分が全体を包み帰すように、西欧を豊かにできるのではないか。そのときアジアは方法としての自己に何かをもつ必要があると


小田実中江兆民を読んで古代ギリシャ民主制とルソーの社会契約論を考える。そして復古主義の近代化を理解した上で、国家が介入できぬ「死に切った過去」の思想を語る三木清を読む


平田篤胤の幽冥論は大国主神の国譲の記紀神話と無関係ではないと思う。生と死の覆い尽くせない重なりあいの領域を、「死に切った」訓(よ)めない漢字書記言語のテクストが支える


平田『仙境異聞』はガリレオ天体論と神道が一体の神道的リアリズムの如き変なものを語る。アジア主義の東洋的西欧も西欧的東洋も、<と>を他者化する思考の柔軟性であるべきだった


竹内好において再構成されたアジア主義は大袈裟なものではない。アジアは部分が全体を包み帰すように西欧を豊かにできるとは、たしかに、曖昧な観念ではあるが、思考の明確なイメージをもっている。破れ傘ー至る所全体化できないー

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投射をたたえる


みんなかつては、小さな自分がより大きななにかに向けて、たとえば、星に向けて自分を投げかけるという観念が大好きだった。夜のランプの下に照らし出された地図は子どもにとっては無限だから。冒険に出ようとする空想のなかでは、聖人の時代の先王たちも自然に向けて自分を投げかけた。この投射の形式において王の支配の力はあたかも自然の力としてある。自然が世を観たのである。もっと後の時代になると人間が現れた。しかし、自然は、人間の自分自身を見るなどという身の丈を超えた傲慢をゆるさかったので、人間は自然から自分に向けて自分を投げかけなければいけなかった。その人間とは天理の真下に存在する皇帝であった。新しい投射の形式においては自然の力は恰も王の支配の力としてある。天は均く万物に性を与えるという宇宙に関する大いなる物語が成り立っている。性とは生まれつきの心の方向である。


アマテラスとスサノオの誓約


天照大御神詔、然者汝心之清明、何以知。於是速須佐之男命答白、各宇気比而生子。


以下Wikipedia より


伊邪那岐命イザナギ)が建速須佐之男命スサノオ)に海原の支配を命じたところ、建速須佐之男命伊邪那美命イザナミ)がいる根の国(黄泉の国)へ行きたいと泣き叫び、天地に甚大な被害を与えた。イザナキは怒って「それならばこの国に住んではいけない」と彼を追放した。

スサノオは、姉のアマテラスに会ってから根の国へ行こうと思い、アマテラスが治める高天原へ昇る。すると山川が響動し国土が皆震動したので、アマテラスはスサノオ高天原を奪いに来たと思い、武具を携えて彼を迎えた。

スサノオはアマテラスの疑いを解くために、宇気比(誓約)をしようといった。二神は天の安河を挟んで誓約を行った。まず、アマテラスがスサノオの持っている十拳剣(とつかのつるぎ)を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の三柱の女神(宗像三女神)が生まれた。


この三姉妹の女神は、アマテラスの神勅により海北道中(玄界灘)に降臨し、宗像大社沖津宮中津宮辺津宮、それぞれに祀られている。


多紀理毘売命 - 別名:奥津島比売命(おきつしまひめ)。沖津宮に祀られる。

多岐都比売命 - 中津宮に祀られる。

市寸島比売命 - 別名:狭依毘売命(さよりびめ)。辺津宮に祀られる。

次に、スサノオが、アマテラスの「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の五柱の男神が生まれた。


左のみづらに巻いている玉から 天之忍穂耳命

右のみづらに巻いている玉から天之菩卑能命

かづらに巻いている玉から天津日子根命

左手に巻いている玉から活津日子根命

右手に巻いている玉から熊野久須毘命


これによりスサノオは「我が心清く明し。故れ、我が生める子は、手弱女を得つ。」と勝利を宣言した。


アマテラスとスサノオの誓約(うけひ)は社会契約的なものの破綻か?この場合国家が奴隷状態である。裏切られたスサノオは自然状態へ帰る為に戦うがアマテラスに剣を渡してしまった


悪は、限りがないものである。だが、無限なものではない。無限なものだけが、限りがないものに、限りをつける。ーSimone Weil

精神の眼は射影幾何学の倫理化である


二週間のあいだ、毎日おなじ紙面で、並置というか、右半分(あるいは上半分)はコロナの危機を伝える記事、左半分(あるいは下半分)は五輪の日本選手の活躍を伝える写真。これでは、コロナ禍を克服できるヒーロー登場を読みとるひとも多かったのではないでしょうか。東京五輪を協賛した新聞の体制だったとはいえ、編集にそういう意図はなかったとおもいますが、残念なことに、菅首相のスローガンに沿った、政治的なメッセージとなっていました。結果(感染拡大)には原因があるという認識を隠蔽してしまいました。


ブレア-ブッシュ以来、イギリスは極右翼原理主義が席巻している。ある年、左翼リベラルは、ロンドンで、いかにユダヤ人も娘をナンパするかを教えた文化論的ハウツー本とともに、極右翼の聖書を解説したスピリチュアル系ハウツー本がベストセラーになったことを非常に心配した。左翼リベラルとコミュニストの聴衆者たちに向かって、しかし、ジジェクは、ユダヤ人がいかに神をやっつけた方法が書いてあって役に立つから聖書を読むべきだと。その方法とは、民は「証」をもとめたのであった。なるほど、もっとわれわれは極右翼政治家たちにたいして、彼ら自身が口にしはじめた「エビデンス」をもとめよう。

ちなみに、力不足ながら、『古事記』を読みはじめることに意味があると考えはじめたのは、古事記』を読む極右翼(日本会議)のイデオロギーをやっつける読み方が、外部的読みが読みなおす『古事記』に書いてあるとおもっているからである


玉座にのっている愚か者は、ただ愚か者というだけで、あらゆる責任を免除される。トランプと習近平に対抗するためにはアベぐらい愚か者を必要としたが、現在スガーリンは必要なの?


民主主義から愛されない国家でも、愚か者が愛してくれる。内閣支持の理由の「ほかにいいひとがいないから」は「ほかに愚か者がいないから」という意味なんだろう


パリ、ロンドン、ニューヨーク…結局シネフィルのわれわれは古い映画を上映してくれる映画館のある都市にしかすめないのだ。とっくの昔に東京で溝口映画をみることができなくなった。パリへ出かけて行って溝口を見るチャンスもあったが、それも無理、もう外国へ行くこともできないだろうから。知識で映画を語り尽くす世界、そこにもう居場所がないのだ


雨月物語』は死に場所のない近代を物語る。魂は肉体を住処としていたように、生者に伝えたい死者の言葉は建物と共に在った。まだ世を支えるものはそれほど堅固か(廃墟と化す)


洞窟の一つ目の巨人キュクロープスから逃れるためにユリシーズは動物の腹のしたに隠れた。フランシス・ベーコンの絵みたいだな..


貴方(チョムスキー)が考えておられるのとは反対に、私は人間性・正義・人間の本質の実現というような観念や概念は、我々の文明内部で、我々の知の型の中、哲学の形の中で作られてきたものだと考えざるをえないのです。ーフーコ『人間性について』


完全な計画化だった筈の植民主義が破綻した日本。歴史の反復。若者も、私も、何かこの国に「希望」をもてない。必然として東京五輪は破綻した。64年のときは隠蔽されていただけである


「浩浩」をたたえる

•「大海哮 (た) けり、浩浩又浩浩たり」(蘆花)

•「道之浩浩」と伊藤仁斎はいう。子安先生は、「道は極まりなく広く大きい」(ただ学問のみこの道を尽くすことができる)と訳している。


知識で映画を語り尽くす世界、そこにもう居場所がないと言いながら、理屈っぽいゴダールについてしつこく書いている自分は宣長的人間かもしれない。救われないと最初から諦めている


反抗的人間が書くゼロから作る文と違って、読んだら、その読み手も、書き手であるわたしも、消えてしまうような文しかこれからも書けないのだろう


ユダヤ人がわかると世界がわかる」。わからないなあ。だって、「ユダヤ人がわかると世界がわからなくなる」のに(ウィットゲンシュタインを読め)。そもそもだれが「ユダヤ人」なのか?


詳しく書けませんが、アカデミズムも、靖國神社は(海外mediaが呼ぶ)戦争神社ではないと理解しはじめたということですね。明治初期の政府に神祇官として宗教者が入ったことが政教分離違反で、このときだけは問題があった。しかし国家神道の推進主体はあくまで国であって、その限りにおいて、政教分離は保たられていたのであり、靖國神社は無関係(無罪)だという見方に移ってきているときいています。だから、文化として、「靖國神社としての日本人」のアイデンティティを言うことに何の問題がないのです。しかし靖國神社の問題は、政教分離の原理をめぐる言説に即してその内部で考えるべきではなく、アジア2000万人の命を奪った形で祀る国家が闘う国家であったという国家祭祀の問題として外部的に構成しなければならないとおもうのです。「外部的に」とは、台湾とコリア、中国、アジアから靖國神社がどうみられたのかということです。果たして靖國は帝国の日本国家と別々にあったのでしょうか?敵を殺して死んだら、神さまとして、靖國に帰れるぞと言われた兵隊にとって、死者を支配する、憲法に書かれていない権力をもつ天皇が参拝する靖國と日本国家は別々にあったのでしょうか?唯一正統な統治権をもつ古代の天皇から三種の神器を預かっている、国家と憲法(政教分離)の上に立つ伊勢神宮靖國神社と日本国家は国体としてひとつだったのです


ホロコーストごっこ」と「ホームレスの命はどうでもいい。いない方が良くない? 人間は自分たちの群れにそぐわない、群れ全体の利益にそぐわない人間を処刑して生きていける」


ホロコーストは、ユダヤ人や障害者やナチスに対する抗議者を収容所にいれておいて、収容所の中の彼らを指さして彼らが社会に役に立たない存在だとして、殺戮していくことになった。今日やはりネオリベはホームレスと呼ばれる人々を目に見えない、壁と建物なき収容所にいれている。収容所の彼らをつぎのように指示する。「ホームレスの命はどうでもいい。いない方が良くない? 人間は自分たちの群れにそぐわない、群れ全体の利益にそぐわない人間を処刑して生きていける」。これは、ほかでもない、日本ネオリベの何でもかんでもカネがモノを言う“ナイーブ”な日本「ホロコーストごっこ」である


ホロコーストごっこ芸人、名古屋市長、メンタリストさんの差別は生者の間にヒエラルキーをつくる差別だとしたら、靖国参拝の差別とは死者の間にヒエラルキーをつくる差別である。補い合っている


ホロコーストごっこ芸人、名古屋市長、メンタリスト、靖国参拝は統一を求めて排除する。他方で理(ロゴス)に基づいて分裂する理念のほうは互いに消滅しあってはならならないと思う


バブルのインフレで苦しんだロンドンでこのパフォーマンスを見た。80年代の作品である、

William Forsythe's Impressing the Czar (Royal Ballet of Flanders)。フォーサイスのバレーは、フーコが「王の場所」と呼んで分析したのものを取り組んでいるとおもう。嘗て皇帝がいた世界の中心に、後期近代の現在は、観客である消費者が占めている。パンオプティコン(Panopticon)における観客としての市民の役割のように、近代における支配のあり方は無観客では成り立たないのだ。支配されているものが支配しているような構造ー究極の精神の従属のあり方ーを問うた舞台である。ちなみに、差別がないようにと、男性バレリーナ達も制服を着て踊っている


五輪の選手は観客を必要としない。多分オリンピックが好きな観客も選手を必要としてはいない。演劇の役者と観客は互いに必要としている。映画の観客は孤児からスクリーン(死装束)に成っていく


嘗ては山の向こうの先祖に会うために山に登りながら自身が先祖になった。都市の映画観客は孤児からスクリーン(死衣装)になった。山も映画もない現在は、ナショナリズムが荒れ狂う


77年前のカウラ事件はオーストラリアのシドニー郊外での集団捕虜脱走事件。シドニー時代にユダヤ人の大家さんが両親に何が目的だったか分からないと時々聞いていました。記憶のなかの両親は迷惑そうに返事に窮していました。白豪主義植民地主義者はインドネシアを黒い豪州と呼んでいました。そこのオーストラリア兵2000人?が日本兵に殺されたそうです。そのように語られていました。もちろん戦争責任を果たさないから大東亜共栄圏構想は理解されることはないので、わたしの経験を振り返ってみると、当時までは普通は日本兵は悪夢が来たというような感じで極めて曖昧に宗教的に理解されていたのかもしれないですね。昔のこと過ぎてほんとうに大雑把なことしかわからないですが、白豪主義が正式に終わった労働党政権の1970年以降からは認識の仕方がリアルに違ってきたとおもいますが


長編「虹色のトロツキー」第一巻を読むと満洲国を支える建国大学の描写があるが、マルクス主義学者が計画関与した大東亜共栄圏構想と石原莞爾ファシズムを混同していないだろうか


「太平洋戦争」という言葉は、日本のアジアに対する侵略を隠蔽しています。事実上15年続いた中国との戦争が行き詰まってアメリカと戦争しました。20世紀において15年以上戦争している国って、日本のほかにないのです。日本はいくつの国と戦争したか知っていますか?日本国と48ヶ国によってサンフランシスコ平和条約に調印されました。この48ヶ国に、中国と台湾、韓国と朝鮮は入っていません。ソ連は調印していません。日本は58カ国以上の国と戦っていました。


フォーサイスが振付け、演出した舞台作品である「気象学に関する三つの事柄」William Forsythe’s Three Atmospheric Studies(2006)は、ゲルニカのダンス化である。第二幕は、母親とアラブ人官吏(=翻訳者)の関係を示した。母親は反戦デモの息子が捕まったと訴える。翻訳者はあなたの言っていることは理解できないので翻訳できないと繰り返す。母親はだんだん狂ってくる。ロンドンでの評判は決してよいものではなかった。どのように論じていいかわからなかったのである。イスラムからの問題提起、大いなる他者との関係をゼロにして、エクリチュールだけを論じる翻訳エクリチュール論ーとくに日本ポストモダンが陥っているーに還元してはならないことを考える舞台にわたしは衝撃を受けた。


近代主義は漢字も英語も同じだ。大いなる他者(中国)との関係をゼロにして、エクリチュールを翻訳に還元して理解しているが、それはアジアにとって何の意味があるのかと聞きたいよ


虹色のトロツキー」は中国とロシアと日本にはさまれた満洲の建国大学の知を描写する。所詮国家の為の知だ。自分自身の関心から中国に行って調べる橘樸みたいな存在が私には面白い


ポストモダンはヨーロッパ中心主義を解体した筈なのに、日本におけるポストモダンのヨーロッパ中心主義化に疑問をもった私は勝手にヨーロッパの端っこに行って考えてきたが思考不足


萩生田光一小泉進次郎井上信治は、A級戦犯が合祀されている靖国神社を参拝した。

小泉進次郎の父親は首相のとき公式参拝したとき、「おれの信教の自由をみとめろ」と言った。<ーガキじゃないんだから我慢しなよ


萩生田光一小泉進次郎井上信治は、A級戦犯が合祀されている靖国神社を参拝した。靖国神社は、アジア諸国が認めてくれれば、A級戦犯の合祀をやめたうえで、負の文化遺産として残る可能性も考えたが、こういう連中がいるから取り壊すべきだ。彼らのやっている靖国公式参拝は、憲法が禁じる国家神道復活だ。どうせ19世紀後半に作られた顕彰のための近代建築物で、現在はもう遺族もいないのだから。弔うならば、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑があるのだからそこへ行って


「五輪の近代」は終わったと語るけれど、近代というのは、世界が選択の自由もなく再び始まってしまっていて、知らないまま「終わった」という意味が与えられているのに。でもやっぱり飽きた


聖人と天照大神復古主義は<と>の他者化である。活動家知識人の武士は、未来ー西欧列強下の清朝中国のリアリズムーにも、過去ー象徴天皇制を崩す神話的なものーにも依拠できない


インドと中国とロシアに挟まれている廊下みたいなこの国で、米英に巻かれている、われわれはおなじアフガニスタン人であると言うことができるようになることが、巻き返しの始まりか


徳川日本における武装した薩長は、わかりやすくするためにあえて言うと、今ならばアフガニスタンの部族と同じで、「私の立場」しかない。吉田松陰はテロリストであった。横井小楠は「公」の普遍に立つ開国を主張したが、しかし彼はテロで殺される。長州は京都の天皇を東京に連れてきて滅茶苦茶になった。それまで、17世紀に始まる武士政権の時代に京都において文化権力しかもたなかった天皇に政治権力が集中することになり、薩長がそれを利用するのであるが、日本帝国主義が完成した後は、ここから、昭和10年代における国家祭祀のファシズムが起きるだろう。「私の立場」の薩長に占拠された明治維新は王政復古となった。その結果 徳川日本の差別と比べることができない規模の差別の拡大が明治日本から生じる。日本の近代化は最初から間違っていたから結局なにもかもうまくいかない。この意味で安倍政権は必然だったと言わざるを得ない。彼の歴史修正主義は、日中戦争を消去することであり、長州の「私の立場」の王政復古に万歳することである。この歴史修正主義とともに、解釈改憲軍国主義の復古と国家神道(公式参拝)を復活させてしまった


地球の多数派は政治的に独立しても経済的に独立できないーこれが現代世界の最大の問題である。中国の貧しいチベットとウイルグルに対する介入は理由があり、チベットとウイルグルは中国の経済援助を必要としているということは理解できないわけではない。もちろんウイグルを収容所化することは許されないやりすぎである。他方で、中国の香港と台湾に対する介入は政治的自由の簒奪でしかない。香港は外交権と軍事では中国を必要とするが、経済に関しては中国を必要としていなかった。台湾は現在を築くためには中国をまったく必要としていなかったのである。



一国二制度が破綻している中国の一帯一路構想は、破綻した戦前マルクス主義者が構想したアジア経済圏と比べると、共通するものがある。破綻したとはいえ、戦前の経済学者と法学者に全部について事実上戦争犯罪人としての責任を負わせたのは、間違いか、やり過ぎだったかもしれない。全部がファシズムだ、ファシズムだと指さすと、本当のファシストを見逃してしまうことが起きるかもしれない。もちろん天皇ファシストには戦争犯罪人の責任を負ってもらわなければならない。しかし日本は戦争犯罪人は政治の中心にカムバックしたし、その孫も大きな影響力をもち続ける


中国をみても東京五輪をみてもおもうのだけれど、アジアは開発と経済はどんどん進むのに言論の自由が進まないのはなぜ?やはりアジア的生産様式として説明すべきことなのだろうか


MEMO

蝋山政道「地域的運命」、三木清「新しい東亜文化」、 高田保馬「血液の接近、文化の類似、住域の隣接」


おお、レンブラント先生は闇から問う。あなたの手はありますか?昔は想像するだけでよかった。これからは、手と名づけられたものが存在するためには、手を表象の厳格な連続性のなかに見なければいけない。光と闇のあいだにある。そして語根も名である。言葉は太古に遡る起源のなかに存在するのだから、時間のなかにしか存在しない。これからは言葉を目で見ることができない(死の日付とともに、いきなりあらわれたから驚いている)


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アメリカの撤退はベトナム戦争から始まった。ベトナム戦争は敗北ではなかったがイラク戦争では敗北した。中東は米国の支配にあるなか、アフガンからの撤退は敗北に非ずと必死な訴え


アフガニスタンの位置を地図でみると、インドと中国とロシアに挟まれている廊下みたいな国である。現在は日本からみている。歴史的な繋がりがある。アフガニスタンにおける仏教は、数千年もの長い歴史を持ち、大乗仏教の起源にまで遡ぼるという。そしてイスラムがくる。

アイルランドから考えたアフガニスタン紛争(2001)のときは、アイルランドから考えたアフガニスタンは、大英帝国アフガニスタンにおける歴史とともにあった。イギリスの後に、ソビエトアメリカがここにやってくる。宗教は住民の世界資本主義にたいする抵抗の形をとっている感じである。世界資本主義の分割である、4つの帝国(アメリカとヨーロッパ、ロシア、そして中国)とかかわる貧しい小国の現実。地球の多数派は政治的に独立しても経済的に独立できないーこれが現代世界の最大の問題である。アフガニスタンの一帯一路を考える、中国がタリバンに接近していると報じられる。タリバンのもとで貧しいものたちの識字率はあがったが、女性が学校や職場から排除されてしまった問題をどう解決するのか。近代の体制のなかで古代法の処罰が適用されている。

西欧の歴史を考える。イスラムは自らを排除する近代化・西欧化を全面的には受け入れなかった。現在をみると、残した伝統、いわゆる前近代から抵抗が起きている。一考の価値がある。比べると、日本における近代化は下級武士が推し進めた、伝統をゼロにした完全な近代化であった(完全なは正しいを意味しない。)漢文エクリチュールとともにあった、アジアのコスモロジー形而上学もすべて失った。結局現在われわれはその代償を払っているのではないか?チョムスキーが「外交政策の占拠」とも呼んだ<オキュパイウオールストーリート>の時代に世界中が抵抗の声をあげているのに、何の抵抗も起きてこないのはこの日本だけである。なぜだろうか?一度確立した物の見方のなかでそれとは別の見方をすることが難しい。とくに完全な近代の場合は..

西欧列強がきたアジアの歴史を考える。中江兆民の思想を考えてしまった。彼はルソーの自然と作為に表象したものを「天命の自由」「人義の自由」と名づけたのであった。アジア主義日中戦争によって破綻した。もうアジアを実体化することはできない。だけれど、近代の開発と戦争と同化主義にたいしては、理念であるような、方法としてのアジアを考えてみることは意味があるとおもう。巻かれている、われわれはおなじアジア人であると言うことができるようになることが、巻き返しの始まりなのか?Fbには演劇鑑賞でアフガニスタンの研究者もおられるので貴重な投稿を読んでいる


国民主権の現行憲法象徴天皇制に関しては、天皇主権であった明治憲法との連続性はありません。八月革命説の宮沢は戦後憲法における天皇の地位が天皇機関説におけるものを継承していると考えています。芦部も、宮沢説を批判的に検討しながら、基本的には宮沢の考えを認めて、象徴天皇制を、神話的天皇制に還元できないと言っているとおもいます。ただし、憲法に限定的に列挙された国事行為とは別にある天皇のお言葉を一切認めないわれわれからみると、清宮説(「天皇の行為」)を認めるような芦部は日和見ですね、国民主権の構造を壊す危険な天皇抑止論をたすけていませんか?


アフガニスタンは独立国でアメリカの州ではありませんよ!日本知識人は米国からみる視点しかないのかしら?明治の前に生まれていたら今度は中国からみる視点だけで喋るのでしょうね


もうすこし勇気があれば、書いたり描いたりしないのだけれど

対角線にある最初の名指しにきたりしもしないのに


テロリストは権力にたいして戦略的である。政権を掌握したときに、マスコミが「銃の政治」は終わったと言うと、それは「嘘のナレーション」を構成するかもしれない


吉田松陰は幕府の圧倒的軍事力を前にテロリズムを選ぶしかなかった。問題は明治のクーデターによる始まりは正しい始まりではないこと。未だ市民は国に逆らうと怖いぞと脅されている


国史カトリック系とプロテスタント系の権力闘争。後者が勝てば敵の王を殺して子供を移民の如く育てた。前者が権力を取り返せば敵の王を殺すが子供を移民の如く育てた。有為転変


歴史的な過去の観念であるが、言語は文法をきちんと構築できれば不要な名詞は要らないという。空間的にある多様性(転移)は命題の論理的順序に帰す。曖昧な観念と明確なイメージ


十年ぐらい、石川台の対角線の交差するような場所に隣接したところにすんでいる。道端でみんな結構すごい喋るね。夜の恋人達の会話。朝の散歩者達の挨拶の言葉。昼の出稼ぎの電話で人生を回顧する言葉。こんなに喋るの?人々が活発に喋るのは一体どうしてなのだろうか。解放されていると感じるのか?わからないが、もしなにかの表象を名指す命名ならば、ここは、思考と言葉の絡み合いが可能となるような点で、命題から起源へ向かう線と分節化からレトリック的転移へ向かう線とが交差していると言わざるを得ない


思考と言葉の絡み合いを可能にする、命題から起源へ向かう線(指示と物との安定した関係)と、分節化からレトリック的転移(拡張)へ向かう線とが交差している点。この点において、本居宣長における漢字知識人(!)の古代に向ける視線と『古事記』を訓(よ)むことによって中国文明からの自立を語る多元主義の方向をみる言説を考える。この交差点にある名が、「天地」(アメツチ)であり、言説的になにを意味しているかわからないと解釈される「神」(カミ)ではないだろうか。こうして宣長は、『弁名』の荻生徂徠天皇国家のブループリントをつくったように、国家神道のモデルをつくった。


洗濯バサミをたたえよう

部屋のなかで洗濯バサミで紐に吊るしたページたちを並べて訳したんだ、と、劇団の納会に来た渡辺一民氏は楽しげに教えてくれた。フーコはどの文も曖昧だが考えぬかれている。問題は、後から次々に書き足したような書き方だったらしく、なぜこの文のあとにこの文が来るの?という感じで文と文との関係がわからないことが多々起きるのだ。とくに大事なのは渡辺氏が訳している第九章と十章なのに、最後まで読むのが難しい本である。だから事項索引を利用して辞書的に読むのがよいとおっしゃっていた。池袋の市民大学講座のとき、フーコ『言葉と物』Les mots et les choses の英訳は、The order of things となっていることを、アメリカで英訳が読まれていることに関心のあった渡辺氏に告げたら、「それはちょっとねえ..」と難色を示した。もうその話をしないでくれというちょっとナーヴァスな感じになったから、そのときは何が問題なのか聞かなかった。結局渡辺氏にとって何が問題だったか分からない。Les mots et les choses に言及した原文と英訳を自分のために示しておこう。この和訳(第四章 語ること)は佐々木明氏が行った。


「古典主義時代のすべての言説を組織しているのは、まさに<名>であると言ってよい。語るなり書くなりすることは、物を言いあらわしたり自己を表現したりすることでも、言語(ランガージュ)をもてあそぶことでもない。それは、命名という至上の行為へと進むこと、物と語が物に名を与えることを可能にする共通の本質のなかで結ばれる場所まで、言語(ランガージュ)を通じて赴くことであった。」


On peut dire que c’est le Nom qui organise tout le discours classique; parler ou écrire, ce n’est pas dire les choses ou s’exprimer, ce n’est pas jouer avec le langage. C’est s’acheminer vers l’acte souverain de nomination, aller à travers le langage, jusque vers le lieu où les choses et les mots se nouent en leur essence commune, et qui permet de leur donner un nom. 


One might say that it is the Name that organizes all Classical discourse; to speak or to write is not to say things or to express oneself, it is not a matter of playing with language, it is to make one’s way towards the sovereign act of nomination, to move, through language, towards the place where things and words are conjoined in their common essence, and which makes it possible to give them a name.


選挙のおかげで「独裁者」は出てこれないということにもうすぐなるとおもいますが、選挙のほかになにもないから「独裁者」が生まれてきたということも考えます

『映画史』(ゴダール)はなにゆえに<精神の編集>と言われるのか?映画は精神的なものだから、精神(映画)は精神自身を形成する、ということなんだろう..。そうしてとらえられた『映画史』は、必然として、フランス革命においては平等の理念と人々とを媒介するスクリーンが不在であるという今日の問題を構成しているものを明らかにしなければならない。これは、ドイツ的「国制」(あるいは日本的「国体」)の構成ではない。

ブランショ『至高者』の文だと思うが、「法はどこだ、何をしている?」と問うのは、テクストを命名行為としての法のあり方に置いているからか。二項対立的意味作用に絡み取られない


何の疑問もなく、原理主義テロリストが多分現代語に訳されたイスラム古代法を読ませるのも、オリエンタリズムの知が現代日本語訳の『論語』『朱子語類』を読ませるのも、おなじ近代である


死に切った過去は蘇ることはないし、原初的テクストは読むことが不可能な他者である。しかしこの他者から不透明性を奪いとろうとする原理主義的な暴力を近代は国家と共にもっている


日本の近代は古学からしかはじまらない。『弁名』の荻生徂徠天皇制国家の青写真も、本居宣長国家神道像も、後期水戸学の政治神学的な国体論も、他者をもっていた。彼らは、国家がなかった時代に考えていたので、国家からしか成立しない全体主義を考えていたのではない。死に切った過去が蘇ることはないのだし、古代人の心と古意を想定して原初的テクストを訓(よ)んだが、リアルに絶えず訓(よ)むことが不可能な他者の非透明性に送り返されていたのではないか。問題は、明治維新を王政復古してしまった薩長のクーデターと、明治が江戸時代の翻訳を利用して作った漢字である。過去をどう観るのかゲームの規則が変わったのである。たしかに明治近代の漢字がなければ現在われわれは考えることが難しい。だが明治の漢字によって何が起きてきたのか?死に切った過去と他者から不透明性を奪いとろうとする原理主義的な暴力を近代は国家と共にもっていたのである。西欧の知と対等になった日本知識人が漢文を読めなくなった大正時代に、日本帝国主義が完成した。西欧の知と台頭になったからこそ、その知は植民地をもたなければゼロに等しい。漢字を自国語(母国語)への侵入とみなし、「漢字は借り物である」とする「国語」の思想の誕生である。

昭和の日本ロマン主義は歴史が国土の自然にしか結びつかない。古代の詩人の視野も知識もそんなに狭かったのだろうか?近代は過去を己における声の内部の底に根づかせようとしている


タリバンは、シン・フェインが祖母を守るハリウッド映画に表象される自身のイメージを利用したように、連邦議会議事堂内に乱入したトランプ支持者のテレビのイメージを利用している


土地の神さまはいたが、国家日本と一体の「ご先祖さま」を日本人が表象したのは柳田邦男の本が出た戦後からなのに、古代からずっと「ご先祖さま」の日本人が存在したと思い込む


ハリウッド映画といえば叫び声。最初に誰が叫んだのか?聖人が命名した「鬼神」とともに、祭祀の共同体が成立した。つぎにその境界で未知のものを見たら叫べというきまりができた


国家は自ら表象する表象をもつ。アジア的生産様式はオリエンタリズムの知だが、敢えてポストモダン中国は自らアジア的生産様式と表象して西欧近代と別の近代があった歴史を考えるのは無理じゃないか?「中国の衝撃」の溝口の五•四運動によって独自の中国を考える考え方はいいが、文革の経験がないね


コスモロジー図をじっと見ていると、精神(国民)が天を、身体が帰する地に、還元したら(投射したら)、ドイツも日本も、国は国制•国体として現れたのか?だが天がなくなっちゃう


国制•国体も政教分離を認める点でフランス革命の国のライシテと同じだ。どこも、国家と共に地上の天はあるが、天も死に場所もなくなってきたよね。イスラムからの問題提起はまだ分からない


私は人権が最も大切だと考えている。ただ、人権を理由に米国のナショナリズムによって爆撃された国は人権論に耳を貸すだろうか?彼らが理解できる仕方で語らなければいけない


「汝の意志の格率が、常に同時に普遍的な法則として妥当しうるように行為せよ」だけど、これはなんという高さだろうか。ヘーゲルにとって、カントは抽象すぎた。これだけ高いと、超える無限は超えられる無限である、というような理念性における空虚な循環だ、と、わたしの理解では、ヘーゲルは問題にしていた。しかし、物を離れて、そのような理念性のなかで、生と死を意味づけていくことはできない。そこでヘーゲルは精神をいう。精神は理念の「物」化である

現代世界を支えるのは大いなる他者との関係である。つまり現代世界を支えるのは「死に切った過去」(三木清)である。「死に切った過去」ならば、国家が未来を思い出す透明さがない


「自宅療養者急増 食料「1000人待ち」届かず」(毎日新聞)

東京五輪の弁当が大量に廃棄されていたとおもったら..


徳川幕府天皇を京都に排除する形で、政治権力をもつ。天皇は文化権力をもつ。江戸の政治権力と京都の文化権力との間のまだはっきりしない領域が「忠臣蔵」の背景にあったとおもえば、「忠臣蔵」もすこしおもしろいかな。

さて武士は復讐しなければならないのか?忠誠にために反逆しなければいけないのか?朱子学を公におけるものとして確立したというのに、復讐を朱子学にもとづくものであると言ってしまっては、わからないな…朱子学の公におけるものはどうなってしまうのだろうか?江戸時代から武士は官僚化していく。近代化がうまいくいくかは官僚が武力をもたないことにかかっていることは、ヨーロッパにおいてもアジアにおいてもおなじ。

漢字が主語をなす命題から指示されたものへいく対角線と、理気の分節化からレトリック的拡張へいく対角線の交点に、私の名がある。あなたに問うー「アジア」という名の前はなにか?


カルメンという名の女」(ゴダール)

「映画とは何々である」、「こんなものは映画じゃないと言うなら、映画とはなにか?」と絶えず映画を問う。映画が主語をなす命題から指示されたものへいく対角線と、解体モンタージュの分節化からレトリック的拡張(彫刻的身体)へいく対角線の交点に、「カルメン」の名がある。カルメンが若者に問うー「カルメン」という名の前はなんだったの?(そんな答えしかないなら、やはりあなたとは大したことができそうもないわ)


昔は、ずっと話をきいても何だか反権力的な感じがしないパターンがあったが、今は、話が明らかに反権力的なのに、権威主義的だったというパターンがない?


安倍を敗北させないかぎり、だれが首相でもおなじなんだろう。安倍政治が文化を鍵にして国を支配している。安倍政治にとって、「死んでいるのか生きているのかわからない過去」の文化を生き返らせるのは、ほかならない、国家である。江戸時代に成立した象徴天皇制を壊した王政復古からの、したがって、権力を集中させた理念なき政治の、ゼロからの出発を反復するのである。未来を思い出すこと。安倍は、解釈改憲軍国主義国家神道(公式参拝)の復活を成し遂げたあとに、国家を支えるものとしての、天皇教の皇室に依存しないナショナリズムを構想しているのではないか。その第一ステップとしての、東京五輪ナショナリズムは挫折したようだけれど。それにたいして、国家を支えるものは、「死に切った過去」(三木清)としての文化ではないかと私は考える。脱神話の、訓(よ)むことができない「死に切った過去」の文化に、すなわち他者に、国家が介入することができないからである。矛盾したことを言っているようだが、国家をなくせと言っているのではない。もはや国家中心主義に帰る必要がなくなった時代において、国家を支えるものは、他者とともに成り立つ、国家と対等な自立的個人の思想であるとおもう


外国から来た子どもも、事後的に身につけた母国語では語ることができないような「死にきった過去」をどこかにに隠しもっているのでは?それは未来を「思い出す過去」ではない


存在と時間』を読む和辻哲郎に、『ドイツ•イデオロギー』を読む三木清。三木が「死にきった過去」を言ったとき、ハイデガーの読みにおいてヨーロッパを超えた。何という時代だ!


フクロウ猫、かく語りき


ホーホー、あなたは語と指示されるものとの関係を考えているニャ?そこで、命題をつくる。固有名(フクロウネコ)に属するものは無い、と書く。だとすればだよ、存在の非在における固有名について、発想の大転換が必要。固有名(フクロウネコ)と指示されるものとの関係を考えるときは、「何々がなにに属する」という見方をものをやめて、固有名(フクロウネコ)との関係を無限に差異化していくことができるんだー「このももの、そしてこのもの..」


アジア主義の言説は日中戦争によって破綻したが、戦後竹内好は、アジア主義を全部ゼロにしてしまうと何もかも無くなってしまうような危険を考えて、「方法としてのアジア」を言うことによって、もはやアジアは実体としては存在しないが、関係として差異化できるアジアをはじめて語ったのではないか。今日その意義を考えると、理念的に、アジアは、帝国によっては囲いこむことができない、このものであり、そしてこのものである..


征韓論」ですか。90才より上のひとしかそういう見方をもっていないかなとおもっていたら、70才ぐらいで、西郷隆盛なんか軍人でしかないのに、恰も知識人として勘違いしている、地方から来たドンキホー的な右翼おじさんっているんですね。近代主義的見方に凝り固まっていて、自分に都合よく「国学」を出鱈目に理解していて、そういうひとって、明らかに反権力的なのに、権威主義的。我慢してずっと話を聞いていると、やっぱり日本会議支持者なんですね


聖人はわれわれが見えなかった物を「鬼神」と命名して「共同体」を考えることができるようにした。共同体が何かわからなくなった現在は、「共同体」で意味されていた言葉をさがすのではなく、見えなかった物をさがすべきだとタルコフスキーの映画は教えてくれたのだー亡命した詩人が痕跡を辿るように


英国も二代目の議員がいます。労働党は他の選挙区で出馬するようにアドバイスしているから、その意味で世襲ではありません。横浜は日本世襲議員の問題を明るみに出しました。選挙の自由があるから世襲議員も選挙に出ることはできるが、権利の濫用と不公平にならないように、また違法な脅迫をやめさせるために、当選を辞退しなければならないとおもいませんか


一体どうして日本はアフガニスタンに軍隊を出すのでしょうか?他に方法がない?あたりまえですか?しかし邦人移送なら民間機でできますしね。これは憲法違反の疑いがあります


「岸辺でぼくの声が彼らの言葉で語るとき、ぼくの魂は彼らの言語の影のなかで苛立っている」(ジョイス『若き芸術家の肖像』)


言語支配者は表象されている物を名指す。マイナー言語の人々はそれらの名によってはじめて考えることができるようになる。しかしジョイスは苛立っている。どうしてか?ジョイスは国の外に出てイタリア、フランス、スイスに行ってもアイルランドのことしか書かなかった。連れて行った妻をアイルランドそのものと考えていたらしい。そんなジョイスがやった「自分で決めた亡命」は、母国の外において隠れているように見えても、アイルランドの自立的母国語と独立的一国民主主義へ行くあり方を批判する場所をさがすような、寧ろ国内亡命と呼ぶべきものだったのではあるまいか。国内亡命の場所だからこそみえてくる、マイナー言語の人々の肉体に還ることのできない魂の苛立ちを恰も権利として書いた。誕生した独立国家のもとで、死に場所もなく魂が還ることができないようでは、マイナー言語の人々が定位する共同体が成立していない。『若き芸術家の肖像』は、『ユリシーズ』『フィネガンズ・ウェイク』と比べると、易しい。しかしその易しさはどうしてかくも難しいのだろうか?近代英語は表層的である。近代英語の文学は難しくない。しかし易しさというのも理念的である以上、常に難しさをもつことが避けられないのではないか

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ジョイス『フィネガンズウェイク』(1939)を読んで、はじめて、『ダブリナーズ』が分かったというひともいる。『ダブリナーズ』(1914)の「ザ•デッド(死者たち)」を、もし「鬼神」と理解したらどんなことが言えるか?「鬼神」の命名で国家を制作できたし、精神の働きで地上の天が成立したが、弔う死に場所と天と死に切った過去を失ったマイナー言語の人々は言語の影の中で肉体に還れない魂が呟く疎外の中でしか共同体を形成できない


朱子の「誠」の字ほど日本において生かされていない字はないが、こんな映画を作って映画と映画史の誠実を裏切っていないかという義憤に辛うじてある


シニカルなガースーが好む、朱子の「誠」の字ほど日本において生かされない字はないが、こんな映画を作って映画と映画史の誠実を裏切っていると語る義憤に辛うじて守られている


東京五輪の8年間、われわれは中国をどう語っててきたか考えることをやめてしまった。失われた8年間だった。しかし中国論から逃げてはいけない。もし津田が考える音声中心主義のラディカルモダニズム文革と名指すとどんなことが言えるだろうか。自らの声にすべてを負うような永久革命の純粋を文革と名づけたらどう考えはじめるだろうか。中国と呼ばれているものを見よ、ソビエトともヨーロッパとも異なるものだと溝口は教える。しかしアジアの精神を考えるわれわれは、ラディカルモダニズムは、天皇ファシズムに帰結した復古主義モダニズム批判の後に文革ファシズムをどう考えるのかをやっと考えはじめたところだ。中国を語るためのロゴス的な順番として、先ず、王政復古の明治維新150年を批判しなければいけなかった。あるいは第一江戸思想史講義を見直す必要があった。柄谷のように江戸思想史に挫折したら、われわれは柄谷のように中国と日本とを互いに切り離した中国を語るしかなくなるのか。そうではないとおもう。津田における同じひとつの思想が、日本近代に対して批判性をもち、現代中国の近代に批判性を失うこのことは、中国論をめぐる言説のあり方として思想の歴史に書かれるべきである。



朱子の「誠」字は、こんな映画を作りやがって映画史の誠(実)に申し訳ないと思わないのかというゴダール的義憤のなかにあります


多分ゴダールは自分のライバルはファスビンダータルコフスキーだけだと思っています。彼らの女優達を自分の映画に登用して勝つというわかりやすさ


明かりで意味されているものがなにかだれもしらないことだけはみんな知っています


ジャン=リュック・ナンシーは、「神聖なもの」と「至高なもの」の区別を教えてくれました


権力の集中を問題とすることは民主主義。意味の共有ができるかにかかっています。だが権力の集中を問題とする者がファショ的人物しか出てこないという日本の問題をどう考えますか


権力の集中は国家理性にとって「神聖なもの」でも救ってくれる入り口がありません。他方で共同体は入り口が沢山あります。「至高なもの」についての意味の共有があります




かつてのサブカル・キッズたちへ~時代は変わった。誤りを認め、謝罪し、おずおずとでも“正論”を語ろう(香山リカ)


サブカル」のことは興味がありませんし、90年代サブカルについて正直まったく知りません。たんに、安倍たち日本会議の極右翼から影響を受けただけではないですか。香山リカが言及している「ポストモダン文化」の理解が問題です。わたしは香山リカが語る正論に全く賛成できません。この人は行き過ぎたポストモダンから問題のある差別が生じたと分析しているように読めるからです。そうでしょうか?寧ろ、ポストモダンの近代化とも呼べるような現象から問題が起きてくるのではないでしょうか。ポストモダンとはなにか、すこし説明させていただくと、ポストモダン社会民主主義的同化主義にたいしては差異(=多元主義)を主張する戦略をとります。究極の平等は「みんなひとりひとりがマイノリティになること」ですが、しかし現在の不平等にたいしては平等(=一元主義)を主張しなければファシズム的極右翼と闘えません。このことはフーコとドウルーズは考えています。ファシズムが戦前とおなじように繰り返されることはないが、ファシズムがあるとして反ファシズムの見方から抵抗していく主体を形成する戦略も必要となります。その意味で、ポストモダン多様体的<一と多>です(もちろんその<一>はスターリンの<一>ではあり得ません。)しかし日本ポストモダンは<多>に向かってつき進むことができず、簡単に、<一>に帰ってしまうときになにが起きるのでしょうか?理念型ではありますが、日本ポストモダンの近代化という変なものを観察することになります。単純化してしまうようですが、日本ポストモダンの近代化は、差異を肯定して国家と対等な自立的個人の市民としての確立へ行く多元主義よりも、「多様性」の名において差異を否定すること、つまり同化しないような不完全と彼等が考えるものを差別する一元主義のヒエラルキーに依存していくのではないでしょうか


ワクチンはウイルスを説明する概念か?ウイルスが先で、ワクチンは後であると考えられているけれど、しかしワクチンはウイルスより先に存在していたのである。


古事記』は日本を記した歴史書でしょうか?しかし『古事記』は訓(よ)むことができないのに、そこに日本のアイデンティティが存在したときは、『古事記』は何処にも存在しません


古事記』は訓(よ)めないのに、そこに日本のアイデンティティが存在したときは、『古事記』は存在しません。火の幻影のような主体の表象が集中し、言語が灰の如く拡散しました


われわれは『古事記』が日本を記した歴史書であると教わります。日本のアイデンティティが先で、それを記した『古事記』は後です。しかし『古事記』は日本より先に存在していました


Balbeck(Proust)

Ballyba (Beckett)

Baile Beag (Brian Friel)

第3部は第2篇第2部「土地の名、土地」と対応している。ヴェネツィアフィレンツェパルマ、ノルマンディーのバルベック(架空の町で、カブールがモデルの地)など、まだ行ったことのない土地の名前についての語り手の想念に始まり、期待を膨らませる。


「バベルの災厄」は互いに対立する二つのことを伝えていたかもしれません。神と人間を媒介する普遍言語が失われた災厄。反対に、普遍言語によってすべて共同体の言語が消滅した災厄。

「バベルの災厄」の後のように、言語の消滅は共同体のアイデンティティの消滅をもたらします。失われた物の見方も生活も行動も回復不可能。議論がありますが、そうであるとしたらどんなことが言えるでしょうか、考えたいと思います。言語支配者の普遍言語の問題は、たんに翻訳の問題ではなく、言説の権力と違わない権力の問題です。作家は誕生から奪われたものに意識的ですし、再生に一生懸命取り組むのですー特に植民地化された国々においては。復古主義的近代とは「バベルの災厄」の後のようなこういう風景だろうと思うのです。『古事記』についてですが、大いなる他者の優越性を知る知識人ならば、『古事記』は訓(よ)みことが不可能な「死に切った過去」の不透明さにぶつかるはずです。しかし『古事記』は訓(よ)ことができる半透明なテクストとして、あえて『古事記』の成立とともに、言語の消滅が起きたとは考えないで、「古代人」における共同体のアイデンティティの消滅が起きなかったという言説を古学は展開していきました。これが『漢字論』(子安宣邦氏著)を読んだわたしの理解です。『江戸思想史講義』の中国語訳が面白いのは、本居宣長の「もののあはれ」を「物哀」としているのですね。言語支配者からみると、国学の古学も、漢字によって思考が可能となるような言説の運動に関わるものです。近代日本の成立は、まだ、フランス革命以降における平等の契機をもっていた19世紀ナショナリズムとともに、国学の古学からしか起きませんでした。国学は普遍からの自立を求めていた思想をもっていたと思います。問題は、再び、帝国の問題を解決しようとした近代日本は自ら、帝国化に絡みとられていくことになりました。


植民地化された国の最大の関心は自身を名づける、国を名づけること。奪回不可能な失われたものに作家は必死に取り組みます。『古事記』の神々の名は普遍言語の問題を考えさせます


世の中のあらゆる組織はウェーバー の官僚制に支えられている。官僚というのは、動かない者は自分の鎖に気がつかないように、国家に繋がれているのに、それが人権だと錯認する

大英帝国軍国主義はどんな条件でもやりぬくマッチョ主義を発明した。試験制度である。ギャンブルも軍国主義ネオリベの時代は国家のギャンブル化、東京五輪のギャンブル化である


スペイン市民戦争のとき新聞ジャーナリズムに失望したピカソは写真のリアリズムから絵画へ行く。東京五輪を協賛する新聞をみると、やっぱりそうか、あてにできないと思ってしまった


宣長が真淵と生涯で一度だけ出会った『松阪の一夜』は戦前の教科書が教えた。「教」字は鞭がある。『資本論』の読みの拘りはマルクスとの出会いの舞台化、日本ファシズムである


Balbeck(Proust)

Ballyba (Beckett)

Baile Beag (Brian Friel)


‘this is X, is it not?’ ープルーストのBalbeck、ベケットのBallyba、フリールのBaile Beagー固有名は自らを差異化する


Balbeck(Proust)、Ballyba (Beckett)、Baile Beag (Brian Friel)ー土地の名Names of placesは、’this is X, is it not?, X being the name of my town’と言われるように、自ら差異化していく


人権を「じんけん」と書くと何を指した言葉なのか全くわからなくなります。官僚はそうしていままでの人権の闘いの歴史をゼロにしたいのでしょうか。私なら「人間の権理」宣言します


ポストモダン中国は、望遠鏡からのぞくように、「儒者」、「敬」、「天命」、「物哀」、「孝」を、見ています。「学者さん」と親しげに呼ばれた「儒者」があんなに遠くにあります。「孝」は海に近くにあって広がりをもっています。「天命」はあんなに高くに?まるで、何処にもない場所の名が、表象される他のものと結びつくことをやめずに、自らを差異化していくようです。『江戸思想史講義』の中国語訳が面白いのは、本居宣長の「もののあはれ」を「物哀」としているのですね。「もののあはれ」の裏側に漢字がある?言語支配者からみると、マイナー言語の国学も、漢字によって思考が可能となるような言説の運動に関わるものです。

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<現実とかかわりがない世界>はパイプを見ることができないような世界である。<現実とかかわりがない世界>は、思考自身を考えるのであって、思考のほかに思考の対象がない。たとえば形而上学がそういうものである。「これはパイプではないという文は真である」について<現実とかかわりがない世界>は考えることができる。さてここで問題提起。<現実とかかわりがない世界>を、<現実の世界>において、実体あるものとして考えることができるだろうか。答。それは無理。もし考えるとすると、<現実とかかわりがない世界>が、<現実の世界>のただ上にあるという関係が無くなってしまっているのだから。この関係を保つことが大切なのである。<現実の世界> は、此方の側の向こうにある <現実とかかわりがない世界>とともに、成り立つ。多分ヤスパースが注目した紀元前5世紀(枢軸時代)は、このことを考えはじめた。 <現実の世界> を支えるものは、<現実とかかわりがない世界>である。古代の人々は読めなくなった天をただ仰ぎ見たのである。これは「信」の構造である。そうだとしたら、どんなことが言えるか?たとえば、存在と無のことを考える。あるいは、こんなことも考えてみる。絶対平等である公の世界は、此方の側の向こうにある絶対無限である天とともに、成り立つものではないだろうかと。あるいは、神話とリアルな世界との関係を考えることもできるかもしれない。神話を、リアルな世界において実体のあるものとして考えてはいけない。そうしてしまうとリアルな世界しか無くなってしまうから。神話とリアルな世界との距離を保つことが要請される。たとえば『古事記』における神話的思考を、「日本人はどこから来たか」とナショナルに問う現実の政治に役立ててはいけないのである。多分精神の従属が起きてくる問題である


「歴史」をたたえよう


歴史とはなにか?歴史に歴史があることを知りつつある。単数形で語られる歴史よりも、複数形で語られる歴史にわたしは関心がある。演劇の「歴史」は二千年、もっとか?演劇のことはよく知られている。文学に「歴史」があることを言い出したのはフランス人。同じように絵画にも「歴史」があると言った。歴史の感覚をもっている彼らは映画に「歴史」があると言う。だけれど百年の歴史しかなかった映画とは何であったよくわかっていない。日本思想の「歴史」は、映画の「歴史」よりもっと短いんじゃないか。そもそも日本思想に「歴史」があったことが知られているだろうか。日本思想は竹内好からアジアの思想として考えるべきである。アジアの思想の「歴史」となると、それについてはまだ語られていない。そのためには日本思想史がもっと解体される必要がある。だがどうしてなのか?日本は中国にたいするネガティブな見方もあってアジアに関心をもたないからあまりわからない。「脱アジア」論の福沢諭吉がいけない。しかし日本思想が語ってこなかった、あるいは忘れてしまった「人民people 」を語る福沢諭吉とは誰か?日本思想の福沢諭吉をみる見方とは別の見方をもたなければいけない。このことはアジアの思想の「歴史」を構成するだろう。複数形で語られる歴史を豊かにする。




マルクスバルザックからの影響か?『資本論』は用意周到な卑しさだが、古代国家祭祀建築の如き過剰な幻想をもつ。エンゲルスの介入はそれをターナーの絵のように平面上に何でもかんでも貼り付けることができる白紙の本に変えた。


マルクスの妻イェニーはなにをしたのか?


イェニーを不安にさせたのは、だれも判読できない文字ではない。彼女だけは夫マルクスの原稿を読めた。それをエンゲルスに読めるように清書したという。だがマルクスヴィクトリア朝の作家たちが妻にタイピングさせるようなことをしたのだろうか。もしイェニーは読むことができなかったとしたら?イェニーが何をしたのかとはじめて問うたのは、イギリスのフェミニズム演劇だった。アイルランドではマックギネスが問うた。わたしも、彼らの住居に近いところに住んでいたから、亡命先のロンドンに死に場所が無いと感じたかもしれなかったイェニーのことを考えてみた。もう少しでイェニーの入り口に入りそうなのに、しかしいつも遠ざかるイェニー。彼女を不安にしたものは、言語の存在だったのではないだろうか。問われるべきなのは、彼女がみたものであって、マルクスの名で考えたりエンゲルスの名で考えたりすることではない。死に切った過去を読むことはイェニーにおいて不可能なのに、エンゲルスにとってマルクスはそんな過去ではない。エンゲルスは未来を思い出そうとする。エンゲルスが理解できないのは、イェニーがあえて死に切った過去ー言語の存在ーを自己のすべてを支えるものとして考えていることである。


なるほど、昭和後期は関心が5メートルですか。そうならば平成なんか15センチでしょう。地球の半分をもっていた大英帝国時代のイギリスの中流は世界中を大旅行していましたが、イギリスがイギリスだけとなった現在は、とくにバブル以降、庭のことと子供の学校選びにしか興味がありません、(と、自分たちを揶揄しています) 。日本ですが、戦前の文藝誌をみると、良い悪いは別として、中国とインドがメチャクチャ近いのにびっくりします。中国とインドにかわって日本が考えるんだという広い射程をもっていますが、所詮は、帝国の旅行者の視点でしかないでしょうと思います


マルクスは古代帝国的だとD=Gは言うならば、その中心に国家祭祀がある。日本知識人が『資本論』に拘りを示すのは、『万葉集』以来、祀る天皇の視点から国家を俯瞰してきたから?


「(当選できる)自分探し」のそんな「自分」に意味あるか?理(ロゴス)を以って分裂せよ。私は「自分」の半分か3分の1でしかないが、理を以ってもっと分裂して他者をもとめたい


Finnegans Wake


FWについて最初に言う必要があるが、これは読むことが不可能である。この本は、無限(暗号化された巨大な数字列)を有限(事後的に獲得した一貫性と真偽と幾何学)を以って読み解くようには、読めないのである。ケージのように、自ら音楽に成って、この本とコミュニケーションをとるしかない


太陽神アマテラスはなぜ女神なのか?フリーダ・カーロの絵に描かれるように、未開社会では共同体の外敵は女性の身体の損傷において表象される。すると、ポストコロナリズム的に読むと、寧ろ、スサノオが統合する側にいたのではなかったか?記号スサノオトリックスターであり、この限りにおいて中心に活力を与えていくような周縁であるとして構造主義によって読み解かれるのだけれど


ディレッタント】仕事ではなく自分自身のために芸術を「楽しむ人」を意味。語源はイタリア語の「dilettare(楽しませる)」。ディレッタンティズムとは、そうした享受の仕方や態度を指す。


憲法について最初に言っておかなければいけないことだけれど、この憲法は国会の議論する権利を奪ってはならないと政府に言っている。みんな考えることができなくなるから


憲法について最初に言っておかなければいけないことですが、この憲法は国会の議論する権利を奪ってはならないと政府に言っていると思います。国会が議論できなくなると、みんなが考えることができなくなるからではないでしょうか。人々が考えることができなくなったら、思想の発展もないですし、大切な言論の自由も充実することが大変難しいです


東京五輪後は日本近代の終焉。当選できる/大臣なれる自分探しだけの部族的権力闘争の令和。私の立場だけの藩閥政治の明治の反復?官僚もこのままKGB化•ギャング化するのでは?

(入管がスリランカ人に関する開示した真っ黒な記録をみると、財務省が開示した真っ黒な赤木ファイルもそうだけど、官僚がKGB化•ギャング化しているのではないかとおもうよ)


「色つきリボンの巣に隠れる野鼠のように、雑然とした織物の迷路の中にずる賢く隠れる言葉」

(ジョイス『フィネガンズウェイク』宮田恭子訳) 

a word as cunningly hidden in its maze of confused drapery as a field mouse in a nest of colored ribbons ーJoyce Finnegans Wake


『フィネガンズウェイク』の河岸の洗濯女で表象される「岩」であり「木」が世界中の名づけられた河の名を読む。また、語(「岩」、「木」)を構成している最小のもの(母音とか子音、または息、等々)は表象されたなにかのものを命名している。そこで世界に合流するもの、天地のあいだを往還するものが「河」として表象される。神話「河」が合流する世界神話の海をたたえよう


昔はツイッターは本当にシンプルだった。140字を書く欄が、ねしょんべんシーツを干すみたいな感じで、ならんでいた。今みたいに、対抗言説ばかりではなかった


ポスト構造主義エクリチュール論は迷宮のオリエンタリズム的内部の奥に絡み取られないように、イスラムや中国の大いなる他者との関係を語るポストコロニアリニズムと帝国論が大事


「誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり」(「中庸」)の意味が謎だが、何か気になる言葉である。結局天に死者の魂があるという説も江戸時代にあった。田舎のお位牌をまえに先祖のことなんか一度も考えたことがなかったが、共同体から破門された理由ははっきりわかっていないスピノザがいたアムステルダムセファルディムの墓地の前にいたこのときだけ、初めて先祖の観念を考えたことを思い出す。変なの。スピノザもここに来てポルトガルの先祖のことを思ったなかったか..


社会的共通資本の概念は宇沢弘文とともにあった。コモンズの概念は知識人とともにはない。多分革命マインドの近代主義なのか、文革の電子化であるとは思わないけど


中村哲氏は国家日本の外で憲法9条を利用して活動できた最初の市民ではないだろうか


漢籍(カラブミ)をもまじへよむべし、古書どもは、皆漢字漢文を借リて記され、殊に孝德天皇天智天皇の御世のころよりしてこなたは、萬ヅの事、かの國の制によられたるが多ければ、史どもをよむにも、かの國ぶみのやうをも、大抵はしらでは、ゆきとゞきがたき事多ければ也 ー本居宣長うひ山ぶみ


100年前


阿Q正伝』は1921年12月4日から1922年2月12日にかけて新聞『晨報』の週刊付録に一章ずつ発表された。1922年はジョイスユリシーズ』出版の年である。「阿Queiは阿柱とかくのか、それとも阿貴とかくのか..」を読んで、本居宣長が「天」「神」を「あめ」「かみ」と読んで何のことかわからないと書いている文を思い出した。

高橋清一郎訳

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100年前、魯迅は「阿Queiは阿柱とかくのか、それとも阿貴とかくのか」と書いた。宣長が「天」を「あめ」と読んで何のことかわからないと書いている。近代を作る言説を考える


1922年、ジョイスユリシーズ』と魯迅阿Q正伝』の出版の年は、近代文学の勝利を決定づけた。まさにそれ故に、植民地をもたない西欧とアジアそれ自体はゼロに等しいと告げた


現在は教えるのが難しいとの理由で中学教科書から『草枕』と『故郷』が外されたようだが、漱石ーアジア•コスモロジーの漢文エクリチュールへのノスタルジーを書いたーと、魯迅ー音声中心主義の近代のゼロからの出発のあり方を風刺したーを読めば、現代世界を支えるものが単純に対抗西欧の近代に非ずと分かったのだけれど..


三島由紀夫は、日本における対抗西欧の近代の破綻は戦争で勝てば解決できる、その担い手は軍人ではなくクーデター的大衆であるという自分の反知性主義を「金閣寺」と名づけたのかな


制作の秋(とき)


亡命というと、パリにきた革命知識人や前衛芸術家のことをおもいうかべるものだが、サイードは確立した亡命の従来の見方のなかでそれとは別の見方をつくった。移民における出稼ぎ労働の人々のなかにいる’自分で決めた亡命’ self-imposed exileも存在するのである。私も理解に間違いがなければ、サイードが注目したのは、「私とともに」とともにある、亡命者の外部における特権の享受ー全体を見渡す視点をもつーである。ここで私は引退した晩年の孔子のことを考える。『論語』のなかに公との関わりを絶った隠者たちが孔子まえに現れる場面がある。孔子は公の世界と縁をきれないでいるという。孔子はたとえ引退しても徳なき国のあり方を乱世であると批判した。しかし、まだ革命を為す、制作の秋(とき)ではない。孔子は国内亡命のような場所にあって、「私とともに」、天を見あげたのである。此方の世界の向こう側にある世界を見上げたのである。そしてこの孔子における超越論的なものとの関わりをはじめて考えることができたのは、17世紀の市井の学者(儒者)、伊藤仁斎だったことは必然であった。


渋沢栄一なんか存在しなかった。渋沢をどうみるかという見方しか存在しない。みているのは、『論語』を体系的に語ることができた知識にではなく、彼が関わったくだらない経済である

一万円札<福沢諭吉>や一万円札<渋沢栄一>は歴史の紙幣化である。<渋沢栄一>を見ると天保の改革の時代に生まれた幕臣の歴史を考える。 彼は江戸時代の教育のピークに生まれた。『論語』を体系的に語ることができた。しかし<渋沢栄一>があまり立派な感じがしないと感じるひとが多いのは、<福沢諭吉>が体現する下級武士の近代にまだ生きているからかもしれない。武士はどこからやってきたのかについては議論がある。フラッシュバック。人殺しを生業としていた武士は、ずっとアイデンティティ不足だったが、17世紀の知識革命が起きる近世にはいって、学問を自分のアイデンティティにしていった。18世紀の荻生徂徠みたいな学問のチャンピオン出てきた(それまでは、僧侶の空海とか貴族出身の紫式部がチャンピオンだった。)19世紀から武士たちのなかから知識人となるものたちがいたんだなと私は知りつつある


新井白石も鬼神論があるが、経験的に思考できないものを語ることができない人間の成り立ちとともにある近世の合理主義である。これは人間が出てこない中世の合理主義ではない


構造主義を批判するためには構造主義的に書かなければならなかったとフーコはいう。レヴィストロースの構造は人間が出てこない。問題はもっとそれを推し進めなかったことにあるのか


「仁斎論語」は「人」という。「人」を人間hommeと現代語に翻訳してしまうと、人間の真理なんだね。それはオリエンタリズム知である。「仁斎論語」も、人間という概念なしですますことができるばかりか、人間を経ていくこともありえない。それらは人間の外部の諸限界を構成するものを対象とする..


精神分析文化人類学は、人間という概念なしですますことができるばかりか、人間を経ていくこともありえない。なぜなら、それらはつねに人間の外部の諸限界を構成するものを対象とするからだ。ーフーコ

Non seulement elles peuvent se passer du concept d’homme, mais elles ne passer par lui, car elles s’adressent toujours à ce qui en constitue les limites extérieures. ーFoucault


絶対平等である公の世界すなわち此方の世界の、向こう側にある絶対無限の天を、<1>と数えるか、<2>と数えるか、それが人倫的世界における問題だ


生と死をめぐって、

1か2か、どちらかでなければいけないことはない。

1+2がある。

= 等号はわたしの構成ではない


どこにも寄港しない

底に投げ出された

難破船のなかにおいても


「お前と一緒に沈められねえだろ」と、涙流したり怒ったり情に訴える日本的情緒はもう結構ですから、権力闘争を見せてください、政策を争う


「世を観る」(観世)の主語は聖人。述語「観る」は意味の転移がある。「観」は教。名を教える\与えることによって国を作る。主語を原初的古代を指さす天皇にしたのが後期水戸学か


総裁選では、犬たちは餌の肉に困らないが、犬だから自由に吠えたい


フーコ『言葉と物』を読む人でベラスケスの絵を最後まで思い浮かべながら読む者は殆どいないらしい。どうしてだろうか?フーコは第一章では物と画家の表象との関係を書いていたが、第九章(王の場所)は物一般と人間の表象について書いている。19世紀は王の場所に人間が立つが、人間の根源的有限性を通じて、人間を人間がいない時代に結びつけて起源なき起源を考えると、表象を支える体系の均衡が崩れてしまうのである。人間を精神(Geist)と結びつけるときき起きるような不均衡が起きてくる。そこでは神話とリアリズムを語る言葉は拡散している。だからこそ、20世紀からは絶対平等性の向こうにある絶対無限が要請される。そうして人間は消滅して、言語の集中が起きてくるはずである


中曽根康弘の靖國公式参拝に抗議したもデモにも出たことがないわたしの異常な世代ー社会の中心にいる


戦争犯罪人の孫である安倍晋三が支援するものは一人だけではない。中曽根康弘の靖國公式参拝に抗議したこともデモにも出たことがないわたしの異常な世代ー社会の中心にいる


総理大臣は菅以外の男性なら誰でもいいのでしょうか?中国に民主化を求める為には先ず日本が自らもっと民主化すべきだと考えることができなければ、総理大臣にふさわしくありません


天地の大徳を生と曰う。『易経

仁もまた聖人の大徳


ポストモダン『中庸』

Postmodern<the Doctrine of the Mean>


「礼」において表象されていたものがわからなくなってしまった。つまり名において表象されていた物がわからなくなってしまった。表象されていた物どうしの繋がっていたあり方(物の秩序)もまたわからなくなってしまったのである。おそらくそれぞれの物は外部の諸限界を構成していた廊下をもっていたのではないか


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伊藤仁斎荻生徂徠はそれぞれ、ポスト孔子の思想家の孟子と旬子から影響を受けているが、徂徠の言説は仁斎の言説にたいして単なる対抗ではなくて、外部の位置と機能をもっている


画家出身のゴダールはBelmondoの顔をカンバスにした。『気狂いピエロ』はレンブラントの美学が語られる『映画史』を準備している。映画と同じ大きさをもっている、ヌーヴェルバーグ映画の島と呼ぶべきポルクロル島で、後日この映画を称えていたが、撮影のときは「こんなの映画じゃない」と文句を言っていた Belmondo。『気狂いピエロ』の役を実に嫌な感じで機械的にやっていたから、最後はゴダールに爆破されることになったんじゃないか?最初は意気投合していた『勝手にしやがれ』も、ゴダールの考えが射殺のラストシーンに反映していたらしい(わかりやすい)


総裁選の報道を読むと、犬たちは餌の肉に困らないが、犬だから自由に吠えたい、もしかしたらただそれだけのこと。問題は、安倍の政治と思想闘争ではないかとおもう。安倍にとって、東京五輪の失敗すらも「反日」の妨害による。歴史修正主義の安倍と日本会議は、解釈改憲軍国主義公式参拝とともに、新しく皇族に依存しない天皇教ともいうべきナショナリズムを確立したい。思想闘争に負ければ、何が起きるか?はっきりとわからないが、安倍の政治は、国民が事実上主権を失う恐ろしい権力集中の方向であるに違いない

エイゼンシュタインは『ユリシーズ』を朗読して編集を試みた。これは、建築と人間との関係への関心から行ったことであり、構成のリズムの視覚化である。『10月革命』において観察できるような抽象的視点の場合でも、どこにカメラを置くかということがモンタージュ概念において大切だったことは間違いない。『資本論』の映画化の構想もあったようだ。『イワン雷帝』以降は、オペラとダンスの関心から、テレビのコマーシャル的なものに類似したものを編集したかったのではないかとみる意見もある。エイゼンシュタインの本の翻訳も難しいらしい。決して単純ではない


Not only are they (psychoanalysis and ethnology)able to do without the concept of man, they are also unable to pass through it, for they always address themselves to that which constitutes his outer limits. ーFoucault


The first thing to say about “Kojiki" [The Records of Ancient Matters] is, in an important sense, that it is unreadable. Writing is unable to pass through the Chinese reading of a character ex post facto. Text adresses itself to which constitutes its outer limits. 




古事記』を訓(よ)んだ和辻哲郎の「祀る神は祀られる神である」を支えるのは、解釈の成り立ちの構造である。しかし<祀る><祀られる><神>と名づけれた、表象されるものは、洞窟の外部の限界を構成する不可避の出入り口をもっている。訓(よ)むことができない『古事記』を言語の存在として考えることになるのは外部においてである。


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なぜマスコミは総裁選における極右翼の候補者の問題を分析しないのでしょうか?ただしこれについては、日本のマスコミがいう「極右翼」は、果たして、ヨーロッパが報じる「極右翼」とイコールなのかと疑問におもいます。ヨーロッパに台頭している極右翼は、ナチス戦争犯罪を裁いた後に、出てきたのですが、日本の極右翼の場合は戦争責任がなく(日中戦争を認めないとか)、ヨーロッパでは考えられないことですが、戦前と同じことをそっくりそのまま主張しているという問題をどう考えるかがわたしにとって大事です。


思想史の言説空間がとらえるアルファベット文字のあり方のことについてだけれどー大いなる他者(=言語支配者としての中国)が消される自立的言語(母国語)の体制は、「漢字借り物」論の固有言語の観念をもっているー「漢字借り物」論は、固有の日本語を考えているつもりでも実は知らずにアルファベット文字を考えているだけなんじゃないかーこれがほかならない、国家が定位している声の近代(=西欧)であるー「われわれ自身」とともにある固有言語の観念はナショナリズムとともにあるが、これはアルファベット文字の近代が作りだしたものではないかー500年の歴史しかもっていないものなのに これを無限に遡って起源なき起源に結びつけるのである。



’L'écriture alphabétique est la plus muette qui soit, puisqu'elle ne dit immédiatement aucune language. Maid étrangère à la voix, elle lu est plus fidèle, elle la représente miex.’(Deridda) 「アルファベット文字は、直接的にはいかなる言語も語らぬがゆえに、すべての文字(エクリチュール)のうちで最も無言である。しかし、声とは無関係でありながらそれは声にいっそう忠実であり、声をよりよく代理(表現)するのである。」


前と後の思想

明治なんかに精神史があるのか?いや、明治の前の時代の反時代的な権利を観る思想史は思想史に宿る精神史が何とかみえるかもしれない。この意味で、江戸思想史なくして明治に精神史がない。戦後日本は思想がなかった。否、竹内好がいた。彼は恰も権利性をもって破綻したまえの時代の思想からものを言った。近代の超克論の再構成である。ちなみにゴダールの映画史は精神史だったので、彼の映画史は過去から精神(Geist)としての呟く映画たちを呼びだした。しかし竹内は文革のとき沈黙した。彼の後に思想がない。その結果、平成に思想史も精神史もない。このままだと令和に思想も思想史も、精神史もないだろう。しかし中国が関心をもっているような学者の議論はある。その議論は竹内好から来るものである。思想と精神がなくとも、学問は存在している。文化•芸術と思想と学はそれほど一体ではなかったということか、ヘーゲルが思弁的に考えたようには。包摂されない道としての学のことは伊藤仁斎が言った。遅れて後から来るような、前の時代の権利として言われたこの‪多元主義の‬ことは現在の思想史に書き記されるべきである。


マスコミが報じる総裁選のお祭り騒ぎを楽しげに見物する国民は背後から襲われる。教科書における従軍慰安婦に関する国家の犯罪の記述をやめさせる閣議決定。スガーリンやりたい放題


間違ってもいいから自由に喋らせてくれ!発言する権利を求めて、もしこういう一望監視方式の監獄のなかでワイワイガヤガヤ、ウロウロウヨウヨするとどうなるでしょうか?みんながあなたを見ているここでは、とくに看守人は必要ないのです。もっと言えば、権利のない社会では監獄も必要ありません。見ている人は見られている人です


「衛兵」を導入する

ー東京演劇アンサンブル『タージマハルの衛兵』(三木元太演出)の感想文


「衛兵」とは何でしょうか?衛兵」を導入することー2021年は東京演劇アンサンブルが衛兵」の意味を問う年です。タージマハルの衛兵にとって、宮殿が意味するものは何でしょうか?宮殿の美を永遠なものにするために、皇帝は衛兵たちに宮殿を建造した職人たち二万人の首を切り落とさなければならないと命じた。しかし衛兵たちは混乱するーなぜ仲間たちが死ななければいけないのか?なぜわれわれが殺すのか?このことについて自由に喋らせてくれ、間違っても許してくれ、と、衛兵たちが発言する権利を求めたら、どういうことが起きるのでしょうか。しかし「オレたちは考えることをするな」、「仕事をやっただけだ」と言うとき、これは宮殿の監獄化です。衛兵が一望監視方式みたいな仕掛けのなかに生きているあり方を舞台は示します。衛兵はそのまえに立っていた四辺形の裏側に移動して内部からその枠を通じて外を見ます。このときは衛兵は皇帝の代わりに不在となっている皇帝の位置に立っているのです。もしはじめから、皇帝を支える衛兵が衛兵自身だったとしたら、どういうことが言えるでしょうか?不死である永遠なものを所有したい皇帝の位置において、衛兵は自ら欲望を最大化できる全権力をもっているかもしれません。衛兵は消費し尽くすまでこの場所を去ることが難しいでしょう。これは現代そのものではないですか。フマーユーン(小田勇輔)とバーブル(篠原祐哉)、このタージマハルの衛兵は脱出できるだろうか、と、2020年に観劇した『揺れる』における言葉たちをおもいだしながら、考えています。そもそも「衛兵」と名指されていたものは何だったのでしょうか?自由に喋らせてくれ、と、ワイワイガヤガヤ、ウロウロウヨウヨするものを支えるもの、囲まれないで、ロゴスを以って分裂していくものを支えるもの、孤立せずに自発的に単純に増えていくものを支えるもの、そしてこれらを支えるものを支える舞台それ自身。表象されているこれらすべてが「衛兵」と名指されていたものではないでしょうか。


歴史を書くこと

古学は江戸幕府が公の学問とした朱子学を解体した。17世紀の古学における豊かな注釈を利用して、12世紀の朱子がいかに紀元前5世紀の『論語』を読んだかを考えることができるか

17世紀の古学における注釈を利用して12世紀の朱子が紀元前5世紀の『論語』を読んだかを考えるときは、『朱子語類』の裏側にヘーゲルがあるような…初めから19世紀が見ている

国学における古学は、文献学に、人を人が存在しない原初的なものに結びつける。思想的には中国文明からの自立を論じた。近代国家日本は国学の側の古学からしか誕生しない。

20世紀は現代中国語と宋代の口語文の知識を以って12世紀を読むときは、絶望的に20世紀のために読む。20世紀は独自のものを永久革命的に作り出さなければ化石となってしまう


アメリカ人は誰も知らなかったブッシュのあとに出てきたオバマの話を一生懸命聞いた。安倍スガのあとに出てくる、今まで知らなかったひとの話をそれほど聞いているようにはみえない。選挙だけに関心がある。結局はそうして民の声を聞かない「独裁者」が出てきたのではないかしら?


世論調査で、「ほかにいいひとがいないから」という理由で首相が支持されるのをみると、時間をかけて知らないひとの話を聞くということが無い国ではないかとおもっちゃう。知っている同じようなひとが同じことを喋っている。結局そういう話もだれも聞かなくなっているのではないかしら。差異がないから


ヨーロッパは民主主義を成立させるのに500年を要しました。日本は近代化のスタートがはやくて150年の歴史があるので、今日における言論の自由なき民主主義の問題を何とか理解できます。中国の歴史に自由な議論が二度だけありましたー諸子百家春秋時代辛亥革命の数年間です。中国の民主化は、30年前にはじまったばかりです。このように極端に短い凝縮した期間のなかで、民主主義を全体主義だと言ったり、反対に、全体主義を民主主義だと言ったりするような根源的錯認が起きるのではないでしょうか。(ドイツも、フランス革命の150年間を、10年間に凝縮させた結果、ワイマール体制のなかから、あり得ないナチスが出てきます)。毛沢東?それは民主主義にとって最悪の固有名です。抗日のゲリラ戦の軍人としては活躍しましたが、独立後に起きた彼を神格化した文革ファシズムは2000万人を殺したアジアの災害と言わざるを得ません。資本主義を推進して格差を作り出しているのはだれであるかわかっていないのは、資本主義と格差を正すために自分達の存在理由があると宣伝している中国共産党です。アジアでは開発と戦争と同化主義はどんどんすすみますが、政治的な言論の自由はまったくすすみません。中国のせいです。中国はソビエトと異なる「独自の社会主義」だからでしょうか?しかし民主主義の感覚は何処にも存在します。8000万人の党員がいる中国共産党の一党支配のほうがより民主主義だったと発見させてくれたのは、10万人だけに支えられている独裁者習近平のおかげです。文革ファシズムの研究と天皇ファシズムの研究は十分とは言えません。これからの課題ですね。中国に民主化を求めてためには、先ず日本がもっと民主化する必要があります。


毛沢東フィーバーは、今年7月1日に創立100年を祝った中国共産党が直面する矛盾した現実をあらわにしている。国家主席習近平のもとで、党は中国人の生活のほぼすべての側面における中心になった。中国が成し遂げた経済発展を党の功績だと主張し、中国人民に対して党に感謝するよう求めている。」


安倍と日本会議は、解釈改憲国家神道の復活を前提にした、皇族に依存しない天皇ナショナリズムを考えているようなので、現在それにたいして、憲法的皇族の意味を言うことは意味があるとおもいますが、「日本語」という自立的母国語へのナショナルなこだわりを強調する必要がないとおもいます。どうしても皇族と伝統のことをいいたいならば、古代天皇は漢字とその文明を中国から導入した歴史を考えるべきです。


自民党のなかの支持率だとおもいますが、総裁選候補者である極右翼政治家への支持率が4%もあることはどう考えたらいいのでしょうか。アイルランドにいましたが、たしか2000年になるまえに国民のルペンの支持率が2.5%あったことにフランスは衝撃を受けました。その後に、毒キノコが広がるように、あっという間に20%台の支持率に。早急にマスコミは日本の極右翼を調べてほしいとおもいます


歴史修正主義は2003年ー2011年のイラク戦争を契機にエスカレートする。侵略戦争を美化する育鵬社の教科書が登場したのは2011年。「新しい歴史教科書をつくる会」の扶桑社版教科書を引き継いでの発行だった。


「1997年2月、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」発足。代表中川昭一、事務局長安倍晋三、事務局次長下村博文、幹事長代理高市早苗、委員に菅義偉。5月、日本会議および日本会議国会議員懇談会発足……。95年の村山談話を否定する政治家が結集して、歴史否定主義を主導してきた。」(Twitter 上丸洋一氏)


9/11はなにを意味していたのか?思想は9/11をどのように理解するのか。ポストモダン的に言えば、9•11は存在しなかったとあえて言わなければいけない。9•11をどうみるかの見方しか存在しないのだ。国家とテロとが理性と狂気の関係に置き換えられるときに問題となってくるのは、理性(西欧)が狂気(非西欧)の隅々まで説明し尽くすラディカルな近代である。結局、純粋な理性しかなくなる。純粋な理性は、自分自身への関係しかない点において、純粋な狂気とおなじである。差異が無いその果てに、純粋な理性ははじめから純粋な狂気である。